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幻想再帰のアリュージョニスト 作者:最近

第4章 傷つけるのはハートだけ、口づけるのは頬にだけ

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4-39 オルヴァ王と十二人のシナモリアキラ6

 遡る、遡る。老人は少年期を過ぎ去り、母親の胎内へと回帰する。
 世界を巡り、時空を幾度となく渡っていく。
 生と死の輪廻の果て、賢者は求めの声を耳にした。

 世界を愛する歌が聞こえる。輝く黄金のような美しい魂の歌が。
 世界を憎む怨嗟が聞こえる。割れた鏡のような醜い心の呪いが。
 それはこの世界には在らざる異物の呼び声だ。
 墓標船、猫、あるいは異界。
 それらが生み出した、巨大な『王国』。

 紫の王は偏在する。
 気まぐれにその場所に辿り着いても不思議は無かった。
 降り立った場所は古い国。
 中原を支配し、周辺の諸部族を平定し、大陸にその名を轟かせる年若い国。その統治者と同じように、生まれたばかりで歴史の無い国だ。
 治めていたのは、三角耳の獣に影響を受けた人にして人を超えた存在。
 獅子王と呼ばれた少年と、その兄たる大公。
 そして王に従う十二の賢者たち。
 紫は賢者として招かれた。
 不在の席を埋めるため、必要とされたのは紫という色彩。彼は純粋な機能としてその力を振るった。時に適切な助言を、時に必要な予言を。そうすることで未来は刻々と変容し、書き換えられていった。

 対等の存在と友誼を結ぶことなど久しくなかった。己が半身であった庭の隠者は王自身でもあり、既に友とは言えなかったのだ。王は恋を知っていたが、友情に飢えていた。彼はありきたりな生の楽しみを好んだ。
 獅子の王は真理を見通す知性とあらゆる存在を受け入れる度量を併せ持つ、偉大なる存在だった。予言王をして『器が違う』と確信させてしまうほどの圧倒的な覇気。それでいて少年王には臣下たちを友として扱う親しみ易さもあった。
 大公は偉大な弟に対して複雑な感情を抱いており、微妙な立場に置かれていた。それでいて弟に勝るとも劣らぬ圧倒的な知恵と呪力を有していたため、王宮の中で孤立していた。二人の差は人徳、そして器の大きさであると誰もが噂していた。その噂に引きずられたか、それとも元からの気質か、大公は気難しい性格ゆえに自ら孤高を貫いていた。しかし紫とは共通する感性を有しており、

「ああ、全てはむなしい」

「おお、ブレイスヴァよ」

 と二人して草の煙を燻らせながら、厭世的な気分に浸ることもあった。
 ある時、予言王が飼い虎に生贄を与えていると、大公が通りかかった。はぐれ者の王子は老人を見ると非難がましい口調で、

「残酷なことをする」

 と言った。
 カシュラム人は生贄と神への信仰との関係について説いたが、大公は逆にその生贄がふさわしいのかという問いを立てた。二人の議論は朝まで続き、互いに妥協点は得られなかったものの、相手への敬意と尊重を忘れることは無く、その後も交友は途切れることが無かった。友というには少しだけ奇妙な関係ではあったが。
 予言王は知っていた。
 王の兄が、いずれ彼にとって最も重要な物語を完成させてくれることを。

 古い時代、号を冠された色は十二まで存在するとされていた。
 しかし最後の一色に至った者はひとりとしていない。
 獅子王は未知を求めて賢者たちと共に研究を重ねた。
 創造の果て、完成品は出来上がった。しかしそれは出来損ない。
 『なでしこ』のストラタイは蛙たちの住む異界を手繰り寄せて次元の彼方へと消えた。代わりとして選ばれたのが『紫』の予言王だった。

 そして彼らは永劫とも思える時を過ごした。
 永命の王は少年の姿のまま完成されていた。
 輝かしい時代のまま、美しい統治で国を富ませた。
 定められた命であれば幾つもの代を重ね、支配の在り方は変容していかざるをえない。しかし永遠の王はずっと少年の心を宿したまま、夢の理想郷を保ち続けていた。
 『王国』は完全だった。
 のちのあらゆる『王国』の雛形、完全なる物質世界の光。
 槍の頂点から流出する叡智をあますところ無く受け止める器。
 そこに老人の美しき『過去』があった。
 彼は少年の姿で『王国』を駆け抜ける。

 黄金の獅子王に跪き、鏡の大公と銀の恋について語らった。
 最初の席を与えられた紫は呪いに彩られた歴史を記憶し、夢に見た。
 群青の影と世界を語り、気ままに物語を歌った。
 黄は王に忠誠を誓う限り気の良い相手だった。
 緑の在り方は興味深く、誰もがこの女神を敬った。
 偏屈な橙と再演の旅路で再会し、時の遊戯に興じたのは良い思い出だ。
 藍の魔女はオルヴァに最も礼を尽くし、彼を尊重した。
 朱の少年は逆にオルヴァをひどく疎ましがって夢の城に姿を隠した。
 先任の紫であった大いなる明藍からは多くを学んだ。
 灼かれた砂漠とは争いの無情を嘆きながら殺し合った。
 灰の旅人は良き道連れで、時の果てを共に彷徨い戯れた。
 白き広漠の漂いには果てが無く、黒き深淵はあまりに遠い。
 色とりどりの賢者たちが少年となった予言王の前を通り過ぎていく。

 藍の転生者が大いなるブレイスヴァのことを少しばかり誤解していることは気にかかったが、それは些細なことであった。マシュラム人の中で、藍の賢者はもっともよく滅びの美しさを理解している。いずれ火竜の舌の上で会いましょう。いつもそう言って別離を惜しむ彼女の為に、紫は未来を力強く見通し、滅びに向かう助けとなる終末の獣たちを予言した。
 王と賢者たちはそれぞれ異なる手段で、一つの大業を成そうとしていた。
 紫は親しき仲間たちが好きだった。
 そこに、確かな絆があった。
 優しき少年王は、麗しい笑みを浮かべて言った。

「世界が、優しく完成しますように――」

 少年王の願いが光の中の闇、闇の中の光となって宇宙を包む。
 紫は主の為にも、終端がブレイスヴァに貪り尽くされる未来を願った。
 少年の尊い願いも友との大切な時間も、全て無為に喰い尽くされればいいと。
 始まりの願いに、大いなる災いあれ。
 優しい気持ちに包まれながら、純粋にただ祈る。
 この煌めく黄金時代が、忌まわしい破滅に砕かれる事を。
 果たして、予言王の見た光景は現実となった。

 炎上する王宮。
 破滅の大顎によって砕かれる『王国』。
 赤子へ回帰して子宮の奥に戻り、冥道から逆流して死へと追放される生命。光のごとき加速によって老いて朽ち果てる繁栄。全てが停止して未完成のまま放置された文明。紫色の破滅が輝きを無に返す。
 怨嗟と憎悪の絶叫を迸らせ、来世での復讐を誓いながら絶命する藍。
 夢を砕かれて集合無意識の底に封じられた朱。
 最も忠実に王に仕えていた黄は罠にかけられて敗北し、ばらばらに砕かれて各地の地中に埋められ、その上に山で蓋をされてしまう。
 互いに対等ではあったが、未来を見通し、慎重に行動を重ねれば賢者たちの動きを封じることは不可能ではない。それに彼はひとりではなかった。

「どうして――? どうして、こんなことをするの?」

 涙と苦痛に彩られた少年の顔。
 優しく微笑みを浮かべていた王のかんばせを、そっと撫でる。
 牙の五指で腹腔を食い破り、しつこく抉った。
 指先で臓腑を掻き分け、最大の苦痛を与えることで悲鳴の音楽を奏でる。

「あぁっ――やめて、痛い、いたいよ――」

 何故かなどと、決まっている。
 この世で最も美しく偉大なる王と王国。
 その破滅が見たくないものがいるだろうか?

「あなたの、その顔が見たかった――おお、ブレイスヴァの呪いあれ!!」

 はらはらと溢れる涙は宝石のよう。
 しかし、それにも勝る美しさは少年のまなざしだった。
 そこに絶望は無い。恨みは無い。嘆きは無い。
 彼は裏切り者の紫を憎んでいないのだ。
 ただ悲しんでいるだけだった。
 こうあるしかない破滅の申し子を、死に際にあって慈しんでいるのだ。
 繊細な指先が、そっと予言王の頬を一撫でした。
 色の薄い頬を涙が伝う。
 口を開く。だが言葉は出ない。
 別れを告げようとしたのか、それとも他の言葉を紡ごうとしたのか。
 逡巡は永遠にも感じられた。

「いたずらに命を引き延ばすのは残酷じゃないかと思うけどね。破滅を堪能したがるのはきみの悪い癖だ」

 長い躊躇いを断ち切るように、空から巨大な鏡が落ちてくる。
 断頭の刃。自由落下の死。王は機械的に命を落とした。
 偉大なる王の首が落とされ、血に染まった鏡面に血まみれの誰かが映った。それは少年であり、青年であり、老人でもある、十字の瞳の愚かな賢者。
 獅子王の血に染まった鏡の刃は輝く血に染まり、処刑のための刃から黄金の盾へと変化した。

 細い手が力を失い、黄金の少年王はそれきり沈黙する。
 深い喪失感。遅れてやってくる悲しみ。
 振り向くと、そこには斬首刑を執行した少年が立っている。
 前髪が片側だけ長く、右目を覆い隠していた。端正な顔立ちは麗しく、獅子王に似ていながらも、口の端を歪める笑みは似ても似つかない。
 漆黒の長衣は聖職者にも呪術師にも見え、指に嵌められた真鍮と鉄の指輪が黄金の光を宿してごうごうと唸りを上げている。その指輪は世界と会話をしていた。
 大公――王殺しを成し遂げて新たな王となった獅子王の兄が言った。

