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幻想再帰のアリュージョニスト 作者:最近

第2章 もしサイバーパンク世界の住人がオカルトパンク世界に転生したら

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幕間 『涙の価値』

 

 
 昇降機から出ると、どこか寒々しい空間が広がっていた。壁は乳白色のリノリウムで、室内にあるのは寝台が二つと簡素なデスク、それに応急処置用の医療機材などだった。奧にあるスライド式のドアは呪術錠によって固く閉ざされている。コルセスカは両手で気を失った男を抱えながら、病院のような部屋だという感想を抱いた。

 トリシューラは非常時の為に、第五階層内に幾つか隠し拠点を設けていたらしい。階層間の狭間という名の【地下】に存在するそこは、「とりあえずの避難用だから居住性は期待しないで」という前置きがあったにしては、三人が入っても狭さを感じない程度の快適さを保っていた。

「それで、彼は完全に【追放】できたのですか?」

 傷付き倒れた青年を寝台に横たえて一通りの呪術治療を終え、続いて重傷のコルセスカ、半壊したトリシューラも各々自らをどうにか正常な活動ができる程度のコンディションに戻した後。

 用意されたパイプ椅子に座って、コルセスカが問いかけた。その巨大な右目は深紅から青に戻り、左腕にも普段通りの包帯が巻き付けられている。先の戦闘でかなり消耗しているはずだが、それをおくびにも出さない。問いに対して、目の前に座るトリシューラは首を振って答えた。

「あいつ、最後に空間制御能力まで獲得してた。熟練度がどうとか言ってたし、階層の狭間で時間をかけて能力に習熟すればこっちに戻ってこられるんだと思う。巡槍艦の自動航行で妨害させているけど、一時的な時間稼ぎにしかならない。――楽観的に見積もっても、保って一晩ってとこかな」

 溜息をついて、先程予備パーツで修繕を終えたばかりの表情を沈み込ませる。顔色は以前と変化がないのだが、気のせいか、憔悴しているように見えた。

「実際の所、勝算はどのくらいですか。――この際です、私を戦力に数えて構いません」

 発言に対して、トリシューラは露骨に顔を顰めた――表情を自在に制御できる彼女が整った顔をここまで崩すのは、かなりはっきりと相手へネガティブなイメージを伝えたい場合に限られる。生まれた時からの付き合いであるコルセスカにしても、トリシューラのこのような表情を見たことはほとんど無い。

「まさか、また【腕】を使うとか言わないよね?」

「――いいえ。流石に、消耗が激しすぎます。仮に使えたとしても、今度は制御ができなくなるでしょう。暴走した氷血呪はこの階層全ての生物の血を生贄に、階層そのものを凍り付かせてしまう。それでは私達の勝利とは到底言えません」

 それに、貴方まで巻き込む。その言葉を口の中で飲み込んで、コルセスカは下唇を噛んだ。妹のような存在は、今となっては競争相手――潜在的には敵である。こうして緩い協力関係を結んではいても、何かの拍子に途切れてしまいかねない、儚い絆。

「キロンの勝利条件が【下】住人の皆殺しである以上、その手段は却下だよね。相手を殺しても、勝たせてしまっているんじゃ意味が無い。本末転倒っていうか、氷血呪での広域凍結は上下関係無いから相手より悪い結果を招いてるし。ま、救いは時空間凍結は観測自体ができないから、キロンではコピーできないことかな」

 観ていることを超えて進む事はできない――邪視の基礎理論を想起して、コルセスカは自らの特性を再確認する。それは己にとっての優位性であるが、この場合は劣位性にもなり得る。邪視者の常として、語り手や視点カメラにはなり得ても、主体的な【主人公】としての性質に乏しいという欠点。ゆえに英雄然と振る舞う聖騎士キロンと戦えば分が悪く、だからこそコルセスカには英雄として振る舞える仲間が必要なのだった。

「そうした条件から考えても――だいたい二割弱」

 トリシューラの導き出した答えが余りにも絶望的で、思わず溜息が出る。コルセスカは額に指をあてて、頭痛を堪えるような表情をした。状況は完全に手詰まりだった。

「言いたくはありませんが、この場所を放棄して、一度【塔】に戻って立て直しを図るべきでは?」

「これ以上、クレアノーズお姉様に迷惑はかけられないよ。それに、負けて逃げ帰ってきた私をラクルラールお姉様がみすみす見逃してくれると思う? ここぞとばかりに候補者として相応しくないって糾弾されるのが目に浮かぶよ。逃げるのなんて絶対にありえない。今度こそ廃棄されて、後釜にはアレッテ・イヴニルかミヒトネッセが据えられるに決まってる。――ああ、セスカにとってはその方がいいかもね。能力の相性が良いからどうにでもできるもの」

「トリシューラ」

 静かに、諫めるようにして名前だけを呼ぶ。口を噤んで目を伏せるトリシューラには、いつものように変わらぬ微笑みを浮かべるだけの余裕が無かった。

「どうにかして、キロンとの直接対決を避ける、という方針はとれませんか」

「それは駄目。私が第五階層で影響力を行使しようと思ったら、奴との交戦は避けられないの」

 そう言ってトリシューラは紙幣を取り出してみせた。「それは?」と訊ねるコルセスカは、しばしその図柄を観察して、はっと何かに気付いた。

「気付いた? その中で、価値が回路みたいに循環してる」

 それは一聴しただけでは同語反復的な発言のようでもあった。流通貨幣とは価値の交換媒体であり、その量の多寡は価値を示す指標に過ぎない。交換に際して流動的な価値の情報を形にするメディアでしかないそれを、しかしトリシューラは高度な精密機械のように扱っていた。

「これが、キロンがコピーした私の禁呪。この通貨の価値を、私の呪術が保証してしまっている」

 アンドロイドの魔女は、口元に笑みを浮かべた。自らを嘲笑うような表情は、自尊心の塊である彼女にとって自傷行為にも等しい。あまりに彼女らしく無い振る舞いと、それをさせてしまう状況の痛ましさに、コルセスカは何か言葉をかけようとして、躊躇いの中にそれを押し込める。どの口でそんなことを口にできるというのだろう。

「【星見の塔】が厳重に管理している禁忌呪術の秘密を漏洩させたなんてばれたら、【九姉評議会】で審問にかけるまでもなく問答無用で処分されちゃう。露見する前に、一刻も早く私自身の手で事態を収拾しなければならない」

 トリシューラは無造作に紙幣を両手で持つと、そのまま二つに引き裂こうとして――失敗した。一見すると何の変哲もないその紙切れは、機械仕掛けの腕であっても傷一つつけられないほどの強度を誇っているのだった。

「聖騎士キロンは私の禁呪を応用して、【一定の価値】を保ち続ける呪的通貨を生み出した。こっちが気付かないうちに、【公社】と手を組んでいたんだろうね。私が【公社】を倒さなければならない以上、キロンとの対決は不可避なんだ。私の敵は最初からあいつで――それからこの事態は私自身の不始末が招いた事。だから、私はこの戦いから逃げるわけにはいかないの」

 トリシューラの表情はこわばり、声音は冷たく沈んでいる。どれほど賢明で良識的な助言であっても差し挟むことを躊躇わせるような、揺るぎない頑なさ。

 コルセスカは、またしても言葉を飲み込んだ。トリシューラが自らの奥の手を盗まれる原因となった一戦は、【転生者殺し】を事前に排してリスクを減らす為に行われたものだった――誰の為に戦ったのか、それは今更言葉にするまでもない。

 そうでなくとも、トリシューラという少女はその戦いで甚大なダメージを負い、約半年もの間は身動きがとれない状況に陥っていたというのに。その事実をひた隠しにして、「救ってもらえなかった」という被害者意識を抱えた相手にあえて露悪的に振る舞うトリシューラを、限りなく愚かだとコルセスカは思う。

 「私は貴方のママじゃないんだよ?」と言って、寄り添うようにして突き放す。それは自尊心こそを絶対の価値と定めるトリシューラの世界観から生み出された姿勢だった。邪悪な魔女としての自己像を守るための虚勢であり、相手を頭上から憐れむのではなく同じ目線で立ちたいという彼女なりの誠意。

