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幻想再帰のアリュージョニスト 作者:最近

第4章 傷つけるのはハートだけ、口づけるのは頬にだけ

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4-57 裸の自分、服を着た誰か



 親指に体重が乗ると、強い圧力と共に心地良い痛みが背中に広がっていった。
 痛覚制御アプリは感知した痛みを選り分け、『可』とラベルが押されたものを俺に届けてくる。それは熱となり全身へ広がる快楽だった。普段は耐え難いストレスと表裏一体の身体に必要な痛み――身体感覚すべてを受け止めて一括制御する『E-E』をねぎらうように、しっかりとした指先がぐいと押し込まれる。
 思わず気の抜けた声が漏れてしまう。背後で苦笑する気配があった。

「やはりだいぶ疲労が溜まっているな、シナモリアキラ。慣れない芸事は紀人といえど消耗を強いられるというわけか」

「疲れてるのは主に酷使されてるオルヴァとイツノだけどな」

 早朝の冷たい空気が窓から入り込み、頼りない半裸の肉体を震わせる。日差しと指先の暖かさが唯一の頼れるものだった。
 俺――というか青年形態のオルヴァは上半身裸の状態で寝台に横たわり、指圧マッサージを受けていた。手慣れた様子で的確にツボを押さえているのはロウ・カーインだ。ちなみに隣室ではトリシューラがイツノに鍼治療を行っている。

「同じことだ。常に神経を張り巡らせていればそうなる――特にオルヴァ王の場合はひどい矛盾を抱えているのだからな」

「矛盾?」

「短期的な未来予知を繰り返しているだろう。それもオルヴァが君になってからは精度が下がり続けている無理のある代物をな」

 雑談を交わしながらも指先はオルヴァの背を刺激していく。何らかの呪術的な作法なのか、独特のリズムが感じられるような気がする。

「ほんらい未来予知はとても扱いが難しいものだ。多くの邪視者が未来を改変しようと試みた結果、干渉し合って未来はかえって混沌としたものになるためだ。だが、オルヴァ王は未来予知の起点を――あるいは終点を『滅び』と定めている」

 カーインの言わんとするところが見えてきた。
 死や滅びは万物が必ず到達する確定された未来だ。
 オルヴァは当たり前の未来を見ているに過ぎない――『お前は死ぬだろう』というのは絶対に外れない予言なのだから。

「当たり前だがこの性質は転生者や再生者とは相性が良くない。『死人の森の女王』や『機械女王』、『冬の魔女』に至っては互いに否定し合う関係であると言っていい。ただでさえ矛盾していた『再生者オルヴァ』は『転生者シナモリアキラにしてオルヴァ』になったことで彼の起源たる『終端』から遠ざかり続けている」

「それで未来を見ようとすると失敗するし疲れるって?」

「無謀だな。この身体の事を思うのならやめておけ」

 戒めのように強い指圧。激痛が走り、思わず呻き声を上げてしまう。完全に受け入れるモードだったので不意打ちの苦痛だった。抗議すると、『たまには痛みを楽しんでおけ』とか適当にあしらわれる。おのれカーイン。

「さて、これで終わりだ。気休め程度だが、決戦前にあまり時間もかけていられないだろう。準備をするといい」

「ああ、助かった。というかお前これで食って行けそうだな」

「レオ様にも同じ事を言われたよ。老後の選択肢として考慮に入れておこう。もっとも、私に老後などというものがあればの話だが」

 そういう台詞を冗談交じりに言うのはどうなんだとかレオはいつもこんな指圧マッサージされてるのかとかするのもされるのも羨ましいとか、余計な思考が浮かんだが全て捨てて切り替える。刻限は近い。アマランサスとの決戦は間近に迫っているのだ。
 カジュアルめのジャケットを羽織ってサングラスとマフラーで軽く変装。
 オルヴァのファンに騒がれないためではない。こそこそとホテルの部屋から出ると、最悪の相手と鉢合わせした。変装は無意味だった。

「わたしにーさまっ、お会いしたかったひとつになりましょう私を否定するかわたしにーさまが否定されるかふたつにひとつ死ね殺せ死ね殺せ死ね殺せ」

 着物姿の狂女が鋼鉄と水流の義肢に呪力を漲らせて疾走する。
 咄嗟に身構えるがさっと俺の前に出たのは最近ボディーガード役がこなれてきた長身の男。カーインの手刀がイツノの打撃をいなし、捌き、弾いていく。
 忌々しげに舌打ちして飛び退くイツノ。カーインに向ける視線には強い嫌悪が込められていた。

「他人風情が自己との対話に割り込むな。今こそ克己の時。自分との戦いで圧倒的成長を果たして好敵手に勝利するの」

「私の目には、君の自己愛は自殺か自傷のように映るのだが」

「『私』とは痛みと苦しみ。品森晶はそのようにしてつくられる」

「なるほど。道理だが、私としては現状維持が好ましい。何しろ後ろの男は未完成のまま私に土を付けている。しばらくはこのどっちつかずの強さを堪能したい」

 何やら身勝手な理屈によって対立が生まれているが、そもそも俺が嫌だからな。
 積極的にイツノを否定する動機が今のところは無いし、否定されるつもりは勿論無い。使えるうちは使うつもりだが、そろそろこいつもどうにかしないとな。
 両者の間に緊張が横たわるが、一瞬の隙を縫って魔女の一刺しが全てを終わらせた。背後から忍び寄ったトリシューラがイツノの首筋に真紅の針を刺したのだ。