「ご覧、全てが滅びていく。これは残酷な生贄かな?」

「あるいは、残酷こそが美しい」

 端的に答えると、新たな王は苦笑した。

「相変わらずだね、きみは。それと趣味とはいえセレクティから恨みを買うのは程々に。あとが恐い。あれとは長い付き合いになるんだから考えなよ」

 文字と数字が刻まれた円形の石版型祭具を担ぎながら、王の命を刈り取った少年が愉快そうに笑う。弟の屍を踏みつけて、上機嫌に言った。

「手伝ってくれてありがと。ま、きみは趣味でやってくれたんだろうけど。それじゃあまた。今度は俺たちの『銀』と一緒に、楽しくやろう」

 そう言って、もうひとりの少年王は石版を天に掲げた。
 地上の炎が照らす大きな満月。ゆっくりと影に蝕まれ、三日月となっていく。
 暦を叫ぶ円形石版もまた黒々とした闇に喰われて鋭利な姿に変貌を遂げる。
 闇の彼方より聞こえるのはおどろおどろしい咆哮。
 それは見知らぬ恐怖か、竜の怒りか。
 生と死を司る暦の刃は淡い紫と黒の光を放っていた。
 闇を長柄に、月の輪廻を刃に変えて、暦は酷薄に死を示す。

「見ろよ、収穫にぴったりだ。稲穂を刈り取る形をしてるだろ?」

 そう言って、王は黒紫の大鎌を横薙ぎに振るった。
 紫の賢者という役目はその時空での意義を終えて、彼方へと再び旅立っていく。
 滅びていく世界を食い荒らそうと、忌まわしい小鬼(ゴブリン)たちが知性無き眼差しで美しかった全てを穢していく。精強なる獅子王の兵団が奮戦むなしくひとり、またひとりと斃れていった。悪夢の具現たる禍つ妖精は総勢七十二柱。ひとつの柱がひとつの世界に匹敵するだけの狂気と呪いを解き放ち、白痴にして幼稚なる神々が破壊の玩具で戯れる。不可避の破滅が押し寄せ、全てが圧殺された。
 最悪の滅びを迎える光景の中、矮小な狂神たちに囲まれた王は、どこかで聞いているであろう共犯者に向けて歌うように語りかけた。

「名前をあげる。父の呪縛ではなく、獅子王の贈り物でもない。俺があの墓標船から拾ってきた虚構の名だ。きっときみにはぴったりだよ」

 思いつきのように無造作に。
 その呪いは彼の存在を歪め、新たに定義し直した。
 名前は上書きされて、歴史はまたしても書き換えられる。

「『かつてあったことは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつ無い』――せいぜいこのむなしさをめいっぱい堪能してやろうぜ、『オルヴァ』」

 収穫されたのは『王国』の稲穂めぐみオリーブしんぴ
 それは財たる糧となり聖なる油となり、新たな『王国』の礎となるだろう。
 時空のどこかでそれを聞きながら、オルヴァは頷いた。

「お前が欲するというのなら、私という油で凍てついた燭台に火を灯そう。太陽が九度生まれて死んでいく間だけ燃え続け、お前のための時を作ろう。終末の日々を、望むままに過ごすがいい」

 喉を鳴らすように笑いながら、少年たちは時の彼方へと想いを馳せる。
 真なるはじまりの賢者は遠い。
 青き羊水に沈む宝石の心臓さんごは、鼓動すら始めていないのだから。
 今は、まだ。



 薄暗い病院の廊下を、三角耳の少年が走っている。
 服の至る所が裂けて血が滲み、膝は転倒のためか擦り剥け、苦痛と恐怖によって端整な顔が歪んでいた。零れ落ちる涙が血と混じって床に落ちていく。
 レオは一瞬だけ背後を振り向いた。
 廊下の向こう側に人影。かつかつと足音を反響させながらゆっくりと、だが着実に距離を縮めてくる。立ちはだかる警備ドローンたちはことごとく破壊された。銃撃も電気ショックも投網も爆発も、全てを意に介さず追ってくる。

 伐採者がチェーンソーを振るう。
 すると血に呪われたその機械から人々の断末魔が聴こえてくる。
 レオは犠牲になったティリビナ人たちの痛みと苦しみを、そのアストラルの音を聴く異形の耳で受け取ってしまっていた。感受性の強い少年の目に涙が浮かぶ。
 彼がずっと親しく付き合ってきたティリビナ人たち。
 中には行方不明になった知り合いさえ含まれていた。
 深い悲しみと恐怖、喪失感に苛まれながら、レオは必死に逃げ続ける。

「樹ー木ーがひーとつ、血ーまーみーれふーたつ、伐採、伐採、逃ーげてーも、泣ーいてーも、みーなごーろしぃー!」

 チェーンソーの甲高い回転音が響く。
 かつん、かつん、かつん。
 ゆっくりとした足取りなのに、どうしてか振り切れない。
 何度も角を曲がり、階段を上り、かと思えば下ったりしてあちらの視界から姿を消しているはずなのに、足音はレオから遠ざかることなく追いかけてくる。

 加えて、病院の様子が何かおかしい。
 これだけ走っても走っても、人らしい人に出会わない。
 沢山の患者や避難民で溢れかえっていたはずなのに、いったいどこにいってしまったのだろうか。まるで誰もいない別な病院にレオだけが連れてこられてしまったかのようだった。異常事態が少年の心を責め苛み、憔悴させていく。

 かつん、と足音が止まる。
 突如として病院の窓が割れて、外部から長い黒髪を靡かせて一人の女が飛び込んで来る。黒銀の左手を拳の形にして、歓喜の表情で叫ぶ。

「こんにちは、わたしにーさま! 死ね!」

 挨拶と同時に殺意を込めた鉄拳がチェーンソー男の顔面に叩き込まれた。
 廊下から病室へと吹き飛ばされる男。
 黒髪の女は水によって構成された右腕を呪術的な力で操り、無数の蛇にして鋭く伸ばしていった。容赦のない追撃。室内で破砕音が響く。

「――? わたしにーさま、じゃない?」

 首を傾げる女性は『大蛇(おろち)』――品森晶。
 その背後で窓が割れる音。
 新たに現れたのはマフラーに侍女服という格好の砂茶色の髪の女性で、手指などのつくりや頭部のぜんまいで人形だと知れた。

「やっと追いついた! 悪いけど、これ以上好き勝手は――」

「待ってミヒトネッセ。あれ、まずいかも知れない」

「はぁ?」

 言いながら、晶が軽く身を躱した。
 病室の中から投擲されたチェーンソーの残骸は当然のように彼女の後ろに立っていたミヒトネッセの方へと向かう。

「え、ちょっ」

 払いのけた所に、血や破片で顔面をぐちゃぐちゃにした男が飛びかかる。

「伐採、伐採、伐採!」

 『創造(クラフト)』によって水流の蛇に破壊された両腕を高速再生。
 腰に下げた手斧が揺れ、更にその周囲に吊り下げている幾つもの呪宝石が発光しながら消えていく。何らかの『杖』の呪術によってチェーンソーを幾本も再構築することができるようだった。

 高速回転する無数の小片がミヒトネッセを袈裟懸けに引き裂いて、その姿が一枚の呪符に変化する。チェーンソー男の影から出現したミヒトネッセが背後から上段蹴りを叩きつけ、吹き飛んだ所に二枚の手裏剣を投擲。胸と眼球に命中すると、男は痙攣しながら動かなくなる。

「これもシナモリアキラ? 大した身のこなしじゃなかったけど」

 眉根を寄せるミヒトネッセ。晶は警戒を解かずに構えたままだ。
 離れた場所でその光景を見ていたレオは、二人に向かって叫んだ。

「そこにいると危ないです! 避けて、アキラさん!」

 その言葉に即座に反応して飛び退ったのは晶だけ。
 ミヒトネッセは「はぁ?」と怪訝そうに訊き返す。
 それが明暗を分けた。
 斬撃がミヒトネッセの胴を横に薙ぎ、片腕を切断した。
 愕然とした呻き。

「なっ」

 即死したかに思われたチェーンソー男が起き上がっていた。いや、跳ね起きたと形容する方が正確かもしれない。手裏剣がひとりでに抜けて床に落ちる。チェーンソー型の義肢が自動で回転。そしてどこからともなく出現する二本の浮遊腕。

「こいつ――死を否認した?!」

「やはり――」

 瞠目するミヒトネッセ。険しい表情になる晶。
 二人は即座に思考を切り替えて反撃を行った。
 水蛇がチェーンソーの男に襲いかかる。衝撃によって倒れたところにミヒトネッセが追い打ちをかけた。空中で一回転してからの踵落とし。収束した呪力が質量を改変、巨象が落下したのと同等の衝撃が男の頭部を襲う。陥没する床、飛び散る血と骨と脳漿。
 ――即座に起き上がってミヒトネッセをバラバラに切断していくチェーンソー。手足を切断された侍女人形は瞬時に呪符と入れ替わって逃走、身を隠す。浮遊する両腕が更なるチェーンソーを『創造(クラフト)』。

 激流で構成された無数の蛇が牙を剥いて襲いかかるが、男は解体したミヒトネッセの四肢を次々と蹴ったりチェーンソーで弾いたりして水流に叩き込む。
 すると蛇たちはそれらを優先して噛み砕き、男は攻撃を見事に回避してのけた。それから一瞬で晶に肉薄、奇声を上げながら襲い掛かる。

「ばっさいぃぃぃぃ!!」

 チェーンソーが黒銀の義肢と接触、凄まじい異音を立てながら拮抗する。
 何らかの呪術的な力が働き、奇怪な物理法則下に置かれた戦場で晶が一方的に吹き飛ばされる。チェーンソーのキックバック事故など恐れもせずに刃を振り回す男。その目には異様な世界が映し出されていた。

 瞳の中の全てが樹木。
 手強い黒髪の樹木、理想的な森を整えるために邪魔な猫耳の樹木、そして伐採したばかりの人形の材木。
 手強い樹木が左右の腕でチェーンソーを破壊し、その肉体を滅多打ちにしていく。塵も残さない圧倒的な破壊の嵐。水流が乱舞して、回転する水車がエネルギーを流転、高速で循環させていく。
 やがて、巻き込んだもの全てを粉砕する呪力の渦が完成する。 
 原形すら残さずに消し飛んだチェーンソー男。
 二本の浮遊腕まで完全に消滅し、もはや再生の目は無いかに思われた。
 だが、

「伐採」

 跡形も無く消し飛んだはずの男が、次の瞬間には前触れも無くそこに立っている。出現したというより、最初からそこにいたというような佇まい。
 不利を悟った晶が窓から飛び降りて逃走する。
 去り際、一瞬だけレオに視線をやった晶。右手から水流の蛇を解き放ち、そのまま階下に消えていく。宙を泳ぐ蛇はレオとチェーンソー男の間で薄く引き伸ばされて水の膜となった。
 チェーンソーが水の膜を引き裂くと、既に目の前からレオが消えていた。