 それを、絶対に彼には伝えるまいと競争相手としてのコルセスカは思う。
 そして、どうにかして伝えたいと姉であるコルセスカが感じる。

 暗雲の立ちこめるような心中とは関係無しに、時間はただ進んでいく。コルセスカはこの無慈悲な体感速度が嫌いだった。それこそ、世界ごと否定したくなるほどに。もっとゆっくり休ませて欲しい。もっと考える時間が欲しい。

 ――けれど、コルセスカとは違い、トリシューラにとっては誰にも等しく流れる物理的な時間流が全てである。目の前の出来事に対処する為、あくまでも現実的に、滔々と現状を整理していく。

 【松明の騎士団】は各国からの莫大な寄進を管理するための発達した財務システムを構築している。それは単に金融業を営んでいる、というレベルを超えていた。【騎士団】の母体となる【大神院】が構築した国際銀行は、地上世界全域の経済基盤となっているほどだ。それゆえ、いかに強大な勢力を誇る巨大複合企業群とはいえ、【大神院】の意向を無視することはできない。地上において【槍神教】、【大神院】、そして【松明の騎士団】はそれほどまでに絶対的な存在と見なされている。

 第五階層は【上】と【下】の両勢力が不干渉・不介入の態度を貫くという前提があってかろうじて成立している空間である。この場所で動く莫大な利権を真っ先に確保、独占したのは【公社】だが、その陰に【騎士団】の姿が見えると言うことは。

「私が大神院で嘱託呪術研究員として働いていた頃から、両者が協力態勢を結ぶって言う噂は耳にしていたんだよね。――余りにも難航してるからまず無いと思ってたんだけど、甘かった」

「ですが、結局はロドウィの窮状につけ込んで第五階層での影響力を伸ばそうとした【騎士団】がキロンを派遣した、という状況なのでしょう? ――地上での覇権争いをこの場所にまで持ち込まないで欲しいものですが」

 今や第五階層における通貨の価値を保証しているのは【公社】では無くキロン――そしてその背後にいる【松明の騎士団】だ。であれば、この第五階層が実質的に【騎士団】の支配下に置かれるのは時間の問題となる。どちらのものでもない空間は、今までのルールのようにどちらか一方のものになってしまうのだ。そしてそれは、トリシューラの思惑と真っ向から衝突する。

「これ、紙幣というか護符って名目なのかなー。信仰の道を歩く者が俗世の欲にまみれた金銭を手に取るわけにはいかないし」

 そう言って、くしゃりと丸めた紙幣を部屋の隅に放り投げる。転がった丸い紙屑が見る間に広がっていったかと思うと、次の瞬間には元の皺ひとつ無い姿を取り戻す。その表面が淡く赤く光っている。まるで血の色だった。

「鮮血呪――価値を操作する呪術、ですか」

「厳密にはちょっと違うけど、まあざっくり言い表せばそうだね。少なくとも、見たものをそのまま丸コピーしたキロンはそういう定義をしていると思うよ」

 それこそが、トリシューラの切り札である禁呪の正体であった。悪鬼の融合体に取り込まれて実体を融解させられた者を無傷で救い出し、模型を実寸大に拡大して機能までも再現する。通貨の価値を保証し、二人の転生者を同時に相手取って圧倒する。四つある禁呪の中で最も万能で最も邪悪であると言われた奥義。

 鮮血――それは術者にとって最も大切なものの比喩だ――を捧げるおぞましき呪術はあらゆる事を可能にする。

 それを相手にするとはどういう事なのか、本来の使い手であるトリシューラはよく知っている筈だった。同時に、その万能の力に対抗する為に自ら禁戒を破らなくてはならないという危険さも。

 敵に回せば絶望しか無く、自ら使えば希望を失う。
 今のままでは、勝利と敗北のどちらに針が傾いてもトリシューラにはそこから先の未来が無い。真っ暗なビジョンが己のクリアな瞳の奧に映し出されたような気がして、コルセスカは右目に目蓋が無い事を一瞬だけ呪った。

 前触れもなく、トリシューラが立ち上がる。さしたる気負いも無く、ちょっとそこまで出かける、というような素振りだった。だが、コルセスカはその内心を鋭く見透かして断言する。

「死にますよ」

「逃げたって死ぬよ。なら戦わなきゃ」

 トリシューラの背丈はコルセスカよりも高い。幼い頃、小さなコルセスカの体格に合わせて作られていたボディは、今では別の人物に合わせたものになっている。立ち上がった機械仕掛けの魔女は、硬質な視線で低い位置から見上げる氷の瞳を見返した。

「私は無価値な存在じゃない。私の価値を――有用性を証明しないと、【私】が死んじゃうの。【最後の魔女】の候補者は四人だけど、【杖の座】を狙ってる予備候補者は沢山いる。ラクルラール派の人形達やペリグランティア製薬の魔女たちに弱みを見せるわけにはいかない。もし候補者の資格を剥奪されて、『お前は換えの効く存在でしかない』って言われたら、私は本当にこの世界から消えて、私の存在は死んで本当の無価値になる。私は、私の存在を認めて欲しいの。知って欲しい。理解して欲しい。居て良いんだって言って欲しい。そういう居場所を自分自身の力で勝ち取りたいの。誰かに要らないって言われるなんて、私には耐えられない」

 何かに取り憑かれたように、トリシューラはブレスの摸倣音すら忘れて長い音声を出力した。偏執的ですらあるオブセッション。強烈なエゴを主張する姿は、見る者によってその評価を違えるだろう。

 すなわち、醜悪な自己愛への軽蔑。あるいは、悲壮さへの憐憫。
 さもなくば。

「いいんじゃないか。けっこう好きだよ、そういうの」

 いつの間に目を覚ましていたのだろうか。寝台の枕から頭を少しだけ起こして、二人の会話に口を挟む者がいた。動かす両手すら失っていても、かろうじて口を動かす程度のことはできるようのだった。

「前にトリシューラの話を聞いた時にも思ったことだけどさ。俺は見てみたいんだよ。頭おかしいくらいに自意識肥大化させた奴が、外圧とかにへこまされないで自分を押し通していくのを見せて欲しい。そうやってトリシューラが好き勝手やっていけたら、それはきっと滅茶苦茶面白いだろう」

「――私はキャラクターコンテンツか何かなわけ?」

 冷たい目で応じるトリシューラに、彼は冷笑を浮かべながら言い返す。

「あらゆる人間は全てそうだろ。どうせ誰かに消費されて値札をつけられるんだ。ならせめて、自分でその価値をありったけ吊り上げてやればいい」

「その価値は幻想じゃないの?」

「不要な付加価値も本物に仕立て上げられるのがこの世界の呪術ってやつなんじゃないのか」

 問いかけに、トリシューラは無言で答えた。痛いところを突かれた、という類の無言の肯定だと解釈したのだろうか、男はそのまま畳みかける。

「正直に言えば、俺はまだ怖くて仕方無い。キロンに勝てる気なんて全然しないし、もう一度あいつに対面したら動けなくなってしまうかもしれない。それでも、このままじっとしているなんてできない。もし、まだ義肢を作ってくれるって話が有効ならさ。俺に、もう一度戦うための力をくれないか。俺に、お前に手を貸すための手を貸して欲しい」

 まだ、コルセスカの中にもその意思の残滓が残っていた。『トリシューラの力になりたい』と、彼がそう思った瞬間の気持ちは、取りこぼさないで済んだから。だから自分の中に保存して、そのまま抱え込んでおきたいという誘惑をはね除けて、首筋の奧へと流し込んだ。

 いろんなものを失っても、彼を彼たらしめていた部分はまだ残っているのだとコルセスカは思った。彼がトリシューラを選んだ事実は、氷の中に閉じ込められて溶けずに保存されている。どんなに大きな敗北を喫しても、それだけは決して揺るがない。

 相変わらず、希望など見えない。それでも、彼が根拠のない自信を口にすることで前を向けるような気がして、わずかな悔しさと共にコルセスカはトリシューラに返事を促そうとして、その動きを止める。

