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幻想再帰のアリュージョニスト 作者:最近

第4章 傷つけるのはハートだけ、口づけるのは頬にだけ

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4-55 栄えある女王の凱旋




 もし叶うなら願いは空に。
 奏でるのなら叫びは朝に。
 遠く、羽ばたく鳥の歌がかすかに聞こえた。
 きっと幻聴。この奈落にそんなものが届くはずもない。
 それでも時折、思い出したように囀るのがやめられない。
 闇に閉ざされた地下室で淀みなく上下する怨嗟の旋律。
 反響する耳障りな歌声はどこまでも寂しくて、ただ希望が削ぎ落とされていく。
 檻の外に手を伸ばし、深く息を吐き出した。

 俗なるヒトは聖なるカミを求め、光と闇、善と悪、清浄と汚穢、相反する二つを切り分けてよしとした。
 それらは対であるからこそ意味がある。
 光明を望むなら暗黒を肯定しなくてはならない。
 光が神ならば闇は魔であり、分かちがたい両者は表裏一体。
 次々と姿を変える信仰のかたち。
 ある時ある場所で、その二つを共に神であると定めた国があった。
 陽光に照らされた地上の王国と、暗い影に包まれた地下の王国。
 王国の調和は完成された神権とそこから滴り落ちた王権によって保たれる。
 光の中には宝石が。闇の中には血統が。
 平和のために飾られた玉璽は共に姫君の形をしていた。
 大切な至宝、秘された宝玉。
 その立場に満足してさえいれば、彼女はずっと完璧なお姫様でいられた。
 そのはずだったのに。

 地下室は彼女の――私の王国で、暗がりはどこまでも大きなお城だった。
 拘束具付の玉座はたいそう窮屈だったけれど、王の責務というのはたいてい窮屈なものだと彼女は幼いなりによく知っていた。耐えられないということはなかったし、仮に耐えられなかったとして何かが変わるわけでもなかった。実際のところ、私は自分が耐えられているのかどうかわからなかったし、それについて興味も無かった。きっと、彼女もそうだったはずなのだ。
 ただ、定期的に食料や本などを運んでくるコウモリやネズミたちに触れ、彼らにまとわりついた外の感情に触れるたび、首を傾げることがあった。
 彼女のことを恐れ、敬い、『狂っている』と心を震わせている遠くの臣下たち。
 おかしなことだ。
 ――私はただ、(のろ)っているだけなのに。

 来客は無い。暗がりの女王に謁見を求めるものはおらず、友人といえばコウモリとネズミ、それから彼らが運ぶ『穢れ』の黒いもやだけ。
 ずいぶんと永いこと私は――彼女はひとりだった。
 だからだろう。
 その日、小さなお客様を迎えるという珍事に彼女がうつろな目を輝かせたのは。
 幾重もの堅牢な守り、呪いの檻を眠らせて、衛兵のコウモリたちを下がらせることまでした。どうしてそこまでしたのか、後になっても私にはよくわからない。
 胸の弾みそうな予感を大事そうに抱えながら彼女は来客をもてなす準備をした。
 ひとりでに灯ったまじないの蝋燭が、闇の中を手探りで進んできた人物を照らし出す。驚くべきことに、まだ小さな――幼かった当時の私よりも一つ二つは年下と思えるような少女がそこにいた。いや、真に驚くべきは彼女の頭頂部にふたつ、三角形の耳が乗っていたことなのだが、なぜか彼女はその事実にあまりこだわりを持たなかった。まったくもって不思議でならない。

「ひどい夜ね、小さなお客さん。ここは軽やかな歌も自由な羽ばたきも許されない最果ての奈落。こんなちっぽけな牢獄に、いったいどんな御用かしら」

 あの頃の彼女には自分の世界を鳥籠にたとえてみせる程度のかわいげがまだいくらか残っていたと見えるが、私の視点で振り返るとずいぶんと恥ずかしい。
 突然の訪問者に浮かれて彼女一流の諧謔を披露しようとしたのはわかるが、少し抑えてもらいたい。だいたい、まだ幼い相手に何を期待してあんな自虐めいた言葉を投げかけたのやら。

 ところが、相手はこの困った言葉に的確に応じて見せた。
 つまり、鳥籠を前にした獣のごとき対応をとったのだ。
 しなやかな四肢をたわめ、跳躍の前動作が直後の躍動を予感させる。
 この時はじめて彼女は目の前の相手を正しく認識した。
 獣の耳を持つ少女は、あまりにも完璧だった。 
 原石のように無垢で荒々しい瞳、力みの無いしなやかな自然体、奔放な好奇心、それは純然たる獣の佇まい。
 ふんわりと広がる薄黄色のドレスなど余分な飾りだ。
 どんなふうに飾ろうと、その身はどこまでも獣でしかない。
 ただそこにあるだけの命。
 研磨など不要と訴える原石の在り方を、少女は体現しているのだった。
 獣は剥き出しの荒々しさでもって檻に爪を立てようとしていた。
 血が記憶する狩猟の性が命ずるままに、牙を光らせて飛び掛かる。
 脅威を排除しようと影が蠢き茨の壁と化すが、それを制止するものがあった。
 ほかならぬ、地下室の姫君だ。

「そう。けもの、おまえは私を攫いに来てくれたのね」

 黒い茨を掻き分けて、立ちはだかるネズミを食い荒らして、頭上を埋め尽くすコウモリを威嚇して。充満する黒い靄がその身を穢していることなど気にも留めず、獣の手が彼女の頬に届く。
 その瞬間、彼女は確かに受け入れた。
 椅子に拘束された彼女は両手を広げることすらできなかったけれど、弛緩した体と柔らかく微笑んだ頬は確かに獣を求め、受け止めようとするものだった。
 なぜって、鋭い爪は確かに恐ろしいものだったけれど、それすら素敵に思えるほど暗い地下室はつまらなかったから。
 蝋燭の明かりに照らされた爪の輝きを見て、彼女は思った。
 ――これが私の朝。
 私は、思った。それが私の目覚めだったように思う。
 ――これが私の空。
 ■■■■■■の求めた空想のかたち。
 誰かがこの退屈な日常(ろうごく)を破壊してくれるなんて、馬鹿な夢。
 完璧ないのちはすべてを壊してくれることでしょう。
 完全なお姫様のこころといのちごと、なにもかも。
 気紛れな獣が檻の中の鳥を捕らえてしまえば、後に残るのはもぬけの殻となった籠と散らばった羽、薄れていく歌の残響だけ。