「ばっさい」

 呟くと、迷いのない足取りでまた追跡を再開する。
 調子の外れた木挽き歌が照明の消えた廊下に響く。
 男の身体には、傷一つ付いていなかった。最初から何も無かったかのように。



 レオの靴が踏みしだいた床面が揺れて、発生した波が空間を伝播していく。
 異様な沈黙に満ちた世界が歪み、何もない通路に駆けつけたのは警備用のドローンたち。電気系統が回復したのか、照明が灯る。更にレオの端末にトリシューラからの通信が入った。

「伏せて! 『絡新婦じょろうぐも』を排除するよ!」

 院内の警備システムが作動して、天井から機銃が迫り出した。
 『絡新婦』に銃撃が浴びせられる。
 全身を撃ち抜かれて倒れる男。しかしその直後には何事も無かったかのように立ち上がり、跳躍して機銃を破壊、ドローンを破壊、所構わず踊り狂う。
 怪人が動き回るたびにトリシューラからの通信が途切れがちになり、照明が次々と消えていく。

「と――逃――! いま、道化(アルレッキーノ)を向――!!」

 断片的な情報を頼りにしてレオは必死に走り抜ける。
 それと同時に、非常用にトリシューラから教えられていた呪文を紡いだ。
 追いかける『絡新婦』の目の前に分厚い隔壁が降りる。
 レオは追跡者が追って来られないことを確認し、胸を撫で下ろした。
 直後、甲高い音と共に少年の顔のすぐ横をチェーンソーの刃が通り抜ける。
 泡を食ってへたりこむレオ。
 引っ込んだチェーンソー、隔壁に空いた穴からぎょろりと目が覗き、

「み、つ、け、た」

 どろりとした執着を感じさせる声が響き、再びチェーンソーが突きこまれる。
 チェーンソーはゆっくりと、だが着実に隔壁を切断し、追跡者のための道を切り開こうとしていた。
 レオは安息の地などどこにもないと理解し、再び逃走を開始する。
 少年の行く先に次から次へと脅威が襲い来る。
 だが、そのたびに横槍が入り、『絡新婦』の殺意を妨害していった。
 それは偶然であったり、彼の人徳によるものであったりした。

「大丈夫ですか、レオさん! ここは私に任せて、あなたは先へ!」

「へ、へへ。あれだけ鉛玉ぶちこんでやったんだ。もう起き上がってこねえだろ。このランキング十五位、カルカブリーナ師匠の薫陶を受けた俺様の銃技にかかればざっとこんなもんよ」

「閉鎖空間にこれだけの粉砂糖が均等に散っていれば――ちょっとの火花でも爆発が起きるんだよ!」

「逃げな、レオ! 借りはこいつでチャラだ!」

「も、もう嫌だ! 殺人鬼が徘徊しているような場所にいられるか! 俺はここから出ていくぞ!」

「畜生、畜生、セージのクソババアに呪われてさえなけりゃあ、こんなガキのために命張るなんて馬鹿な事――くそったれやってやらあぁぁ!!!」

 次々とレオの目の前を頼もしく通り過ぎて、背後で苦痛と恐怖に彩られた絶叫を上げて消えていく人々。
 そのたびにレオは目を潤ませ、しかし犠牲になっていった人々の行動を無駄にしないためにも力強く脚を進ませるのだった。

 レオは幾度となく病院を脱出しようと駆け回った。
 しかし、敷地の外に出てしばらくすると深い霧が立ちこめ、気付くとエントランスホールに立っているという不思議な現象に見舞われる。
 あるいは通路と通路の繋がりがおかしくなっていたり、階段から二階に移動しようとしたら五階にいたり、窓や扉が開かなかったり、開いても見当外れの場所に辿り着いたり――世界の歪みは着実に進行していた。

 追跡に終わりはない。
 走り続けたレオは、疲弊の極みに達していた。
 このままではいずれ限界が来るだろう。レオは隠れながら休める場所を探す。
 目についた部屋に入って端末で電子錠をかける。薄暗いそこは、様々なぬいぐるみや積み木、絵本やクッションといった子供用のスペースだった。難民の子供たちをあずかるための部屋である。
 第五階層には子供が少ない。進んでこのような場所に子供を連れて来る親はいないからだ。しかし行き場の無い難民たちには選択肢が無く、彼ら彼女らのために院内にはこういった施設が設けられている。

 がらんとした部屋。
 投げ出されたぬいぐるみたちはどこか不気味だ。
 しかし過剰な量と圧倒的な大きさが隠れるのにはちょうど良かった。
 ぬいぐるみの山に埋もれながら、三角耳がぴくぴくと動く。
 レオは頭頂部の耳を澄ませながらじっと部屋の外に意識を集中させる。
 物理的な大気の振動ではなく――聴こえないはずの何かを聴いているのだ。

 かつん、かつん、かつん。
 分厚い壁の向こうから、小さく足音が聴こえてくる。
 だんだんと音が近づいてきて、やがて扉の前で音が途切れた。
 張り詰めた空気。レオは口を両手で押さえて息を潜める。
 しばらくして、耳がかすかに外側を向いた。
 足音が再び響き、だんだんと遠ざかっていく。
 レオは深く息を吐き出す。
 部屋に照明が点灯し、子供用の部屋に華やかな雰囲気が戻った。
 そのときだった。レオの足下で小さな鳴き声がした。
 ぬいぐるみを押しのけながら声の発生源を探す。すると、

「にあー。りーにゃ、みるーにゃ、どこー?」

 手の平サイズのお姫様が迷子になっているのを見つけた。
 レオは小さなお姫様の頭頂部に自分と同じ特徴があるのを見て取って、目を丸くした。心底からの驚きにしばし言葉を失う。彼は同類を初めて見たのだ。

「にあー、まいご。ぼうけんしすぎた」

 しゅんとなって項垂れる少女に、レオはそっと声をかける。

「大丈夫? 大人のひととはぐれちゃった?」

「にあ?」

 そのときになってようやく気付いたのか、三角耳の少女が上を見上げた。
 自分よりも遙かに大きい、しかしとてもよく似ている相手。
 警戒、恐怖、そうした反応は一切無かった。
 両者はごく自然に見つめ合い、そして。

「にあー、にあにあにあ。にーあ?」

「にぁ、うなーお、にあーおう、みゃーう」

 と、謎の言語で会話を始める。
 厳密には音声だけでなく、身振りや手振り、耳の動かしかたや目線、表情、アストラル尻尾の振り方などを組み合わせた『動物語』である。鸚鵡(パロット)種の言語学者が体系化したことで有名だが、二人は学習ではなく身の内から溢れ出る感情をそのまま形にすることで意思疎通を成立させているだけだった。

「にあ」

「にあにあ」

「おいこらそこの子供たち。こんな時にそんな下らん話をしている場合か」

 ほのぼのとした空気を打ち破って登場したのは、逆さまに浮遊するグレンデルヒだった。道化メイクのまま唐突に出現した不審者に、少女が「ふーっ!!」と警戒を露わにする。一方レオはすっかり安心して朗らかに声をかけた。

「グレンデルヒさん。良かった、来てくれたんですね」

 するとグレンデルヒはふんと鼻を鳴らしてよくわからないことを言った。

「どうせ死ぬ展開にはならんだろうとしばらく見物していたが、面白い流れを引き寄せていたのでな。混ぜろ、鍵の少年」

「はい?」

「とはいえそのままではいかに宝石の獣と言えど役には立たんだろう。おい、さっさと出ろ。それとも出られんのか?」

 グレンデルヒが逆さまのまま少女に手を伸ばす。
 鋭い爪で反撃しようとするが、手袋を軽く引き裂いただけで終わる。
 巨大な手が少女に覆い被さり、

「にあー! にあー! ねーさまー! へんしつしゃー!」

「ええい、人聞きが悪いわ! これでも子供たちには大人気、カードゲームコンテンツではお馴染みの博士キャラだぞ私は!」

 間の抜けたやりとりをしつつ、グレンデルヒは少女の小さな影に触れた。
 直後、床を透過して奇妙な物体が出現する。
 無数の球体が連結した巨大な人形模型――黄色い玉石によって構成され、長い手の先にはやや大きめの丸い拳、これもまた大きめの頭部の上には丸みを帯びた三角の耳。両足は短く、尻尾の球は小さく細い。胸の中央にある最も大きな球体だけは琥珀のように透けており、中に丸くなった人影がうっすらと見えていた。

 黄色い異形はグレンデルヒを無造作に十発ほど殴るとそのままレオの前で跪き、音もなくアストラル界を振るわせて鳴いた。
 レオは壁にめり込んでいるグレンデルヒを気にしつつ、

「なーぐすとーるさん? っていうの?」

 と不思議そうに言った。
 小さな姫君はちょこんと床に座って、

「にあ! なーぐすとーるは、せりあ! せりあは、なーぐすとーる!」

 と言った。『ナーグストール』が小さな『セリア』を丸い頭の上に乗せる。
 セリアは不思議そうにレオと『自分ナーグストール』を見比べている。 
 ナーグストールが再び振動した。

「助けてくれるの?」

 肯定の振動。
 レオは唐突に現れた奇怪な存在に困惑を隠せない。
 少女もまた、自分のことだというのに事情がよく分かっていないようだった。
 ナーグストールの音無き語りが続く。

「『あの時は間に合わなかった』――? ええと、よくわからないですけど、ナーグストールさんはいま、誰か守るべき人がいるんですよね?」

 レオがセリアに視線を向けると、力強い答えが返ってくる。

「せりあはねーさま守る! ナーグストールもねーさま守る! あとみんなも!」

 それを聞いて、レオは微笑み、ナーグストールは戸惑うように震えた。
 頭部を明滅させながら、レオとセリアを交互に『見て』、そのまま頭を抱えてしまった。耳の間でセリアが不思議そうに鳴いた。
 レオは言葉を続ける。

「今のご主人様を大事にしてあげて下さい。僕は大丈夫。だって、あなたはとても傷付いて弱っているように見えます。その子の中でひとつになっていないと存在できないくらいに」

「にあー! あいつら、ねえさまとなーぐすとーるいじめた! ふしゃー!」

 レオの言葉にセリアが同意し、壁にめり込んだままのグレンデルヒが続けた。

「やはり『黄色いの』は不完全か。まあいいだろう。直接前に出るのは私がやってやる。お前に期待しているのは宝石だ。そら出せすぐ出せ異界を封じた呪宝石だ。貴様の取り柄はそれだけだろうこの獣めが」

