挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
幻想再帰のアリュージョニスト 作者:最近

第2章 もしサイバーパンク世界の住人がオカルトパンク世界に転生したら

19/178

2-14 転生者殺し

 

 

 
 白と黒だけの世界。
 色を失ったその空間の中心で、蝶が羽ばたいた。

 無色透明の光、そうとしか言いようのない何か――恐らく視覚以外で捉えられる何らかの微弱な電磁波が辺りに放射されたのを感じる。
 凄まじい暴風が吹き荒れ、キロンを中心にして竜巻が発生する。

 粉塵に包まれてその内側がどうなっているのかは不明。しかし、この展開はまずい。
 何がまずいのか、上手く言語化できないのがもどかしいが、これはつまり――。

「メタテクストが改変されていく――ハイパーテクスト系、いえ、これはアリュージョン系の神働術――! やられた、これは最初に優勢な方が負けるパターン!」

 ああ、それだ。
 相変わらずコルセスカは胡乱なことばかり口にするが、しかしこの世界において彼女の言うことはだいたい正しかったりする。とすれば、そういう型にはまるのが世界のルールとしてまずいということも充分あり得る。

 ある種の物語のセオリーに従って現実が変容する、なんて、デタラメも良いところだが。
 それがこの異世界のルールなのだと言われてしまえばそれまでだ。

「なんてこと、絶体絶命からの逆転劇を演出されました! このままだと、私では流れ上勝てない――アキラ! 何か勝てそうな言動をして下さい!」

 無茶振り過ぎるだろ。
 とは言え、必要ならやらなくてはならない。とにかく思いついたものを片っ端から試してみる。

「コルセスカ、この戦いが終わったら結婚しよう」

「はいっ? えっ、あのっ、そんな、まだ私達は出会ったばかりですし私にはやるべき事があって、じゃなくてそれは負けたり死んだりするパターンです! 真面目にやって下さい!」

「まだだ、まだ終わっていない、俺達には負けられない理由があるんだっ!」

「それです! その理由を具体的に詰めて下さい! 大事なのはディティールです!」

「えっ、そうだな。うーん」

 負けられない理由。何かあったっけ?

 人間が死のうが生きようが大した意味は無いしなあ。命に価値を見出すなんて傲慢な真似、神ならぬこの身にはとてもできやしない。極論、勝ち負けや生死なんてどうでもいいとすら言える。あらゆる存在はいずれ死を迎えるのだ。全ては塵になって消えるのみ。

「無いんですか、何も?! 貴方の今までの人生は一体何だったんです?!」

「何だったんだろうな」

 本当に、塵みたいな人生だった気がする。
 転生しても性格が変わらないんじゃあ似たような結果になるのも納得といった所だ。

「ああもう落ち込まないで下さい面倒な人ですね! すみません言い過ぎました!」

 注文が多い。
 そうして俺達が無駄に時間を浪費している間に、敵の準備が整ってしまったようだった。

 風が弱まり、竜巻が消えていく。
 中から現れたキロンの姿は大きく変貌している。俺は、一瞬それが本当にキロンなのかどうか、我が目を疑った。

 まず鎧の上体部分が綺麗に消滅しており、裸身が露わとなっている。引き締まった肉体美はその顔と同じように彫像のようだが、不可解なのは貫かれた胸も、両腕も綺麗に元通り、傷一つ無い状態になっていることだ。

 そして目を引くのが、背中から生えた蝶の翅。【下】の種族にはそういった身体的特徴を有する者も数多く、見た目にも華やかなそれは好まれやすい。そのため娼婦達の中にはそれを売りにしている者も多い(というか、そういう種族が性的搾取を受けやすい)。

 だがキロンの翅は、あまりにも巨大すぎた。片方の翅だけでもその体躯を上回る全長、おそらく二メートルはある。
 そして極めつけに、色が異様だった。

 巨大な蝶の翅、そして何故か急激に伸びて胸元まで垂れ下がった長髪。ゆるくウェーブしたその色彩が、赤、緑、青、黄と多様に変化する。

 翅は煌めく粒子を周囲に放射しており、更には表面に微細な構造が刻まれていて、それによって光を複雑に干渉させているようだった。

 異形の姿。しかし彼は【下】では無く【上】の種族だ。だとすれば、この変貌の原因は一つ。異獣を肉体と同化させた聖騎士。つまりは【異獣憑き】だ。

射影聖遺物アトリビュート・第九番――散らばった大地から舞い降りるミエスリヴァ」

 暗い瞳に明確な排除の意思を宿して、新生した聖騎士がその威容を露わにした。

 対峙しただけで感じる、圧倒的なまでの威圧感。おそらく巨大な翅が視覚的な威嚇効果を生んでいるのだろうが、恐らくそれだけではない。何らかの呪術的な力が働いている。でなければ、感情制御をしている俺が、微かにとはいえ恐怖を感じることなどあり得ない。【E-E】は正常に機能していて、エラーは一切検知されていない。ということはつまり、敵の呪術は俺がこの世界に持ち込んだアプリの機能を無視して機能するということだ。

「異獣は全て駆逐するんじゃなかったのか」

 恐怖を紛らわせるための軽口も、どこか勢いがつかない。

「これは意思無き奴隷だ。邪悪な意思を排し、その能力のみを人の為に役立てる。服従し、隷属するのであれば生かしておく意義もあるだろう」

 排除と劣等化の複合タイプ――そうやって自分を納得させているのだろう、多分。しかし、様子は大幅に変化したものの、こうして話しかければ普通に答えてくる。仕掛けてくる様子が無い。

 キロンから感じる威圧感は本物だ。何かをされるまえに攻撃した方がいいのは明らかだが、恐怖感が警戒心をかき立て、最初の一歩を踏み出せない。もしかしたら、この状況そのものがすでに敵の攻撃なのかも知れない。

 コルセスカも勝ちパターンがどうのと言っていたし、迂闊な行動が敗北に繋がってしまう可能性もある。行動を躊躇っているのはそうした理由もあった。

 一方で、そのコルセスカは眉を顰めながら何事かを思案しているようだった。

「確かあの蝶は第八魔将ハルハハール――自らを美しいと認識させる魅了系の呪術使い。大して強くもない、下位魔将だったと聞いています。ミエスリヴァというのは、槍神教の聖人名を上書きして支配力を高めている?」

 魅了とか認識とか、話を聞いていると精神攻撃が得意そうな感じに聞こえる。
 とすると、直接殴りにいくのが一番だろうか。

「俺が先行して身体でギリギリまでそっちの視線を隠すから、いいと思ったら小さな音でいいから合図をくれ。回避する」

「アキラ?」

「俺の背中を撃て」

 返事を待たずに走り出す。
 かすかに当惑する気配を背後に感じた。しかし今は少しでも情報が欲しい。ルールがどうとかはよく分からないが、この場で状況を打開する力があるのは明らかにコルセスカだ。ならば俺が盾となり囮となり、少しでも彼女の支援を行うのが最善だろう。

 【サイバーカラテ道場】が導き出す最適な動作を実行、拡張空間に表示された人体図が足から順番に発光し、右腕に運動量が伝わっていく。放たれた打撃力が正確にキロンの剥き出しの喉へと向かう。

 鈍い音がして、衝撃が走る。
 俺の腹部にめり込んだキロンの左拳が、続けてもう一撃を顔面に叩き込む。

 視界が揺れる。回避しようとするが失敗。右腕が掴まれていて完全に動きを封じられている。だがいつの間に相手に腕をとられるようなことに? 俺に認識できない程の速度と技量で行ったというのか?