 我ながら冗談のようではあったが、全身が凍り付いたのかと、コルセスカは思った。
 トリシューラは、微笑みを形作っていた。緑色の瞳には、静かな光。何の意味も持たない、彼女にとって最もフラットな表情。

 くるりと振り返り、奧の扉へと向かう。男の真正面からの言葉に何らかの意思を返す気が無いとでも言うように。思わずきつく呼び止めると、振り向かずに返される。

「ウェブマガジンの配信準備しなきゃ。あとサイト更新しないといけないし、色々タスクが停滞してるの。忙しいから後にしてくれないかな」

 無視。無機質なレスポンスに、男の表情が凍り付く。それを自分がやったことのように感じて、コルセスカはその瞬間に邪視を発動させる勢いでトリシューラの背を睨み付けた。

「そんなことは後からでも――!」

「第五階層ではまた迷宮化が起きているんだよ。セスカだって気付いてるでしょう? 敵はキロンだけじゃない。まだ裏に誰かがいる。最悪、またトライデントの細胞と戦う事になるかも」

「それは」

 言い淀んでいる間に、トリシューラは乳白色の壁面に設置された呪術錠に手を翳してドアをスライドさせる。そしてそのまま別室に消えていった。沈黙が辺りを支配しそうになる気配を察知して、コルセスカは椅子から立ち上がる。

「何か、食べられるものを作りますね」

 トリシューラの理不尽な対応に呆然としている彼に、まずは余計な負担をかけないよう、必要な行為だけを行うことに決める。トリシューラの意図になんとなく察しが付くコルセスカだったが、それを慰めのようにして口に出すことは躊躇われた。推測を口にすれば、双方の自尊心を傷つけるだろうから。

 あの二人はお互いの事を考えている。その筈だ。だからまだ隙間を埋める機会は残されている。そう自分に言い聞かせて、コルセスカは単純な作業に没頭しようとした。

 

 トリシューラの完璧な治療呪術によって傷を塞がれた右腕の断端を、壊れ物を扱うような手付きで触れる。手袋の指先に展開された殺菌呪術の光が微細な汚れを落としていく。

「――はい、上半身は拭き終わりました。脚も綺麗にしますから、下履きをまくり上げて下さい」

 簡易の呪術治療では細かな汚れまでは除去できない。両腕を失った男の筋肉質な身体を清めながら、コルセスカは彼の血を吸った瞬間を思い出す。裸の首筋に、透明な氷で埋められた二つの孔。牙を立てた、その証。口から全身へと浸透していく熱さを思い出し、疼き出す牙と鳴ろうとする喉を意思力で停止させる。知らず、表情が緊張していた。黄色みを帯びた象牙色に近い肌を眺めていると、その内側に流れる赤い熱の流れを意識せずにはいられなくなってしまう。一度「して」しまえばそうなるのは分かっていたのに、あの瞬間はそれしかないと必死だったから後のことまでは深く考えられなかったのだ。後悔は無いが、気まずい思いはある。

 コルセスカの内心を察したのかどうか。からかうような声音で、わざとらしいほど下卑た発言が投げかけられた。

「――終わったら、その上も拭いてくれんの?」

「そんなわけないでしょう。そういうのは呪術医であるトリシューラの領分です。ていうか見損ないました、いやらしい。――正直、最悪な気分です」

「そこまでか」

「そこまでですね。反省して下さい」

 冷たくあしらいながら作業を続行。平行して、軽薄な態度をとる男の表情を観察する。

「悪かった。申し訳無い。もうしません」

「誠意が感じられませんね。口先だけで謝ってないですか?」

 一見して異常は見当たらない。あまりにも以前と変化がなさ過ぎて、いっそ不気味になるほどだった。男は変質してしまった。それは間違いのない事実だ。しかし変わらない部分もある。

「どうしろと言うんだ――ああ、そういえばその服。黒いセーターに白いレースのスカートって合わせ方、珍しいな。いつもは上も白いのに」

「露骨に話を逸らしてきましたね――これはトリシューラのを借りました。さっきまで着ていた服や格納していた予備の衣類が全て駄目になってしまったので、不本意ながら、仕方無く」

「よく似合ってるけどな。違うタイプの色でも着こなせるんだなって感心してた所だ。――まあ、着たい服を着るのが一番だけど」

「それはまあ、同感ですが。なんですか、そんなわかりやすいご機嫌取りでは誤魔化されませんよ」

 どこからどこまでが【彼】なのか、その境界線を画定することが、絶対的な他者であるコルセスカにはどうしてもできない。どれだけ記憶情報を吸い取り、共有したといっても、二人は異なる視野を持った別々の人格である。並べば身長差は明白であり、詰まるところ目線の位置がずれてしまうのだ。同じものを見ていても、その捉え方は同じようにはならない。一つになろうと足掻いても、違いが浮き彫りになるだけでしかない。

 だからコルセスカにとって、相手の情報を身の内に取り込みたくなってしまう吸血衝動は苦痛を伴う生理だった。頭蓋と心臓が破れそうになるほどの痛み。精神を弱らせる不治の病。恥ずべき弱所。以前、トリシューラに彼の前でその周期が来ていた事を暴露された時には顔から火が出る思いだった。

 いつもは敵から呪術の氷で間接的に【生命吸収】を行って衝動を紛らわせているのだが、それでも直接口から吸うよりも遙かに体調の戻りは悪い。かといって価値観を僅かでも共有したくない相手の血は口にできないので、コルセスカは周期的に訪れる苦しみを耐えぬかなければならないのだった。

 身体を拭き終わり、簡素な病人着を着せた後もその奧の肉体へと想像力が傾いていく。吸いたい。齧り付きたい。あの首筋に、もう一度口を付けたい。その衝動は熱量を体内に取り込む為の食欲であり、そしてまた自らの情報と熱量を相手に注ぎ込む為の排泄欲であり、起きながらにして記憶を再構成する為の睡眠欲にも近く、そして相手を求めるという意味では――。

 頭部をぐっと後ろに反らして、そのまま思い切り額を寝台の四隅の脚に叩きつける。鈍い音と共に目の醒める痛み。突然の奇行に狼狽する彼を無視して、そうだ食事だと自分に言い聞かせる。何か食べて、食欲を満たせば余計な思考もどこかに行くだろう。

「そろそろ出来上がる時間ですので、食事をとってきます」

「ええと、そういや放置してて良かったの? 吹きこぼれたりしない?」

「備蓄のインスタント食品を順次解凍・加熱していただけですから」

 細い通路の先にあるキッチンからオートミールの入った器と匙を二人分運ぶ。一つを机の上に置き、もう一つを手に持って寝台から上半身を起こした病人の前に持っていく。食器から中身を掬って口元まで届けると、男は戸惑ったような反応を示した。

「いや、流石にそれは」

「この世界の常識を教えて差し上げますが、犬のように顔をつけて料理を啜るのは、あまり行儀の良い行為ではないんですよ」

「多分、前世でもそれは同じだったよう気がするけど、いや、でもそういうことじゃなくて」

「いいですから。ほら、あーん」

「うわ、マジで言ったよこの人!」

 無理矢理口の中に匙をねじ込むと、しぶしぶといった具合に受け入れたかに見えたのだが、次の瞬間、眼を見開いて思い切りむせる。

「な、なんだこれ、辛っ!」

「ええ。気力が衰え気味のようでしたので、適度な刺激で食欲増進をと思いまして」

「適度ってレベルの辛さじゃないぞこれ。なんだこの激辛粥――驚いたことに美味いし」

「最近のインスタント食品は高品質なんですよ。私も毎日食べている程ですから」

「毎日? え、なにそれ冗談だろ」

 何をそんなに驚いているのだろう、とコルセスカは相手の反応の不可解さに首を傾げた。この食品ブランドの激辛シリーズは灼熱の怪鳥【撃鉄鶏コック】も火を噴くホットさというキャッチコピーで辛党達を唸らせている人気の品である。その豊かなラインナップを順番に味わっていけば、何年続けて食べようが飽きが来ようはずもない。