 だというのに。
 私を襲ったのは、鋭い爪の一撃ではなく、柔らかな手の感触で。
 おっかなびっくり頬をなぞる感触がどこまでもやさしかったのを覚えている。
 どうして私はまだ生きているの。
 困惑していたのは、向こうも同じだった。

「けもの、おまえひょっとして」

 気付いてしまった。これは私の責任だ。
 私の願いが、私の欲望が、私の求めが、完璧ないのちを歪めてしまったのだ。
 先程までいた完璧な獣はどこにもいない。
 そうして、対として切り分けられていた私たちは不完全になった。
 互いに触れ合い、融け合い、ひとつの混沌として完成してしまったから。
 それはとても不幸な巡り合わせだ。
 だって、好奇心旺盛な愛らしい獣と籠の中しか知らない私との相性は、考え得る限り最悪のものであるはずだから。
 最悪の対として在り続けているこの私が保証しよう。
 その日、純粋だった私たちは互いに互いを穢し合ったのだ。



「まずは情報共有をしましょう」

 『リーナとミルーニャを仲直りさせて欲しい』――セリアック=ニアの要請でミルーニャ・アルタネイフの拠点を訪れることになった俺とトリシューラは、こちらの機先を制するかのような言葉で出迎えられた。
 応接室の卓上に浮かぶ黒い魔導書から奇怪な文字列が飛び出していく。
 こちらの端末に送られてきた情報の群れ。それはとある対談の記録だ。
 すなわち、ミルーニャとアマランサスとの非公式な会談の。
 聞けば、アマランサスはミルーニャだけに接触してきたのだという。
 ラクルラールへの叛逆を目論むアマランサス――彼女はアルト・イヴニルの半身でありトリシューラと同型の人工姉妹でもある。近々、成り行きで戦うことになっている相手だが、こうして思わぬところから情報が得られるとは思ってもみなかった。
 彼女の目的を素直に信じるなら、ミルーニャに協力を持ちかけたことはごく自然にも思えるが――奇妙な事にリーナ・ゾラ・クロウサーには計画を秘密にしようとしているらしい。
 なんでも、『クロウサー家が信用出来ない』という理由らしいが、さて。

「最終的に交渉は決裂したんですけどね。私はアマランサスを信用出来ないし、あの巨大グループに取り込まれるのは『使い魔』の呪術に取り込まれるってことですから、リスクが大きすぎるんですよ」

 それはそれとして、ミルーニャは雑談という形で相手側の情報をアマランサスから引き出していた。以下がその記録だ。

「『創造行為を愛しなさい、歪な被造物たち。つくられたものがつくるものになる、その転倒が不完全なお前たちをヒトに、そしてヒト以上のものに変容させるでしょう』」

 音声だけでなく、呪術による立体映像までもが浮かび上がった。
 紫のかかった髪色と暗い瞳が特徴的なよくできたお人形――トリシューラのようにテクスチャ呪術で体表面を覆っているのか、唇は滑らかに言葉を紡いでいた。
 引用らしき台詞にはどこか聞き覚えがあった。
 アマランサスの声が控え目な甘やかさを伴って響く。

「――トリシルの人形たちはみな、クレアノーズお姉さまの言葉を信じてそれぞれに趣味を持ったわ。たとえば模型作り。たとえば粘土遊び。それから人形遊び。詩を綴り、曲を奏で、道具を作り、衣服で着飾り、知恵の蔵を探り、私たちは己の世界を獲得しようと足掻いた」

「アイドルとして舞台に立つ、というのは創造行為に含まれますか?」

 ミルーニャの問いかけは本質を衝いていた。
 この異様な空間、これまでとはあまりにも異なる世界観に対する疑い。
 だが、実際にはそれもまた末妹選定の一部であるとすれば。
 果たしてアマランサスの答えはその推測を裏付けるものだった。

「アイドル――ええそうね。ご存知の通り、呪文の座は月の姫君と夜の姫君のアイドル対決で決まった。この地下アイドル迷宮は照明のあたる場所で輝くハルベルトになれなかった、リールエルバの欲望よ。私たちの中でもっとも不自由だった彼女は、それゆえにネットの海での自由を求めた。自己という仮面を解き放ち、大勢に認められる。それはとても心地よかったことでしょう。だからこの世界は彼女の創造行為の続きでもある」

 リールエルバはドラトリアの姫君だ。
 しかしその真実は『星見の塔』が作り上げた人工の姉妹であり、何らかの原因で死亡した本物の代役として用立てられた存在であると聞いている(その事実を俺に告げた時、トリシューラはどこか憂鬱そうに目を伏せていたが、理由は判然としなかった)。
 曰く、『原初の土』から捏ね上げられた最も純粋な泥人形。
 神話の根源獣パンゲオンの血肉が『原初の土』とされているが、真偽は不明。しかし『塔』の至宝のひとつであり、実際に万能細胞のように用いることが可能。その性質はきわめて『夜の民』に近いが、しかしより古い神秘であるとされている。

 完成した『トリシル一号』は純粋無垢な完成品だった。
 しかし、純粋すぎたがゆえにそれには先が無かった。
 当然だろう。始まりから完結している閉じた世界などに可能性は無い。
 求められていたのは未完成。完成へと踏み出そうとする力強い躍動のエネルギーこそが未知を手繰り寄せる。
 リールエルバはトリシルシリーズ最初の完成形であり、最初の失敗作だった。
 あまりにも優れた人形で、あまりにも完璧な偽物。
 それは本物と何一つ変わらない完全者。そのためにドラトリアとの取引材料として使用され、『塔』は潤沢な呪宝石資源を文字通り『山ほど』手にしたとか。

「だからこそ、かしら。原初の土から末妹を創造しようとする試みはトリシル一号だけで打ち切られ、呪石産出国であるドラトリアとの取引に使われてお終い。貴重な万能の粘土はもう『上側』には残っていないでしょうね。ホルケナウを経由して『下側』から分けて貰ったものだから」