 耳を引っ張りつつ嫌らしい口調で言い立てるグレンデルヒ。
 怒ったナーグストールが殴りかかるが、今度は当たらない。
 相手をおちょくりながら回避を続けていた道化男だが、

「もう、喧嘩はやめて下さい!」

 というレオの一喝でナーグストールがぴたりと動きを止め、グレンデルヒも真面目な顔になった。

「一応、この空間は隔離しておいたが――そう長くは保たんぞ。なにせ『奴ら』は神話を殺す。下手を打てばこの私と言えど滅びは避けられん」

 深刻に、神妙に――神話の中に生きる不死の英雄は、そんなことを言った。
 レオは意味が分からずに訊ねた。

「どういうことですか?」

「『絡新婦』は歩く異世界とでも呼ぶべき――まずいな、勘付かれた」

 突然険しい表情を作って扉の前に移動するグレンデルヒ。
 指先が呪文を描くと、それは『扉』となって別の空間へと繋がる道を作る。

「黄色いの、少年に出来る限り質のいい宝石を渡せ。世界の汚染を多少は防げるはずだ。それから『絡新婦』は転生者の攻撃が一番有効だ。それらしい人材を捜して連れてこい。多ければ多いほどいい」

 突然、扉に突き入れられるチェーンソー。
 狂気に満ちた「伐採」の声が響く中、グレンデルヒが鋭く言った。

「時間を稼いでやるからさっさと行け。言っておくが長くは保たん。このまま奴を放置すれば、恐らくあと数千秒で――」

 異音によって言葉が切り裂かれる。
 壁を次元ごと引き裂いて、異形の両手を持つ男がやってくる。
 レオは背後で『扉』が閉じていくのを感じながら、グレンデルヒの最後の言葉を小さく繰り返した。

「第五階層が、滅びる――?」

 三十分程度から二時間半程度まで幅のある猶予を告げられて、途方に暮れるレオだった。ナーグストールとセリアが不服そうに鳴いた。



 壁を次々と破壊しながら院内を駆け巡る二つの影は、観葉植物が人工的に配された緑豊かな中庭に到達した。グレンデルヒは逆さに浮遊しながら無数の呪符カードを展開。さらに同じ数の呪符を相手に送り、

「さあ、呪符カード準備セットしろ! 決――」

 言い終わらぬうちにチェーンソーが呪符の束デッキを両断。
 回転する小片がグレンデルヒの呪符を引き裂いて、漏出した呪力が道化を吹き飛ばした。巨樹が振動し、砕けていく。自己修復が始まった樹木に取り込まれそうになりながら再び浮き上がって態勢を立て直すグレンデルヒ。

「決闘の流儀を解さんとは、所詮は屑狗か。私は自腹でパックを購入したのだぞ! ドラフト戦が気に入らんのなら要望を言え――ぐふっ」

 横殴りのチェーンソーがグレンデルヒを殴打。続けざまの斬撃が顔面を襲い、縦に割られたグレンデルヒの顔から噴水のように血がどばどばと流れ出る。冗談のような光景だった。壮年の道化が滑稽に空中で転げまわる。

「ぐおおお!! おのれ、にわかシナモリアキラごときが! 私か? 私も新参だがヘッドハンティングされた即戦力だからな。アマチュアとは違うのだよ。私の年俸を聞きたいかね? 並みのシナモリアキラが一生かかってようやく稼げるかどうかという金額だぞ!」

 わけのわからぬ戯言が、「伐採」という更なる戯言で両断された。
 追い回され、居丈高に復活しては攻撃されて派手にのた打ち回る。
 与えられた道化の役割をこなしつつ、グレンデルヒは時間を稼ぐ。
 戯言を半ば自動的に紡ぎながら、冷静に思考をしていた。

(『あれ』を殺す手は二つ。今の弱体化した私ではどちらも適うまい。数が必要だ。あの少年が渦の基点となって引き寄せるあらゆる主役と脇役どもの運命が)

 無駄と知りつつ、『空圧』で動きを止めてから並行して待機させておいたオルガンローデを解放。更に夥しい回数の呪的侵入を試行して存在乗っ取りを企てる。しかし『絡新婦』はあらゆる呪文を無意味と断じ、邪視による世界改変すら強引に上書きしていく。汚染された世界が不気味な気配に押しつぶされていった。

 攻撃が無効化された事実に驚愕し、鼻水を垂らして情けなく逃げ惑う。
 滑稽な振る舞いがグレンデルヒを取り巻く文脈を改竄。
 衝撃によって押しつぶされ、薄い平面存在となるグレンデルヒ。
 倒れてきた巨木の下敷きになり、背が縮んでしまうグレンデルヒ。
 呪力の激突で吹き飛ばされ、さかさまに地面にめり込むグレンデルヒ。
 振り下ろされたチェーンソーが股間にめり込んで抜けなくなり、血が噴き出してグレンデルヒが絶叫。何故か男性ホルモンが豊富そうな女性に変身してしまうグレンデルヒ。髭面の女性はウィンクしつつ投げキッスを送った。

「伐採――?」

 『絡新婦』は不思議そうに首を傾げた。
 グレンデルヒは逆さに浮遊しながら文脈の改変を続行。
 全力でふざけることで、『誰もいない廃病院の中をどこまでも追跡してくる怪人』という文脈を断ち切ろうとしているのだ。今のところそれには成功している。
 ホラーをコメディで茶化して台無しにする外道の所業。おどろおどろしいメイクや演出を明るい照明の下に晒して笑いものにするような無粋。グレンデルヒ的な悪魔の発想が『絡新婦』の圧倒的な力を減衰させていった――しかし。

(いずれは押し切られる。奴は滑稽な笑いを理解しないだろう。私の作り出した文脈はじきに否認され、独りだけの現実に閉じこもる)

 推測通り、『絡新婦』の周囲にふたたび不気味な雰囲気が立ち込めていく。
 さかさまになった最強の英雄は最弱の振る舞いによって敵の強さそのものを『ひとつのジャンル』として相対化する。だがそれは文脈と言葉が通じる相手だけに通用する方法論だ。世界が違えば、そんなものは意味不明と切って捨てられる。グレンデルヒにとって『絡新婦』の伐採を基準にした世界観が理解不能なように、あちらからもこちらの世界観は理解不能なのだった。

(あれに大層な目的意識があるようには見えん。執拗にあの少年を狙うのは――背後にいる存在の意思だな。穴倉で寝ていればいいものを)

 今までトリシューラは『絡新婦』を処分してこなかった。
 できなかったのか、何らかの理由で利用価値があると判断したのか。
 いずれにせよ、不始末の尻拭いはグレンデルヒに押し付けられている。

(あるいは、鍵の少年に『絡新婦』をけしかけて反応を見ようとしている――そんなところか。本当に彼を害した時、何が起きるのか興味深くはあるが――)

 博打が過ぎる。
 寝ている獅子を起こすこともあるまい。
 そう思う一方で、あの少年を見極めたい気持ちは彼にも理解できる。
 グレンデルヒがそんなことを考えていると、轟音と共に壁が破壊された。
 数人の男たちが中庭に乱入してくる。

 特撮ヒーローが怪人たちと戦っていた。『ぬえ』と『火車かしゃ』――二人のシナモリアキラが激突しているのだった。グレンデルヒは一瞬だけ考え込んだが、トリシューラが院内に配置している監視使い魔たちからの情報を読み取ってこれまでの経緯を把握すると、すぐに方針を定めた。
 巻き込むことにしたのだ。
 『鵺』が複数の怪人たちに拳を浴びせながら叫んでいる。

「英雄性とは価値の破壊! そして未知の創造だ! 俺はシナモリアキラとなって邪悪を討ち、この第五階層で生まれる新たな『何か』を見届けて死ぬ!」

「――奇遇だな。私も似たようなことを考えていた。英雄とはかくあるべきだ。貴様の踊り方、無様ではあるが悪くは無い」

 唐突に現れたグレンデルヒに戦場の動きが一瞬停止する。
 戸惑うような『鵺』。
 容赦のない『火車』の下僕、異形化して動く『マレブランケ』たちの猛攻を片手だけで捌きながら、英雄と呼ばれた男は英雄を目指す男に語りかける。

「だが『鵺』のシナモリアキラ。貴様が打倒すべき敵は果たして異獣どもの太母だけか? それで本当にシナモリアキラと言えるのか」

「どういう意味だ」

 英雄と呼ばれた紀人――その言葉を無視できずに反応する『鵺』。
 グレンデルヒは食いついた魚に少しずつ思わせぶりなエサを与える。

「見るがいい英雄よ。あれは別の敵幹部が送り込んできた新しいタイプの怪人――お前が倒すべきシナモリアキラの紛い物、『絡新婦』だ」

 さりげなくチェーンソー男の攻撃を誘導し、『鵺』と激突させる。ベルトから迸る呪力を拳に纏わせた『鵺』はチェーンソーを回避しつつ敵に強烈な打撃を浴びせていった。グレンデルヒの狙い通り、『鵺』は流れの中に巻き込まれていく。
 芝居がかった仕草で(もっとも、グレンデルヒは常に芝居がかった振る舞いをしているが)『鵺』に判断材料を与えていく。断片的で、それらしく、恣意的に取捨選択した情報の罠を。

「ついに『奴』が動き出したぞ。英雄にとってふさわしい敵、魔将との戦いが始まったのだ。すなわち絶対悪の化身、虚ろいの魔王、異種族の英雄、そして終わりをもたらすものたちとの闘争が」

 その言葉を『鵺』は鼻で笑った。

「魔将討伐など下らん。功績の奪い合いと譲り合いの出来レースだろう」

 終末の獣たちを総べるセレクティは、予言王オルヴァの言葉通りに十九の獣たちを従えて火竜の覚醒を待ち続けている。残る獣は四体。いずれも地上の英雄がその存在を懸けて対峙するのに相応しい『敵』である。それだけに、そこには地上の覇権争いや利権が絡む。『鵺』は険しい声で言った。

「俺の敵は赤子の『人類ロマンカインド』が見る怪物の悪夢――イェレイドだ。ママのおっぱいを咥えたがるのも自分とは違う相手を『ママじゃない』って駄々こねるのもガキのすることだろ。寝ぼけた人類を叩き起こして悪夢から醒ましてやる」