「いや、そういうことじゃなくて――まあいいか」

「私が食べられないので、早く食べちゃって下さい。ほら、はい、はい、はい」

「ちょ、だから辛いんだって、せめて水――!」

「嫌ですよ、お手洗い近くなったら私では対応しきれませんし。トリシューラが来るまで我慢して下さい」

 下らない言い合いを挟みつつも、食事の介助は滞りなく行われていく。静かな空間の中、どこか重くなりがちだった空気が払拭されていくのを感じて、コルセスカはようやくわずかに安堵する。

 その時、これで自分も食事を終えれば一息つけるかなと考えていた彼女の視界に、思わぬものが映った。

 涙。
 不意打ち過ぎて――というかそれが余りにもイメージとかけ離れすぎていて、一瞬どこから流れ出したものなのかが分からなくなる。誰が流したのかなんて、一目見れば明白だというのに。

 コルセスカは、その男が涙を流すところを、初めて見た。彼にそういう生理現象が起きるのだという事実は俄には受け入れがたいことだった。何かの天変地異が起きたかのように感じてしまっている自分に気付いて、ひどく狼狽える。今の彼は、感情を抑制できない平凡な人だというのに。取り繕う姿があまりにもいつも通りで、その事を一瞬ではあるが失念していたのだ。

「あの――辛すぎましたか? お水を持ってきましょうか」

 直裁的な気遣いから言葉の選択をずらしたのは、核心に触れることを恐れたためだった。それが致命的な起爆のきっかけになる。そんな予感がしてならない。ところが、相手の反応はこちらのごまかしにそのまま応じるものだった。

「ああ、辛かった。とんでもなく。痛いくらいに」

「それは――その、配慮が足りず、すみませんでした」

「そうじゃなくて」

 強く、こちらの言葉を遮ろうとする彼の瞳から止めどなく流れ落ちる液体は、まるで堰き止めていた感情が一気に決壊するかのようで、コルセスカに言いようのない不安感を与えている。引き金を自分が引いた予感に、知らず息を呑む。

「辛くて、熱くて、痛くて。それでようやく実感できたんだ。ああ、俺の身体は、感覚は、感情は、もう俺のものじゃないんだな、って」

 生理学的には、辛みとはその他の甘味、酸味、塩味、苦味、旨味などとは異なり、味覚ではなく痛覚に分類される。異世界の技術によって鎮痛効果を得、感覚を自在に制御できていた彼にとって、それがもうできないという体験と実感は余りに耐え難いものだったのだろう――今までの彼は、耐え難いという思いすら制御可能だったのだから。

 流れ続ける悲しみを堰き止める為に、自分に何ができるのだろう。コルセスカにできることは、あまりにも限られている。
 男の頬を流れる涙が、前触れもなく凍結した。唐突に生じた冷たさと痛みに呻き声が上がる。

「痛っ! 何をいきなり――!」

「いえ、辛かったり熱かったり痛かったりするのなら、冷やすのがいいかな、と思いまして。それ以上涙を流すと、眼の中まで凍結して失明しますよ」

「危険過ぎる! もうちょっとマシな慰め方とかないのか!」

「慰める? 私はただ泣かれると面倒だなーと思っただけですけど」

 嘘だ。ストレートな慰めが、彼の自尊心を傷つける事を恐れただけ。出会った時からずっと、彼は他者を心の内側に踏み込ませないように気を配っている様子があった。そういう気質はかつての自分にもあったものだから共感ができる気がしていた。

 ただ当たり前に、自分の心を無遠慮に荒らされたくないだけなのだと、それがわかるから、その心を傷つける事をなによりも恐れた。それでも干渉せずにはいられなかったのは、彼があまりに傷付いて、疲れ果てているように見えたから。

 そして、もう一つの共通点があったから。
 だが、今の彼にその特性は備わっていない。断片が残されているとはいえ、その大半は失われてしまったからだ。だとすれば、今の自分が彼に手を差し伸べる理由は、一体何だというのだろうか。

 強引に涙を止められた青年は、どんな顔をするべきか判断しかねたように眉根を寄せて、そのまま表情筋を動かして頬に張り付いた氷の薄膜をどうにか剥がそうと試みていた。間の抜けた様子を見ても、答えなどあるはずもない。

 コルセスカは延々と渦巻く思考を抱えたまま、その答えを自分の外側に求める事に決めた。

 血を吸おう。その決心は、不思議なほどにあっさりとついた。血を啜り、自らの唾液を流し込み、体液を交換して互いの意思を共有したい。その想いが、自然とコルセスカの身体を突き動かした。寝台に手を突いて顔を寄せていく。覆い被さろうとするように、二人の距離が近付いていくと、無言の動きと不穏な空気に相手が戸惑うのを感じた。構うものか、有無など言わせない。トリシューラはここにはいない。先に口を付けたのだから、これはこちらのモノだ――。

 一時の衝動に身を任せようとしたコルセスカに、横合いから冷や水が浴びせかけられる。

「随分と仲良いよね。食事までお世話しちゃって、今度は何のお世話をするわけ?」

 猛烈な勢いで身体を引き離す。慌てて声のした方に視線を向けると、そこには案の定、赤髪の少女が立っている。思わず刺々しい声が飛び出してしまう。

「ちょっと、いつから見てたんですか!?」

「私の服が似合うって微妙な褒められ方して凄く嬉しそうにしてる所から」

「別にそんなに嬉しそうになんてしてません!」

 服が似合おうが似合うまいが不本意なものは不本意なのである。黒は自分の色では無い。それはそれとして褒め言葉は受け取るとしても、その事で何かを言われたりするのは不快だった。

 トリシューラの発言で、彼が妙な勘違いをしていては困る。恐る恐る視線を向けると、男は硬く表情を強ばらせて、戻ってきたトリシューラの方をじっと見つめていた。こちらへ妙な関心が向けられていないことに少し安心しつつも、どこか落ち着かない感じがする。自分の中の感情を持てあましつつ、コルセスカは向き合った両者の様子を窺う。

 そして、まず男の方が口を開いた。

「レオがどこにいるか、わかるか?」

「――ううん。悪いけど、第五階層は今、探せるような状況になくて」

「そっか。いや、わかってたからいいんだ――考えてもみれば似たようなシチュエーションだよな、これ」

 彼が言っているのは、僅か三日前の出来事。彼がロウ・カーイン相手に敗北し、コルセスカと共に第六階層へと向かった、あの激闘の直前。あの時と異なるのは、かかっているのが彼自身とトリシューラの命運であること。そして今度の敵は前回の比では無いほどに強大であること。そしてなにより、彼からなによりも大切なものが失われてしまっていることだ。

「さっきも似たような事を言ったけど、もう一度言う。このまま諦めたくない。たとえ希望が僅かしか無くても、その僅かに賭けてみる価値はあると思うんだ。俺はレオを、周りの人達を見捨てたくない。トリシューラは俺の命を何度も救ってくれたよな。このまま与えられるばっかりじゃなくてさ、俺も何か、返したいって思うんだ。だからお願いだ、俺を、トリシューラと一緒に戦わせて欲しい」

 コルセスカは、およそ寒気や冷気といった感覚と無縁な生を送ってきた。
 しかし彼女はその時、確かに本当の寒気というものを感じていた。背筋を走り抜けていく、おぞましい悪寒。背骨をバラバラにしてデタラメに組み立てられたような異様な感覚。目の前の誰かが、ぞっとするほど気持ち悪い。

 言葉の内容そのものは、コルセスカの価値観から言えばそう悪くないと思えるものなのに。これまでの状況の推移、トリシューラとの関係性から導き出される言葉としては、そう不自然ではないはずなのに。そういう事を彼が考えていたとしても、おかしいとまでは言えないのに。その言葉が、肉声で、目の前にいる男から発せられたということが信じ難いのだった。

 喉を鳴らすような失笑が、室内に響き渡った。

「確かにそうだねー、かっこいいー、超ヒロイックー、すっごい正論――でもさあ。そんなこと、誰にでも言えるんだよねえ」

 人は心底から他者を侮蔑した時、悪意や劣等化という段階を通り越して、殺意を抱く。トリシューラがその視線で、その声で、その表情で強烈に放射する憎悪に気圧されて、青年は息を詰まらせた。
 絶息してそのまま死ねと、緑色の瞳が告げている。