「『塔』より古くから、ジャッフハリムでは独自に『アダム・カドモン』の研究がされていたということですか?」

 ミルーニャの問いかけの意味はよくわからない。トリシューラは理解している様子だが、どうもこの単語に関しての魔女たちの説明は要領を得ない。俺には知る必要が無いとでも言うように詳細をぼかして語られているようにも感じた。
 二人の会話は続く。

「厳密には中原全域で、それこそ獅子王の時代から賢者たちが取り組んできた永遠のテーマが『完全者の創造』よ。長い時間をかけてディスペータ派はそれを完成させた。厳密には、その下地を整えた」

「それがイネクシュネ原体――試験管の小人にして最後の始祖」

「ええ。真の意味での始祖――はじまり以前の隠された民。いのちが人類(ロマンカインド)精霊(テテリビナ)、空の民や夜の民などに分化するよりずっとずっと古い、根源獣パンゲオンの眷族種。すなわち、『根源者(ソーサラー)』」

 二人の会話は前提が多すぎて俺にはよくわからない。
 トリシューラが理解できていればそれでいいと言えばいいのだが、先程から頻繁に出て来る根源だとかパンゲオンだとか――魔女たちにとって、それはそんなにも大事なことなのだろうか。末妹選定に匹敵するほどに?
 完全者、根源者、そして未知なる末妹――何か、繋がりそうで繋がらないようなもどかしさがある。
 存在しない『何か』を前提にして話が進んでいるような、もどかしさ。

「完成した人工始祖は『アベルの末裔』と呼ばれていたと、前にウチのベルお姉様から聞いたことがあります。幾つかの成功例があると――ええ、金錐神が手ずから泥を捏ね上げて創った私を含めてね」

 瞬間、ミルーニャの声に刃のような鋭さが乗った。
 詳しいことはわからないが、彼女はそれを神の所業と言った。
 ならば、そのようにして生み出されたリールエルバはさしずめ神の子とでも称すべきなのだろうか。
 わからないことが多すぎるが、気になったのはその名前だ。
 『アベルの末裔』――ここではないどこかからの引用、そんな響き。
 殺された者。妬まれた者。愛された者。

「『完全者』に関する古い研究はラクルラールお姉様が引き継ぎ、レッテとネッセという傑作機に繋がった。レッテが自分のルーツを探る過程で『過去の成功例』に行き当たったのは必然だったのよ」

 アマランサスが顔をゆがめた。笑ったのではない。泣いたわけでもない。
 どう形容していいものか迷う、けれど確かな感情の揺れ。

「いずれにせよ――アルト・イヴニルは彼を選んだ。どこまでも美しい、完結しきった粘土の人形。塔の上で待ち続けるお姫様の聖婚相手として相応しいから、なんて自虐混じりに笑いながら、あの邪眼姫は自分の可能性を閉ざし続けているというわけですか。諦め癖もここまで来ると信念ですね」

 ミルーニャの吐き捨てるような人物評は褒めているのだかけなしているのだかよくわからなかったが、とげとげしさの中にわずかな柔らかさがあるようにも思えた。それにしても何を言っているのかいまひとつはっきりしない。
 というかこれ、誰について話してるんだ?

「仕方無いわ。だってレッテは完璧なお姫様だし、マラードは美しいだけのお人形なの。閉じたものは開かない。終わったものは始まらない。アルト・イヴニルの諦めは完璧な存在だからこそ揺るがない――その運命すら、操り糸によって定められてしまっている。ええ、リールエルバもそれは同じ」

 その三人の名前が、俺の中ではすぐには結びついてくれないままだ。
 だってそうだろう。こっちが知らない『塔』の事情でこういう風に繋がりがあります来歴や起源が一緒ですと言われても、はいそうですかとすぐに納得はできない。できないが、把握はできる。つまりこれは、現在の状況を整理しているのだ。

「マラードと共に完成したアルト・イヴニルは六王と原初の土の力を取り込み、より古い神秘を身に宿そうとしている。過去へ過去へ、根源へと遡って――並ぶものの無い至高のアンティークへとその身を高めようとしているの」

根源術(ソーサリー)なら、再演の呪力を覆せると? ラクルラールの未知なる運命の操り糸すら断ち切れるんですか?」

「どうかしら。私にもわからない。レッテの、アルトの抗いが密やかに燃える本気なのか、諦めに彩られた惰性なのか、本人でさえわかっていないのかも」

 アマランサスの言葉を最後に、会話ログは途切れた。
 素直に受け取ると、アルト・イヴニルの狙いはある程度はっきりする。
 あるいは、マラードがアレッテの手を取ったのは自らのルーツを求めてのことなのだろうか? アレッテがマラードにそれを求めたように。
 いずれにせよ、人形たちは手を取り合って過去へ、地層の下へと向かっている。そうして地下の闇にいるもうひとつの泥人形――リールエルバを求めているということなのだろう。
 この地下アイドル空間に挑んだ時からわかっていたことだが、事態の中心にはやはりリールエルバがいるのだ。あるいは、コルセスカの浄界よりも強い力で世界に影響を与えている可能性すらある。
 端末から目を離して、ミルーニャに問いかける。

「迷宮探索ゲームはコルセスカの浄界だとして、『地下アイドル迷宮』はリールエルバの浄界ってことがあり得るのか?」

「私はそれを疑っています。というより、セリアック=ニアは最初からその確信を持っているようでした」

 だからこそ『チョコレートリリー空組』は迷わずこの世界に身を投じた。
 それが大切な仲間の世界に近付くための最善だと信じて。

「ふむ。そうすると、私たちが勝ち上がっていくよりもセリアック=ニアを直接ぶつけた方が効果的なのかもしれないね」

 勝ちにこだわるトリシューラにしては珍しい態度だった。
 合理的という意味ではらしいのかもしれないが。

「私は私でもう少しリールエルバへのアプローチが無いか探ってみます。アマランサスへの対応はそちらでお願いします」

「いーよ。最初からそのつもりだったし。けどさ、リーナとは仲直りできるの? なんか喧嘩中なんでしょ?」

 トリシューラが訊ねた途端、ミルーニャは渋い顔になった。
 困惑を滲ませてこう語る。

「それが、相当臍を曲げてしまっているみたいで――しばらくアイドル活動はお休みして迷宮探索の方に専念すると、今朝メッセージが届きました」

 片手に持った携帯端末を示しながら言うミルーニャは少し憔悴しているようにも見えた。すると俺の頭上に乗っていた重みが不機嫌そうに身動ぎする。

「にあー」

 やめろ、髪を引っ張るな。
 オルヴァの身体だからと言って雑に扱っていいわけじゃないんだぞ。
 頭上に乗っている小さなセリアック=ニアはこちらの意思などお構いなしに自由に振る舞っている。この状態では理性があまり働かないらしく、奔放なふるまいにはある程度目を瞑る必要があるのだが、髪が抜けるのはちょっと。

