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幻想再帰のアリュージョニスト 作者:最近

第4章 傷つけるのはハートだけ、口づけるのは頬にだけ

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幕間『罪貨の略奪者』




「盗賊の仕事を始めよう。俺たちの仕事を始めよう」

 歌が闇を震わせる。
 そこは白い骸で形作られた迷宮の奥深く。
 見目麗しい霊媒たちが囚われた大空洞の中心で、みすぼらしいコートを着た男が芝居がかった仕草で呟くように声を響かせる。
 陰気な呟き。そのように聞こえる、朗々たる大音声。
 みすぼらしい格好、暗い表情、低く沈んだ声、一見して華やかな舞台には不似合いな全ての要素が男の性質キャラクターを際立たせていた。
 彼の役割は、盗賊。
 実のところ舞台こそがもっとも似合いの、時代遅れの遺物である。

「全ての財貨を盗賊が奪う。俺たち六人で奪い尽くす」

 大きく広げられた両手の先、朽ちることのない白骨が魚鱗のように整然と並ぶ。
 死によって彩られた壁は複雑に入り組み、さながら森のよう。
 その最奥の舞台で行われていたのは主役の交代劇。『死人の森』の王子クレイは戦いの果て、盗賊王ゼドの不意打ちによって地を這わされていた。痛々しい右腕の断端を片手で押さえ、クレイは憎悪を込めてゼドを睨み付ける。
 だが瞳の切れ味はなまくら同然。刃のようだった眼光からは魔的な鋭さが失われ、虚しい遠吠えだけが壁の灯火を震わせるのみだった。

「死ね、死ね、死んでしまえ」

 際限なく膨れあがるクレイの憎悪は、片腕を奪われたことだけに起因するものではなかった。ゼドが奪った宝物はもう一つある。

「返せ、貴様にそれを持つ資格は無いっ」

 亡き師ファウナより受け継いだ『黄金』のコーデ――至上の偶像のみが手にすることを許されたレガリア――を封じたカードは、今ゼドの手中に収められていた。
 あるいはクレイの激怒はそちらの方により多く向けられていたのかも知れなかったが、理性を失った彼には自らの内心を分析する余裕など無く、またゼドにも相手の心情を慮るような義理は無かった。

「お前の罵声は生娘の悲鳴に似ているな。無意味だが可愛げがある」

 ゼドはそう言ってクレイの顔を踏みつけた。端整な顔が歪む。
 ステージから引き摺り下ろされ土に塗れたその姿。
 控え目に言って悲惨と形容するしかない。彼にとって命にも等しい『王国の剣』たる右腕は奪われ、その呪力の大半は失われてしまっている。アストラル界を見通す霊視能力者であれば、『クレイ』という名すら薄れて消えかけているのがはっきりとわかっただろう。
 だがそれは殺戮や破壊による結果ではない。
 略奪によるものだ。

「そう睨むな、ダンジョンの宝よ。探索者とはこういうものだ。グレンデルヒもイアテムもそうだったろう? お前たち『森』は打倒されるために出現し、我々に報酬を与え続ける――今やシナモリアキラですらそうなのだ。六王という神話級の『装備品(マレブランケ)』を手に入れて自己を強化し続ける、まさしく理想的な遊戯盤だよ、『死人の森』は」

 宥めるような口調での語り掛けも、逆上の呼び水にしかならない。
 そしてゼドはそれをわかってあえて言葉を連ねている。

「殺す、殺す、殺してやる」

「なら俺たちは斬って潰す。お前という敵を倒し、お前という宝を奪う」

 向けられた憎しみすら心地良いと、陰気な男の顔が歪んだ。
 失敗作の蝋人形のように不自然な笑み。
 再生者たるクレイよりよほど不自然な生の形がそこにある。
 この男、本当に生きているのか。怒りと憎しみに染まったクレイの表情に一瞬だけ当惑が混じるほど、今のゼドは何かがおかしい。

「死人の殺意は格別だ。いいぞ、もっと鳴け。その『死ね』や『殺す』を聴きながらお前を征服するのは気持ちが良さそうだ――ああ、価値あるものを奪う瞬間とは、やはり何度味わってもたまらない」