「もう一度、同じ事を言うけど――貴方、誰?」

 そう――トリシューラは、本当に目の前にいる男が何者なのかを判じかねているのだった。そしてそれは、二人のやり取りを傍観しているもう一人にとっても同じこと。

「前までのアキラくんなら、そんな風に強い意思で決断なんてしなかった。そんな風に、恐怖を押し隠して誰かの為に戦う、なんて【善いこと】は言わなかったよ。――今の貴方は、全然窮屈そうじゃない。まるでいろんな枷が外れたみたいだ」

 失われたものを、トリシューラは枷と表現した。それはある意味で正しく、ある意味で間違っている。コルセスカが形容するとしたら、こんな表現になるだろう。フィルタ、と。入出力される情報を適切に濾過して、有害なものを取り除く機構。

 彼の内心が今までどうであったのか、そして今どうであるのかということは問題にならない。重要なのは、彼がどんな言葉と行動を選ぶのかということ。無分別に垂れ流される思考そのままの言葉とは、かくも容易く人を幻滅させるのだ。

 ――と、そのようなことをコルセスカは状況から推測した。それがトリシューラの真実かどうかはともかくとして。

 しかし、だとしてもこの対応はあまりにも無慈悲に過ぎるのではないか。どんなふうに二人をフォローするべきだろうか、そんなことを考えるコルセスカを余所に、トリシューラの弾劾は苛烈さを増していく。

 内心を窺わせない微笑みの無表情で、トリシューラは軽やかに青年を責め立てる。

「ねえ、戦う前に、アキラくんは私に言ったんだよ。キロンとの戦いは、私を守れるかどうかのテストなんだって。その合否で私の使い魔になるかどうかが決まるんだって」

 わからない?

「――零点。貴方はもういらないの」

 完全な沈黙。呼吸音すら遠い過去に消えたきりで、もしかすると人が一人消えてしまうくらいのことはあり得るのではないかとすら思われる瞬間。あるいは、事実として誰かが消えていなくなっていたのかも知れない。

「感情の制御ができなくなった貴方はもう【アキラくん】じゃない。前世の記憶が無いんだからそれ以前の人格――前世を生きていた【誰か】とも同一とは言えない。つまり転生者としての特質を二つとも失った、この世界で生まれたばかりの貴方には既に希少価値が存在しない。何者でもない、何の価値も持たない路傍の石」

 ぱん、と乾いた音が響いた。

「トリシューラ――貴方は、最低です」

 平手を振り抜いた態勢で、コルセスカは強く言い放った。どうあっても先程の発言だけは看過できないと、眉を危険な角度に吊り上げての威嚇。対するトリシューラは、冷ややかな視線を返すのみ。

「もう貴方と協力しようとは思いません。貴方は先程、私に向かって何と口にしました? 存在を否定されたくないと、必要とされないことは死ぬ事に等しいとまで言いましたよね。その口で、彼に向かって『いらない』? 彼から、最後に残った居場所を奪おうと言うのですか!」

「セスカだって、私と同じ判断をしているはずだよ。もうとっくに価値を感じていないくせに、いつまでそんな無価値な抜け殻に拘っているの? 思い出を再生するための媒体? 念写でもして捨てた方がいいと思うよ。セスカ、本当に物を片付けられないよね」

 今度こそ。
 致命的な何かが千切れ飛ぶ音が聞こえた。

「――トリシューラ。訂正するか、ここで氷漬けになるか。どちらかを選びなさい」

「そんなに必死になって怒ったふりをするのは、本心で私の言葉を認めているからでしょう? ねえ、私が今、的外れな事を言っていないことくらい、セスカにだって分かるはずだよ。だってさ」

 緑色の瞳が、彼に向けて冷たい一瞥を投げかける。その先に、今はもういない誰かを重ねるようにして、諦めの言葉を紡ぐ。

「本当のアキラくんだったら、私のこういう思考に同意してくれるもの」

 その断定を、コルセスカは否定することができなかった。
 沈黙したままの【誰か】にとっても、それは同じこと。

 トリシューラは、ここにいる誰よりもシナモリ・アキラという存在を理解していた。その彼女の断定に、返す言葉を持ちうるのは、当のアキラくらいだろう。

 そして、シナモリ・アキラはもういない。
 死んで、消えて、失われた。

「以前までのアキラを、甦らせることができれば――」

「パーソナルヒストリーを遡るとか? 時間遡行系の呪術なら可能性はあるけど――【塔】のお姉様達を直接頼るのはルール違反だし、私の鮮血呪は過去をリソースにして未来に進む事しかできないよ。セスカの氷血呪だって現在を引き延ばすことしかできないでしょう。敵であるトライデントは論外。そうすると残る当ては一つしか無いよね。あの何を考えてるかわからない変人を頼るの? セスカと相性最悪じゃなかった?」

 コルセスカの脳裏に、一人の人物の姿が浮かび上がった。【最後の魔女】の四人いる候補者、その最後の一人。彼女の力ならば可能性はあるが、それも協力を取り付けることができればの話だ。彼女の勝利条件は必ずしも他の三人と競合するものではないが、そのぶんだけ動きが読みづらい。個人的にも、トリシューラほど気心が知れているわけではないので頼みづらいという事もある。

「そもそも、本来なら私たち四魔女はみんな敵同士なんだから。今だってこんな風にして馴れ合っている方がおかしいんだよ――ね、分かったらその人を連れて出て行ってくれる? もうお互い用はないでしょう」

「彼を放り出すんですか、これだけ巻き込んでおいて! 貴方は、自分勝手過ぎます!」

 激昂するコルセスカに対して、トリシューラの態度は変わらず冷ややかだった。動と静、二人のイメージが入れ替わったかのような光景。むしろ、これが両者の本質であるのか。

「セスカだって自分勝手さでは人の事を言えないよね。たかが転生者一人の命の為に【雪華掌】まで解放して、馬鹿じゃないの? わかってる? あの行為で、火竜の復活が――世界の終わりが早まったんだよ」

 その言葉で、ただでさえ重苦しい室内の空気がより一層密度を増したようだった。痛いところを突かれて、コルセスカは言葉に窮して視線を下げる。代わりに反応したのは青年の方だった。

「ちょっと待て、それどういう意味だ。俺を助けたせいで、火竜の復活が早まったって? 世界の終わりってどういうことだよ」

「神話では、世界の全てを【炎上】させるほどの怪物、火竜メルトバーズは初代【松明の騎士】大フォグラントと初代【冬の魔女】氷血のコルセスカによって永久に溶けない氷で地獄の最深層に封じられたと言われている。その氷の封印こそが氷血呪。今代の冬の魔女であるセスカが不用意にその禁戒を破れば、火竜を抑え込んでいるエネルギーが使った分だけ目減りする」

 トリシューラは、ごく当たり前の常識を教え諭すように淡々と答えを返す。氷血呪の制御には極めて膨大な呪力が必要になる。短時間、小規模の解放ならばともかく、宇宙全体の停止などという高い負荷のかかる処理を行ってしまえば、その分だけ火竜の封印は綻んでしまう。しかし、今度はコルセスカも負けじと言い返す。

「あの封印は、長い年月を経て劣化しています。地獄の最深層に赴いて再封印するか、問題を根本から断たないことには何の解決にもなりません。そもそも封印を解除する方法が発見されており、トライデントと【下】勢力はそれを狙っているのです。何もしなければ遠からず火竜は復活してしまう」

「その通りではあるけど。だからといって復活を早めた言い訳にはならないんじゃない?」

「だからこそ、私が火竜を倒すといっているのです!」

 コルセスカには無数の、有形無形の責任が重くのし掛かっている。自分の与り知らぬ所で発生した生まれついての宿命と、自らの意思で引き受けた運命の双方が、冬の魔女を突き動かすのだ。だが力強い宣言は、鋼鉄の表情を動かすほどには響かなかった。