「オルヴァ、なんとかしてー。にあ! 逆らうの、生意気!」

 なんかこの小動物、オルヴァに対してだけ態度が横柄というか扱いがぞんざいというか、キャラ変わってないか?
 何度も頭を小突かれるといい加減どうにかなりそうなので、解決策らしきものを提案してみる。

「こういうときはライブだ。場所が場所だし何でもライブで解決するに限る。二人で同じ歌でも演ればいい感じに感情をぶつけ合った的な空気が出来上がって仲直りする文脈に接続されるだろ。オルヴァの未来予測もそう言ってる。多分。ブレイスヴァブレイスヴァ」

 投げやりなキャラ把握にあきれたのか、ミルーニャは冷ややかに言った。

「――六王というのはシナモリアキラ化すると雑な生き物になるんですか?」

「まあ零落はしているな。ワンオフの高級機が安価な量産機になる程度には」

 大量生産のツールとしては便利だが、唯一無二の神秘としては弱体化するのが『サイバーカラテ道場』に取り込まれるということだ。
 俺の答えに、ミルーニャは溜息を吐いた。
 ソファにぐったりと身を預け、眉間に寄った皺を揉むようにして唸る。

「問題は、地下迷宮で荒ぶっているあのお馬鹿をどうやって掴まえるかですけど」

「それなら位置の把握から捕獲の段取りまでこっちでもう準備できてるよ。オルヴァの予測した地点にカーインを向かわせてるから」

 トリシューラの言うとおり、既にリーナをミルーニャに引き合わせる準備は出来ていた。やや強引だが、このくらいしないと話が進まない。
 そのかわり、とトリシューラは指をひとつ立てて要求を突きつける。

「そのネイルかわいーよね。『ドリミネール』のだっけ? そういうの、私たちに教えてくれない? ネイル呪術は専門外なんだ。あと、セリアック=ニアのアクセサリも試して見たいんだよね」

 勝負の趨勢は事前の準備で決する。
 ドラトリアという宝石の産地には世界有数のアクセサリブランドが軒を連ね、その美しさを競っているという。宝石大国のお姫様がアクセサリショップを立ち上げたとなればその話題性は十分。セリアック=ニアの協力を得られれば心強いし、ランク上昇も狙えるだろう。
 対価を要求するのは単純に必要だからというのもあるが、あくまでも対等な同盟関係であることを再確認するためでもある。トリシューラはそういう線引きにこだわるところがあった。
 ミルーニャは遠慮のないトリシューラを半眼で見たが、やがて諦めたように目を閉じて言った。

「わかりました。頼らせていただきます。私はその代償としてあなたがたの爪を整えて、セリアック=ニアはライブ用の特別なアクセサリを見立てると、それでいいんでしょう?」

 そんなふうにして話がまとまると、あとは実際に動くだけとなる。
 俺は端末で離れた場所で待機しているカーインに呼びかけた。

「カーイン、そっちはどうなってる。お嬢様は見つかったか?」

「そのリーナ嬢だが、少々まずいことになっている」

「何?」

「どうやらストーカー、あるいは厄介なファンに悩まされているようだ」

 予想してしかるべき事態ではあった。ミルーニャもセリアック=ニアも傍にいない状況ゆえに、リーナに危機が迫っている。
 音を立てて立ち上がったのはミルーニャだった。同時に頭の上でセリアック=ニアが爪を立てる。かゆいから止めて欲しい。

「詳しく聞かせて下さい」「まとめて肉球! にあ!」

 俺の知ってる肉球とニュアンスが違う。
 二人の剣幕に気圧されながら、そんな愚にも付かないことを考える俺だった。




 この世界では名声や評判はとりわけ価値あるもののひとつだ。
 仮に『妖精』と呼ばれる名声の運び手がいる。
 評価ポイントでもあるそれは、アイドルやファンたちが持つ通貨であり、同時に個人株でもある。もともとは評価獲得を推奨することでアイドルたちの全体的な質とファン層のモラル向上の効果を狙った制度だったらしい。
 それは『厄介なファン』の存在を抑止すると同時に、『自分は厄介ではないと確信している頭のおかしいファン』の存在を浮かび上がらせた。
 また、特定個人を陥れるために共謀して評価を操作しようとするものもいた。
 今回リーナを襲った悪意がどちらによるものかははっきりとしない。
 確かなのは、今の彼女が極めて危険な立場に置かれているということだけだ。

「ねえねえ、薬キメればタダでヤらせてくれるってほんと?」

「リーナちゃん、おじさん気持ち良くなれる薬いっぱい持ってるんだよ。リーナちゃんもこういうの好きだったんだね。おじさんたちとっても気が合うね。運命だよこれ、ね? ね? いいだろ? なあ?」

「突撃! ヤク中アイドルの素顔に迫る! 今回の配信では今話題の脱法地下アイドルリーナさんにインタビューを試みようと思いまっす! 登録よろ!」

 追う者と追われる者。
 悪意が恐れを飲み込もうとしていた。

「こっ、怖い怖い怖い怖いなにこれ気持ち悪いっ」

 箒にまたがったまま、しかし迷宮内部ゆえに最高速で飛び回るわけにもいかず、中途半端な高度をうろうろしながら逃げ惑うリーナ・ゾラ・クロウサー。
 そんな彼女に手を伸ばして群がるのは有象無象の欲望たちだ。
 その有様はさながら甘い匂いにつられて集まった虫の大群。
 ぎらついた目、興奮した口調、紅潮した顔、荒々しい獣欲の滾り。
 煌びやかな衣装を身にまとい、歌い踊り輝くアイドルに向けられる熱狂が、どす黒く歪んでその場に現れていた。
 原因は単純。有名人につきもののスキャンダル。
 扇情的な見出しに彩られた違法薬物使用の疑惑がリーナにかけられていた。