 ありえない。俺に感知できなくとも、【サイバーカラテ道場】と【Doppler】を並列起動させている俺の索敵能力はこの世界の常識的な水準を大きく上回っている。これまでの半年間、この二つのアプリは確実に通用していたのだ。

 だが俺は、今まで通用していたからといって、それがいつまでも通用するとは限らないという当たり前の事実を失念していた。

「構うな! 俺ごと凍らせろっ」

「やってますっ」

 何だって?
 気がつく。俺とキロンを中心としてた円形の空間の外側が、全て凍り付いていた。今のキロンは、コルセスカの邪視すら無効化できるというのか。

「君は音で聴いてから回避しているのだろう? ならば対処法は二つある」

 再び拳が腹部を抉る。喉から迫り上がった吐瀉物とそれに混じった血液が吐き出されていく。
 これは、臓器をやられたか?
 致命的な予感に、肌が粟立つ。

「一つは音を立てずに奇襲すること。特殊な修練を積むか呪術を用いれば可能だろう」

 上空から襲来する氷の円盤の軌道が、翅を微かに動かして発生させた気流の渦によって乱れる。接近してきた円盤を見上げることもせず、角度が傾いた鏡面を指先で軽く叩く。円盤に亀裂が入り、粉々に砕け散る。

「もう一つは、もっと単純だ。音よりも速く動くこと――つまり、こうだ」

 何が起きたのかすら理解できなかった。
 気がつけば俺は仰向けに地面に叩きつけられていて、俺のすぐ真横にコルセスカが転がって来たという事実を遅れて認識する。

 圧倒的だった。幾ら何でも、強さのレベルが跳ね上がり過ぎだろう。
 先日交戦した異獣憑きはここまでの強さではなかった。しかし、半年前のアズーリアはその力で魔将エスフェイルと対等に渡り合う程だったわけだから、宿している異獣の強さにも関係しているのかもしれない。確かさっき、コルセスカが魔将とかなんとか言っていた。苦痛に呻きながら、コルセスカがどうにかして起き上がろうと足掻く。

「そうか、美術における記号属性アトリビュート

「なんだ、それ?」

「絵画に於ける【お約束】のようなものです。特定の持ち物を描くことで、それと関連した聖人や神話の登場人物だと特定させる手法を指します」

「流石は冬の魔女、博識だな。ご名答だよ。つまり、【蝶】のモチーフから同じ属性の聖人ミエスリヴァを再現し、その力を増幅させているというわけだ。私をただの【異獣憑き】だと思わない方がいい」

 凄まじい寒気。キロンは間近に立って、倒れている俺達を見下ろしていた。
 冷気は、敵を見上げて邪視を解き放ったコルセスカから放たれていた。全身全霊でキロンを凝視することに集中している為か俺まで凍結することは無かったが、それでも全身が震え出すほどに寒い。

 すでにこの辺り一帯は氷点下。だが、キロンは平然とコルセスカを見下ろしている。今まで、彼女をこうまで一方的に追い込んだのは巨獣カッサリオだけだった。悔しさを滲ませながら、コルセスカが言葉を繋げる。

「ミエスリヴァは大神院が北辺帝国を教化した際、人気のある神格を零落させて聖人に仕立て上げたものだと聞いています。その原型は、確か芸術で栄えたかの地における美の神にして主神。つまり貴方は」

「一つの神話体系における、主神に等しい力を振るえる、ということだ」

 おいおい本気か。
 スケールの拡大が速過ぎるしインフレに歯止めがかからなさ過ぎだろう。コルセスカはまだいいかもしれないが、俺にはそんな急激なパワーアップは無理だ。ついていけなくて死ぬ、もしくはかませ犬になる。そんなのはごめんなので、どうにかして現状を打開しなくてはならない。先程の攻撃で身体はもう動きそうに無い。つまり、やることは一つだ。

 【サイバーカラテ道場】と【Doppler】を終了させて、【残心プリセット】及び【盤外の夜】を起動。

 【残心プリセット】に義肢部分のみの力で肉体を動かす命令を書き込み、【盤外の夜】が物理演算エンジンを駆使して細部を微調整していく。エンターテイメント用のシミュレーターとはいえ、その速度と精度はかなりのものだ。拡張視界の内部に右腕のモデルが表示され、予想される動作を先んじて行う。

 多少不安があってもやるしかない。現実の光景を確認しながら、リアルタイムで【残心プリセット】への命令を送り続けることで筋力ではなく脳波によって右腕を操作するのだ。

 片腕立て伏せの要領で身体を起こし、気力で脚を動かして立ち上がる。
 不意の動きに反応して、コルセスカとキロンの視線がこちらを向く。凍り付いて行く肉体。丁度良い、足が固定されて安定する。次なる命令に従って右腕がキロンの長い髪に伸びる。

 初動は喉元狙いというフェイクを一度入れて、本命は髪を掴んでの拘束である。何もしないよりはマシだ、その隙にコルセスカが少しでも打開策を思いつければ――。

「そんな状態で、まだ戦うのか、君は」

 予定変更。次なる狙いは眼球。ジグザグの無茶な挙動を、右腕は正確に実行してくれる。鋭い貫手が、無防備なキロンの右目に突き刺さる。確かな手応え。攻撃の成果が確かめられたことで戦意が高揚する。腕を引き戻し、更なる追撃をしようとして、その手が止まる。

「哀れだな」

 馬鹿な。
 右目に、傷一つ付いていない?

 何らかの治癒呪術を発動させたのか。治る瞬間すら認識できないほど素早く、右目の喪失という重傷をこうもあっさりと復元した? 確かに、コルセスカも一瞬で死んだり生き返ったりしていたが。

 超高速で移動し、邪視を無効化し、負傷はすぐに回復する――こんな相手に、どうやって勝てばいい?

「時よ――」

 そしてついに、コルセスカ最大の切り札が発動する。時間が細やかに流れていくような、異様な感覚。

 氷球が三叉の槍に変化し、白銀の光そのものとなったコルセスカがキロンの背後に回り込んで刺突を浴びせる。

 羽ばたきによる気流操作を全て回避してからの必殺の一撃だった。破壊力を伴った閃光が翅と翅の間、背骨と心臓を正確に貫く位置へと吸い込まれていく。

 そして、当然のように止められる。

「初めてか?」

「な――」

「停滞した時間の中で、自分と同じ速度で動ける相手と戦うのは初めてかと訊いている」

 二本の指が、三叉槍の中央の刃を挟んで動きを止めていた。

 次の瞬間、キロンの姿が消失、コルセスカを背後から、真横から、頭上から、そして正面から打撃していく。俺の目にはその全てがほとんど同時に見えていた。動きの繋がりは全くといっていいほど見えない。ただ結果だけがそこに残っているだけだ。

「俺が今までに戦ってきた転生者達の中には、そのように極めて強力な能力を有しているものもいた」

 事も無げに言うキロンが光となってコルセスカの背後をとり、同じように人知を超えた速度で移動するコルセスカも光の軌跡を残して相手とぶつかり合う。光と光がぶつかり合い、衝撃波と轟音が遅れて空間に伝播していく。