「はいはいおやすみー。イツノはそっちに放置。ロビーで打ち合わせするよ」

 何のまじないなのか、すやすやと眠り始めたイツノを廊下に横たえて俺たち三人はホテルの一階に下りていく。貸し切りのホテルはがらんとしていて、従業員ドローンが俺たちをロビーに案内する。ソファに腰掛けると、透明なテーブルの上に自走ドローンが黒茶を給仕した。

 端末から投影した立体幻像を使ってライブ時の段取りや警備態勢について打ち合わせを進める。リハーサルは昨日済んでいるので、あくまでも最終的な確認に過ぎない。慣れたもので、カーインはトリシューラ製ドローンを運用しての緻密な警備態勢を指揮する手順に迷いがない。それがレオを警護する中で培ったノウハウなのか、元から持っていたスキルなのかは不明だが。

 決戦とはいえアイドルのイベント。大規模な祝祭ということもあって、警備用ドローンたちも派手なカラーリングが施されていた。それはカーインも同じで、普段のイメージはそのままに民族衣装っぽい前合わせデザインのトップスを身につけ、直線裁ちのゆるい袖、前右側には蝋纈染(ろうけつぞめ)大麻(ヘンプ)布をあしらっている。エスニック感溢れる更紗のマキシスカートは赤や黒が段階的に濃さを増していき、下へ下へと重心を落としていくような色遣い。良く見れば獅子や雲のような模様も見える。こいつの文化参照先は相変わらずよくわからない。

「シナモリアキラ? 聞いているか?」

「聞いてないね。他人のファッションチェックしてる余裕はあるみたいだけど」

 呆れた視線が向けられて我に帰る。謝罪して訊き返すと、話題は今日のライブからカーインが行っていた地下の調査結果に移っていた。

「下にカーティスがいるのはほぼ確定とみていい。一時は同盟をという話もあったが、瘴気漏れの件といい安心はできない。対決の覚悟を決めておけ」

 端的な結論が述べられた。
 予想はしていたことだが、やはり六王との対立は避けられないらしい。

「対決というのは、戦闘ということでいいのか。それともやっぱり――」

 俺の疑問にはトリシューラが答えた。

「ライブ対決も想定しといた方がよさそうだね。ただでさえひとりにして大勢なんていう存在だし。オルヴァ同様の不安定さはあるけど、アマランサス的な集団の強みも持ってる。どうして瘴気を撒き散らすなんてことをしているのかはわからないけど、とりあえずぎゃふんと言わせて懲らしめようね」

 ぐっと握り拳を固めるトリシューラ。その横でカーインが神妙な表情をした。

「だが妙だ。どうもこれまでの六王とは性質が根本的に異なる――というより、まるで別人のように瘴気の手触りが違っている」

「手触り?」

「吸血鬼が持つ瘴気にはそれぞれ固有の感触があってな。カーティスの瘴気は私にとっては既知のものであったため、違和感に気づけたというわけだ」

 そういえば、確かカーティスは『下』とも関係があるんだった。
 カーインは説明を続ける。

「レゴンという家畜、使役獣がいる。私の故郷でも番犬や荷運びなどをこなしていたし、軍用に訓練されている種も存在するが、これはカーティスから生み出された瘴気生物とも言える存在でな。『下』で生活していた者にとって、カーティスの気配というのは馴染みが深い」

 するとその瘴気が変質するような異変が起きているということになるが、それが今回の瘴気漏れやアイドル空間とどう関わってくるのか今ひとつよくわからない。これまで六王たちと戦ってきた中でも、カーティスはとりわけ見えづらい相手だ。

「カーティスについて、ひとつ私の知る情報を教えておこう。私が知っているのは『下』の、四十四の勇士に数えられる『リィキ・ギェズ』としての方だが」

 『下』を知る男は厳しい目で忠告を発した。
 この男が表情から余裕を消すことはあまり無いが、カーインをして目に厳しさを宿させるほどの何かがカーティスにはあるのだ。
 ところが、カーインは無関係に聞こえる話を始めた。

「竜神信教という宗教がある。『下』では三大宗教のひとつに数えられる大宗教だで、その名の通り創世の九大竜を崇めている。竜神信教にはそれぞれの竜を司る霊媒――竜の巫女が存在する。そのうち一人は君も知っているだろう。火竜の巫女にして魔将たちの統率者、セレクティだ」

「へー」

 何の話だ。何の。カーティスじゃなかったのか。

「巫女たちは適性のある者が選ばれるが、必ずしも常にその席が埋まっているわけではない。空位が生じたり、あるいはその代の適格者が『上』で誕生してしまうということもあり得る。そういう事情で常にどこかが欠けている竜の巫女たちだが、ただひとりだけ常に不動のまま空位が生じた事のない席がある。それが第七位――『魔竜レーレンターク』の座だ」

 また何か新しい情報が出てきたが竜とかそういう話はコルセスカ関係っぽいので無視するわけにもいかない。脳内メモ帖に情報を切り貼りしつつ訊き返す。

「それが今回の件とどう関係しているんだ?」

「竜神信教で古くから魔竜の霊媒として扱われているのは人ではない。レゴンだ」

「は? さっき言ってた、家畜の?」

「そうだ。竜神信教では家畜のレゴンは聖獣とされ、最も敬われる動物であるらしい。そのため信徒にはレゴン料理を出してはならないと――」

「待て待て待て」

 レゴン料理とか恐ろしい単語が聞こえたが、それより重要なのは元々カーティスだったものの成れの果てが竜の巫女であるらしいという事実の方だ。

「うーん。ドラトリア王族の家系はマロゾロンドの霊媒でもあるから、超自然的な存在を受け入れる器としての適性は十分ではあるかな。紀神と紀竜の二重霊媒なんて、幾ら何でもちょっと信じがたいけど」