 年長者として、気炎を吐く若者を「まあ落ち着け」と宥めすかす。

「イェレイドを倒しても悪夢は終わらんよ。現状を維持しようとする者たちがいる限り、あれは再び生み出される。せいぜい時間稼ぎにしかならん」

「何だと」

 目的の意義を根本から覆されて、『鵺』は愕然と問い返した。
 グレンデルヒは『マレブランケ』をまとめて捕獲すると宙に吊り上げる。
 呪文の檻に捕えて隔離すると、自分ごと安全圏に逃れた。
 『鵺』と『絡新婦』が戦う様子を見下ろしながら朗々とした声を響かせる。

「そいつを倒せ、英雄志願。奴もまた絶対悪、理性ある者たちとは決して相容れぬ最悪の異獣。奴を倒さねばお前の望む破壊は道半ばで終わるだろう」

 『鵺』は最初、グレンデルヒの言葉を鼻で笑おうとした。
 しかし相対する怪人の異様さ、その周囲に広がる言い知れないおぞましさに触れるにつれ、次第にその意見を受け入れざるを得ないと感じ始めているようだった。

「道化男、こいつは何だ、何者だ?!」

 グレンデルヒは、敵の正体を厳かに告げる。
 その言葉を聞いて、『鵺』だけでなく『火車』と『マレブランケ』たちまでもが嫌悪と恐怖に身を捩じらせそうになった。その名称そのものが万人の耳を穢し、響きを震わせた者の喉を呪う。

「あれは小鬼(ゴブリン)だ」

 小鬼(ゴブリン)とは、自分とその周囲を丸ごと異世界化させた『神』である。
 独立したひとつの異世界そのものであり、異界転生者でもあるもの。
 いち個体につき固有の種族、世界、物理法則、その他ありとあらゆる『自分だけの秩序』を有する最悪の邪神。特徴は人の話を聞かず、聞いても否認して自分に都合の良いように曲解すること。

「あと不死だ。死を認めん」

 グレンデルヒは一番厄介な特性をわかりやすく説明した。
 『我こそは世界の王にして造物主』という自負と理性、覚悟と信念を持った巨人ネフィリムとは違う。小さな鬼、邪悪な妖精たちに知性はない。
 あるのは幼稚な全能感のみ。
 白痴あるいは愚鈍、盲目あるいは視野狭窄。
 下劣にして冒涜的な罵声を絶え間なく発し、飢えと欲望に悶えて破壊衝動を発散する、粗暴で下等な怪物。溢れる欲動リビドーのままに繁殖を行い、驚くべき速度で増殖と自己複製を繰り返す。

「世界の変貌は奴の『繁殖』が原因だ。奴らは異常な速さでぽこぽこ増えて自分の世界を広げる。個体として次を繋ぐのではない。自己を複製し、世界そのものが繁殖するのだ」

 その結果として小鬼を中心にして徐々に世界が歪んでいく。
 奇声を上げる『絡新婦』が空間を捻じれさせながら徐々に世界そのものを汚染していった。強引な世界槍の改竄を無意識に行っているのだ。悪意と破壊衝動に任せた世界の汚染は最終的には世界そのものを崩壊させてしまう。
 竜の修正力が働くために不可逆変化ではないが、それでも邪視者や巨人よりも改変が世界に与える傷は深い。規模は小さく、汚染度は深刻。それがこの邪妖精の世界改変なのだった。
 めったに人前に姿を現す種族ではない。
 何度か地上に侵攻し、多大な被害をもたらしていく悪夢そのもの。
 そのたびに名高い英傑や修道騎士たちが撃退してきたが――。

「あれ一体によって九槍の一振りが守る堅牢な要塞と階層が丸ごと落とされたことすらある。即座に冬の魔女どもが奪還していたが――奴らをもってしても苦戦するような手強い怪物だ。むろん、私にとっても」

 手を貸せ、とグレンデルヒは言った。
 力を合わせなければ倒せないと、この男をして判断せざるを得ない難敵なのだ。
 仕方ないと舌打ちして『鵺』が叫ぶ。

「どうすれば倒せる?!」

「手は二つある。一定時間あれを殺し続けるか、一定時間内に完結する文脈や体系、歴史といった物語を即興で構築して高速解体するかだ」

「具体的な時間は?!」

「およそ300秒前後だな」

 つまりは五分間。
 それだけの間、持続的にこの強敵を殺し続けるというのか。
 『鵺』はたじろぐ気配を見せた。
 なにしろ致命傷を与えても即座に復活する上、一度試した攻撃は効きづらくなってしまう。『耐性』が付く度に肉体は強靭になっていき、復元の速度も増しているのだ。困難に過ぎる方法だ。後者の方法も、呪文で倒せるのならグレンデルヒが最初からやっているだろう。つまり、後者もまた無理難題なのだ。
 グレンデルヒの解説が続く。

「こいつらは歴史を持たず、世界が一瞬ごとに創造され続けている――あるいは少し前に自分が過去を含めて創造したものだと思い込んでいる。『宇宙300秒前仮説』という世界観を内面化した異形どもだよ。種族的平均値としてはおよそ300秒まで時間を遡って事象を改竄できる。たとえ完全に死んでいてもな」

 小鬼は目に映ったものを逐次的に処理し、自分の内的宇宙にとって都合のいいものに変質させる。邪視者の特性を過剰に拡張して知性と品性を剥奪すればこうなるという『成れの果て』だ。逆に言えば、余計な枷――『呪文』『使い魔』『杖』という人類の知的営為――を取り払った邪視者がどこまで邪悪かつ醜悪に強くなれるのかという問いに対する答えでもある。

 もっとも、進んで小鬼になりたがる者はそういない。
 巨人とは違い、彼らは人間性の根源である知性の大半を喪失している。
 それは自分が自分でなくなるということだ。
 強い『自我』を誇りとする邪視者にとってそれは受け入れがたいことだった。
 小鬼の邪視は機械的で作業的な、惰性と本能の産物である。
 これは既に人ではない。『異獣』でしかない。
 使役している『下』ですら忌むべき『異獣』と見なしているのだから、グレンデルヒが『鵺』の敵だと断言するのも全く根拠の無い話ではなかった。

(だが、墓標船級の異界ミーム――『(アウターゴッズ)』の力ならば奴らに届く。十二人のシナモリアキラが有する墓標船の呪力、それを利用しない手は無い)

 グレンデルヒの見たところ、『鵺』の英雄観にはこの世界由来ではないものが含まれている。変身する特撮ヒーローは昔からあるフィクションだが、『ベルト』というギミックを組み合わせるのは初めて知った。
 間違い無く、墓標船由来のものだろう。
 その上、何らかの強い『紀』性を感じる。異界の英雄を参照しているのだろう。
 『鵺』の存在圧は当初は一発屋のサイバーカラテ芸人レベルだったが、今や急速に上昇して邪神と渡り合えるまでになっていた。
 使える、とグレンデルヒは確信していた。
 ふざけた文脈で襲ってくる相手には、それを凌駕するほどのふざけた文脈をぶつけてやればいいのだ。複数の文脈を次から次へとぶつけてやれば、耐性が出来たとしてもダメージを与え続けることができる。

「新フォームだ、英雄よ! 英雄に力を授けるのは古来より賢者や博士キャラだと神話的に決まっている! 『博士もしくは先生と呼びたい有名人ランキング』の常連であるこの私が新たな力を授けてやろう!」

 『鵺』を援護しつつ、『絡新婦』の足止めを続ける。
 そうしている間に、レオが期待していた援軍を引き連れてやって来た。
 三角耳の少女と異形の猫が大量の宝石を投げつけると、眩い光が弾けて『絡新婦』が宝石のような障壁に閉じ込められる。閉鎖された異界に一時的に封印されたのだ。チェーンソーが唸るが、切断に時間がかかるらしく手こずっている。やはり異界の呪力――『猫』の力は有効なのだ。

「遅れてすみません」

 レオは律儀に謝ってから背後の援軍を紹介した。

「お待たせしました! とにかく頑張って探そうと思ったら、なんだか偶然会えちゃって、成り行きで来てくれることになったかたです!」

 説明になっていない説明。
 レオの背後から援軍として連れてこられた人物が前に出る。
 薄いヴェールで顔を隠し、黒と紫のローブを身に纏った占い師風の女性。
 グレンデルヒは道化メイクの顔を引き攣らせた。

「あああの、あの、ちょっと自信喪失して引きこもってる間にシナモリアキラ様が新キャララッシュなんですけどこんな燃料を私に投下して大丈夫なんですか?! とりあえずお話はシューラさんに聞きました、『鵺』さんと『火車』さんは宿敵同士、いいですね?! 嫌いですか、憎いですか、それとも気にくわないですかっ」

「おい、待て。もう少し」

「ていうかグレンデルヒさんはすっかり憎まれ口を叩きつつ反乱の機会を窺う油断ならないポジションでありながら頼りにもなる系のおじさまになってしまわれて、ラズリ正直このかたはナシかなーと思ってたのですが己の目が曇っていたことを自覚せざるを得ませんでした今ならおいしくいただけます! 誰をいじめたいですかもしくはいじめられたいですかやっぱりアキラ様ですか増えましたが誰がそそりますかっ」

 興奮した様子で捲し立てる夜の民――ラズリの目が十字に輝く。
 カシュラムの縦十字ではない。左右に聖なる二つの御名を配置する『斜め十字』である。同じ意匠は髪飾りと首飾り、耳飾りにも存在しており、しばらく見ないうちに『修行』をしていたらしいことが窺える。魂の位階が上昇していた。
 グレンデルヒの中で何かが切れる。

「貴様の心は今なお曇りっぱなしだ馬鹿者めぇっ! よりにもよって何故こいつを連れてきた?! そして何故ついてきた?! 正気か?!」

「あ、大丈夫ですわたくし今フリーの請負人なので! 実はシューラさんに雇われているのでこういったお手伝いならできますよー!」

 その一言で、グレンデルヒはトリシューラが秘匿している情報が想像より遙かに多いことを再確認する。もうひとつ重要な事実があった。

(やはりあの魔女は対トライデントを掲げていながら、その実すべてのトライデントを倒すつもりが無い。それどころか、トライデント内の特定派閥と協調している。まさか奴は、本当に『細胞』の――)

 そこまで考えたところで、グレンデルヒはレオが引き連れてきた援軍がひとりだけではなかったことに気付く。
 厳密には直接連れて来られたのはラズリひとりだったが、少年の引力に招かれた『流れ』がこの場所に集いつつあったのだ。