 数秒後、凄まじい振動と共に大地に巨大なクレーターが出現する。その中央で倒れているのは、砕け散った三叉の槍を手にしたコルセスカだった。

 その絶望的な光景を眺めながら、俺は思い出す。トリシューラが何度も言っていた、キロンが俺の天敵であり、絶対に戦ってはならないというその理由を。

(キロンは数多くの異名を持っているけれど、中でも最もアキラくんにとって忌み名となるのが【転生者殺し】。その名の通り、彼は外世界から転移、あるいは転生してきた存在の殺害で名を上げた聖騎士なの)

 俺が転生する一年ほど前から増え出した転生者たち。その多くは探索者か、さもなくば過度に発達した巨大複合企業体同士のシェア争いを解決する為の非合法な工作員、通称【請負人】のどちらかになることが多いという。

 俺などは典型的な後者であり、この半年間はほとんど【公社】やその他の組織の飼い犬となって食いつないできた。請負人同士の暗闘はこの第五階層の日常であり、何らかの理由で探索者から落伍した者達も同様に請負人に身を落としていることがよくある。

 そうした転生者の請負人はほぼ例外なく強大な能力を有し、場合によっては組織に害を為す事もある。故に、用済みになった転生者を【始末】するための人材が必要となる。

 そこで巨大複合企業体間の勢力争いから独立した宗教組織【松明の騎士団】に白羽の矢が立った。これによって【騎士団】は巨大複合企業体から多額の謝礼を得られる上、大きな強みを持てる。

 無論強大な力を有する転生者と戦えば勝利はおろか生き残る事すら極めて難しい。幾度も失敗を重ね、【騎士団】が転生者たちから手を引こうとしたタイミングで、その男は現れた。

 その戦績、十戦十勝。
 全て、ここ一年ほどのことだという。

(外世界からの転生者が稀少なのは、ほとんどが彼によって殺害されてしまうから。だからアキラくんを守るためには、彼の殺害が必要だった。なのに、確かに殺したはずだったのにっ)

 思い出してみれば、「確かに奴は死んだはず」というのはどう考えても生きているパターンだ。キロンには、そういうパターンが符合するとその通りになる能力があるのかもしれなかった。

 浮遊するキロンが、ゆっくりと地上へと降下しながら滔々と語る。

「重力制御や空間制御、磁力制御の異能者たちはかなり厄介だったよ。光の速度で動ける者や一度見た呪術を再現できる者との戦いは流石に死を覚悟した。他には約束の遵守を強制する力やあらゆる攻撃から身を守る力、万物を断ち切る魔剣、高い知性と戦闘能力を兼ね備えた使い魔。変わった所では、世界を特殊な視界で捉え、あらゆる生命の詳細な情報を把握し、自らを自在に成長させるという能力の持ち主もいた。いずれも、俺一人の力では到底敵うはずの無い強敵達だった」

 定番の転生後付与スキルがずらりと並ぶ。

 契約時にオプションとして設定できるのだが、これは非常に高額である。定番と言われるステータス画面の閲覧とスキル振り能力ですら一流大を出た正社員の初年度年収を丸ごと吹き飛ばすくらいだ。

 しかし、この世界ではいくら強力な【主人公補正】を持っていても、それを完璧に使いこなすだけの【メタ主人公補正】を持ち合わせていなければ、結局のところそれはただの宝の持ち腐れに過ぎない。そして恐らく、キロンにはそれがある。

「そういえば、転生者たちから得た知識によれば、君達のような人物を【ブシドー】と呼ぶらしいな。【カイシャク】という慈悲の作法があると聞くが、本当かな? 興味がある」

 余裕を崩さないキロンの、力の底が知れない。
 最初に相対した時とは明らかに力の質が違っていた。というよりも、窮地に追い込まれれば追い込まれるほどその底知れ無さが膨れあがっていく異様さに、もっと早く気付いていれば良かったのだ。

 強大な転生者たちとの戦いで悉く劣勢に追い込まれながらも、最終的には勝利してきた男。彼は仲間を倒された怒りによって強くなっていった。
 つまり、キロンは文脈、あるいは展開によって強化されていくという特質を有している。

 物語の流れによる補正効果。
 運命そのものを味方につけた男。
 神の力を振るう聖騎士。
 あらゆる困難を乗り越える、不滅の勝利者。
 【転生者殺し】、その名はキロン。

「俺の戦歴に、万象を停止させる転生者と機械の腕を持つ転生者というのを付け加えておこう。君たちも手強い相手だったよ、【冬の魔女】コルセスカ、そして【鎧の腕】シナモリアキラ」

 一瞬、我が耳を疑う。
 今、キロンは何と言った? 言い間違いだろうか。
 いいや、確かにさっき、コルセスカを転生者に含めていた。

 何だそれは、初耳だ。彼女が、転生者だって?
 倒れ伏すコルセスカを呆然と見る。目があった。揺らぐ左の瞳。浮かんでいる感情は不明。きっとキロンが言っているのは真実だ。それでも、コルセスカが悪意をもって隠し事をしていたのではないと思える。ただ言う機会が無かっただけだと信じたかった。

 信じたかった。そうだ、ようやく気付いた。
 俺は、彼女を。彼女も。

「っ!」

 声なき声を上げて、一歩を踏み出す。膝が力を失って、前のめりに倒れ伏す。それでも諦めない。【残心プリセット】の指示で右腕が強制駆動。地を這ってでも前へ進む。

 コルセスカを助ける。キロンを倒す。やるべきことはあまりにもシンプルだ。だというのに、身体の進みはこんなにも遅い。

 コルセスカは、俺に言葉を――この世界で生きていくための形のない腕をくれた。足りないものを掴み取り、人と人とを繋ぐことができるようにと――確かな足場を築く為のツールを。

 他者と関係性が築けず、暴力に依存するしか無かった俺を、前世の遺産に縋るしか無かった俺を、新しい世界で生きられるようにしてくれた。
 それはきっと、欠けた腕を補うのと同じくらいに大切なことだった。ならばせめて、この片腕が動く限りは彼女の為に戦いたい。

 俺の中で、二つの価値は等号で結ばれているからだ。感情制御によって自在に調整可能な精神も、機械義肢でいくらでも補綴可能な肉体も、等しく交換可能なものなのだ。それが【価値】であるならば、労働を、仕事を、行動をすることで幾らだってあがなえる。

 だから動け、俺の右腕。
 動いて、僅かでも価値を創出しろ。

「うご、け」

「エネルギー切れか。あっけない幕切れだな」

 どこか落胆するような、上からの呟き声。
 それは、至極当然の展開だった。最後に充電をしたのは約一週間前になるだろうか。ここ数日、激しい戦闘の連続で消耗が激しかったこと、半年間一切メンテナンスを行えなかった事も無関係ではないように思う。

 この窮地で、遂にその限界が訪れたのだ。
 うつぶせに倒れた俺のすぐ傍に降り立ったキロンが、どこか気遣わしげに膝を着いてこちらを覗き込む。

「何が君をそうまでさせるのか。いや、それが君の転生者ゼノグラシアとしての特質か」

 まだ、口は動く。這いつくばったままでも、できることはある。
 汚れ仕事専門の請負人、実際の所はただの無職。足場も前歴も一切無しの、塵みたいな人生を送ってきた俺でも、できることがたったひとつだけある。

 うつぶせの頭部を一度地面に押しつけ、全力で真横に転がり、仰向けになる。

 口に含んだ小石と砂粒を、真上から覗き込んでいたキロンの顔に勢いよく吹きかける。巨獣カッサリオが見せた技には到底及ばない。嫌がらせ程度の意味しかない、取るに足らない攻撃。それでもこれが今の俺にできるただ一つのこと。

 石ころに等しい、これが俺の価値だ。

「がっ」

 ところが、その時奇妙な現象が起きた。顔に小石を吹きかけられたキロンが、そのまま右目を押さえて苦痛に呻いたのである。立ち上がり、目を擦ろうとして思い留まり、顔を歪めたまま数歩後退していく。

 傷が、治っていない?
 何だ、今のは。さっき俺は、何をしたんだ? 俺は今、キロンを倒すための何かを掴みかけた?