 トリシューラも『下』の情報には疎いのか半信半疑といった様子。
 しかしカーインはいたって真面目だった。

「竜の巫女は女性が多いとされるが、夜の民にとって性別などあってないようなものだ。カーティスならば資格は十分にあるだろう」

「なんか、竜が多いね?」

 トリシューラがおさげをいじりながらぽつりと呟いた。
 確かに、言われてみればそうだ。
 竜王国ガロアンディアンは言うまでも無く。
 マラードと戦った時も、彼は地竜に変身していた。
 オルヴァもまた、多頭竜と呼べる異形のビジョンを伴って俺と争った。

 あるいは、俺の知らない所で激突していたらしいパーンやヴァージルも何かしらの竜的なイメージを有していたのかもしれない。
 そしてここにきてカーティスまで竜に関係しているとなると、何かしらの符号を見出さずにはいられなくなってくる。呪術的思考というやつだ。

「私が言いたかったのはまさしくその符号だ。このまま地下へと潜っていった先で何と相対することになるのか、ある程度覚悟を決めておくことだな」

「なるほど。一応、頭には入れておく」

 話を切り上げてそれぞれ本番の準備に入る。
 『アマランサス・サナトロジー』に所属する人形アイドルたちは立候補後、選抜メンバーを決定するために様々なアピールを行う。毎日のように行われる公演はソロはもちろん集団での大規模なものまであり、地下アイドル空間はここのところお祭り騒ぎだった。選挙もいよいよ大詰めで、投票締め切りは本日夕刻。

 勝算はある。入念な準備もした。不足があるとは思えない。
 それでも、今の自分に不確かさを感じてしまうのがもどかしかった。
 俺は常に不完全だ。おそらく、俺が俺である限りずっと。

「シナモリアキラ。君はアイドルとしての自分を楽しめているか」

 ホテルを出発しようとする直前。カーインはふと思い出したように脈絡の無いことを言い出した。いや、脈絡はあるのだろうか。このわけの分からない空間にいると自分が今どこにいるのか、たまに見失いそうになる。
 俺の困惑を余所に、カーインは好き勝手に喋り続ける。まあこいつはいつだって気ままに振る舞っているように見えるが。

「次々と入れ替わる身体。付け替えられていく仮面。まるでファッションを楽しむかのように手軽に変化していく存在。そのような自分を、きちんと自分自身だと実感できているかと訊ねているのだ」

 なんだそれは。社会の中に置かれた自我がどうとかそういう話か。
 自分探しはもう済ませたのだが。

「俺の軽薄さをお前に咎められる理由が無いな」

「逆だ。ファッションを楽しむのがまず第一。次には身なりに気を遣えと私は言っている。つまり、センスを磨けということだ」

 もしかしなくても、遠回しにダサイと言われているのか、俺は。
 まさか、そんな、カーインに? このどこ由来なのかよく分からない文化圏センスの道服もどきと長髪三つ編みとかいうスタイルの男にセンスを指摘された?

「俺がシナモリアキラとして主導権を握る『マレブランケ』が服だとして――そのコーディネートを考えろって? 具体的にはどういうことだそれは」

 トップスのオルヴァは自己主張が激しいから切り返しとしてベルトにルバーブを選べとかそういう話か。自分で言っていて意味が分からない。

「さてな。それは紀人である君にしかわからないことだろう。だが、シナモリアキラがそのような存在である以上、その有り様に相応しい鍛錬、自己研鑽の手法が存在するはずだ。君の主とサイバーカラテに相談して見つけ出すといい。センスという、答えのない最適解をな」

 助言とも忠告ともつかないことを好き勝手に言ったかと思うと、カーインはその場を立ち去っていった。奴なりに何か思うところあっての発言なのだろうが――。

「知った風なことを言えるのは、あいつが自分を隠して自分を演じているせいか。相変わらずよく分からない男だ」

 というか『よく分からない男』という立ち位置を保つことで奴は『カーイン』をやっているという感じも受ける。たいていの人間はどうにかそれらしい自分像を取り繕おうと悪戦苦闘しているものだが、奴のふるまいには迷いがない。

「少なくとも奴は『カーイン』を楽しんでるし、『カーイン』としてのセンスも日々磨いているってことか。で、俺にもそれをやれと。何だそれは」

 喧嘩売ってんのか。買うぞ。
 よくわからない苛立ちを感じている俺の横で、トリシューラが端末上の立体幻像で俺のスペア頭部を比較していた。どうやらカーインの言葉に思うところがあったらしい。どうか変な事を考えていませんように。俺は虚しい願いを抱いた。




「おそい。ぬるい。たるんでいるわ、クレイ。その程度では一位など夢のまた夢」

 ファウナの手厳しい言葉が『呪』となってクレイを打ち据える。
 目は見えずとも大気の揺らめきで弟子の舞いを捉え、『良し』と思えば厳しく叱責し『悪し』と思えば激しく叱責する鋼の態度でもって接している。優しげな面立ちは冷酷な言葉によってかえって恐ろしさを増していた。
 クレイは苛烈な指導に耳を傾けながらも舞いを途絶えさせることは無い。足を止めれば更に激しい仕置きが待っていると学習させられていたからだ。
 地下迷宮の外れ、ファウナの小屋がある一帯の草原で、二人は一心不乱に稽古を行っていた。全てはクレイから頼み込んだことである。