「なるほど、ネット上のデマが原因か」

 カーインに呼び出されてやってきてみればこの騒ぎ。
 実力行使に訴える悪質な手合いは人ごみに紛れたカーインが昏倒させているのだが、何しろ数が多い。まとめて相手にしようものなら騒ぎはますます広がって、最悪乱闘騒ぎになるだろう。悪質なファンとはいえ堅気の連中が相手なのでカーインも手を出していいものか迷っている様子だった。
 ボディスーツにヘルメットという警備員のような恰好をしたトリシューラが自動小銃を構えながら小首を傾げて言った。

「天井に威嚇射撃して黙らせる?」

「火消しが先だろ。麻薬がらみのスキャンダルなんてありふれたネタだが、医師にシロと断言させるくらいはしたほうがいい」

「んー、ていうかこれ、もう鎮火した炎上を蒸し返してるみたいなんだよね。周回遅れの使い回し炎上みたいな?」

 聞くところによると、リーナ・ゾラ・クロウサーは以前に似たような炎上に巻き込まれたことがあったのだという。その時は実家の力でどうにか火消しに成功したのだが、何者かがまたそのネタで彼女を揺さぶろうとしているようだ。
 取るに足らないデマと切って捨てるには、アイドルという立場は繊細に過ぎた。
 地下アイドルといってもイメージはやはり重要なのだ。

「困りましたね。こういうのは理屈で言ってもどうしようもありませんし――名誉棄損や偽計業務妨害として法的手段に訴えましょうか。『シアンクリーニング』の法務部に対応させるの、あまり気が進みませんが、この場合は仕方ありません」 

「にあ! みんなまとめて肉団子!」

 サングラスとマフラー、ピーコートという服装で変装したミルーニャが難しそうな顔で言い、ニット帽の中から顔を出したセリアック=ニアが獰猛に唸った。
 それにしても、悲鳴を上げながら右往左往するリーナを地上の群衆が追い回すこの構図、どうにもできすぎている気がしなくもない。トリシューラに視線を向けて確認するが、返ってきたのは否定の意思。どうやら彼女の仕込みではないらしい。

「いや、メートリアンに退治させるための暴漢は雇おうかと思ってたんだけどね」

「またベタな。それはともかく、これは本当にどっかからの攻撃ってことか」

「そうと決まったわけじゃないよ。炎上大好きな暇人とかマイナスのお仕事で稼いでる人たちがとりあえずでやっただけかも。そういうのってよくあるんだよ」

 俺たちが状況を分析している間にも群衆はさらに加熱していく。
 というより、昂ぶり過ぎているようにすら感じられた。
 確かに刃物を持ち出してとびかかったり『炸撃』の呪符で放火しようとしたりするような頭のおかしいファンは常に一定数いるものだが、それでも全てのファンが根っから邪悪というわけではない。
 だというのに。

「おい、カーインの仕事量、増えてないか?」

「ていうか、追いついてない。やばい、アキラくん、走って!」

 異常な事態が進行していた。
 虫のように群がる悪質なファンたちは枷から解き放たれたように、一斉にナイフを、呪符を、小弓を、折り畳みの槍を手に唾液を吐き散らしながらリーナに襲いかかろうとしている。
 男たちはみなその顔に欲望を漲らせ、目の前の獲物を凌辱せんと殺到した。
 性欲と暴力への衝動が一体となり、悪意と殺意を思うがままに排泄する男たち。ある種の熱狂が互いに増幅しあいながら爆発しようとしていた。
 俺は走りながら対集団用の義肢に換装しようとしたが、その真横を一陣の風が駆け抜けていく。ニット帽が飛ぶのも構わず、ミルーニャが頭上のセリアック=ニアと共に爪を輝かせて叫ぶ。

「奔れ金錐、断絶の壁に爪を立てろ!」

「おねがい、ナーグストール!」

 虚空を切り裂く爪。二人の呪術が光となって空を埋め尽くしていく。
 リーナと群衆との間を遮るようにして広がった光は薄い膜となり、あらゆる力を遮断する呪術障壁として完成する。
 しかし、異変はそれだけでは収まらなかった。
 行き場を失った暴力が放たれないままに地上に滞留し、群をなす男たちの間で更に凶悪に膨れあがっていく。爆発はすぐだった。
 欲望の対象は一つ。しかし求める雄は無数。
 であれば、結論は自ずと定まっていく。

 罵声、罵声、罵声が飛び交う。
 リーナに向けられていた醜悪な欲望は隣の男を如何にして屈伏させるか、あるいは打ちのめすかという方向へとすり替わり、事態は凄惨な乱闘へと変質していた。こうなるともうカーインの暗躍だけではどうしようもない。
 争いはエスカレートし、武器を直接振るっての殺し合いに発展していく。
 箍の外れた過剰な暴力性。
 剥き出しの欲望。
 俺は、この光景を知っている。

「あいつ、今度こそ粉々にしてやる」

 トリシューラが低い声で怒りを露わにする。
 その攻撃性の矛先がどこに向かうにせよ、今は目の前の事態を蒐集しなくてはならない。暴徒鎮圧用のネットを左腕から射出。トリシューラも催涙呪符で乱闘を終わらせようとするが、一部が逃れてナイフを出鱈目に振り回した。
 その刃は勢い余って男の手からすっぽ抜け、回転しながらミルーニャの方へと飛んでいく。虚を突かれたのか、回避が間に合わない。