 分からない。必死に記憶を探るが、何か鍵となるような行動をしたような覚えは無い。小石が弱点? そんな馬鹿な。一体何が。
 キロンは苦痛に喘ぎながらも、片側だけになった視線を俺に向けたままだ。

「その最後まで諦めないという姿勢は実に見事だ。敵ではあるが、君の闘志に敬意を表しよう、アキラ」

 この状況でも、キロンは余裕を崩そうとしない。
 ――いや。もしかすると、崩せないのか?
 動揺したり醜態を晒したりすると、勝てるパターンから外れてしまうから?

「君には一方的なものだが恩義がある。できれば命を奪いたくは無かった。しかし、君の転生者としての特質が、そして強すぎる意志の力が君自身を苦しめているというのなら、俺は慈悲の一撃を与えよう」

 キロンの手の平に生まれる、燐光の渦。無数の粒子が螺旋を描き、赤と緑、そして灰色が混ざり合って一つの物質を形成する。それは赤と緑、二色の炎に包まれた歪な形の骨に見えた。

「来たれ【災厄の槍】よ」

 遠くで、絶叫が聞こえた。
 無理を言うなよ、コルセスカ。この状況で逃げるのは、流石に無理だ。

「【カイシャク】だ。シナモリ・アキラ」

 それが切腹の後にする作法だと指摘する暇も無く、燃える骨の槍が俺の頭部を目掛けて解き放たれた。
 死が迫った次の瞬間に俺が思ったことはこうだ。

 何の意味も無い奇跡が起きた。

 右腕が独りでに動き、投げ放たれた呪術を防御したのだ。おそらく奇跡などではなく、【残心プリセット】による遅延動作が予定よりさらに遅れて行われたのだろう。まだ動力が残っていたのは意外だが、誤差の範囲だ。こんなことは良くあることに過ぎない。

 そして結果から言えば、その防御は一瞬だけ死の瞬間を遅らせることしかできなかった。何故なら、強大な呪術の威力に右腕は耐えきれなかったからだ。

 俺の右腕は融解し、破砕され、防御は貫通されて燃える骨槍はそのまま俺の頭部に迫り。

 【その勢いのまま、頭蓋を砕き、脳漿を撒き散らし、さらには広がった炎がその全身を焼き尽くしていった。断絶。意識が消滅していく瞬間を、引き延ばされた死の瞬間の中でなによりも濃密に感じる。ああ、俺はこの瞬間を、前にも体験したことが】

 意識が固定されたまま真横にスライドしていくような、強烈な違和感。
 【現在】をそのまま保存して、認識だけが過去に遡る。観念的な意味での後ろに引き戻される衝撃と同時に、俺は過去に引き戻され、同時に【現在】が弾き飛ばされる。

 キロンの動き、色彩、無数の音。世界の全てが停止し、感覚が隔離されていく。時間の流れが細やかに分かたれて、その支流の一つに吸い込まれる。

「凍れッ! 凍れ、凍れ凍れ凍れ凍れ凍れ凍れっ! お願いだから間に合ってっ!」

 誰かの叫びが聞こえる。
 巨大な瞳が特徴的な、白銀の少女だ。レンズの右目を血のような深紅に輝かせて、硬い右腕で俺を抱え、左腕は長手袋を外し、これまで一度も露わにしようとしなかったその内側を人目に曝している。

 異様な腕だった。紫紺の文字が記された包帯がひとりでに解けていき、明らかになったその肘から先は、驚くほど精緻な氷細工。
 淡く煌めく、氷細工の義手。

 それが、少女が頑なに守り隠していた最後の神秘。時間軸すら改変する、邪視の向こう側。
 手の平から溢れ出すクリアな輝きが、俺の肉体を焼き尽くすために時空を超えて追いかけてきた炎を迎撃する。

 だが炎は双頭の蛇に変ずると、熱量が転じた赤い頭部が光とぶつかり合い、呪力が転じた緑の頭部が俺の精神を蹂躙すべくその体内に潜り込んでいく。

 形のない蛇は義肢が砕け散った後の、右腕の断端から体内に侵入し、俺の脳へと到達すると主たるキロンの命令を忠実に実行した。
 すなわち、俺を転生者たらしめるものを破壊する。

 【サイバネ義肢の制御OS】を。
 【サイバーカラテ道場】を。
 【弾道予報Ver2.0】を。
 【ノーペイン】を。
 【Doppler】を。
 【夢枕Guard】を。
 【残心プリセット】を。
 【盤外の夜】を。
 【七色表情筋トレーニング】を。
 そして【Emotional-Emulator】を。

 その他数多くのアプリケーションが消えていき、脳侵襲コンピュータまでもが機能を停止して、夥しい数の情報から遮断される。
 この世界に来てから半年間で記録した情報が喰われていく。

 アズーリアたちと出会ってから必死で覚えた単語。音声と画像記録に関連付けて管理した単語表。短い時間ながらもカインに教わり、必死に記録した基礎的な言葉。カインの最後の言葉。その直後にかけてくれた、アズーリアの救いの言葉。一番大切な記憶が虫喰いになっていく。

 そして、俺を転生者たらしめているのは前世の記憶だ。

 だから燃える。出生管理センターが炎上し、幼児期の保育担当官の顔が黒い染みになり、養育試験に合格して心底からの笑顔を向けてくる俺の遺伝子提供者――父と母が消えて無くなる。学生時代が消滅した。成長に合わせて換えていった歴代の義手が砕かれていく。非常時に備えて擬似的なマニュアル制御を学んだ経験も忘れていく。時間を忘れて読みふけった本が全て焚書された。ゲームや映画といった趣味、打ち込んでいたサイバーカラテの胴着もまとめて喰い尽くされる。電脳フォールアウト、猥雑な街並み、隔離された子供達、積層都市新宿、拡張空間の亡霊が集う中央線、原始仏教系が一番肌にあった思想ドラッグ、常備していた昆虫粉末の携行食、信仰メーカーの営業だったという【あの人】、全て、なにもかも、消えて無くなる。

 零れていく。砕けていく。失っていく。
 情報。記憶。そして意思。
 関連づけされた知識を結んでいた紐が断ち切られ、バラバラになり、再配列もできないほどミックスされてもう元には戻せなくなっていく。