 ドレスはクレイを認めなかった。
 その日からクレイは更なる高みを目指すことを決意し、ファウナは師としてクレイを鍛えることを決めた。
 そして始まる修行の日々。
 修練に没頭するクレイは、余分な言葉をファウナと交わすことはなかった。
 それはファウナも同じで、両者の間に血の通った感情が行き交ったことはただの一度も無い。純粋な舞踏技術の受け渡しだけがそこにあった。

「だめよ王子さま、それは美しくないわ」

 ファウナが牧杖で大地を突くと、黄金に輝く呪力が地割れを生み出してクレイに迫る。回避した先で斜めに隆起した土塊がクレイの脇腹を突いた。咳き込んでえずくクレイを蹴り飛ばしたファウナは、あえてサンダルを脱いだ素足でクレイの頭を踏みつけた。

「視野が狭いわ。風を感じて」

 憎々しげに息を吐くクレイは、しかし不平不満を述べたりはしない。
 遠く、賑やかな音が聞こえた。
 またどこかでアイドルたちが歌い、舞っているのだろう。
 その華やかさから背を背け、過酷な修行に挑むのもまたアイドルだ。

「逃げたいのかしら、弱い王子様。けれどもはや惰弱も怯懦も許されないわ。つらいレッスンを前にして逃げ出すはアイドル不覚悟、自刃に値すると思いなさいな。できないのならば師として、そしてファン一号として貴方を殺して私も死にます」

 ファウナはクレイを追いかけている熱烈なストーカーまがいのファンたちを動物に変え、天にそそり立つ巨大な雲と炎を示すことでファンクラブ第一号の座を強奪していた。クレイのファン全てはファウナに平伏する仔羊たちであり、羊飼いである彼女はクレイの面倒なファン全ての代表である。彼女は己の全てを注ぎ込んだ弟子が『もの』にならないのなら、滅びこそが彼の救済だと本気で考えていた。

 彼女の背後で大小の動物たちが鳴き声を上げる。
 いずれもファウナによって変化させられたクレイのファンたちである。髪の毛を毟り取るおぞましい呪詛は羊毛の刈り取りに変換され、唾液を差し入れに混ぜようとする呪術は顔を舐める行為に変換されていた。

「王子さま」

 厳しいファウナの言葉が、ふと柔らかな顔を見せた。
 閉じられた瞼の奥にある感情は読み取らせぬまま、少女は静かに問う。

「あなたはこんなにも愛されているの――ねえ、わかる? 認められるって素敵なことね。この場所でなら、どんなしがらみからも自由になって尊敬を勝ち取ることができるのだもの」

 夢のようなことを口にするファウナとて、言葉そのままの現実があるなどとは思っていないだろう。しかしそのような理想の形は、たしかにこの場所に存在していた。それを欲して足掻く自由は誰にでもある。たとえ運命の操り人形でも。

「尊敬など欲しくはない」

「皆が求めるわ。承認を。ここにいても良いというゆるしを」

「俺は最も大いなるゆるしを最初に得ている。ただそれに報いるだけだ」

 クレイが見ているのはファウナではない。
 彼の全ては最初から最後までたったひとりに捧げられている。
 そんなことは自明だった。だというのに、どうしてかこの時のファウナは食い下がるように言葉を続けてしまっていた。

「その気になればあなたは幾らでも愛を得ることができるでしょう。王子という生まれは特別なもの。でも、研鑚を重ねた才能と技量はあなた自身のものだと誇れるはず。この閉じられた空間で、限られた相手にだけとはいえ認められていることは事実。何も女王にその身を捧げることだけがあなたの人生ではないわ」

「だろうな。陛下に与えられたこの身には無数の可能性が眠っている。俺は俺のまま、その気になれば何にでもなれるだろう」

 尊大で不遜な物言い、己の才覚に疑いすら持たないまなざし。
 思い上がりと紙一重の自負もまた、かの女王に由来してしまっている。
 幼い世界は閉じている。彼の視野は狭く、それゆえに刃の如く鋭い。

「それでも俺は陛下に剣を捧げると決めた。だから俺は王国の剣であり続ける」

 それでいいと、青年は迷い無く言い切った。
 ファウナは眉尻を少しだけ下げて、深く息を吐いた。
 その感情が悲しみであったのかどうかは判然としない。
 だが、クレイの言葉によってファウナの中にあったしこりのようなものは確かに断ち切られたのであろう。そこからの彼女の指導はそれ以前にも増して苛烈を極めたからだ。容赦の無い指導の連続、無慈悲な鍛錬にクレイの心身は悲鳴を上げる。
 それでもクレイが弱音を吐くことはなかった。
 クレイが順調に仕上がっていく感触を得て、満足げに口の端を緩ませるファウナだったが、不意にその表情に陰が差す。
 牧杖で数度地面を叩くと、厳しい表情で言った。

「なるほど。噂には聞いていたけれど、影が人を攫うというのは本当だったのね」

 たびたび出没し、ランキング上位のアイドルたちを誘拐していくという正体不明の影。遂にその魔手がファウナに伸びようとしていたのだ。突如として少女の足下から広がった漆黒の波は驚くべき速度でアイドルの全身を覆い尽くしていく。

「妙ね。これは、カーティスでは無いのかしら」

 杖が振るわれると共に閃光が迸った。
 影が打ち払われ、泥のようにあちこちに飛び散る。
 黒い泥の塊は辺りに散らばってしばらくわだかまっていたが、しぶとくファウナに食らいつこうと飛びかかっていった。

「愚かな」

 ファウナは片手をほっそりとした顎の下に持っていくと、ぎゅっと握りながら僅かに身を引いて見せた。俗に言う所の『あざとい』仕草も鍛え上げられたアイドルとしての土台に下支えされれば必殺のアピールに昇華される。放たれた爆発的なオーラは太陽光さながらに影を掻き消した。