「え」

 見開かれる目。頭上のセリアック=ニアが爪を伸ばすが既に刃はミルーニャの眼前に迫っており、その顔に傷痕が刻まれてしまいそうになったその瞬間。

「何をしている」

 空から、言葉が降り注いだ。
 途轍もなく巨大で、途方もなく重い問いかけ。
 威圧されたナイフは萎縮し、縮こまり、慣性を消失させるとすぐさま地面に平伏してみせた。まるで不可視の巨人に踏みつけられでもしたかのような唐突な落下。
 大気が鳴動し、大地が怯えて息を潜める。
 誰もがおののきながらも空を見上げずにはいられなかった。
 彼女は空から俺たち全てを睥睨していた。
 閉じられた空間であるはずなのに――彼女が君臨しているというだけでそこは限りのある天井ではなく限りなく広がる天上となり、その瞳が見下ろしているというだけで上下の位置関係が規定されていく。

「私の――先輩に。何をしていると訊いた。答えろ」

 爛々と輝く目が一人の男を捉えた。途端、その顎が持ち上がり、強引に持ち上げられていく。何か見えない手で掴まれているかのように、その全身が浮き上がりつつあった。苦痛の呻き声が響き、男たちの欲望は次々と恐怖へと変質していく。
 のし掛かってくる頭上の威圧感に耐えかねた男の一人が失神し、別の一人は失禁してうずくまった。畏怖は連鎖する。最後には平伏し、許しを請う声の大合唱。

「うわ――座標系操作、しかも概念掌握級の大呪術?」

 トリシューラが信じられないというように感嘆の声を上げるが、よく意味はわからない。だが俺にもリーナ・ゾラ・クロウサーが途轍もないことをやってのけているということだけはわかった。これが地上の覇者、クロウサー家の当主の力。
 いつか俺は半ばはったりでパーンの前で彼女を持ち上げて見せたことがあるが――実際には俺の予想以上に『空使い』はとんでもない人物だったようだ。

 捉えられた男は空中に固定されてもがきながら必死に許しを請うていた。
 謝罪と命乞いを繰り返す様子は惨めだが、高みに立つリーナの瞳には何の感情も浮かんでいない。どこまでも隔絶した上位者の視点で睨め付けるだけだ。
 リーナは寛容な言葉を振り下ろす。

「許そう。お前の命数が尽き果てるこの裁きにより一件落着とする」

 手をかざす。恐怖に引き攣る男の目の前で展開されたのは一挙動で発動する簡単な呪術だった。『空圧』と呼ばれる、相手の動きを阻害するための基礎の呪い。
 ただそれだけの呪いに、空が悲鳴を上げていた。
 空間が軋み、風が泣き喚き、世界が傷をさらけ出す。
 かつて人は大いなる自然に神を見出し、抗えぬ気象現象である風にもまた大いなる神の意思が宿っていると信じた。
 かくの如く、目の前で渦巻いている風は神の顕現そのものだった。
 抗えぬ死は不可避の運命。
 襲われたが最後、天に定められた寿命がここで尽きるのだと諦めるしか無い。
 絶望が男にのし掛かろうとしていた。

「駄目――っ! やめなさい、この大馬鹿!」

 絶対なる神の支配に抗うように。
 力強い叱責が響き渡った。
 ミルーニャ・アルタネイフは臆することなくリーナの真下へと近付いていき、そのままおもちゃのスリングショットを取り出してぱちんとゴムの弾丸を投射した。
 ぺし、とリーナの額に命中する柔らかい球体。それに乗って運ばれたセリアック=ニアが跳躍してリーナの三角帽子にしがみついた。

「りーにゃ、こわい! ぼーくんキャラはトリシューラと被るからダメ!」

 駄目出し、そういう理由でいいのか?
 ミルーニャはミルーニャで、空中に固定された哀れな男を蹴っ飛ばして解放したあとは苛立たしそうに踏みつけている。どうも空組は揃ってろくでなしの身の安全とかはどうでもよさそうだ。正直俺もどうでもいいのだが。

「リーナ。守れなかった私の落ち度を棚に上げて言いますが、直接手を下すと今後のイメージに影響します。アズーリア様や、あといちおうハルベルトなんかの活動に支障が出るといけませんから――やり過ぎないようにして下さい」

「えと、はい。わかりました、せんぱい」

 ぽかんと口を開けてミルーニャを見るリーナ。
 ゆっくりと高度を落としていく。

「心配かけてごめんなさい」

「こちらこそ、あなたを一人にしたのは失敗でした。もう少しアイドルの身の安全に気を配るべきでしたね」

 二人とも力無く肩を落として謝罪し合う。
 なんとなく、しんみりした空気になっていた。
 邪魔しないよう、黙ったままカーインと共に倒れた暴徒たちを拘束すると、どこからともなく現れた警備ドローンとポリシューラが「麻薬取締法違反だよーしょっぴくよー」と男たちを連れて行った。
 この様子だと余計なことをしなくても『チョコレートリリー空組』の関係は修復されそうだ。リーナの豹変には驚かされたが、ミルーニャと向かい合っている彼女からは先ほどの威圧感は消えている。

「うーむ。私、怒りのぱわーで覚醒してた? 今のもっかいできるかな。てかさっきの『空圧』すごくね? もうリヴィちゃんの後釜枠で英雄になれそうじゃね?」

「調子に乗らない。あと落雷で死んだ屑女の話題はやめて下さい。耳が腐る」

「はーい」

 仲睦まじそうに話す二人からはどこか似た雰囲気が感じられた。息が合っているのだろう。張りつめていた空気がゆっくりと落ち着いてきている。
 ひとまずこれで安心といったところか。これでアクセサリは何とかなりそうだ。あとはトリシューラのドレスが完成するのを待てばいい。
 そこから先は対策とレッスン、そして時の運がすべてを決めるだろう。
 『アマランサス・サナトロジー』との決戦の日は近い。

 それにしても。
 この白骨迷宮に渦巻く熱狂は輝かしいばかりでなく、薄暗い欲望や醜い側面もあるということを改めて認識させられた。それが呪術によって誇張され、扇動された結果のものだとしても、こういった空間には確かにそういった負の要素も集まりやすくなるのだ。
 アイドルへのネットストーキング。
 SNSでのつきまとい、いやがらせ。
 端末片手に憎しみを募らせる愚者たちは、しかしそれを楽しむしかない。
 笑い、菓子を摘みながら、弛緩した憎悪と怒りを拡散させていく。
 その果てに、剥き出しの槍を掲げて血肉を求めるまでエスカレートする。
 呪いのように、嘆きのように。
 捕縛された男たちの呻きが次第に遠ざかっていく。
 それでも、地下迷宮の空気は未だ淀んだままだった。