「駄目、こんなのは駄目です!」

 思い詰めたような左目が、獰猛な色をした右目と対照的で、なんだか少し可笑しくなる。

 青と赤。普通の目と巨大な目。アシンメトリーなその表情は、どこかアンバランスに美しく、同時に醜くもあった。矛盾したその在り方が、とてもそれらしい気がして、記憶も無いのに安心してしまう。

「私の目の届く場所で、私の手が届く場所で、何もかもが失われていくなんて事は絶対に嫌。どうか消えないで、そのままの姿で留まって。それが叶わないのならせめて残る全てを――」

 深紅の瞳が、爛々と輝いている。荒く吐き出した吐息。開いた口から覗く、長く伸びた鋭い犬歯。
 左腕の氷細工が、赤い光を帯び始める。

「――私のものにして奪ってしまえばいい」

 そして気付く。
 階層を超えて敵地へと乗り込む探索者達の最大の目的は、探索によって価値あるものを得ること。探索者である彼女の本質は【停止】では無く【略奪】なのだ。

 長さを増していくのはその為の牙。
 一息に、首筋にかぶりつかれる。体内に硬く冷たいものを突き入れられる感覚。深く穿孔していく牙の先端から自分の中の熱がぞっとするほどの勢いで吸い上げられていく。

 吸われているのは俺自身だった。
 先程から蛇が喰らおうとしていた記憶情報、その断片を片端から横取りして、更には蛇そのものすらもまとめて取り込もうとする、貪欲な食欲。

 魂ごと奪い尽くす、強烈な【生命吸収】。
 蛇が奪い、破壊するはずだった記憶、記録、ありとあらゆる情報の断片が氷の欠片に閉じ込められて残らず冷たい血の中に溶けていく。

 それは魔女の宿業だった。
 血も凍るようなおぞましき怪物。
 氷血の魔女。

 命と熱と情報を。ありとあらゆる流れから欲しいものだけを啜る吸血鬼。
 首筋は奪い尽くされた熱のお陰で凍傷を負っており、肩から胸にかけての上半身はびっしりと霜に覆われてしまっている。熱を奪うことで停止と同じ凍結の効果を発生させる彼女は、やはり以前と同じ氷の魔女なのだと気付かされる。

 ――ん、あれ?

「あ――ふぁ」

 どこか艶っぽい声に耳をくすぐられて、混濁していた意識がはっきりとする。
 記憶が、ある?

 正確に言えば、あちこち虫喰いになって大部分が消えているようなのだが、この世界に来てからの半年間、とりわけ大事な半年前の記憶と、コルセスカと出会ってから共に過ごした数日間の記憶は鮮明なままだったのだ。

 というよりこれは、俺の記憶ではなく。

「これは、コルセスカの記憶なのか?」

 吸われていくのと同時に、流し込まれていた。

 彼女の氷の左腕の内側で、赤い血液がぶくぶくと泡を立てている。吸い出された俺の血は呪術儀式の供物として高熱で沸騰し、彼女の腕の中で別の宇宙に消えていっているのだ。俺の中に流れ込む魔女の知識が、それを教えてくれた。

 ゆっくりと牙が引き抜かれていく。血は流れ出す事無く凍結し、傷口を塞ぐ。

 全身を芯から冷やす寒気はコルセスカが記憶と体液を流し込んでくれたお陰で多少ましになったが、それでもまだ身体は冷えたままだ。しかし両腕を失った今の俺には自らの身を抱くことすらできない。

 かたかたと震えていると、コルセスカが気を利かせて身体を少し離してくれる。彼女の身体から放たれていた冷気が遠ざかり、少しだけ寒さが和らぐ。普通の人間とは異なり、肌を寄せ合えばより寒く感じてしまう、コルセスカという少女の寂しい宿命。

 ふと思う。人でないトリシューラは、そんな彼女の傍にいる相手として実はとてもふさわしいのではないか、ということを。
 そんな考えが伝わったわけではないだろうが、コルセスカはどこか複雑そうに妹の名を口にした。

「トリシューラの酔狂に救われました。貴方の取り込んだカッサリオの血肉が、零に近かった貴方の呪術抵抗をかなり上昇させていたようです。――いえ、というかこれは意図しての貴方の強化なのでしょうね。食事療法の呪術とは、呪術医らしいことです」

「呪術抵抗?」

「ええ。特に、ここ数日の私やトリシューラとの記憶はほぼ無事です。ただ残念ながら、貴方の前世の記憶はほとんどが読み取り可能な状態で保存できませんでした。後で修復できないかどうか試してみるつもりですが」

「いや、いいよ、ありがとう」

「一応、知識や手続き記憶などはある程度そのまま引き出せると思います。価値観なども、現在と継続したイメージがあるので、そうそう連続性を失ったり離人症になったりはしない、はずです」

「そっか」

「それで、その。私の能力特性のお陰か、血中の微細な機械群はどうにか保護できました。ですが、右腕とその内側の筋骨――つまり右上半身ほぼすべてと脳に埋め込まれた小型機械などですが、大半が物理的に破損しており、私ではどうにも――トリシューラなら、あるいは」

「ごめん。余計な期待、したくない」

「あ――貴方から、何か訊きたいことは無いんですか」

 そう言われても。
 そういえば、さっきから暢気に話しているけれどここは安全なのだろうか。

 周囲は透明な氷に覆われた空間で、外界は色のない第五階層。俺とコルセスカ以外の全てが完全に動きを止めている。今度の時間停止はキロンが対応してくるということも無いらしい。

「今って、どういう状況なんだ?」

「貴方が【殺された瞬間】を凍結させました」

「それって、助かった、のか?」

「死を先送りにしただけです。このままだと貴方は溶け出した死の瞬間に追いつかれてしまいます。生き延びる方法はただ一つ、死因であるキロンを倒して因果を改竄すること」

「それはわかりやすい」

 理屈は滅茶苦茶な気がするが、コルセスカの言うことはいつもそんな感じなのでそろそろ気にならなくなってきた。助かる方法も、不可能だという点に目を瞑れば単純明快だった。

「もう少しでも氷血呪の完全解放が遅れていたら、あとわずかでも【災厄の槍】が届くのが早かったら、きっと間に合いませんでした。本当に紙一重のタイミングだったんです」

 あの死の瞬間をわずかに引き延ばすだけの奇跡にも、意味はあったということだろうか。ならばあれは、長いこと共に過ごしてきたあの右腕が最後に残してくれた俺への餞別だったのかもしれない。

 ――などと、感傷じみたことを考えてしまうこと事態が、既に俺の異常を端的に示していた。
 いや、この世界では、これが【普通】なのか。

「コルセスカのおかげで助かったよ、ありがとう」

「あなたはっ、何で」

 震える声で、コルセスカが憤りを露わにする。細い眉が寄って、その下の左目が悲しみを湛えて揺らぐ。

「一番大事な物を失って、それなのにどうして強がったりできるんですか。私のことなんかより、貴方の事ですよ、だって貴方は」

「大事な物って、腕のこと? 確かに両方無いと不便だな。これからどうやって生活しよう」

「そんなの私が何とかします! そうじゃなくて、貴方にとって一番致命的なのは」

 言い淀む、それを告げれば、俺が本当に壊れて、損なわれてしまうのではないかと恐れているように。無意味な怖れだ。だって俺は、もう手遅れだから。

 【E-E】は、俺を俺の状態のまま保持し続ける為の【意思】であり【鎧】でもあった。脆い精神を保護し、外圧を受け止め、どんな困難な状況でも心が折れるという最悪の事態だけは回避し続けた、俺にとっては右の義肢よりも更に頼りにしていた、いわば精神の装具。