「駆け出しの地下アイドルと同じように私を攫おうと言うの? 神魔英雄が激突するアイドルマキアを生き抜いた黄金偶像をその程度の影で縛ろうなどとは、笑止」

 ファウナという絶対的な光を前にしては、あらゆる影は平伏するほか道は無くなってしまうのだ。原初、アイドルとは太陽であった。世界の始まりにアイドルあれと神が望まれた。そして歌と踊りで神々と繋がる巫女(アイドル)たちが誕生したのである。ここには邪悪な意思の介在する余地など無い。

 しかし光あるところに必ず影は生じるもの。
 強すぎる閃光に押し退けられた影は引き延ばされ、遠ざけられ、長い触手となってその行き先を変えた。素早く地を這って向かう先は、ファウナが放ったオーラの余波でよろめいているクレイの足下だった。

「だめっ」

 らしくない動揺だった。
 ファウナの表情から余裕が失われ、溢れんばかりだった光が小さくなっていく。
 振るわれた杖の先から虹が迸ったかと思うと光が影を押し退け、クレイを守る堅牢な柵を作り出した。ほっと息を吐いたファウナの首筋に、ひたりと冷たい感触。
 それは半透明の小さな手。赤子の手が、ぴたぴたと頬や首に張り付いていく。

「だぁ。まぁまぁ」

 あどけない喃語と共に、ファウナの肩を、腕を、足を、全身の至る所を覆い尽くす幼い手、手、手、手の数々。一瞬の油断に入り込んだ小さな手はそのまま少女の肉体を引き倒し、地面の底に引き摺り込んでいった。不思議と地面は水面のように少女の身体を飲み込んで、そのまま羊飼いは消失してしまう。置き去りになった牧杖が地面に倒れると、我に帰ったようにクレイが立ち上がった。

 辺りを見回すと、忌々しげに舌打ちして走り出す。
 目指すは下層。彼が挑み、敗れてきた最後の関門だ。
 クレイは自分を庇って攫われた師を追いかけているのか、それとも囚われの女王を救いに向かっているのか、曖昧なままに疾走する。
 その意思に迷いは無いにもかかわらず。

 立ちはだかる迷宮の怪物を一刀のもとに切り捨て、電子音声でステージを表現する仮想歌姫たちを鍛えた舞いで一蹴していく。仕掛けられる辻ライブで勝利するたび、師の教えが更にクレイの中で深まっていく。定着した教えが彼を更に鍛え、勝利が彼の意思を研ぎ澄ましていった。

 やがて彼は辿りつく。
 この地下迷宮で最も高い壁、難攻不落の第一位が待ち構える場所に。
 だが、そこで待ち構えていたのはクレイが予想だにしていなかった人物だった。

「久しいな、我が息子となるべき水底の王子よ」

 クレイは愕然と目を見開き、その男を凝視した。
 最深層のステージの周囲では攫われて行方不明になっていたと思しきアイドルたちが虚ろな目で幻惑的な舞いを踊っていた。さながら古代の魔術儀式だが、実際似たようなことをしているのだろう。その中には異形の赤子たちに押し潰されるようにして拘束されているファウナも混じっている。ここでアイドルたちは操り人形も同然であり、クレイの表情に剣呑さが増した。

「残酷に憤るか、クレイ。優しい心根、柔弱な心性だ。その上、忠誠と愛に依存しなければ雄々しく立つ事もできぬとは情けない。それで男児とは笑わせる」

 言葉通り、豪快に笑う長身の男。
 クレイは睨み殺さんばかりの眼光で相手を貫き、半身になって手刀の形にした両手を構えた。舞いの準備であり、殺戮の用意であった。
 殺意を真っ向から受け止め、ヒレの耳と傷だらけの裸身を晒した男は言った。

「かつて我らは共にグレンデルヒに従属させられていた。それは構わん。英雄は古き敗者を踏みつけて前へ進むものだからだ。だが奴が敗北した。次はこのイアテムが英雄として返り咲く番だ――さて、お前はどうだ、クレイ。お前は英雄として立つか。それとも女神の犬の立場に甘んじるのか」

 問いに答えることも、何故この男がここにいるのかを問う事もクレイはしなかった。迷いは無い。イアテムを殺す。彼は一振りの刃となって空間を引き裂く。
 駒のように回転したイアテムの足と、舞うように翻ったクレイの手が激突した。
 カタカタと、人形の歯が鳴る音がした。



 彼が暗い路地の深まったところにあるバーに入ると、甘苦い臭いが鋭敏な嗅覚を刺激した。煙草の白煙と合法ドラッグの紫煙が入り混じった世界はある意味で眩惑的で、男は深々と息を吐き出してカウンターに向かう。

「あら、プーハニアさん。最近、よくいらっしゃるのね」

 カウンターの向こうで女が微笑んだ。知った顔の雇われ店長で、言葉の強勢に同郷の気安さがある。ヴェールに包まれた容貌は判然としないが、夜の月を思わせる涼しげな声は男に安らぎを与えてくれた。透明感(シアー)な仕上がりの衣はジャッフハリムではフォーマルなものだが、場末のチェーン店にはどうにも馴染まない。

 第五階層に多い簡素な箱型建築とはいえ、内装は木目をあしらったカウンターをはじめとして落ち着いた雰囲気に仕上がっている。シーリングファンに取り付けられた照明が程よく店内の光量を調整する。床の紋様は淡く光り、感覚をクラックするテクスチャ呪術、立体幻像が揺らめく。流行のアイドル番組を映し続けるモニタが天井から吊り下げられているのは安っぽいていただけない、と男は思った。

