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幻想再帰のアリュージョニスト 作者:最近

第4章 傷つけるのはハートだけ、口づけるのは頬にだけ

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4-37 オルヴァ王と十二人のシナモリアキラ4


 青年は恋をした。
 未来は最初から知っている。
 しかし、記憶に残っていた経験は言いようもなく鮮烈だった。
 回想し、遡り、その感触を確かめる。恋は激しく熱いのだとあらためて知る。
 キシャルという妻は美しく、波打つ黒髪といい扁桃のような眼といい申し分のない王妃と言えた。
 しかし何よりもオルヴァが惹かれたのは、見合いの為に用意させた似顔絵の中の彼女だった。写実的な絵画は、当世風の四次元画法で描かれていた。
 幼いころのキシャル。少女として華やぎ始めたキシャル。成熟した女性にあと一歩で手が届くキシャル。女らしい姿に成長したキシャル。写実的な絵画の中でキシャルは快活に動き回り、笑顔を見せてくれる。徐々に成長していく少女の姿は可憐で、いずれこのように成長するだろうという画家の予想に基づいて描かれた未来の姿もまた円熟した美を感じさせた。やがて母となり、豊かな内面と知性を兼ね備えた老女となっていく過程。寝台に横たわり、徐々に痩せ細って末期を受け入れていく光景。全てが朽ち果て、廃墟の中に取り残される屍、白骨、そして灰となって虚無に至る。

「ブレイスヴァの破滅あれ!」

 画家もまたこの傑作を書き終えたのち、自ら命を絶つことでブレイスヴァの下へ旅立ったのだ。おお、彼の魂にブレイスヴァの貪りあれ!
 青年期のオルヴァ王は、絵画の中のキシャルに魅せられた。
 キシャルの『時』を――滅びと死の美しさを愛したのだ。
 本物の彼女を見た瞬間、ぞくぞくとオルヴァの全身に稲妻が走り抜けた。
 予感は本物だった。体験は激烈だった。

「はじめまして、全てを知る私の王よ」

 柔らかい声、肉付きの良い肢体、厚い唇、母を思い起こさせる暖かな雰囲気。
 滅び、苦痛、愛の破綻、裏切り、絶望、慟哭、ブレイスヴァ。
 この情熱を胸に、キシャルを守り抜くと誓った。
 この恋が砕けるその瞬間を、必ず味わうと願った。
 両極の願いは共に等しい。
 ブレイスヴァの前では、幸福に添い遂げることも、不貞と裏切りと暴虐で全てを台無しにすることも、ひとつの信仰の形である。
 オルヴァはキシャルと抱き合い、彼女が優しく微笑むさまを想像した。
 オルヴァはキシャルが違う男と褥を共にし、狂乱する自分が彼女を嬲り殺すさまを空想した。

「おお、ブレイスヴァよ!!」

 それは恋だった。
 そして、圧倒的な信仰でもあった。




「シナモリアキラにトリシューラ。貴様ら馬鹿だろう」

 要塞化した呪術医院の院長室でさかさまに浮かびながら、道化アルレッキーノことグレンデルヒ・ライニンサルは言い放った。嘲りよりも呆れの色が強い。黒革の豪奢な椅子に腰かけるトリシューラは不快そうにそっぽを向いた。

「うるさいなー。アキラくんが増えたぐらいでいちいち大げさな」

「飼い犬の躾もできんとはな。言っておくが私は違うぞ。造反した副長どもはあらかじめそうなるように躾けておいたのだ。反抗するくらいで丁度いいのだ。ぽんぽん繁殖させるのはいかん。去勢しておかんからそうなる」

 グレンデルヒは宿っている汎用型機械人形に道化の立体幻像を張り付けながら、ネット上でプレイ可能なカードゲームをやっている。それも五面同時打ちだ。「ちっなにがE-Sportsだクソ乱数めあっ貴様トップでそのようなカードをおのれええええ!」などとぐちぐち文句を言いながら遊んでいるが、並行して多方面から仕掛けられている呪的侵入の数々を防ぎきっているので文句も言えない。

 ヴァ―ジルによる致死の論理爆弾、アルト・イヴニル勢力からの夥しい数のマルウェア攻勢、ワルシューラシスターズからの人格汚染、その他活発化した犯罪組織、トリシューラに恨みを持つ個人など――さまざまな悪意ある攻撃をたったひとりで捌ききっているグレンデルヒの技量は他と卓絶している。ゲームの片手間にやっているだけだが。

「こんなもの真面目にやっていられるか。フレンドの『囚われの美姫@氷の中で退屈中』と対戦していた方がまだマシというものだ」

「――あのさ、男根城はヴァ―ジルの防壁でガチガチに守られてたと記憶しているんだけど?」

「感謝することだな魔女姉妹。引きこもりが全世界とネット対戦できるように取り計らってやったぞ。別に『退屈のあまりもう氷血呪使って世界滅ぼしそうですなんとかしろ』という必死過ぎるメッセージを真に受けたわけではない。英雄としての習性で世界を救いたくなったわけでもない。ただの気まぐれな慈悲に過ぎん」

 トリシューラの机の上に氷の球体が転がっている。
 コルセスカが操る九つの紀元槍の制御盤――『氷球』だった。
 あらかじめ定められた命令を自動で実行する呪術ドローンであり、遠隔操作可能な移動砲台でもある。通信機能とアストラル戦機能まで有する上、変形させてコルセスカの簡易アバターを作り出すことも可能だ。