 ゼドは法悦の溜息を漏らした。
 陰気な顔が仄明かりに照らされると、歓喜に染まった瞳が爛々と輝く。
 ゼドの欲望がクレイの身に突き立てられようとしたまさにその時、激しい縦揺れが白骨迷宮を揺るがした。立っていられないほどの振動に、さしものゼドもたたらを踏んでせわしなく辺りを見回した。

「――これは思わぬ闖入者だ」

 そう言って、ゼドは小さく呪文を唱える。途端、男の掌からしゅるしゅると青い糸が現れた。『それ』をよりにもよって盗賊王が操っているという事実に愕然とするクレイ。何か言おうとするクレイの口を手足ごと封じて、ゼドは端的に命じる。

「そこでおとなしくしていろ」

 広間の入り口付近に向かうゼド。クレイは歯噛みして見送ることしかできない。一方、闇の向こうからは話し声と足音が近付いて来ていた。

「おーい、リールエルバやーい。いたらお返事下さいなー」「くださいにあー」

「どうやら、ここも外れのようですね。『断章』の反応からこの辺りにいると思ったんですが、上に移動したのでしょうか――え?」

 それは恐らく、お互いにとって全く予期せぬ遭遇だった。
 眼鏡と明るい癖毛、巨大な肩掛け鞄の少女と、箒に腰掛けた三角帽子の少女。それからがさごそと帽子の中から顔を出す小さな猫耳の少女――ミルーニャ、リーナ、セリアック=ニアからなる『チョコレートリリー空組』が現れたのだ。
 ゼドと彼女たちに接点は無く、直接の利害関係も無い。ゆえに両者は戸惑いと共に顔を付き合わせ、どちらともなしに手を上げて挨拶の仕草をしようとした。
 ――少なくとも、遠目にはそう映った。

「馬鹿なっ」

 突如、ゼドが弾かれたように飛び退る。
 相対するミルーニャは片手で何かを握り、軽く手を捻るような仕草。
 握られた手の内から、千切れた長い髪の毛が零れ落ちた。
 海のように青い、粘つき融ける呪わしい糸が。

「初対面の相手にいきなり『これ』ですか。盗賊王ゼド、噂以上のならず者のようですね。予想とは別方向に」

「え、え、何々、先輩これどういうこと?」「にあー?」

 据わった目でゼドを睨み据えるミルーニャの背後、リーナの目の前でも一筋の髪の毛がひらひらと落ちていく。こちらは千切られたというより届かなかったというべきだろう。ゼドは暗い瞳で三人の少女を観察しながら言った。

「お前たち――何故、防げる?」

「そちらこそ。何故、使えるんですか?」

 両者の間に沈黙が横たわる。
 ミルーニャの視線がゼドの背後に向けられ、倒れ伏した隻腕のクレイ、ゼドの片手に握られた生身の片腕と移動していく。

「成り行きはだいたいわかりました。『死人の森』の覇権争いも大変ですね。察するに、あなたも私の『断章』目当てですね、盗賊王」

 以前、ミルーニャはクレイに『富の断章』を奪われそうになった。
 『死人の森の断章』を九つ全て揃えた者が冥府全ての支配者となる――六王たちが次々と脱落する中、戦いの主役は『星見の塔』の魔女たちに移ろうとしていたのだが、ここにきて新たな参加者が現れた。
 いや、厳密にはゼドこそが一番古い参加者であったのだ。少なくとも、トリシューラやシナモリアキラが『死人の森』に関わるよりも前から盗賊王はグレンデルヒと鎬を削り、第五階層の攻略を進めていたのだから。

「奪ったら奪われる。欲望には欲望、敵意には敵意で報いるのがここの流儀――違いますか、探索者」

「違わないな。お前の言うとおりだ」

 ミルーニャの問いに、ゼドは短く答える。
 単純な探索者の論理、ならず者の道理がそこにあった。
 ミルーニャは鞄を開き、中から飛び出した鶏を片腕に留まらせた。燃えさかる羽ばたきと共に『ヒュドラボルテージ』が一声いななく。

「ではあなたを殺し、ついでにその負け犬も殺して禍根を断つとしましょうか」

「いやー先輩、あのひと確か『死人の森』のアイドル王子様じゃなかったっけ。シューらんに引き渡した方が良くない? いやでもめっちゃきれーだな、まじで男なの? あれ、なんか女の人に見えてきたぞー」