「それで? 失敗したらどうするの? そもそも、倒せたとして、その後はどうするつもり? そのまま世界が終わるに任せるわけ?」

「それ変じゃないか? 世界を滅ぼす火竜を倒したのに世界が終わる?」

 奇妙な言い回しを聞きとがめて、再びの質問。知識の無さが、かえって混迷した状況を整理する助けになっていることが皮肉と言えば皮肉だった。トリシューラは解説を続ける。その光景だけ見れば、少し前までの二人の関係性そのままに見えた。

「火竜メルトバーズは全ての生き物の母にして原初の生命体パンゲオンの九つある首の一つ。この世界の神話的表出形態。摂理の擬竜化。あらゆる生命が誕生して生きていくことを祝福するグレートマザー。あれはね、この世界の生と死、そのものなんだよ」

「それが、なんだって言うんだ」

「生まれるということは死ぬということ。あらゆる存在は生まれた瞬間に死が決定付けられる。死は生との差異から見出されるからね。――実を言えばね。この宇宙は、本来ならずっと大昔に滅びているはずだったの。私たち不死キュトスが抱えてしまった業――永遠への執着が、来るはずだった終わりを強引に引き延ばし続けているだけの、死に損ないの世界」

 それが意味する所は一つ。この世界は、寿命で死ぬ定めにある。

「貴方にはこう言った方がわかりやすいかな。つまり、火竜メルトバーズっていうのはこの宇宙の心臓で、老衰寸前の心臓にコールドスリープで必死に延命処置を施してるってわけ。【星見の塔】と【キュトスの姉妹】はいろんな分野の医師や技術者集団で、セスカがコールドスリープ装置の制御盤って感じ」

「ちょっと待て、それじゃあ火竜を殺すっていうのは」

「既存の世界を終わらせるってことだよ。もちろん」

 事も無げに言うが、そこに深刻さは無い。ただ単純な四則演算の回答を提示するような口調だった。話がまだ終わっていないことを察したのか、男は続きを促す。

「別に世界を滅ぼすとかそう言う事じゃないよ? 今あるこの世界の、当たり前に生き物が生まれて死んでいくという法則をアップデートして、別の法則に書き換えるってこと。いまの秩序を打破した後のビジョンがセスカにあるのなら、その通りの世界が生まれるんじゃないかな。それがどんなものかは知らないけど」

 そう言って、コルセスカを緑色の視線が鋭く貫いた。答えを持ち合わせていないのなら、お前にはその資格がないと糾弾するように。

 世界を更新するとは、更新者の確固たる意思と魂の奥底から湧き上がる渇望によって宇宙のあらゆるルールを決定付けるということだ。生命が生まれて死ぬ。その当たり前のルールを書き換えるからには、相応のビジョンが無くてはならない。しかし、コルセスカはその答えを未だに持ち合わせていなかった。

「貴方が助かったせいで、この宇宙の終わりが近付いたかもね? 外世界人さんにとっては他人事なのかもしれないけれど」

 自分が助かったことで世界の終わりが近付いたという事。助からずとも時間経過で世界は終わり、更にはそれを意図的に引き起こそうとしている者達がいる事。次々と提示された事実を前にして、男はただ困惑し、糾弾の言葉にもただ狼狽えることしかできない。その理不尽さに、思わずコルセスカは激昂する。

「いい加減にしなさい、トリシューラ! 彼が責められるだけの事をしたというのですか! それならば先に私を責めるのが筋でしょう!」

「そうだね。じゃあそうするけど」

 冷然とした視線の矛先が、今度はコルセスカへと向かう。あらゆる冷たさを意に介さない冬の魔女をしてたじろがせるほどの透明な怒りが放射される。

「いい加減にするのはそっちじゃないの? 今までにも三回、貴方は似たような真似をしでかしている。これで四回目だよ、セスカ。本当にそういうところ変わらないね。私を助けた一番最初の時から、何も学習していない」

「それは、あの時はそれ以外に手段が――それに、貴方がそのことを言うのですか」

「何? 恩にでも着せたいの? っていうか、他ならぬ私が言うから意味があるんでしょう」

 そう――このやりとりも、実に都合四度目。コルセスカがこの件ではトリシューラに対して強く出られないのも、毎回「もうしない」という約束をしたにも関わらず必ず破っている事が原因だった。

「絶対にもうしません。本当に、今度こそ」

「一回目の時。私はセスカに殺されても良かった。あの時――【試しの儀】の時、セスカは私を見捨てたって良かったんだ」

 トリシューラはコルセスカの誓願を無視して続けた。幼い頃に存在していたような強く賢く優しい姉への信頼は、彼女の瞳には既に宿っていない。皆無である。その代わり、この上なく駄目な生き物を見るような軽蔑の視線が向けられている。

「他人を自分より――世界より優先するその気持ち、理解不能だよ。まあ、なによりも自分が大事な私が言えたことでもないか。けどね、大事にする相手にそれだけの価値があるかどうか、ちゃんと考えた方がいいと思うよ」

「助ける相手に価値を付けて順序を定めるなんて傲慢な真似を、私はしたくありません」

 毅然と言い返したコルセスカの表情を見て、男が息を呑んだ。似たような言葉を、かつて誰かが口にしたような気がして。だが、トリシューラの反応はなおも平坦だった。

「それは欺瞞。誰かを助ける選択をした時点で貴方は人に価値を見出しているんだよ、セスカ。助けるだけの価値、貴方にとっての価値を。そして助けなかった全てに対して、それ未満だという価値を付けているんだ。それこそ傲慢な振る舞いじゃないのかな?」

 今度こそ、コルセスカは反論の言葉を失った。少なくとも、自らの内側にある規範を【善】に拠ったものだと認識していた彼女にとって、その指摘は己の足場を揺るがされる事に等しい。トリシューラの物言いは【その後】を示していないという点において、まるで空虚な非難でしかなかったのにも関わらず、コルセスカは自らの欺瞞を認めるほか無かった。すぐ傍にいる二人を【無価値】と断ずる事だけは、彼女にはできなかったからである。

「――そうですね。認めましょう。私にとって、この手を差し出すという行為にはそれ相応の価値がある」

 ですから、とコルセスカは男の方を向いて続けた。それが、トリシューラに対してのささやかな反抗になればいいと願いつつ。

「少なくとも、私だけは貴方に価値を見出しています。これは無条件の博愛などではありません。私自身の行為の責任として、貴方を最後まで守り通す」

 手を伸ばして、その身体を強引に引き寄せる。自らを超える体格の男性を軽々と両腕で抱え上げて、コルセスカは力強く宣言した。

「もう貴方と並んで戦う事はできない――この次に出会う時は、私達は敵同士です」

 それが、魔女たちの決別だった。

 

 先行させた【氷】が数メフィーテ先の悪鬼を察知。数は六。自動的に攻撃を開始した氷の球体が前衛の三体を次々と串刺しにする間に、交叉路の手前で呪術の起動を準備しておく。氷柱の攻撃に追い立てられて飛び出してきた残りの悪鬼達に襲いかかる猛烈な吹雪。周囲から熱源が消えた事を確認して、コルセスカは腕の中の相手に声をかけた。

「終わりました。もう少し移動しますから、しっかり掴まってて下さい」

「あの、俺歩けるんだけど」

「何かあったら大変ですから。離れないように」

「いや、それだってすぐ傍にいればいいわけだし、俺だってまだ多少は戦ったりも――」

「痛みどころか辛さで泣いてしまうような人を戦わせたりできません。おとなしく私に守られて下さい」

 コルセスカが言及したせいで先程の醜態を思い出してしまったのか、抱きかかえられた男は途端に押し黙る。コルセスカは引き続き周囲を熱探知しつつ、入り組んだ迷宮の中を進んでいった。

 第五階層は、再び迷宮と化していた。先程コルセスカが眼球型の使い魔――アブロニクレスを潰したことで一時的に迷宮化は解除されていたのだが、どうやらキロンとの戦いの後、何者かによる階層の支配が再開してしまったらしい。