 それが失われた今、たとえ俺に義肢が戻っても――トリシューラに義肢を作ってもらったとしても、もう戦う事はできないだろう。
 それどころか、俺にとっては既に第五階層で生活していくことすら恐怖でしか無かった。

 あんな危険に満ちた無法地帯、今までどうして平然と生きてこれたのかが不思議なくらいだ――勿論それは全て【E-E】のおかげだった。感情制御ができないことが、ただそれだけで怖い。

 生きていくことそれ自体が恐ろしくて仕方無い。
 だからといって何かをすることもできない俺は、ただ震えるばかりだった。

 コルセスカは左手を俺に伸ばそうとして、それが剥き出しの氷細工であることに気付いて慌てて引き戻す。

 優しさすらもどかしくて、せめてとばかりに精一杯身体を引き離そうとする。右腕で身体を支えている相手にそんなことをしてもほとんど意味は無いのに、そんな事を続けている彼女が少しおかしかった。

 そんなふうに気持ちが浮き上がる時間も、すぐに通り過ぎて過去になる。
 今の俺は慣性に従って辛うじて進んでいるだけだ。摩擦抵抗の少ない氷の上だから、その時間が少々長引いているというだけで、本来なら既に停止しているはずのもの。その生命活動はとっくに終わっているのだ。

 今まで制御し、押さえ込み続けてきた、無数の感情。孔の空いた堤防のように、一気に決壊するのは時間の問題だろう。

「あとどのくらい、この場所にいられるんだろう」

「――アキラ、貴方が落ち着くまでいていいんですよ」

「コルセスカ。まさかこの呪術、何の代償も無しに使っているわけじゃないんだろう? 流石にそれくらいはわかる。コルセスカだけじゃなく俺まで超高速で加速させるなんて、どうやってるのかわからないけど」

 すると彼女は首を横に振って、そうではないと俺の考え違いを訂正する。

「いえ、今は主観時間を加速させているのではなく、時間そのものを奪ってこの宇宙全体を停止させているのです。おそらく貴方のいた世界とはかなりの時差が発生していることでしょうね」

 ぞくりとする。この奇跡のような呪術の代償は、俺が想像しているよりも遙かに巨大なものになるのではないか? 不安感が心の奥底に堆積していくようだった。

「今の私達は隔離された時間軸の中にいます。どのタイミングであの宇宙に帰還するかはある程度選べますが、どうしましょう? 私としては、少し先の未来まで見ながら適切な時間を選ぶのがいいと思うのですが」

「何をどうするのかさっぱりイメージが湧かないから、コルセスカに任せる」

 コルセスカは頷くと、俺を抱えたままその周囲の透明な氷の球体を浮遊させる。ふわふわと移動していく氷の外側に色彩が戻っていき、現実の世界に正常な時間が流れ始める。

 薄膜の外側に見える第五階層は、俺が灰となった直後から再び動き出す。コルセスカの姿は無い。あの世界から彼女が消失したことがどのように影響しているのかは不明だが、周囲を見回すキロンはしばらくして諦めたように首を振った。

「逃げられたか――まあいい。そもそも、冬の魔女と事を構える意味など無い」

 キロンの目的はトリシューラと俺だ。【キュトスの魔女】を忌み嫌っているようだったから、コルセスカに対しても良い感情はもっていないのだと予想できるが、だからといって積極的に仕留めにいくような対象ではないということらしい。

「アキラ、貴方、彼の言葉が」

「え?」

「――そう。本当に、貴方はこの世界の人間になってしまったのですね」

 コルセスカの言葉には、驚愕と憐憫、そしてかすかな安堵が込められていた。
 遅れてその決定的な変化に気付いて、愕然とする。
 この世界の言語を、理解できている?

 それは、先程コルセスカから記憶と情報が流れ込んできた事と無関係ではないだろう。だが主な理由はそうではなく。
 俺から前世の記憶の多くが失われたから。

 【転生者】としての特質、固有性が消えて、この世界で生まれた人間になってしまったから、この世界の言葉が理解できるようになったということだった。

 おそらく、今ならば文字も読めるようになっているのだろう。
 望んでいたことのはずなのに、いざそうなってみると、ぞっとするほどの喪失感と、不安感しかない。

 足場が定まったはずなのに、そこが何も無い荒野だったかのような。
 あるいは、足場が定まらないという今までの状態こそが、俺にとっての足場だったのかもしれない。

 この世界の人々と同じ条件に立たされてみれば、そこには当たり前の不安しかないのだという事実が俺を打ちのめしていた。

 巨大な蝶の翅をはためかせながら、キロンはふらふらと浮遊していく。戦いの巻き添えを恐れたためだろう、周囲、目視できる距離には生きているものの姿は無い。キロンは傷付いた片目を押さえながら、もう片方の目からはらはらと涙を流す。

「また勝ったよ、みんな。俺は君たちの犠牲を無駄にはしなかった」

 俺達と相対していた時の威圧感は、既に無い。そこには、大切な者を失った男の悲嘆が投げ出されているだけ。

 目を見張る。光がキロンの周囲に集いつつあった。
 か細く頼りない、しかし確かに意思を持ってキロンの傍へ近付こうとする光。

「お兄様」

 砕け、傷付き、ぼろぼろになった、それは武器だった。

 亀裂だらけの黒い槍が、半ばから折れた白い弓が、変色した傷だらけの盾が、錆び付いた蹄鉄が、文字が薄れた石版が、それぞれ淡い光を纏ってキロンの周囲で囁いている。

 その上に、ラグが走る。
 表示されたのは、無垢で純粋な、美貌の少年たち。

 彼らは人間ではない。そして生者ですら無い。武具に重ねられた立体映像だ。声は再生したものを切り貼りしただけ。知性や人格は無く、全てはキロンが操る人形だった。

 恐らく、呪具としての力とキロンの神働術によって戦闘時にだけ無理矢理実体を与えていたのだろう。それも俺に接触する一部分だけ、極めて精密な制御を行って。余りにも強大な力を有する呪具。その中に宿る力を利用し、それが意思のある武器であり、同時に自らの部下達であるという幻想を生み出したのだ。

 それだけ念を入れてまで、少年達が存在しているという嘘を突き通そうとしていた事実は、一体何を意味するのか。

「お兄様」「ああお兄様、泣かないで」「僕たちはここにいますから」「たとえ死んでも」「お兄様の傍に」

「許してくれ、ああお願いだ。君たちを殺した罪深い俺を、どうか」

 何か強迫的な意思に突き動かされるようにして、キロンは呟く。その瞳は少年達を見ているようで、実際はここではない何処かを、あるいは何時かを見ていた。

 『君たちを殺した』とキロンは言った。それは、先程の戦いで俺達から少年達を守れなかった事を言っているのだろうか。
 多分違う。勘だが、間違っている気はしない。

 虚ろな瞳と声でぶつぶつと呟き続けるキロンの、あの救いようの無さに、強烈な既視感を覚える。

 俺は、全く同じような存在を知っている。最初から少年達は生きてなどいなかった。彼は自らの武器に殺された仲間達の姿を重ね、かつて幸福だった時代を回顧ループし続ける。仲間達の死の原因となった魔将の力を使って勝利し、生きながらえる。