 リーナの提案にミルーニャは一瞬考えこんだが、

「いえ、やはり壊しておきましょう。クレイとやらは確かに重要人物ですが、あれはこの場で潰しておくべきです。トリシューラに恩も売れますしね」

 そう断言すると鶏を腕から飛び立たせ、ゼドにけしかけた。
 触れるもの全てを焼き払う火の玉となった怪鳥が盗賊王を襲うが、ゼドは滑るように移動しながら握ったクレイの腕を一振りして熱波を引き裂く。

「融けろ」

 と短く唱えると、ゼドの腕から幾つもの青い糸が伸びて『腕』に巻き付いていった。異なる二つのものを強引に融け合わせる呪術が奪われたクレイの右腕とゼドの右腕、二つの腕を一つにしていく。二つの腕を強引に融合させた歪な巨腕。『王国の剣』と化したゼドの右腕が莫大な呪力を宿して灼熱を打ち払った。

「『断章』を貰おうか、アルタネイフの娘――」

「お断りします」

 かくして戦いの火蓋は切って落とされた。
 戸惑いの感情を残しつつ、リーナもまたルーズリーフ魔導書を千切りながらミルーニャを支援する。呪力と呪力が激突し、地下空洞の白骨を揺るがせる。

「――と、言いたいところだけど。ここまでね」

 出し抜けに切り替わった奇妙なほど艶のあるゼドの声。
 と同時に、盗賊王の圧倒的と思われた呪力が一瞬で希薄化する。
 黒い蝶。
 影のような鱗粉を散らして、妖しく舞う蝶だけがゼドのいた空間に残されていた。奇術じみた消失に、ミルーニャたちは一瞬泡を食って動きを止める。
 その姿が霞のように消え去ると同時、ミルーニャたちは別の気配に包囲されていることに気付く。虚空を引き裂くようにして現れたのは五人。

「『扉』?! いえ、影歩きですかっ」

 警戒の声を上げるミルーニャが使い魔をいななかせ、爆炎の吐息を撒き散らした。しかし怪鳥の放った炎は同規模の勢いを持った猛火と激突し、掻き消える。
 拮抗する呪力をぶつけられて呪術そのものが霧散したのだった。
 使い魔の炎をこともなげに防いた男は、五人組の中央でファイアパターン塗装のギターをかき鳴らした。ガスマスク型のアンプが大音声を響かせて、ヘッド部分から勢いよく火炎が放射される。ガスマスクとギター型火炎放射器、革製品で身を固めた青年。その姿に、ミルーニャたちは見覚えがあった。

「パイロマスター! ゼドプロデュースのロックバンド!」

 火工術師のギター兼ボーカルの青年、斧型ベースを担いだ巨漢、竪琴じみた長弓を構えた小柄な少女、地面から姿を現す白と黒の鍵盤が刻まれた影、ドラムセットの中央に座る老人――五つの戦意がミルーニャの足を釘付けにする。いずれも名と顔を知られた探索者。盗賊王に随伴して迷宮に挑むことを許された最精鋭たちだ。

「先に聖婚と略奪を済ませないとね。あなたたちは私の信徒と遊んでなさい」

 ゼドは指先で摘まんだ黄金のカードを閃かせると、一瞬にしてそれは黒い粒子となって霧散していく。漆黒のオーラとなって盗賊王の身を取りまいていくのは、クレイから奪ったドレス――ではない。
 闇と死、栄華と蝶をモチーフとした愛らしさと妖艶さを両立させた夜会服だ。
 その内包する呪力、目を奪うほどの魅力、紛れもなく『黄金』と同等のコーデであることは間違い無い。ミルーニャは愕然と目を見開いた。

「もう一つの――『黄金』?!」

 つまり――ゼドははじめから『黄金』位のコーデを所有するアイドルだった。
 衝撃の事実に凍り付くミルーニャたち。
 女装した三十代男のむくつけき肢体は夜会服に彩られどこかアダルティな雰囲気を醸し出しており、蝶の髪飾りによって彩られたツインテールの白髪と腰の蝶型リボンが小悪魔的な少女の愛らしさを匂わせる。濡れた唇にはうっすらとした紅をさし、爪は吸い込まれるような暗い紫。『女』の所作には照れが無い。淀みが無い。完璧な変装、比類無き女装をしているのだから自分は女に決まっている。