「ニアちゃーんどこー?! ごめんねーわたしが目を離したばっかりにー!」

「仕方無いですね、いざとなったら再召喚しますよ。もう呪宝石がほとんど無いですが、トリシューラにでも頼むことにします。たいへん不本意ですが」

「わたしにーさまがひとり、ふたり、さんにん――どれがわたしのアニムス?」

「先程は不覚をとったけれど、今度こそ潰す! あら、メートリアン」

「げっ、ミヒトネッセ――」

 次から次へと中庭に集結してくる魔女、魔女、魔女――しかも本人たちは示し合わせたわけでもなく、ただ偶然ここに足を運んだだけだ。
 少なくとも、彼女たちはそう思っている。
 自由意思で行動を決定していると。
 因果を紡ぐのは人であると、そう信じて必死に生き足掻いている。
 レオは突然現れた少女たちに目を丸くしていた。
 その邪気の無さときたら。
 グレンデルヒは思わずぞっとして、そんな自分に対して舌打ちした。

「てめーがミヒトネッセかおらあああああ!!!」

 三角帽子の魔女が箒に乗って亜音速で突撃。大気の障壁ごと体当たりすると、侍女人形がバラバラになって吹っ飛ばされていく。
 リーナ・ゾラ・クロウサーはふんと鼻息を鳴らした。

「よしスッキリ! お姉――先輩ぺちゃんこ事件の話聞いた時から一発ぶん殴ってやろうと思ったんだ。もう悪いことすんなよ!」

「いえ、相手がぺちゃんこっていうかバラバラですが」

「りーにゃ! みるーにゃ! にあー!」

「あ、ニアちゃんだ!」

 と黒百合組がかしましく再会する一方で、長い黒髪の晶が水流を操って『鵺』、『絡新婦』、そしてグレンデルヒが捕獲している『火車』の使い魔たちへと攻撃を仕掛けていた。更にラズリが「楽園――ふふ、ここはらくえん――」と涎を垂らしながらお花畑の浄界を構築している。「にぎやかですねー」とレオ。

 グレンデルヒは「もうどうにでもなーれ」と全てを諦める自分を幻視した。直後、自分の中に『潜入』しようとしている何者かの気配を感知。「しっしっ」と追い払うと、遠隔地にいる『火車』の気配と呪符を身代わりにして生存していたミヒトネッセが瓦礫や倒木の後ろに隠れているのが見つかった。油断も隙も無い。グレンデルヒは頭を抱えた。

(しゅ、収拾がつかん! この滅茶苦茶な流れを纏め上げるだけの器が――カリスマがあるというのか、あの少年に?!)

 突然に現れた少女たちにレオは目を丸くするばかり。
 リーダーシップを発揮して全員を統率する気配はなかった。
 思わず舌打ちする。
 猫によって封印されている『絡新婦』だが、じきに障壁を破壊して再び汚染を振りまくだろう。そうすれば、ただでさえ不安定になっている第五階層の崩壊はすぐにでも始まる。トリシューラはこの期に及んで介入する気配がない。

(ならばやるしかない、この私が。状況を俯瞰で把握できているのはこのグレンデルヒのみ! 流れを支配して、『絡新婦』に一極集中させてくれよう!)

 英雄の力を縛っていた拘束具――道化の衣装がはじけ飛ぶ。
 現れたのはスーツに蓬髪、不敵な表情の壮年男性。
 グレンデルヒは己の存在を薄く、広く、曖昧に引き延ばした。
 抽象的で記号的な『共有されたイメージ』を『グレンデルヒ性』として拡張し、類似した点を有する人々に少しずつ影響力を及ぼしていく。
 完全な支配は必要ない。その行動の『グレンデルヒ的』な点を少しだけ後押しすることで流れに干渉し、別の流れを作り出す。

 『火車』による『マレブランケ』への干渉を逆探知してこちらから呪的侵入を仕掛ける。『火車』から『マレブランケ』の制御を奪って『グレンデルヒ化』を実行。三人の即席グレンデルヒが知覚を同期させながら動き出す。
 勝手に戦闘を開始したシナモリアキラたちの攻撃の向きに少しずつ干渉。
 ミヒトネッセの投擲を『サイバーカラテ道場』の『弾道予報』で弾くミルーニャ。『道場』に侵入して反射角度を微調整。結果、ミルーニャは防御に成功しつつもミヒトネッセの攻撃を一方向へと誘導する。
 個々の干渉は小さく、個別の戦闘そのものには影響を与えない。
 しかし、紀人という存在は常に一段階上を見ていなければならない。
 ここにはいない――しかし常に存在するかつての敵に語りかけた。

(これは指導だ、シナモリアキラ。先達が未熟者に見せてやる手本、敗者が勝者に与える餞別だとでも思うがいい。貴様のこの愚かしい状況こそ我らの武器であり、この『流れ』こそ我らが掴むべきより高いレベルの呪力だと知れ)

 各々のプレイヤーは目の前の相手に対処すべく最善を尽くそうとする。
 それは自然と最適手へと収斂していくが、戦況が流動的に変化して行く乱戦、総当たり戦においては『現在の戦い』の外側に目を向ける必要がある。
 手札の隠蔽、戦術や思考をあえて偏らせて周囲に先入観を与える、誰かがそうすることを見越して対処手段を練る、そうした全体を見通した上での戦略。
 そういったものを含めた戦場全体の流れを把握し、少しずつ干渉しながら一点へと誘導していく。それがグレンデルヒがやっていることだった。
 そして封印を破壊した『絡新婦』がチェーンソーを回転させながら暴れ出す。

(ここだ!)

 グレンデルヒはかっと目を見開き、支配していた『流れ』を『絡新婦』へと向けた。混沌とした状況における敵意、ありとあらゆる攻撃の向きを一点に集める。
 猫の宝石呪術が、錬金術の爆薬が、大学ノートから噴出する暴風が、巨大な手裏剣が、水の大蛇が、ベルトから溢れる稲妻を纏った跳び蹴りが、三人のグレンデルヒによるタックル、銃撃、呪毒の針が、一斉に『絡新婦』に襲い掛かった。
 絶命と復活、破壊と再生、消滅と再構築。致命傷を受ける度に死を否定し、「伐採」と機械的に呟きながら動き出そうとする『絡新婦』だが、その暇を与えることなく流れ弾を誘導して殺害。持続的な死を与え続ける。

 尋常ではない場の支配能力。この場に集った者たちは異変に気付き始めてはいたが、漠然とした流れに逆らうよりも明らかに危険な『絡新婦』への攻撃を自発的に行い始める。だが攻撃に耐性が付き始めた『絡新婦』は強引に世界を改変してその場を抜け出そうとしていた。そうはさせじと男の足下で影が蠢く。

「手を出すなと厳命しておいたはずですが――この場所は降臨の地。邪魔立ては許しませんよ」

 先ほどの狂態が嘘だったかのような冷え冷えとした声。
 影に潜む魔女は無数の触手で『絡新婦』を縛り、あまたの使い魔たちを至近距離で召喚。『絡新婦』の体内から溢れだした異形の怪物たちがその全身を食い破り、再生する度に貪り屠っていく。
 300秒という時間は戦闘において凄まじく長い。
 持続的に死を与え続けなければならない以上、手を緩めることは許されない。
 自身もまた同時に複数の呪術でダメージを与え続けながら、グレンデルヒはその時を待ち続けた。100秒をやり過ごし、200秒までを騙し通して、全ての呪力を総動員して300秒までどうにか持たせた。

(まだか――そろそろ、いやもう少し!)

 相手の時間遡行限界が本当に300秒なのかどうかはわからない。
 もしわずかでも長ければこれまでのお膳立てが全て無駄になる。
 地上最高峰の超人の表情に焦りが生まれた頃、変化が起きた。
 いかなる破壊を与えてもかつての状態に戻ってしまう『絡新婦』が、次第に元に戻りきれなくなってきていた。厳密には、傷ついた状態に戻っているのだ。
 やがてそれは『致命傷を負った状態』への復元に、そして『死亡時』への時間遡行へと変化していった。死の状態から死の状態へ。継続的な死は、『絡新婦』の不死を打ち破ったのだ。

 既にグレンデルヒの統御の下、ひとつの『群れの使い魔』となった攻撃の意思がゆっくりと分裂し、個々の意思へと還元されていく。まったく無関係な個人たちを状況の中で束ね、ひとつのまとまりとして扱う呪術。『使い魔』の極致たる『軍勢』、その応用であった。

(これが『使い魔』的なアプローチだ、シナモリアキラよ。『個我』の強い邪視系の紀人――冬の魔女ならば神話の全てを身の内に飲み込んで好き勝手に取捨選択するであろう。お前はどうだ。『杖』の紀人よ。『サイバーカラテ』よ。お前はツールそのものか。有用性の神話か。制御された身体性か。『シナモリアキラ』とは何だ。答えは既に『シナモリアキラ』どもの中に――)

 ――『そこ』に答えは無い。いつだって、答えの在処は外側だから。

 ふと、グレンデルヒは音無き声を聞いたような気がした。
 幻聴――存在しない応答。
 戦いを終えた英雄は、道化に戻りながら嘆息する。

「人が気まぐれに面倒見の良さを発揮してやった結果がこれか。貴様はひどく教え甲斐の無い生徒だな。まったくもって不愉快だ」

 そう言いつつも、声にはさほどの不機嫌さは込められていなかった。
 相変わらずの混乱と乱戦が続く下界を見下ろしつつ、「さてとりあえず全員黙らせるか」と呟いたその時、グレンデルヒは違和感を覚える。
 両腕のチェーンソーが砕かれ、予備の『創造クラフト』素材も無くなり、外側は猛攻撃によって死に体、内側からは内臓を食い荒らされて生命維持不可能という状態の『絡新婦』。
 ラズリが叩き落したレゴンどものエサになっている腕が、活きのいい魚のごとくびちびちと跳ねて、そのまま空高く飛び上がった。

(待て。あれは感染呪術による腕の遠隔操作ではないのか。本体が死亡した状態でまだ動けるというのは一体――『死亡した状態』、だと?)