 判断材料なんてほとんど無い。妄想に近い推測だった。かつての俺ならこんな想像、思いついても信じようなどと思いもしなかったはずだ。
 けれど、わかる。

 あれは、アズーリアと出会えなかった俺だ。
 救われなかった、愚か者の末路なのだ。
 似たような感想を抱いたのか、コルセスカが同情のまなざしと共に口を開く。

「魔将級の異獣から魅了の呪術を受ければ、並の人間はまず抵抗できません。それが解呪のできないものであったとすれば、敵の手に落ちた仲間を手に掛けることは、やむを得ない判断として認められています」

 彼女が続けて行った説明によれば。
 そうした殺人は慈悲であり、仲間へのせめてもの手向けであるとされる。そのように社会的な意味付けをしなければ、ほとんどの者が仲間殺しの罪悪感に耐えきれないからだ。

 慈悲の殺人。
 これを行った者の少なくない割合が、その大小の差はあれど精神を病むという。
 男は狂っていた。
 罪の火でその身を焦がし、今もなお甘い激痛の中に身を委ねる。

「そうだ、俺は、彼らの死に報いねば。勝利を。人類の勝利、【松明の騎士団】の勝利。全ての異端の駆逐。まずはこの階層から異獣を残らず根絶やしにして、その後じっくりと【きぐるみの魔女】を始末するとしよう」

「その必要は無いよ。貴方はここで殺すから」

 静かな、そして極めて強烈な殺意。細い何かが右側から高速で飛来し、キロンの肩に突き刺さる。死角からの攻撃にわずかに呻いて、彼は素早く突き刺さった凶器を抜き取った。

 針。極めて小さく細い、殺傷能力などありそうもない、ただの針だ。
 しかし、どういうことなのか。針が刺さった箇所からは赤い血が滲み出し、即座に治癒されるということがなかった。確かに治すまでもない軽傷だが、もしかすると重傷しか癒せないという制限があるのか。それにしては右目への攻撃が通用したというのが奇妙だ。通用した攻撃は、小石と針。共通点は、サイズ?

「やっぱりね。そのレベルだと反転できないんだ」

「――恐ろしいな、呪術医の針とは。魔女謹製の毒薬でも塗ってあるのかな」

「毒なんて塗ってないよ。どうせ無意味、ううん、無価値だろうし」

「――貴様」

 現れたのは、深紅の髪を靡かせて、細い指先に無数の針を握りしめた、すらりとした細身をシンプルなブラウスとロングスカートで飾る美貌の少女。翠玉の瞳に激怒を宿して、トリシューラがキロンの前に立ちはだかる。

 その戦闘力の象徴である強化外骨格は見当たらない。機能を停止した後、あのまま放置してきたのだろうか。というか、あそこから抜け出せたのか。

「よくも、私のものを壊してくれたな。私のアキラくんを殺したな」

 俺は今、コルセスカに助けられて一応無事に生き伸びてはいるのだが、トリシューラはそんなことは知る由もない。

「コルセスカ、俺はいいからトリシューラを助けに行ってやってくれ」

「ですが、ここから出ようとすると時空間凍結を解かなければならないので、貴方もあの場所に放り出されてしまいます」

 もどかしそうな答えに、思わず呻く。あのキロンを相手に無力な俺を守りながら戦うのは、流石にコルセスカといえども不可能なのだろう。それは、俺が足枷となってトリシューラを助けに行くことを妨げていることを意味する。

 自らの力の無さがもどかしい。それを言うなら、これまでだって大した事はできていなかったのだが、戦いに参加すらできないと言うのが悔しさに拍車をかけていた。

 閉鎖された空間の外側を、遠い世界の出来事を記録映像で視聴するようにしか関われない。あの場所で、トリシューラが一人で戦っているというのに。

「今度こそ息の根を止めてやる――血で贖えっ、転生者殺し!」

 手に握ったメスで、左手首を勢いよく切り裂くと、そこから赤い水滴がこぼれ落ちる。

 アンドロイド――機械の身体であるはずのトリシューラから染み出すのは、不可解なことに色鮮やかな血液だった。鮮血は中空で形状を変え、細く尖った無数の針に変貌する。トリシューラは左右の指の間にそれらの針を挟み込むと、左右で時間差をつけて投擲する。

「ちっ」

 驚いたことに、キロンはそれを回避していた。
 そこから分かることが二つある。あの攻撃は、キロンにとって回避する必要があるほど危険だということ。そしていかなる理由なのか、俺やコルセスカと戦った時のような超スピードが出せなくなっているということ。

 血の針が、ぎりぎりの距離で彫刻の頬を掠めていく。いくらトリシューラの投擲技術が優れているとはいえ、あの距離から投げられれば以前の奴のスピードなら容易に回避できたはずだ。

 今度は左手首から直接血の針を引き抜いて、トリシューラは二度、三度と投擲を行う。その度、彼女が端整な顔をわずかにしかめているのが気になる。

「やっぱりだ。同じタイプの呪術だから通用する。迂闊だったよ。まさか殺した筈の相手に、私の能力をコピーされるなんて」

「ふん。死亡を確認しなかったのが貴様の最大の失敗だ、魔女め」

「脳と心臓に銃弾ぶち込んで建物ごと爆破したのに死なない方がおかしいんだよ!」

 キロンが翅をはばたかせると強風が発生し、トリシューラの動きが一瞬止まる。その隙を突いてキロンが片手を前に出し、手の平に燐光が収束していくが、何故かすぐに雲散霧消してしまう。

「無駄だよ。随分と高精度のコピーだけど、それの扱いは私の方が秀でている」

「オリジナルには通用しない、か」

「【一度見た能力を再現する能力】で私の鮮血呪を摸倣するなんてね。まさか過去に倒した転生者の力を使えるなんて思わなかった。どうやってそんな力を得たの?」

 両者の会話は、何か俺の知らない前提に立った上でなされているようで、いまひとつ意味が掴めない。だが、その次にキロンが口にした事実が、俺の記憶の奥底に深い衝撃を与えた。

「俺はただ抵抗しただけだよ。最初に転生者を倒せたのはただの偶然だった――奴は死んだ後、魂だけになって俺の肉体を奪おうとした。本来ならば憑依され、そのまま消滅するところだった俺は、消える間際に死んでいった仲間達の声を聞いた。そして気がついた時、俺は転生者の魂を逆に取り込んでいた」

 憑依事故。
 現在では肉体を再構成するタイプの転生が主流で、最初期の憑依タイプ転生はほとんど廃れてしまっている。その背景には転生先対象への上書き失敗、中途半端な同化、逆に消滅させられてしまうなどの危険性の大きさや、人道的見地からの問題を指摘する声が上がったことなどの要因があるという。