 盗賊王の詐術は、世界を、神々と竜の目すらも欺いた。もうひとつの『黄金』を纏うに相応しい、この迷宮最強のアイドルが降り立った瞬間であった。ツインテールの少女はステップを踏むようにクレイに近付いていく。

「アダスの執着に付き合うのは終わり。ここからは私の、私たちの時間――『全ての財貨を盗賊が奪う。私たち六人で奪い尽くす』」

 ゼドは魔女たちの射程から逃れてクレイの傍に寄ると、ほっそりとした顎を強引に掴んで顔を寄せていく。
 儀式としての結婚、略奪としての誓い。喰らい、貪るような口づけ。
 クレイの残された腕がかすかに抵抗するようにゼドの頭に伸びる。
 弱々しい、たおやめのような、白く細い指先で。
 球体関節の手首を曲げてゼドの頭を引き寄せると、情熱的にキスをせがみ、ねだるように舌をねじ込んでいく。唾液の交換と共に、蕩けるような囁き。

「――いただきます」

 漆黒のはずのクレイの髪房、その毛先がかすかに淡黄色に染まっていた。



 沈んでいる。沈んでいく。
 失意と無力感の水底へ、緩やかに落下する。
 クレイは決定的な欠落を抱えたまま漫然と重力にその身を任せていた。
 ここがどこなのかすら曖昧で、ただ喪失感だけが胸を占める。
 ただ、ひとつだけ。
 直前の一幕であの人形がとった不可解な行動の記憶が、クレイの胸中に棘のように刺さっていた。
 記憶は、少しだけ遡る。

「なんて顔してるの」

 その声が聞こえた瞬間、クレイは我が耳を疑った。
 ゼドが突然の闖入者と向かい合った瞬間に生まれたわずかな隙。
 盗賊王に油断はない。逃げだそうとすればたちまち気取られてしまうだろう。なにより、この広間には逃げ場が無かった。
 狂姫に扮していたミヒトネッセが待ち構えていたのは白骨迷宮の最下層だ。他に階段や出入り口などは見当たらない。影の中に潜行できる者ならば更なる下層へ赴くことも可能かもしれないが、クレイには無理な話だった。

 何より、頼みとしていた『剣』を奪われてしまっている。
 敬愛する女王の信頼を裏切り、惨めに地に這いつくばる自分自身が許せず、クレイの怒りと憎しみの矛先はゼド以上に自身に向いた。
 そんな時だった。聞こえるはずのない声が、耳元で囁かれたのは。

 幻聴だとしても質が悪い。かすかな囁きは先程まで熾烈な舞踏を繰り広げた敵手――ミヒトネッセのものに他ならない。クレイは危機的状況にもかかわらず目を丸くして呆けてしまった。地面から竹筒が突き出され、それが水面を突き進むかのように近付いてきていたからだ。

「な」

「静かに、勘付かれる。あいつ、影の中にも手勢を潜ませてるから」

 鋭い叱責の後、影の中から伸びてきた手がクレイの口を塞いだ。
 更に、男の身体が下方向にぐいと引っ張られる。
 横倒しにされていたクレイの身体が俯せに近い態勢となり、その真下、影が濃くなっている部分から端整な顔が浮かび上がった。互いに間近で見つめ合う。精巧なかんばせはかすかな体温と質感の呪術で色付いて、妙に艶めかしい。ミヒトネッセの美貌は呪いに近く、クレイは不快そうに顔を顰めた。

「人の顔見てその反応、失礼な男――今からアンタを紀門遁行で逃がすわ、あとは流れに乗って脱出して。道と推力はこっちで作ってあげる。出口は第五階層の外れに設定しておいたから、後は好きになさい」

「貴様など信用できるか。そもそも奴に気付かれれば終わりだ、あの腕に呪詛を仕込まれれば俺がどこにいようと支配されたも同然だろう」

 警戒も露わにクレイが吐き捨てると、ミヒトネッセは簡潔な解決策を示した。

「だから私がクレイになる。あの男が私を嬲っている隙にせいぜい遠くまで逃げればいい。どこかで呪的保護を受けるか改名でもすることね」

 クレイは刺し殺さんばかりの目付きでミヒトネッセを睨み付けたが、人形は柳に風で受け流す。彼の眼光にかつてのような切れ味は残されていない。

「勘違いしないでね。あの男と寝る必要があるだけ。アンタのためじゃない」

「――そういうことか。奴の存在を奪い、俺の剣まで盗むつもりだな」

「理解が早いわね。アンタは私に助けられた屈辱を噛みしめて惨めに敗走するの。ねえ、一度勝った相手に助けて貰うのってどんな気分? 今のアンタよりみっともない存在って想像できる? 『ボクちゃんの腕をかえちて~』って涙目で懇願したらいつか相手してあげる。必死でかかってきなさい」