 グレンデルヒは背筋を冷たいものが走り抜けるのを感じた。
 『絡新婦』の死体が、ゆっくりと前のめりに倒れていこうとしている。
 その直前。前に出した足で踏みとどまり、そのまま前進する。
 歩く死体。筋肉など無く、骨も砕け、脳は存在しない。
 それでも。がらんどうの腕、その輪郭が生まれ始めていた。
 肩から伸びているのは幻影の腕。亡霊の念動義肢。

(前例が無い、『女王』は堕落者を厳しく罰していたはず、記録に残っている限りでは――だがあり得る! 『再生者オルクス』は他の種族と加護を重ねることが可能な種族だ、つまり――)

 小鬼の再生者、という悪夢のような存在もまた成立しうるということだ。
 『絡新婦』に遡行限界まで死を与え続けても意味は無い。
 死が死で無くなれば、既に彼は永遠不変の『不死なる異世界』である。
 グレンデルヒは次の手を打とうとして、自分に打てる手がもはや存在しないことに気付いた。手遅れだ。小鬼の肉体が急速に縮んでいる。
 自己認識に応じて巨大化し、世界を高みから見下ろすようになる巨人の逆。
 矮小化した世界に応じて小さく小さく縮んでいく。
 極小の小鬼ほど手がつけられない。
 優秀に、万能に、全知に近づいていく巨人ならばまだ倒す目がある。
 強靭に、先鋭化し、無知になろうと自分の世界に閉じ籠もる小鬼は無敵だ。
 最終的にはこちらからは一切の干渉ができず、あちらからは一方的に汚染され続けるという事態にまで発展する。そうなればあとは神々や竜が掃除してくれるのを祈るしかない。

(まだ子供のサイズだが、既に射程外だ! おのれ、自分の万能さをこれほど憎く思うことがあろうとは!)

 優秀であればあるほど小鬼への干渉は難しくなる。
 世界観の断絶が両者の間にコミュニケーションの障壁を作るのだ。
 『絡新婦』からあふれ出る汚染された世界観が、中庭を、病院を、更にその外側まで塗りつぶしていく。既存の世界を『森』という異界になぞらえて、それを破壊して新たな地平を切り開く――『鵺』の英雄観に近いが、『絡新婦』はよりラディカルだ。ただ壊す。何の為でもなく、伐採のために伐採する。存在が固定されてしまった純粋な機能。
 邪視者や紀人が人格を失えば、このような単純な現象に成り果ててしまう。
 これは『シナモリアキラ』の最悪の末路に他ならない。

「ばっさい、ばっさい、ばっさぁあぁぁああい!!」

 半透明の腕が、腰の後ろに伸ばされる。
 ここにきてはじめて、『絡新婦』はチェーンソーという近代的な機械ではなく原始的な斧を使おうとしていた。
 呪術的には、古い神秘ほど歴史と文脈を背負っているために強力だ。
 だが小鬼には歴史など関係が無い。300秒ごとに世界を更新する彼らにとって世界とは一瞬ごとに創造され続けていくものだからだ。あの古びた斧は、恐らく何者かが『絡新婦』に与えた呪具だろう――そこまで考えて、グレンデルヒは気付く。

「だとすれば、あれは『奴』の神殿を造るための――させるかっ」

 解き放った四大系統全ての呪術は斧の一振りで全て吹き散らされた。
 紫色の燐光を纏う斧。
 その中から、途方もなく巨大な力が溢れ出そうとしている。
 『絡新婦』の目の前に幾何学的な紋様が描かれていく。
 形成されたのは人ひとりが通れるくらいの大きさの『扉』だ。
 向こう側から『何か』が現れようとしている。
 それは、はっきりとレオを見ていた。

「み、つ、け、た」

 『絡新婦』の言葉に何者かの声が重なる。
 小鬼よりも遙かに強大な存在は次元の向こうから黒々とした憎悪を放つ。
 漆黒の怨念は可視化されたオーラとなって半透明の腕として実体化。
 凄まじい速度で伸びて真っ直ぐにレオに襲いかかる。
 恐るべき呪力に誰も反応できない。
 レオは身が竦んでいるのか避けることもできず呆然と立ち尽くしていた。
 誰もが少年の死を予感した直後、天から舞い降りた光が憎悪の腕を断ち切った。

 混沌とした戦場に舞い降りたのは、朱金の鎧を身に纏った炎の天使。
 稲妻と灼熱を迸らせる斧が紫黒の呪いを撒き散らす斧と激突。
 乱入したアルマは『絡新婦』相手に一歩も退かず、浄化の炎で『再生者』としての力を減衰させていく。グレンデルヒは驚愕していた。

(あんなものまで引き寄せるのか、あの子供が生み出す流れは!)

 既に運命の竜にでも働きかけているとしか思えない偶然の数々。
 絶対に敵に回してはならない――グレンデルヒはぞっとした。
 レオに対してではない。そのような『流れ』を向こうに回してなお反逆を成し遂げようとする『敵』の憎悪に対してだ。
 破滅願望でもあるのか、あるいはそれでも勝つという強い信念があるのか。
 いずれにせよ、正気の沙汰ではない。

 『絡新婦』が何者かを呼び出そうと『扉』を完全に開こうとするたび、アルマの猛攻がそれを阻止する。どちらも理性は無いように思えるが、互いに相手を倒すことを目的としていない。攻防に裏の意図を伏せながら空中で火花が散っていく。
 均衡を崩したのは、浮遊する実体の腕。
 死蝋化した腕はその機会をうかがっていた。
 氷の盾が斧を受け止めた瞬間、浮遊する腕が背後に回り込む。
 朱金の装甲に触れると、見えない何かをするりと掴み取っていった。
 『絡新婦』の両手が持つ透明な品が淡く光って青と白銀に染まる。
 それは中心となる幹と八つの枝に分かれた氷の燭台。
 立てられているのは九つの蝋燭型の氷柱。
 冷たい細工に炎が灯ることはなく、ただ無意味な飾りとして存在している。

(冬の魔女の『氷燭』か!)

 『絡新婦』を裏で操る敵の狙いは複数ある。
 シナモリアキラ、レオ、ティリビナ人、第五階層。そして『氷燭』。
 役割不明の祭具、アルマも持て余していたコルセスカの秘宝は浮遊する手によって『扉』の彼方に持ち去られ、やがて見えなくなってしまう。グレンデルヒは使い魔たちに追跡させようとしたが、全て『絡新婦』本体によって破壊されてしまう。

(紀元槍の制御盤を奪われるとは! なりふり構わず使える人材を流れに引き込んだのが失敗だったか――いや、それも含めて相手の計画の一部か?)

 レオは『流れ』の中心となる器の持ち主である。
 つまり彼を襲撃すれば、この結果が生まれる可能性が高まるということだ。
 レオの暗殺と『氷燭』の確保、どちらかでも成功すればそれは多大な成果と言える。レオの特性を良く理解した『敵』の二重の策は、果たして功を奏していた。

 なりふり構わず『流れ』を引き寄せれば、当然予期せぬ事態も招く。
 グレンデルヒは悪寒と共に上空を見た。
 中庭に影が差す。暗雲立ち込める吹き抜けの上、そこから雨が降り始めた。
 ただの雨ではない、それは大小の石。
 礫の雨は殺意をもって地上の全ての人間に襲い掛かる。

「おお、松明の聖女よ、遂に見つけましたぞ! 我と共に邪悪なる異獣どもを殲滅いたしましょうぞ! さあ、さああああ!!」

 暗雲の正体は巨大化した空の民だった。
 巨人は熱狂しながら地上の全てを焼き払わんと神働術を唱える。
 炎の風と氷の霰、稲妻に礫の雨。
 恐るべき殺意をその場に集った者たちはどうにか凌ぎ切った。
 しかし混乱に次ぐ混乱で場の『流れ』はめちゃくちゃになってしまっていた。
 再び流れを制御しようとするグレンデルヒだったが、その力を増した『絡新婦』に巨人である『大入道おおにゅうどう』、そして一切の干渉を受け付けないアルマまで含まれた戦場を支配しきることは困難を極める。荒れ狂う大渦のような戦場から弾き出されたグレンデルヒは舌打ちする。
 そろそろ見切りをつけるか――そんなことを考え始めたその時。
 ナーグストールに守られていたレオが、ゆっくりと前に踏み出した。
 そのまま荒れ狂う戦場のただなかを進んでいく。
 そして『絡新婦』にこう語りかけた。

「怖がったりしてごめんなさい。つらかったですよね」

(この期に及んで呪文、それも上からの慈悲だと?!)

 グレンデルヒは驚愕に震えた。
 レオは小鬼に対するもう一つの正攻法を試そうとしているのだ。
 それも恐らくは天然で。
 突然、敵対的ではない感情を向けられて『絡新婦』が困惑する。
 未知の呪文であるため、耐性が無かったのだ。
 レオは語り続ける。

「お仕事、きっといっぱい頑張ったんでしょうね。最初は斧、それからもっと人の役に立つために愛用の道具をチェーンソーに持ち替えて。でも、あの機械は振動が凄いから――そんなふうに手が真っ白になってしまって、きっと大変な思いをしたんでしょう?」

 振動障害、あるいは白蝋病。そこから派生したストレス性の精神疾患。狂的な振る舞いの原因を病に見出したのは、トリシューラという呪術医の下で働いているためだろうか。
 血の気を失った遠隔操作の腕を『職業病である』と解釈し、そこに人格と個人の来歴を見出す『優しい呪文』――レオの気質が可能とするその攻撃は、グレンデルヒには不可能なものだ。

(状況と目の前の材料から遡って、物語性を『創造クラフト』したのか! しかも上から目線の慈しみと憐み――なんという鮮やかな呪文の操作!)