 だが、結局のところ自分には似合いの場所だ。ひそかに自嘲しながらノンアルコールカクテルを頼む。虹犬はほとんどアルコールを分解できないが、雰囲気に酔いたい時くらいはあった。今がそうだ。
 数種の果汁が織りなす爽やかな酸味と甘みを感じながら、なんとはなしにモニタの番組を眺めた。煌びやかな衣装を身にまとった若者たちが歌い踊っている。華やかなステージ、栄光の舞台。形は違えど、かつては自分もあんなふうに注目を集めていた。輝いていた時代があった。

 それも過去のこと。敗者にスポットライトが当たることはもう無いだろう。
 あらゆる可能性は消え失せたのだ。
 自分だけではないとプーハニアは思った。
 ここにいるのはどいつもこいつも輝かしい未来を失った者ばかり。
 めいめい酒か煙草か麻薬に溺れ、漫然と時間を擦り減らしていく。
 ぶつぶつと独り言を呟きながらカクテルに添えられた果実を舐め回す老蜥蜴人。いい年をしてアイドル談義に熱中する中年の闇妖精二人組。安酒を呷りながら端末を弄っている海の民。そして行き場を失った元レスラーの虹犬。

 気付けば若さは掌から零れ落ちて、やり直しの機会はどこにも無くなっていた。
 死が見える。プーハニアの瞳は重苦しく淀んだ暗い水底に似ている。
 ぼんやりと時を過ごすうち、ある音がどうにも耳障りであることに気が付く。
 隣に座る海の民が端末をいじる音だ。
 どうやら、色の付いた貝殻などで一生懸命に板型端末の裏を飾っているようだった。壮年と言っていいような男の振るまいが、プーハニアの目には滑稽に映った。
 確かそう、ここでは『デコる』とか言うのだったか。端末を小さな貝殻などで飾り付けるのは海の民の伝統文化だと聞いたことがある。

 海の民はそうして飾り付けた端末を店員に誇示し、自らがどれだけ海の民の伝統文化を愛しているか、郷土愛に溢れた立派な男であるかを語った。だいぶ酔いの回った口調ではあるが、傲慢な性格が透けて見えた。店員は愛想良く客を立てているが、プーハニアはこれは面倒な手合いに違いないと思った。
 予想は当たっていた。

 酔っぱらった男は気前のいいところを見せたかったのか、大声でこの場にいる者たちの飲み代を奢ると宣言した。わざとらしく代替通貨の呪符を見せびらかして懐が温かいことを示すのはいかにも下品だったが、実のところこれはプーハニアにも覚えがある行為であったため、彼は少し肩を落として俯いた。

 それがまずかったのだろう。海の民は当然のような顔をして「なにをつまらなそうな顔をしている」「そういう時は酒だ酒」「どうした、ほらぐぐいっと」「我の酒が飲めぬというか」「それ一気に、男らしく一気に行け」といった具合にプーハニアに絡んできた。海の民が勧めてきた酒はアルコール入りで、プーハニアにとっては致死量の劇薬である。断り方を思案していると、店員から助け船が出された。

「お客様、こちらご注文のシーフードとブロッコリーのチーズ焼きですわ」

「ん? そんなもの頼んでいたかな――まあ、いただこう。うむ、故郷の味だ」

 店員は差し出した皿に男の注意が向けられた瞬間、空いている方の腕を音もなく闇色の触手に変化させ、プーハニアに突きつけられていたグラスを奪う。その上で、恐らくはアルコールの入っていないであろうカクテルと取り替えたのだった。
 一瞬の早業にプーハニアは感嘆した。店員の目配せに軽く目礼を返しつつ、付き合いで海の民からグラスを受け取る。一気に飲み干した。甘いリンゴの味が口の中に広がる。その後の流れはおおむね良好なものとなった。

 それも全ては店員の適切な配慮のお陰である。たとえば海の民からレーズンのつまみやらワインや葡萄果汁入りのカクテルが注文されればちょうど在庫を切らしていると言ってプーハニアが危機に陥ることを回避してみせた。虹犬には食の禁忌が多いが、配慮さえあれば他種族とも杯を交わせる。

 他愛ない会話と共に空になっていく杯。飲み交わす度に二人は自らの古い栄光を自慢し合い、失われたものに想いを馳せてしばし郷愁とも後悔ともつかぬ感情を共有しあった。あるいは、共有した気になった。意気投合と呼べる程の会話は無かったが、プーハニアは目の前の相手に幾ばくかの共感を覚えている自分に気付いた。

「だいたいなぁ、最近の世の中は何事もお上品にしろだの、政治的正しさがどうだのと小うるさくて仕方が無い。窮屈だ、まったく窮屈だ」

「まあそういうとこはあるわなあ。ちょっとしたスキンシップでセクハラだとか、礼儀として口説いただけで怖がられるとかよお、何もするなってかっつう話よ」

「そうだそうだ、我々男は逆差別されている! 魔女だの女王だのがのさばるこの世の中が間違っているのだ!」

 あからさまな体制批判に店内の客はドローンの巡回や再生者の目が無いかどうかを気にしてびくびくとし始めたが、海の民は気にせずわめき立てている。プーハニアもプーハニアで、溜め込んでいた鬱屈を解放するかのように同調し始める。

「ああいうアイドルの、なんていうんだ? 配信とかではよ、自由とか自分らしくとか歌ってるじゃねえかよ。俺らにだって好きにやる権利があるはずだろ」

「うむ。男は男らしく強く在れば良い。女は女らしく家を守り、男を立てる。これが自然な有り様というものだ。誰が否定しようとも、戦士の本能を無かったことには出来んのだ。見よ、この雄々しき姿を!」