 その何者かの正体にコルセスカは心当たりがあったが、姿を見せないその相手に対抗する手段が今の所は無い。そのため「まだ裏で動いている何者かがいる」と警戒を促す程度の事しかできないのだった。余計な予断を与えて判断を間違わせるのも危険だった。

 幸い、トリシューラが設定した第五階層の新秩序はそれなりに強固であったらしい。迷宮化は階層の全域までに及んでいるわけではなく、所々に円形の空白地帯が存在していた。おそらく四つの大禁呪の一つ、鮮血呪の力を用いたと思われるルールそれ自体の変更。いかに同格の敵と言えど、簡単に第五階層を支配することはできないようだった。

(ここは探索者の街。であれば、世界改変に抵抗できるレベルの呪術師もいくらか存在しているはず。そうした人々が避難し、集まっている場所を探せば――)

 現状、最も問題なのは階層の四方に存在する転移ゲートと階段が封鎖されてしまっている事だった。階層を迷宮に改変しつつある何者かは、真っ先に退路を断ち切ることから始めたのである。このため戦える者も戦えない者も第五階層から退避することが適わなくなっていた。

 いずれ戻ってきて【下】の住人を皆殺しにするであろうキロンに対処すると共に、迷宮化を行っている何者かをどうにかしなくてはならないのだが、その前に腕の中で居心地悪そうにしている彼の安全を確保する必要があるのだった。

 案の定、暫く迷宮を進んでいくと迷宮化していない区画に立て籠もっている集団に遭遇した。ひとまずはそこで今後の対策を練ろうと考えたコルセスカだが、そこで困った事態が発生した。

 集団は【上】の住人が中心となって構成されていた。そこで、【下】の住人、それも非戦闘員が取り囲まれて暴行されていたのである。
 現在、悪鬼たちは上下の区別無くただ無差別に襲撃を繰り返している。

 が、そんなことは【上】の住人達にとっては関係の無い事で、ただ目の前の状況から「以前の状態に戻った」という認識を持ち、戦闘を開始しただけなのだろう。もはやペナルティなどあってないようなものなのだ。

 ゆえにコルセスカは対処に迷った。これは正常な光景だ。探索者としてのコルセスカは【下】の住人――異獣を倒すことを間違いだとは思わない。しかし、これはトリシューラが望んだ光景では無い。

 だからなんだというのだろう。決別した相手の事情だ。次に見える時には敵と定めたではないか。

 視線を下げると、同じように判断に迷っている表情に出会った。立場の不確かな彼にとっては、より困難な状況なのかも知れない――そんなことを考えているうちに、新たな動きが生まれた。

 人混みを割って、奇妙な集団が現れたのだ。
 一見して【上】とも【下】とも判断しがたい。なにしろ、その集団には両方の住人が雑多に含まれていた。そしてなにより驚くべきは、集団の先頭に立っているのがコルセスカ達の知る人物だったことだ。

「レオ?」

 青年の戸惑いを感じながら、コルセスカは状況の推移を観察していた。黒い耳を持つ少年――レオは、揉め事の中心に割って入ると、驚くほどに穏やかに、それでいて快活に言葉を弄して、状況を収めてしまったのである。

 虐げられていた側の【下】住人を自らの率いる集団に組み入れるという形で。この結果は彼の弁舌が優れていたというわけではない。
 そもそも、彼の用いる古グラナリア語は誰にも通じていない。単純に数の優位であった。彼が率いている集団の総数が、この場の【上】の集団よりも多く、また装備などの面で勝っていた。それだけが事態を決定付けていた。

 ゆえに真に恐るべきは、あの少年がその集団を統率してのけているというその一点である。より精確には、そのカリスマの発露が腕力や知謀、意思力によるものではなく、単なる少年の【愛らしさ】に依るものだということ。

 視線という不可視の現象を専門とするコルセスカだからこそ、そこで起きている異常事態を正確に把握することができていた。背後の集団から少年に向けられている視線は、全てが慈愛、そして保護欲である。

「天然の魅了――なんて恐ろしい」

 極端な容姿はただそれだけで呪術性を宿す。ゆえに優れた呪術適性を持つ者はその容姿が極端に美しいか極端に醜いか、あるいは異形かのいずれかであることが多い。呪術師としての能力を向上させるために整形呪術を受ける者もいるほどである。コルセスカの異様なほどに巨大な義眼も同じ理屈で象嵌されている。

 レオという少年のかわいらしさは、ただそれだけで魔性の魅力を振りまくのだった。その小さな頭の上に乗った耳が、ぴくりと動く。少年の大きな瞳がこちらを向いたかと思うと、ぱっと明るく光り輝いた。彼が手を大きく振りながら二人の名前を呼ぶ声が、周囲に響き渡った。

 

 
「二人とも、ここでゆっくり休んでて下さいね。僕はちょっと、他の人達の様子を見に行ってきます」

「忙しそうですが、それで貴方自身は平気なのですか?」

「僕にはこれくらいしか――つらそうな人に言葉をかけるくらいしかできませんから。えっと――それじゃあ、また後でお話しましょうね」

 最後の一言は寝台に横たわる男に向けたものだった。唸り声のようなかすかな返事に、それでもレオは華のような笑みを浮かべて室内から出て行った。

 レオが形成した集団が陣取っている領域に案内され、コルセスカはひとまず自分用の宿を構築した。迷宮化していないということは、未だトリシューラの設定したルールが有効であるということだ。

 複雑に光を回折させる氷の家を実体化し、守るべき青年を運び込んで自分用の寝台に横たえた。「冷たい」と文句を言うので端末内に圧縮していた敷布を解凍して、寝台の上に厚めに重ねる。これで氷の寝台も多少は常人が横たわれるようになっただろう、と思うのだが、男の方は居心地が悪そうに寝台の上でもぞもぞとしていた。何が不満なのだろうか。

「良かったのか」

「はい? 何がでしょう」

 問いに込められた意味がわからないという振りをして、コルセスカは逆に問い返した。その問いは意味が無いもので、今更だ、としか答えようが無い。

「トリシューラとあんな別れ方をして、本当に良かったのか」

「彼女の言うとおり、いずれは敵対する関係だったのです。これが正しい形なんですよ」

「それでも!」

「大丈夫ですよ。あれは、彼女の本心じゃないんです。戦えなくなった貴方を巻き込むまいとしてわざと冷たくしているだけなんです」

 コルセスカは強引に話をすり替えた。無理矢理作り出した話題すら中は空洞だったけれど。言っている本人すら信じていない――信じたいと必死に願っているような、空虚な言葉。触れられれば、脆く砕けてしまう。

 今の所、彼の精神は均衡を保っているように見える。しかし、だからこそ危険であることを、その涙を見たことでコルセスカは実感していた。不用意な言動は破綻を招いてしまう。

 ただでさえ、一方的に守られているという状況である。彼の現在の心境を正確に推し量ることは難しいが、それでも自尊心を揺るがす事態であることは想像に難くない。トリシューラの下から出て行った直後、震えるように礼を口にする彼を目にして、コルセスカはそれ以上の精神的な負担をかけまいと決意していた。

 慰めてはならない。かといって何もしないわけにもいかない。しばしの思考を経てコルセスカが至った結論は、果たしてこのようなものだった。

「ゲームを、しませんか」

 寝台の横に氷の卓を形成すると、コルセスカは気安さを装ってそう提案した。いつか、巡槍艦の病室で彼に同様の提案を持ちかけたのと同じように。

「――こういう時は気晴らしに限る、とでも?」

「月並みな行為は効果的だから月並みなんです。多くの検証を重ねられて淘汰圧から生き残ってきたという信頼性は折り紙付きです」

 直面している危機に対してのプランは、実は既に思いついていた。問題は、それを実行に移すための段取りが必要な事。その前段階、仕込みのために、コルセスカはあえて遠回りのようにも見える行為を始めようとしていた。

「まあ、それなりに説得力はあるか」

 溜息をついて、青年はコルセスカと正面から向き合った。そして肘から先のない両腕を軽く振って苦々しげに笑う。

「わかった、付き合うよ。けどこの通りの状態なんでな。手を貸してくれ、文字通りに」

 