「『杖』が、第五階層が、トリシューラ先生やアキラさんが憎いですか。あなたの仕事を助け、そのあとであなたから腕と仕事を奪い、更には我が物顔で伐採作業を行う林業ドローンたちが嫌いですか。そして、自然保護を訴えるティリビナ人のみんなを傷つけたいですか」

 小鬼に歴史は無い。
 だがレオはその性質と外見から物語性を抽出して、そこに人格を付与した。
 存在する以上、呪文から逃れることはできない。
 邪視が全てを上書きする力なら、呪文は世界を規定する根源的要素。

「でも、思い出して下さい。木を切ることは誰かのための行為です。それは家と道具の材料を生み出し、道路や宅地を切り開く、あなただけの破壊とひとつになった創造でした。でも今のあなたは違う。それは悲しいことだと思います」

「伐――採?」

 不思議そうに首を傾げる『絡新婦』。
 アルマや『大入道』の攻撃を身に受けながら平然と立ち尽くす矮小な邪神は世界を汚染し続けているが――その速度がわずかに衰えた。

「僕はあなたが誇りを取り戻して、みんなの中で生きられるようになればいいと思う。けど、そのためには力が足りない」

「そんな絵空事を。あれは共存できるような相手じゃ――」

 聞いていたミルーニャが現実的なことを口にするが、レオは透明な視線で言葉を断ち切った。そして理想だけで構成された夢を形にしていく。

「聞いて下さい! この第五階層は、『上』からも『下』からも『共存できない』って言われた人たちが集まってくる所なんです。ここで拒絶して、諦めて、そんなひどいことを続けたら、ここは本当の地獄になる! 僕はそんなのは悲しいと思います」

 ミルーニャは口をつぐんだ。『鵺』の身体が硬直し、『大入道』の動きが止まる。荒れ狂うアルマの斧がレオを襲うが、ナーグストールが受け止めた。
 この場にいる何人かは、レオの言葉に心を動かされ始めている。
 それは理想だが――理想でしか生きることができない人間もまた存在する。
 現実に拒絶された者は、それを目指すしか道が無いのだ。

「僕はあなたを拒絶したくない。さっきは怖がって、たくさん痛い目に遭っているのに何もできなくてごめんなさい。もう、怖くないから」

 まっすぐな言葉。
 汚染された世界が震え、一瞬で塗り替えられていく。
 レオの視座が『絡新婦』を絡め捕り、『扉』から溢れる憎悪を圧倒する。

 レオの感情が、思考が、その場に浸透していった。
 第五階層は森であり、自然のままの混沌と共生する文明である。
 制御されない伐採は現在の第五階層の在り方を根本から否定する行為だ。
 古来、神秘に満ちた異界と対峙する伐採者は英雄であり王でもあった。
 神話に彩られた幻想世界を破壊する者。
 破壊の後に人類の輝かしい文明を打ち立てる者。
 だが、トリシューラが目指す世界は片方だけの極端さを否定する。

「斧も、チェーンソーも。あなたの痛みも苦しみも、決して無駄じゃない」

 力強い肯定の言葉。
 レオは危険など感じていないかのように『絡新婦』に歩み寄り、目の前で立ち止まる。そっと手を差し伸べて、ぼろぼろに朽ちた頬に手を添えた。
 望むのは混沌。
 神秘と呪いに満ちた森も、整然とした都市も、双方が併存する世界。

「先生は、僕にティリビナの民を任せてくれた。きっと、優しい未来を期待してくれているんだって、そう思います」

 それはきっと、トリシューラにもシナモリアキラにもできないことだ。
 だから『サイバーカラテ』はレオという外部を欲している。
 溢れ出す呪文の力が全てを優しく包み込んでいった。
 即席の動機、間に合わせの役者たち、即興の物語。
 その場しのぎの対立軸が言理の妖精によって紡ぎだされた。

「僕らが立ち向かうべきは、憎しみと拒絶。不寛容と誤解」

 『扉』に亀裂が走る。
 優しさに満ちた空間が憎悪を押しつぶし、怨嗟の声をねじ伏せていく。
 有無を言わせぬ理想の暴力。
 彼方から来る醜悪な憎悪などものともせず、レオは残酷に踏み潰した。
 にこり、と笑う。あまりにも美しい笑顔だった。

「だからみんな、仲良くしましょう?」

 その呪文が完成すると同時に、『鵺』の呪いが、『火車』の力が、『絡新婦』の汚染が、その他ありとあらゆる敵意が毒気と共に雲散霧消していった。
 他の誰かが言えば鼻で笑われてしまうような理想論。
 しかし、そこには圧倒的な説得力があった。
 雰囲気、身振り、状況、危険を顧みぬ精神性、異界の三角耳という特異性、呪文の素養、そしてなにより――顔と声。
 レオの優しげな容貌と声は、『役者』として完璧な説得力を誇っていた。

「あ、うう――あう」

 『絡新婦』は涙を流して斧を取り落した。
 レオの紡ぐ呪文に絡めとられ、その全能性を剥奪されたのだ。
 来歴と人格を付与された彼は、もはや怪人などではない。
 少年の声が瓦礫だらけの中庭で優しく響いた。

「ようこそ、第五階層へ。僕はあなたを歓迎します」

 暴走したシナモリアキラたちはそれぞれ『サイバーカラテ道場』が内包する暴力の形を体現して相争う。
 だが、暴力はより大きな暴力によって屈伏させることが可能。
 それもまたサイバーカラテである。
 シナモリアキラが持たず、しかし彼よりも強大な暴力があった。
 事態が終息するのを見届けたグレンデルヒは大量のドローンと『杖』のオルガンローデによる物量攻撃でアルマを捕獲しながら皮肉を込めて呟く。

「可愛らしさの暴力、か。なるほど、確かにあれにシナモリアキラは抗えまい」

 気付けば『火車』の気配は遠ざかり、ミヒトネッセは姿を消している。
 『絡新婦』と『鵺』、『大入道』とアルマは場の空気と物量に呑まれて戦闘の続行は不可能だ。完全なるレオの勝利だった。土台、シナモリアキラがレオに敵うはずがなかったのだ。

 空から暖かな日が差した。
 暗鬱とした空気はいつの間にか消え去り、光が少年の微笑みを照らしていた。
 黄金の笑顔、その煌めきが眩しくて目を閉じる。
 おそらく、『黄色いの』もそうなのだろう。
 あるいは、ここにいてここにはいない、あの『紫』も。
 グレンデルヒは――かつて『橙』と呼ばれていた存在を内包する紀人は、知らないはずの懐かしさを感じながら、暖かい光の中をさかさまに漂うのだった。



 院長室に戻ったグレンデルヒを、トリシューラは陽気に出迎えた。

「ご苦労だったね、『道化アルレッキーノ』。ちょっと貧乏くじだったかな。アキラくんへの指導とレオの引き立て役、あなたしか適任がいなくって」

 不快極まりないねぎらいの言葉。
 道化服の男はこれ見よがしに舌打ちをした。

「少しでも勝算が高い方を選んだだけだ。あえて先に失敗してみせることで後の展開の成功率を上げる――道化師としての適切なアシストに過ぎん」

「そういう後出し無敵発言ばっかりしてると、小鬼になっちゃうよ?」

 トリシューラは典型的な邪視者への戒めを口にした。
 大成して巨人に至るか、全能感を制御しきれずに小鬼に堕ちるか。
 世界を意のままにできるが故の陥穽。
 呪いは常に双方向的だ。隙を見せれば使い手を食い殺す。
 『小鬼になるぞ』というのは最も恐ろしい脅し文句のひとつだった。 

「ふん。そんなことはいい。それより問題はこんな所に小鬼が現れたということの方だ。貴様、捕獲していたあれをわざと解き放っただろう。あの少年にぶつけて何の実験をしようとしていた?」

 トリシューラは問いかけに直接は答えず、独り言のように呟いた。

「N・G・H・S・スレイマン――イェレイドだけじゃなくて、彼まで動き出したわけだね。めんどくさーい。分かっていたことだけど」

「知らん名だ。アムエムカノンの奴ではないのか?」

「それも正解。ちょっと戦ったことがあってね。最近の彼のことは私の方が詳しいみたい。昔のままじゃないよ、あのコ」

 煙に巻くような言葉。
 トリシューラは椅子から立ち上がって窓際に移動した。
 そして、いきなり話題が逸れた。

「結構がんばってるよね、ラクルラール勢力も。マラードとアルトの王権はまんまと奪われちゃった。カーティスの残骸は回収し過ぎると危険だけど、試す価値はあるから多分もうやってるかな? リールエルバの所在も掴んでるはず。ヴァ―ジルは片方だけでもって感じ? 問題はパーンとオルヴァだよね」

 トリシューラの口調はひどく淡々としている。
 感情表現によって『快』のシグナルを送る必要が無い相手の前で、トリシューラはこうして不気味さを演出して不安感を与えようとするのだ。

「パーンは黒百合組の出方次第なところがあるし、正直私にも予測がつかない。でも、クロウサー家の禁書庫から盗み出されたっていう『自由の稲妻』は――あなたの仕業でしょう、ミヒトネッセ」

 鋭い言葉が部屋の片隅に向けられる。
 はらりと壁紙がめくれて、壁と同化していた侍女ニンジャが姿を現した。

「『我神十二限界マレブランケ』と『紫』が完成すればオルヴァは再現可能。アレッテは自分をオルヴァに見立てて王権を取り込む準備ができているけど、まだ完全じゃない」

 トリシューラの言葉はミヒトネッセとその背後のラクルラール陣営の動向を見透かすようだった。人形は緊張の面持ちで言葉を返す。

「やはりそういうこと。トリシューラ――レッテが十二人を揃えた段階でこれを見越して、シナモリアキラの制御とセキュリティをわざと緩めたわね?」

 小さくトリシューラが笑う。
 ミヒトネッセは確信を得て、推測をはっきりとした形にしていく。

「オルヴァの性質を利用して、シナモリアキラを『囮』に――霊媒に使った。内的闘争を前倒しにして、シナモリアキラの問題解消とオルヴァの吸収を同時進行でやろうとしている。違う?」

 違わないよ、とトリシューラはそのまなざしで肯定する。
 余裕に満ちた女王の振る舞い。それが演技であるのか、勝利の確信に由来するものなのか、ミヒトネッセにはわからない。

「オルヴァはあなたたちにはあげないよ。もう席は空けてあるの。時の三相――全て私のものにするから」

 そう言って、トリシューラは何かを放り投げた。
 コルセスカの『氷球』――貴重な『制御盤』だ。
 無造作に投擲されたそれはミヒトネッセの手の中に収まる。

「何のつもり?」

「オルヴァやアキラくんは確かにいる。グレンデルヒだってね。あなたはいつも私を『セスカという幻想に逃げている』ってお説教するけれど、その重みを否定できる? セスカはいるよ。私が向き合う大事なものを、否定なんかさせない」

 それはけっして攻撃的な言葉では無かった。
 けれど呪いのようにミヒトネッセを縛り、氷の宝珠は確かな質量を持ってその表情を強張らせた。まっすぐな緑色の瞳から目を逸らし、耐えきれなくなったかのように影の中に沈んで逃走する。

「追うか?」

 グレンデルヒの問いに、トリシューラは頭を振った。

「いい。あれは重しにする。あの宝珠がある限り、ミヒトネッセはセスカに呪縛されるんだ。紀人が生み出すうねりはそんなに簡単に抗えるものじゃないからね」

 淡々と告げて、そっと窓に身体を寄せる。
 中庭を見下ろして、大勢の人々に囲まれる少年を見た。
 異形すらねじ伏せる、優しさの獣を。


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