 興奮した海の民は突如として衣服を脱ぎだした。酔漢にはよくある振る舞いだが、こうも鮮やかに脱ぎ散らかす者はそういない。屈強な肉体を晒した男は続けて下衣にまで手をかけた。流石に止めようとしたプーハニアだが、逆に誘われて困惑することになる。

「見ればお前も良い身体をしている。話を聞けばかつては己が肉体ひとつを頼りに戦う勇士であったという。そら、お前も脱げ脱げ!」

 酔っぱらいの言う事である。当然止めるべきではあった。
 だがどうしたことか、この時のプーハニアはその誘いに乗ってしまった。

「おお、いい脱ぎっぷりだ! そして流石の鍛え方だ、その盛り上がった胸、野太い上腕、これぞ男の勲章よ!」

 体育会系男性特有の、浴場などで裸身を晒すと上半身の筋肉を競い合い触り合うという習性を発揮して二人は力こぶを比べ合った。プーハニアは学生時代のレスリング部合宿浴場における苛烈な筋力マウント合戦を思い出してややげんなりしかけたが、そこで上位者であった記憶は彼に安堵をもたらした。最下位の者はその場でOBに筋力トレーニングを命じられるからだ。

「はっはっは、今日の我は気分が良い! 裸とは良いな! ごてごて飾り立てるなど愚の骨頂! ファッションだきぐるみだと、馬鹿のすることよ!」

「そうだそうだ、俺は俺、ありのままのプーハニアだ! 着せ替え可能な衣装じゃねえんだ、くそったれのがらくた女王め!」

「よおし、いいぞプーハニア。飲んで騒いで全部脱ぐのだ! そらそら!」

 二人は全ての衣を脱いで全裸になった。
 海の民が用意した海獣の牙をくり抜いて作った男根筒で局部を隠し、「これぞ海の男の正装よ」と共に笑う。実際に彼らの伝統的装いであったため、プーハニアも何かがまずいと思いつつもはっきりとは指摘できなかった。異文化の否定は共存共栄を謳う『下』の理念に反しているからだ。

 モニタの映像はいつしか切り替わっていた。薄暗い闇の中で白いものが蠢いている不鮮明な光景――緑色の髪をした艶めかしい女の裸身だ。気付きと共にプーハニアは腹の底から熱い衝動が湧き上がってくるのを感じた。店内の男たちにも二人の熱気が伝染したかのように衣服を脱ぎだしている。

 画面の闇がじわりと現実に染み出していった。
 プーハニアは己の全てをさらけ出したことで、自分が受け入れられているような感覚に陥った。認められている。許されている。屈強な肉体を見た男たちは彼を尊敬し、褒め讃える。女たちは瞳を潤ませてしなだれかかる。

 先程から聞こえる歌は歌声を合成した高速の絶叫。非人間的なBGMが今はちょうど良いと思えた。ここは非現実の夢。解放の恍惚に面倒な現実感は不要だ。
 幸福に浸るプーハニアをふと目覚めさせるものがあった。
 海の民が、とりたてて特徴の無い顔を緩ませて馴染みの店員に言い寄っている。
 強引な迫り方はあるいは暴力的なものに見え、プーハニアはかつての自分のあやまちを思いだし青くなった。制止すべきか、いや自分が今更どの口で、と迷っているうちに、酔いが醒めてきた。いや、もともと空気に酔っていただけであり、彼は正気のままだったのだ。それと一緒に仮初めの友情も色褪せた。

 さっきからこの海の民は自分の男らしさを店員にアピールし続けている。そこに自らが属する文化の賞賛が入り交じるのだが、自画自賛が行き過ぎるあまり他文化への侮りや女性蔑視が目に余った。酔漢は何度も同じ自慢をするものだが、端末の貝殻飾りに言及するのはもう五回目になる。いくらなんでも多すぎる。

 そもそも、とプーハニアはうんざりしながら嘆息した。貝殻で端末を飾ることなどはここ数十年の間に出来た伝統でしかないと聞く。しかも一般的には女性的な趣味とされているのだ。貝殻飾りなどはいかにも海の民らしい、ということに目が行くあまり男らしさの誇示を忘れているのだった。女性的とされる物事を忌避するがゆえの無知が生み出した滑稽さとも言えよう。

「なあおい、そのへんにしとけって」

「んん? いやいや違うぞ友よ、これは駆け引きというやつだ。嫌がっているようでその実まんざらでもない。そうした女心を解さぬとはまだ若いな」

 流石にこれはまずいのではないだろうか。
 プーハニアの予感は見事に当たった。店員のあしらいに不備は無かったが、相手の理性には箍が無かった。話を聞かない海の民は執拗に店員に迫り、ついには露骨に寝床を共にするように要求し始める。流石の店員もこれには困惑したのか、一歩身を引いて拒絶の意思を漏らしてしまった。
 途端、海の民は激発した。

「酌婦風情が、つけあがりおって!」

 男は突如として憤怒の形相になったかと思うと店員の頭を鷲掴みにしてカウンターに叩きつけた。躊躇いのない暴力に店内の時間が止まる。そのまま二度、三度と店員の顔面をカウンターにぶつけ、剛力にまかせて木片と血を撒き散らした。
 あまりに唐突な行動にだれも制止すらできなかった。

「この、この、この、調子に乗るな、我を愚弄するな、貧弱な小娘が! どうだ、腕力の違いというものを思い知ったか! 男に逆らうとどうなるか、たっぷりとその身体に思い知らせてやるぞ!」