 そんな断片的な知識が頭に浮かび上がってくるが、それ以上のことが思い出せない。深く考えると思考が不安定になりそうで、言いようのない恐怖を感じた。

「だがわかっているか、【きぐるみの魔女】。そちらの能力が使えないのなら、俺は別の能力を使えば良いだけだということに」

「く――」

「丁度、先程の戦闘で新しいスキルを習得する為のポイントが貯まった所だ――良いものを見せてやろう」

 キロンはそう言って、宙に指先を躍らせた。目に見えない何かを操作するような動き。それは丁度、自分だけに見える拡張現実のコンソールを操作するようだった。

「させるかっ」

 即座に投げ放たれた赤い針が、狙い違わずキロンの頭部、首、胸へと吸い込まれていく。

 しかしキロンは回避を選ぶことなく、その両手を高速で振るう。
 不敵な微笑みと共に、指先で摘んだものをトリシューラに見せつけてみせる。

「な――」

 真正面から全ての針を掴み取って見せたキロンは、そのままぱらぱらと地面に落としていく。

「なるほど、やはり【弾道予報】はかなり有用なスキルだな。――ではこちらはどうかな」

 看過できないことを口にしたキロンは、深く腰を落とすと、右腕を前にした構えをとる。

「まさか」

 知らず、呟きが零れる。

 大地を砕くような、強烈な踏み込み。滑るように、風を切り裂くように疾走したキロンはトリシューラの眼前まで一瞬で到達し、まず右の掌底を腹部に浴びせ、続けて同じく右の肘を叩き込む。たたらを踏んで後退る標的に、間を置かぬ追撃。腰の捻転から逆側の半身へとエネルギーを伝達させ、弧の軌道を描いて左の貫手が正確にトリシューラの左の眼球を狙う。引き戻した指先に、抉り出された眼球。一息に握りつぶし、更に右からの連撃。

 立て続けに繰り出される強烈な打撃は、全て正確にトリシューラの弱所を狙っている。それは人という形状をとっている存在が不可避的に抱える脆弱性を突いた戦い方である。すなわち関節、感覚器、人工筋肉が収縮するタイミングの予想と外部からの制御。機械化人体と戦う際の最適な戦術パターン。

 トリシューラの硬質な腕を外側から掴んで、肘を正確に打撃して逆側に折り曲げて破壊する。鮮血と共に機械部品と人工筋肉の繊維が溢れ出していく。キロンはもぎ取った腕をそのまま振るって凶器に変えた。飛び出した金属骨格が美しい顔の表面を削り、メタリックな内部構造が露わになる。微細な表情変化を可能とする流体金属が飛散し、細い眉が半ばで断たれ、高い鼻梁が抉れて無残な形を晒す。

 キロンは、アンドロイドを壊す方法に習熟していた。この世界では、トリシューラはとびきりのオーバーテクノロジーであるらしいにもかかわらず、だ。つまり、あれは。

「それは、アキラくんの」

「【発勁用意】――」

 【サイバーカラテ】だと――!

 キロンの奇声と共に、砲弾の如き掌底が打ち込まれ、トリシューラの細い身体が吹き飛ばされた。冗談のような距離を転がっていき、受け身もとれないまま、綺麗な衣服をぼろ布のようにして倒れ伏す。

 キロンは戦った相手の能力をコピーできるのだという。理屈はわからないが、奴が俺を殺した以上、俺が使っていたサイバーカラテやその他の各種アプリを使えるのは当然の事態と言えた。

 状況は極めて最悪だった。
 サイバーカラテは機械化人体、義肢の運用を前提とした戦闘術。そして、当然ながら同じ条件の相手と戦う事も想定されている。的確に相手の機械化部位を破壊し、アンドロイドを無力化するためのノウハウが凝縮されているといっていい。今のキロンが保有する【トリシューラを壊す手段】は十や二十ではきかないはずだ。サイバーカラテの使い手は、トリシューラにとっての最悪の天敵である。

 身体を震わせながら、かろうじて、といった様子で立ち上がるトリシューラ。破損した身体から機械仕掛けの内部構造が覗いているのがひどく痛々しい。

「厄介だね、それ。アキラくんの力まで」

「俺にとっては無価値なものばかりのようだがな。感情制御? 馬鹿馬鹿しい。たとえ負の感情であっても、俺の感情は俺だけのものだ。感情を自ら損なおうとするなど、正しい人間の振る舞いではない。間違った、そして弱い人間のやることだ」

 傲然と、そして劣った存在を憐れむかのように言い放つ。唇を噛む。以前の俺ならば、何らかの反論を即座に思いついていただろうか。今はただ、惨めさと劣等感しかない。

「その意見には、個人的にはそこそこ同意できなくもないけど、私はそれを他の人にまで強要するつもりは無いよ。――それ以上、アキラくんを侮辱するな」

 静かな怒りを込めて、目蓋を失った目がキロンを睨み付ける。
 虚ろな眼窩から、手首から、千切れた腕から、赤い鮮血が流れ落ちていき、大地に幾何学的な模様を描き出す。

 微かな振動が次第に増幅され、やがて大地を揺るがすほどになり、警戒したキロンがトリシューラに向けて疾走しようとしたその瞬間。

 キロンの真下から、巨大な鋼鉄が出現し、その身体を突き上げていった。
 緩い傾斜をつけて伸張していく鈍色の、それは巨大な船首である。

 巡槍艦ノアズアーク。トリシューラの拠点にして呪術医院、階層の狭間を潜行する超巨大な船。

 第五階層の大地を透過して出現した巨大構造体は、先端部だけを選択的にキロンと接触させ、階層の上空へと押し出していく。

「殺せないなら、せめて、階層の狭間に追放してやるっ」

「おのれ、情報量サイズが大きすぎる、処理し切れん!」

 逃れようと蝶の翅をはばたかせて一瞬船首から離れたキロンの胸を、鋭利な角が貫通する。トリシューラの全身から流れ出した、明らかにその体積を超えた量の鮮血が船体を伝い、船首に血の衝角が形成されていたのだ。

 浮上した巨大な質量が、呪的な推進力によって第五階層を飛翔する。串刺しにしたキロンごと、天蓋に向かって突き進むと、そのまま天井に激突。その先の第四階層との狭間に潜行すべく、空間を歪曲させ始める。

「ちっ、【スキルリセット】! ポイントを空間制御に振り直し――ええい、熟練度が足りん!」

 キロンの指先が輝き、周囲の空間を歪ませて階層内部に戻ろうと抵抗するが、巡槍艦の圧倒的な質量と速度、そしてトリシューラの注ぎ込む膨大な呪力には抗えず、そのまま押し流されていく。

 ついにその全身が天井の向こう側へと消え、続いて巡槍艦が空へと沈んでいく。
 静寂。

 精も根も尽き果たしたトリシューラが倒れるのと同時に、ようやく俺は戦いが終わりを迎えたのだと理解した。
 球状の氷に包まれた世界が砕け、内部の時間と外部の時間が一致する。そうして俺とコルセスカは、第五階層に帰還した。

「立てますか、トリシューラ」

「セスカ? ――あ」

 振り向いたトリシューラの目が、こちらを見た。コルセスカに抱えられ、両腕を失った、無力な俺を。
 息が詰まる。どんな表情をして良いのか、わからなかった。

「なんとか、命だけは助けられました。ただ、貴方が期待する転生者ゼノグラシアとしては、もう」

 痛ましそうに告げるコルセスカを見ることもせずに、トリシューラはただじっとこちらを見ていた。感情の無い瞳で、初めて見る生き物を観察するように。そうして、不思議そうに首を傾げて、彼女は言った。

「貴方は――誰?」

 

+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