 
「――俺の手番だな。【災厄の槍】で自分と相手にそれぞれ9点。こちらのHPはマイナス7だが、【沙羅双樹】を構えているため敗北とはならずに体力値を1点減らして終了だ」

「【霧の防壁】で軽減します。端数切り捨てで4点。【災厄の槍】にトリガーして【シャルマキヒュの凍視】が受動で発動。【災厄の槍】の発動コストに含まれるスキル及びパネルに一巡のみバインド。【沙羅双樹】の維持が解除されるので、敗北条件の変更効果が切れます。貴方のHPは0以下なのでこれで終わりです」

「――っあー! また負けた!」

「三タテでしたね」

「初心者相手に大人げなくないか?」

「容赦するほうが嫌かなと思いまして」

 相対する男の眼球運動を凝視しながら、コルセスカは事も無げに言葉を返す。今の彼女の右目は対象の目の動きを読み取って一定の処理を行うセンサーだ。卓上に立体投影された遊戯盤のスクロール、クリック、文字入力といった多彩な操作を、目の動きからその奧の意思を予測して代行する。

 眼球と視線に関する理解において、邪視者の右に出る者はいない。右の義眼が行う処理を自動化し、コルセスカ自身はその情報をあえて遮断することで、ゲームに於ける公平性の確保も抜かりない。だというのに、勝負の展開はほとんど一方的なものだった。

「今までゲームといったら――ええと、何だったか。補助アプリ? とか攻略サイト? とかに頼り切りだったからなあ。俺自身の地金が見えたってことか」

「確かに、前より下手になってますね」

「本当にはっきり言ってくれるよな」

 苦々しげな表情。感情を露わにする彼というのは、以前なら決して見られなかった光景だ。それがそう悪いものではないと感じ始めている自分を認識して、内心で厳しく戒める。

 コルセスカにとって望ましい状況であっても、それは彼にとっては苦痛でしかない。ならば、それは否定されるべきだった。相手に気付かれないように薄く息を吐いて、言葉を続けた。

「では、今の教訓を生かしてもう一度やりましょう」

 ともすれば、相手の無力を思い起こさせて痛めつけるような行為。そのことを改めて感じてしまったのか、男は僅かに眉をひそめて苦言を呈した。

「これ以上やってもどうしようもないだろ。知識も経験も実力も、何もかも歴然としてる」

 こんなことを続けてお前は一体何がしたいのか、ということを問いかけられて、コルセスカは神妙な表情になって相手の瞳を見返した。今度は、左の目でも相手の視線を捉えて離さない。

「いいですか、今から重要な事を言うので良く聴いて下さいね。あのですね、ゲームのやり方というのは、死んで覚えるものなんですよ」

 死んで、という言葉を特に強調する。おそらく彼は失われたものを想起したことだろう。見る間に表情が硬く凍り付いていく。己の舌禍がもたらした厄災に心を痛めつつ、その感覚を自ら凍らせて続きを口にする。

試行錯誤トライアンドエラーの果てしない積み重ね。そうやって蓄積したプレイヤースキルで勝利条件を達成することが、ゲームの楽しさというものです。だから、失敗は必要なことなんです」

「――だから、負けたことを許容しろっていうのか。全部失って、それも必要なことだったって?」

「失敗したら、やり直せばいいんですよ。やり直しがきかないのはクソゲーなのでもっと高品質なゲームを探しましょう。これでも色々やってきたので選別眼はそれなりのつもりです。私でよければお手伝いしますよ」

 一回性の体験を尊ぶタイプのゲームを都合良く無視して、コルセスカは言葉を紡いでいった。それはどうにかして慰めに見えないように遠回りを重ねた、しかし見え透いた慰めだった。それで彼が少しでも前を向ければ良いと、そう考えての迂遠な行動。気晴らしを緩衝材にして、感情がひび割れることが無いように細心の注意を払った。だが、そうした気の回し方が必ずしも実を結ぶとは限らない。

「ふざけるな」

 その声の、あまりの棘の無さに、かえってコルセスカはたじろいだ。暴力の嵐を何度も潜り抜けてきた男とは思えないほどに、その様子は弱々しい。

「もう、俺には何も無いんだよ! この両腕を見ろ、これから新しい何かを手にすることだってできやしない! わかるだろう。こんな風にみっともなく喚いている時点で、正常に理性を働かせることすらできなくなってるってことが。感情が抑えられないんだよ、ただ不安で、怖くて、惨めで――戦いたい、取り戻したい、行動しなくちゃならないってわかってるけど、それでも何もできないんだ」

 理屈の上でコルセスカの言葉を肯定しながら、それでも無理だと彼は叫ぶ。駱駝の背を折る、最後の藁。何もかも失った彼に最後に残されたトリシューラへの想い。それを当人によって砕かれたという事実は、その傷付いた精神を再起不能なまでに叩きのめしていた。

 あらゆる外圧が許容できる量を超えて、彼を内側から壊していた。再起の意思があるかないかなどは関係が無い。ただ痛みに対して、肉体は反射的に丸く縮こまってしまう。それが不合理な行動だと理性が判断していても、脊髄は理性を拒絶する。敗北の痛みに震えながら、折れた心をさらけ出して男は絶叫した。

「あんな化け物に、俺なんかが勝てる筈ないだろうが!」

 そこに残されているのは、ただの残骸だった。その心は死に瀕している。ここまで苦痛を長引かせ、追い込み続けたのは他ならぬコルセスカ自身だ。

 命だけを救ったはいいが、それ以外の全てを取りこぼした、愚かな救済者。守るなどと、聞いて呆れる。トリシューラも激怒するはずだった。自分は彼を本当の意味で救い出すことなどできていなかったのだと、コルセスカは痛感した。彼に対して積み重ねてきた失敗に、与えてしまった傷の多さに、ただ歯噛みする。

 やりなおしが可能なのは、失敗が許容可能なレベルのダメージしかもたらさない場合に限る。それが自分以外にも痛みをもたらすとすれば、なおさら失敗など許されるはずもない。他者の痛みに直面することで、コルセスカは己の行いを激しく後悔した。半不死ゆえに自らの痛みに鈍感な彼女を苦しめるのは、いつだって誰かの嘆きだ。

 目の前にある感情が、その時大きく揺らいだ。罪悪感に苛まれるコルセスカの方を見て、それと似た後悔を抱えてしまったのだと知れた。合わせ鏡になった瞳の中に、他者を傷つけたという事実だけが繰り返し反射する。

 長い沈黙の後、コルセスカは静かに口を開いた。はじめに、「すみませんでした」という形式をなぞる。空虚であっても、縋らざるを得ない言葉がある。

「私も、転生した身ですから。だから、あなたの気持ちに寄り添えると思っていました。前の人生と今の人生、その落差に戸惑い、足下の不確かさに怯える気持ちを、わかってあげられると」

 戸惑うような気配。未知の情報をどうやって受け止めればいいのかと困惑する相手に、コルセスカはゆっくりと噛んで含めるように説明していく。

「といっても、貴方のように異世界から転生したわけではなくて、この世界の内側でのことですけれど。厳密には異なるカテゴリです。気持ちが分かるだなんて、とても言えませんね。それでも、力になりたかった――ごめんなさい。こんな、身勝手な独善で貴方を傷つけてしまった」

 それでも、聞いて欲しいとコルセスカは続けた。この瞬間を逃せば、どんな言葉も届かなくなってしまうという確信があった。

「そう――これは私の我が侭です。けれど、たとえ身勝手でも私は貴方と共感したいと思ってしまった。貴方に、共感して欲しいと感じてしまった――お願いがあるんです。これから私がする話を、ただ聞いて欲しい。少し、長くなりますが」

 ――私のことを、話してもいいでしょうか。

 そう言って、透明な瞳を向ける理不尽な語り手に対して、彼は何を思ったのだろうか。呆然としたままの表情で、彼はその異形の現象を見続けた。
 作り物のような右目から流れ出す銀色の雫。

 頬を伝って零れ落ちていくそれは、涙だった。

 

 

 

 

 
 
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