 正気ではない、とプーハニアは思った。
 海の民はなおも喚きながら店員の服を剥ごうとしている。
 そのまま手籠めにしようとしている――のではなかった。

「そうだ、女がつけあがるのは全てお前たちに男根もどきがあるからだ。あれが全ての悪、元凶、女を活動的にさせる不自然な異物! 女は家を守るのが自然の在り方だ、異物を切除して自然なありのままの姿に戻すのだ。女が男根を持つなど思い上がりも甚だしい、我が誇りは、ああ、だというのに何故女であるお前たちばかりがそれを持っているありえない不平等だ不合理だ理不尽だそんなことはあってはならない女のくせにこの大戦士より男らしい部分があるなど許されない」

 病的な呟きは精神になんらかの不調を抱えている者特有の陰鬱さを孕んでおり、紡がれる怨嗟は独特の抑揚もあって歌に近い。彼は呪いを歌っていた。嫉妬と自傷と羞恥と憎悪が入り交じった恥知らずの歌。そのくせ彼はどうしようもなく怯えているのだった。驚くべき事に、この加害者は恐怖心から凶行に及んでいる。
 狂人は被害者の顔をしていた。

 プーハニアは腹の底から湧き上がってくる嘔吐感を必死に押さえつけた。
 恐怖。混乱。当惑。虹犬を襲ったのは理解不能なものを目の当たりにしたことへのおぞましさではなかった。
 むしろ逆。共感可能な相手、共有できる価値観や行動様式を持つ相手だったからこそプーハニアを襲った衝撃はたとえようもないほど大きかったのだ。
 これが完全に理解不能な異物なら敵として排除することも出来た。
 それこそ、『上』と『下』が長い間続けてきた戦争のようにだ。
 だが『男らしさ』を軸にした価値観や息苦しい世間への不満など、ある点では通じ合い、好ましく交流できる相手がこれほどまでの断絶を見せたことで彼の胃のむかつきは限界を超えた。

 親しい隣人が、突如として豹変したような。
 長い付き合いの友人が、危険な宗教団体の活動を始めた時のような。
 見慣れた世界が裏返り、使い慣れた手足が異形に変わる。
 彼は動けなかった。目の前で繰り広げられる凶行をただ呆然と眺めることしかできなかった。何もかもがおぞましく、触れがたいものに思えた。

 その時、海の民の動きが止まる。
 いや、止められているのだ。
 海の戦士の屈強な肉体を上回る膂力によって店員を押さえつけていた腕が止まっていた。誰によって? それは見たこともないほど太い漆黒の腕だった。
 巨大な腕は、店員の肩から生えていた。

「お客様」

 店員は夜の民であり、細腕はいかにも頼りなく実際に力は弱い。
 だがその足下に広がる影から次々に這い出す異形の獣レゴンが次々に店員の肉体に付着すると、その部位が夜の民の肉体と融合、膨張していく。使い魔を取り込むことで大の男を上回る巨躯となった店員は、力任せに男の顔を掴むとカウンターに叩きつけた。轟音と共に店が崩壊した。
 『創造』によって維持されていた柔らかな建造物は無数の粒子となって儚く砕け散り、第五階層の硬い地面が陥没して岩盤が隆起している。舞い上がる粉塵の中、巨大な怪物が身動ぎをした。

 それは途轍もなく巨大だった。複雑に枝分かれした雄々しい角、荒く息を吐く突き出された鼻先、天を衝くほどに長い翼。夜のように青く、空のように黒い、鹿と鳥の特徴を併せ持つペリュトン種族。しかし店員の本性は平均的な彼らと比較してもはるかに猛々しい。
 鹿をベースに翼が生えたもの、鳥をベースに鹿の頭が生えたもの、あるいはたゆたう闇や精神の触手がベースになった古い種までペリュトンの姿は多様だが、ここまで巨大で荒々しいものはそういない。
 それは一見して四つ脚の蜘蛛に似ていた。
 あまりにも長い前足と後ろ足は関節が高く突き上げられ、がさがさと動く様は節足動物を思わせる。何処を見ているかわからない、そのくせ凶暴に血走った目と口からは青い血を垂れ流し、「カプゥ、カプゥ」と恐ろしい鳴き声を上げていた。
 とりわけ生理的嫌悪感をもたらすのはその足先で、鳥の爪でもなく鹿の蹄でもなく、霊長類のような長い手指なのだった。
 真の姿をさらけ出した店員は、喉を震わせて吼えた。

「カプゥ――お客様、お客様」

 そして、海の民に何度もその巨大な手を振り下ろす。

「あなたが! 乱暴! するのは! わたくしでは! ありません!」

 解釈違い、解釈違いと滂沱たる涙を流しつつ絶叫する店員。
 カプゥカプゥと哀しく鳴く鹿はちらとプーハニアを見て、諦めたように目を伏せた。そして、海の民を影の中にずぶずぶと沈めてしまう。
 ことが終わると店員は元の姿に戻り、使い魔であるレゴンたちに散らばった酒や食料などの片付けを任せ、自身は『創造』による簡易店舗の再設営作業に入った。
 呆然としたまま、気付けばプーハニアは服を着せられて元の店内の片隅に座り込んでいた。先ほどの乱痴気騒ぎはまるで夢であったかのように現実感が無い。
 いや、もう彼は現実から興味を失いつつあったのだ。
 疲れた。世界は過酷で複雑すぎる。
 向き合うための熱量は既に彼には無いのだ。
 顔を上げると、そこには穏やかな佇まいの店員がいた。
 プーハニアはごく自然にずっと考えていたことを口にした。

「俺、シナモリアキラ(仕事)を辞めようと思うんだ」



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