 つい先ほど完敗した身でありながら、相手に恩を売り屈辱を与えつつ上からの立場で雪辱戦を申し込むよう要求するという面倒な手続きを踏んだミヒトネッセは、歯噛みして悔しがるクレイの表情をたっぷりと堪能すると、ちらとゼドの様子を窺って真顔になった。

「アンタに選択肢は無いのよ、王子さま。それともこのまま手籠めにされるほうがお好み? 私が言うのもなんだけど、趣味悪いわよ、あれ」

「ふざけるな。あんな卑劣な盗人に触れられるくらいなら、貴様に唾でも吐きかけられたほうがまだいくらかマシというものだ」

「あらそう。ありがと」

 そう言うと、ミヒトネッセは無造作にクレイの襟元を掴み、引き寄せた。
 刹那にも満たない間、両者の距離が零になる。
 (ことばがじわりと侵入し、ひとつになって融け合った。
 壁の灯火に照らされたひとつの影はふたつとなり、その距離が開いていく。

 そこにあったのは鏡。人形は一瞬にしてクレイと寸分違わぬ姿に変貌していた。
 リビドーの摂取による肉体の変化を済ませたミヒトネッセは影の下から這い上がろうとして、唇を強く擦り続けるクレイに怪訝な目を向けた。そして、その直後のクレイの発言で何とも言い難い表情になった。

「人の純潔を何だと思って」

「――はぁ?」

 まるで恐ろしい『おばけ』を前にした子供のような表情。どちらが、というわけでもない。クレイの顔が当惑、あるいは驚きの色に染まる。

「よりにもよって、貴様なんかに」

「――は?」

 一瞬で身体の位置関係を入れ替え、勢いをつけて瞬時に構築した『扉』の中へと蹴り込む。時空間を操作する遁行術。水中に没するように、闇の底へと沈んでいくクレイ。彼と同じ顔をしたミヒトネッセは冷え冷えとした目で沈み行くクレイを睨み付けていたが、やがて興味を失ったかのように表情を切り替えた。ゼドに対して偽装するために演技を始めたのだ。
 彼女はクレイを見事に演じ切るだろう。
 その未来が信じられるからこそ、クレイは悔しさに震える身を抑えることができなかった。暗い影がクレイの身を包み、押し流していく。

 川底のような冷たさに沈む後悔と屈辱。
 やがて、彼の身はどことも知れぬ第五階層の外れに打ち上げられた。
 力なく地に伏してぐったりとその身を路上に晒すクレイ。
 そんな時だった。どこかで聞いたような声がかけられたのは。

「お前、確か」

 ぼんやりと見上げると、くしゃっとした犬面の巨漢がクレイを見下ろしていた。
 ブルドッグ氏族の虹犬は苦虫を噛み潰したような表情になると、

「ああくそ、なんだってんだ。もう俺は関係ねえぞ」

 と言って足早にその場から離れていく。
 当然だろう、とクレイは思う。
 無価値な敗残者はこうして倒れているのがお似合いだ。女王への忠誠、王国の剣としての誇り、そんなものは片腕と共に失われた。微かに記憶を刺激する血と継承の感触も、身を苛む無力感に押し潰されてしまっている。
 きっとこの惨めさはクレイをこのまま殺すのだろう。
 再生者は肉体より先に、心から死んでいく。
 意識が薄れていく。
 あるいは、それは今際の際に見た夢だったのだろうか。
 曖昧な認識の片隅にひっかかる男の声。

「おい、こっちだ! 医者呼んだからな、もう大丈夫だ、あと少し我慢してくれよ――ったく、ホントなにやってんだ俺は」

 力強い腕で持ち上げられる感覚を最後に、クレイの意識はそこで途絶えた。


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