 闇の中をひた走る。揺れる視界、荒れる呼吸、羽のように軽いはずの背中の重みがじわじわと体力を奪っていく。
 背後から浴びせかけられる罵声、そして迫りくる魔性の刃から必死に逃げる。
 殺人鬼は執念深く俺とリールエルバを付け狙い、何度迷路の角を曲がっても正確にこちらの位置を把握して追跡を続けてきた。
 どこにつながっているのかもわからないような迷路で延々と殺人鬼と追いかけっこなんて最低な部類の悪夢だが、俺たちが置かれている事態は更に悪かった。
 なにせ、追っ手の殺人鬼すら命を脅かされている。
 必死の形相でこちらを追い回す彼もまた、破滅に追い回されているのだった。

 かしゃん、かしゃんと金属を擦り合わせる音がする。
 一度だけ目にしたのは巨大なハサミの輝き。それから首なしの大男。
 べちゃり、べちゃりという粘性の音がする。
 二度、遭遇したのはとてつもなく巨大な吸血ヒル。
 がこん、がこんと重々しい音がする。
 三度、心臓を狙ってきたのは白木の杭打ち機を担いだ大柄な狩人。
 その他、毛むくじゃらの巨猿、コウモリのような仕立てのドレスを纏った妖女、奴隷を従える仮面の王、影と一体化した牙と口の集合体、矮躯禿頭のネズミ人、黒ずんだ白衣の医師、触手の詰まった全身甲冑など様々な異形が次々と現れ、彼らに共通する血のような瞳を爛々と輝かせて俺に手を伸ばす。

「よこせ、その血肉をよこせ」

 怯えたような悲鳴が上がる。
 拒絶の意思を俺の背中に強くしがみつくことで示しながら、必死になってこちらを急かす。俺は馬の気分で休み無く走り続けた。
 迷宮を徘徊しているあの怪物たちはみな吸血鬼だ。
 どのような理由かは知らないが俺の血肉を狙っている。
 協力し合っているわけではないのか、互いに遭遇すれば獲物を巡って相争うのでその隙に逃げることができた。
 そうやって繰り返し難を逃れてきたが、いい加減こちらの限界が近い。
 俺の体力だって無尽蔵ではないのだ。
 こう言ってはなんだが、リールエルバという歩けない荷物を抱えているのもかなり負担となっていた。

「どこか、安全な場所は無いの?」

 こっちが知りたい。
 とはいえ不安そうに震える声を聴くと強く言い返すことはできない。
 今の彼女は圧倒的に無力だ。
 きっとさぞ恐ろしい思いをしていることだろう。

「大丈夫だ、必ず逃げ切る」 

 呼吸を合間、無理をして空元気を見せる。
 リールエルバにもそれが虚勢とわかったのだろう。背中で身を固くする気配があったが、それきり彼女はおとなしくなった。
 気を遣わせてしまった――いや、気を遣わせたのだ。
 我ながら卑しいことだ。
 うんざりしながら先を急ぐ。出口、とにかく風が通っていそうな場所が見つかればそこから活路が開けるのだと信じたい。
 だが、奮い立たせた意思を挫くかのように更なる脅威が迫り来る。
 頭上から聞こえてくる大量の羽音。壮絶な悪寒が走った。
 振り返ると、空中を埋め尽くす大量のコウモリ。
 リールエルバの悲鳴、咄嗟に身を屈めるが、まとわりついてくるコウモリたちは離れない。背負われているリールエルバが危ない。

「嫌、やめて――控えなさい、無礼者!」

 叫びと共に世界が反転する。力関係がぐるりと裏返った。 
 下で襲われているものが上から襲いかかってきたものに権威を振りかざし、屈伏させる。暗い地の底ではその在り方こそが正しい秩序なのだ。
 コウモリたちは命じられたとおりにリールエルバから離れていくと、お決まりの逆さま姿勢で天井に並んだ。こうして綺麗に整列しているとまるで女王に従う兵隊のようにも見えた。

「やめて、やめて、私の仔をとらないで」

 哀れっぽく懇願するのは妖艶な女吸血鬼。コウモリの羽を象った意匠の露出度の高いドレスを身に纏っているが、惨めなほど痩せ細っているせいかサイズが合っていないように見える。というか、先ほど見かけた時よりも体積が減っていた。
 リールエルバが手招きすると、天井のコウモリが一匹彼女の手に留まる。

「ああ、これはお前なのね」

 白い手が無造作にコウモリを掴み、握り潰す。
 力を込めたわけではない。彼女が生まれつき持つの力――『生命吸収』の呪いがその血肉を奪い取ったのだ。途端、妖女が苦痛に悶えて引き攣った声を上げる。
 リールエルバは次々とコウモリたちの命を奪っていった。
 その度に女吸血鬼の瞳から光が失われていき、やがて叫ぶだけの体力すら奪われてぴくりともしなくなる。

 リールエルバの掌に揺らぐ呪力は際限なく増していく。
 背中の少女はどこまでも冷淡に、単純な呪いひとつで目の前の命を終わらせようとしていた。彼女の無慈悲な行いを目の当たりにした俺は、

「よし、そのままやってしまえ」

 と後押しをする。
 剥き出しの死、血と闇に畏れを抱いたヒトはそれらを神格化したという。
 ならば命を奪う彼女こそこの地底の神に他ならない。
 天命が尽きるが如く、矮小な生命の一切が無に帰していった。
 止める理由がどこにあろう。ここに侍るのは女王の暴虐を肯定するシナモリアキラただひとり。俺は彼女の暴力を肯定する。そのためのサイバーカラテだ。

「とてもいい気分。少し、力が戻ったみたい。ええ、一体ずつならどうにか喰い殺していけそうね。ほら見てアキラ、てのひら、血色が良くなっていない?」

「ああ、そうだな。綺麗な手だ」

 正直、以前との差がよく分からなかったので曖昧に返したら、リールエルバは「まあ」と言って手を引っ込めてしまった。
 一難は去ったが、また次の追跡者がやってこないとも限らない。
 そこの角でナイフを持った殺人鬼がじっと息を潜めているのは既に気付いていたが、どうやら慎重派らしくリールエルバを警戒して様子を窺っているようだ。

「アキラ。使い魔で追っ手を撹乱するわ。走ってちょうだい」

「わかった」

 できるのか、とは訊かなかった。
 確信の通りに事態は進んだ。リールエルバの手から放たれた黒い靄から次々とコウモリが飛び出し、殺人鬼にまとわりついていく。その隙に走り、俺たちはしつこい殺人鬼を撒くことに成功した。

 誰かが近付いてくる気配が無くなったところで、走るのを止めてゆっくりとした歩行に切り替える。休憩しないと体力が持たない。
 それにしても、と移動しながら考える。この白骨の迷路は何かがおかしい。

「彼らはあなたの血を求めているみたいね。確かに、興味深くはあるけれど」

「殿下まで俺の血をご所望ですか? あまり美味しくは無いと思いますが」

 こちらに体重を預けて耳元で囁くリールエルバの声はわずかに濡れたような感触があった。思考の深いところで、何か抵抗がある。彼女に触れられている首筋、その場所は、たしか。

「珍味ではあると思うの。それに、価値は保証されているでしょう」

 一体何の話をしているのだろう。
 身を固くしていると、耐えかねたように少女が吹き出した。

「冗談。人のものを奪ったりはしないわ。危うくて愉しそうではあるけれど、あとが怖いものね。それに私は牙を使って直接吸い出すなんて古めかしいやり方、知らないもの。はしたないし、不潔でしょう?」

「穢れを司る吸血鬼が、衛生を語るのですか?」

 純粋な疑問を述べると、吸血鬼の姫はおかしそうに言った。

「今のも冗談。本当はね、怖いの。私は血と肉が怖い。暖かみのある生身のいのちがおぞましい。死と退廃に彩られた麗しき闘争なんて、映像の中だけで十分じゃなくて? 本物の暴力が目の前に迫ってくるなんて、恐ろしくて仕方無いわ」

 しがみつく手が震えていた。リールエルバは吸血鬼たちを恐れている。
 彼女は一度も物理的吸血をしたことがないという。
 血と肉を恐れる吸血鬼。だがそれは欠陥ではない。
 むき出しの暴力を恐れ、しかし同時に物語のそれには強く憧れる。
 闘争への興奮は一方的な暴力の行使を躊躇わせない。だからこそ彼女は君臨者として躊躇いなく敵対者の命を奪えたのだ。

「殿下のそれは、高貴さのあらわれだと思いますよ。育ちが良くて結構じゃないですか。泥臭く競い合うのは俺のような者に任せていればいいんです」

「おべっかがお上手。トリシューラにもそんなふうに仕えているの?」

「さあ、どうでしょう」

「生意気なこと」

 どこまでも暗い通路を、穏やかな時間が過ぎていく。
 気が付くと、俺の足は自然とその場所に導かれていた。
 風の流れが臭気を運び、背筋を撫でる悪寒が心を波立たせる。
 通路の果てに、円形の空間が開けていた。
 広間の中央。悪臭はそこから広がっているようだった。

「ああ、なんてこと」

 背中で声を震わせるリールエルバ。
 涙の雫が肌に落ちる。
 恐怖でも悲しみでもなく、歓喜から彼女は泣いていた。
 蝿の羽音が嗚咽を掻き消す。
 地に突き立つ長い槍。その穂先に腐り果てた生首が突き刺さっていた。
 虚ろな瞳が壁の蝋燭を映す。
 そこに、愛おしく愛らしい闇色の豚が骸を晒していた。

「やっと会えた。お姉様」

 それは、俺たち二人にとって再会だった。
 蛆がたかる豚の生首、醜い屍、それは女王。

「素敵な夜ですね、愛おしいアキラ様、そして可愛いリル。ずっと待っていましたよ、わたくしの大切な子供たち」

 優しい声が囁くと、壁の蝋燭が激しく燃え上がり広間の床を照らし出す。
 傷だらけの肢体を投げ出した紅紫の髪の人形が打ち棄てられ、夥しい数の異形の軍勢が残骸となって飛散していた。そこは戦場跡で、共同墓地でもあった。
 そこら中を徘徊するのは骨でできた獣たち。
 犬、あるいは狼だろうか。
 女王は獣を従える森の狩人でもあった。
 揺るぎない意志と理性に裏打ちされた彼女の声は、響き渡れば冬を春に、雪をせせらぎに、闇を影に変えていく。

 ところで狩人が根城にしている森は楽園だった。
 起き上がった人形の屍たちは女王の下僕となってその安寧に身を委ねる。
 そこには暴食があり、飽食があり、美食があり、およそありとあらゆる原初の快楽が住人たちの心を満たしていた。飽くなき欲求は泉のごとく滾々と湧き出してくる。貪り、淫蕩、死によって生を繋ぎ、死によって生を融かす――。
 月夜に響く遠吠え。恐ろしいと誰もが耳を塞ぐ。
 獣が、悪魔がそこにいる。ひりつくような死の恐怖が牙を呼び覚ます。

 迷路を徘徊する吸血鬼たちが恐れおののく。
 血に飢えた怪物たちが恐慌し、必死の形相で相争う。
 我々は知っている。
 極限の環境に置かれずとも。愛と水と糧に恵まれようとも。
 永遠の死、永久の享楽、再生し続ける宴の日々であっても、貪りの獣はその凶暴な本性を薄れさせるどころかますます膨れあがらせていくのだということを。
 獣は牙を研いでいる。
 夜に潜む獰猛な唸り、その呼び名を恐怖といった。

「安心して下さい。ここは安全です。この場所には理性しかないのですから」

 豚の生首は口を動かさずに語り続ける。
 ここは満たされた場所、宴の場であると。
 地下深くで輝く星々の煌めきをいつまでも楽しんでいられる楽園なのだと。

「いつまでも、このゆりかごで微睡んでいて良いのです」

 満たされた楽園では、満たされているがゆえの獣性が育まれる。
 飽いたものから獣になる。
 理性を有したまま、ソファにもたれながら野獣のふるまいができるようになる。
 それが人というものだ。
 神を前にした俺たちは、共に跪いた。
 大いなる死を前にして、ヒトができることはただそれだけなのだ。



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