 『氷球』があるメッセージを託されてここまでやってきたのはつい先ほどのことだった。ヴァ―ジルの追撃を振り切ってここまで来るのに呪力を使い果たしたらしく、浮遊することすらできずに沈黙している。コルセスカかふさわしい担い手が傍に来て呪力を込めないと再起動は無理だろう。
 トリシューラはコルセスカが決死の覚悟で送ってきたメッセージがなんなのかと開封したが、内容がひどかったのでしばらく脱力して休んでいた。そういうポーズをとるのがコルセスカのボケへの礼儀であるような気がしたのだ。『無事だから心配するな。自分のことに集中しろ』というメッセージに、トリシューラは深い安心を覚えた。その間にグレンデルヒは字面通りに受け取って動いていたようだが。

「『火車』が逃げてから急に協力的になったね。別にここの呪的防備ならしばらくは私ひとりでもどうにかなったんだけど」

「嘘を言え。どうせ『名』で縛って強制的に隷属させるつもりであったのだろう? 自発的に動いた方がまだマシだ」

「ばれた?」

 トリシューラが舌を出すと、グレンデルヒはとびきり嫌そうな顔をした。

「当然だ。貴様、制御しているドローンはもちろんのこと『マレブランケ』やシナモリアキラにも緊急用の制御手段を隠しているであろう。『名』はそのひとつだ。だというのに何故シナモリアキラの暴走を許した? 内的闘争が紀人の必然だからか? そんなものは冬の魔女が復活した後に指導付きでいちゃつかせながらやらせろ。何なら私が心構えから教えてやってもいい」

「そう言いつつ自分がアキラくん乗っ取るつもりでしょ?」

「それを跳ね除けられないのなら紀人として存在し続ける資格が無いということだ。オルヴァはむしろ積極的に意思無き『役』となろうとしているようにも見えるが――それは逆に『役』や『地位』として形が固定されているという証拠だ。意思としては脆弱でも、紀人としては強固な構造と言える」

 グレンデルヒの分析は正確だった。
 現在トリシューラが対峙している厄介な敵。
 それはアルト・イヴニルでもシナモリアキラでもない。
 それらの下に位置付けられている『十二人という形式』である。
 更に厳密には、その上に出現する滅びを招く王。

「オルヴァは六王の中で最もルウテトを求める動機が弱いと思うんだ。それは彼自身が存在として完成しきっているから。妻と重ねているからか、『現在』の相はそこそこ求めているみたいだけど、『寝取られ王』という性質から敗北を受け入れてしまう――どころか敗北を望んでしまう傾向がある。はっきり言って、セスカとルウテトの争奪戦という意味では一番楽な相手」

「だが奴が称える滅びに最も近いのが死人の森の女王だ。あるいは、最も遠いのが、とも言えるか」

 グレンデルヒに見えているものがトリシューラにも見えているわけではない。
 逆もまた然り。
 先を見据えた話し合いは、互いが掴んでいる情報が不透明なために漠然としたものになっている。

「グレンデルヒとオルヴァ。そしてセスカとルウテト。それぞれの存在維持のメソッド――その辺にアキラくん安定の鍵があると思わない? 妖怪さんたちはすっかり忘れてる属性にもね」

「役割と地位。神話と転生か。それで安定が可能だと?」

「私もいる」

 トリシューラは立ち上がり、部屋の片隅に置いてある古びた機械をそっと撫でた。それはとても古めかしい、パンチカード式の自動織機。プログラムされた通りに複雑な模様を織ることが可能な、計算機の雛形とも言える機械。

「最初の知性は、人に服を与えるために創造された。知恵を得た最初の人類は裸であることを自覚していちじくの葉を腰に巻いた――なんか示唆的じゃない?」

「ヒトに知恵を授けると? 傲慢な。神にでもなったつもりか」

「そのための私だよ? 当然じゃない。私は女神になるんだから」

 トリシューラは穏やかな表情で言った。
 苦境の中にあるとは思えないような、自信に満ち溢れた姿だ。
 その有り方が必要な時なのだと、彼女は判断している。

「忘れてもらっちゃ困るんだけど――私はいずれファッションリーダーになっていく『きぐるみの魔女』なの。ストリートから出てくるミームも勿論いいと思うけど、シーンを牽引していくのは私のブランドだから」

 不敵な笑みを浮かべつつ、トリシューラは行動を開始する。
 各地の監視網により、ほとんどのシナモリアキラたちの動きは手に取るようにわかっている。あとは混沌の経過を見守るだけだ。
 ここではないどこかを俯瞰して、緑色の目が細められる。
 その先に何が映っているのか、今はまだ誰も知らない。



 レオとカーインが呪術医院の中央棟一階のエントランスホールを歩いている。
 つい先ほどまで二階の病室で名前を失った隻眼の亜竜人と面会していたが、あとを牙猪チリアットに任せることにして二人は先に退出したのだ。同じ記憶喪失ということで励ますことができるかもしれないと考えたレオだったが、その考えはかなり甘かった。

 男からはかつての巨大な呪力と威厳、そして身の内に溢れる自らの正義と信念といったものをすべて失っているように見えた。彼が彼であったゆえん、それが失われた以上もはや別人でしかないのだと、それを知らしめるようなみじめさ。トリシューラならば、それがキロンに敗れた直後のシナモリアキラそっくりだと評しただろう。しかし、決定的に異なる点が一つ。

「レオ様、今後はあのようなことはお控えください」

「心配してくれるのは嬉しいけど、あのときはああするのが一番だと思ったから」

 護衛の言葉を受け入れることなく、レオは穏やかに言った。
 直前の一幕で危険に晒された直後だというのに、平然としたものだ。
 記憶を失った直後、元王と思しき男はしばらくは混乱したり助けを求めたり錯乱したりと、記憶喪失者にありがちなふるまいをしていた。その頃はレオの励ましも良い方向に作用していたと見えたのだが、そのあとが問題だった。

 落ち着きを取り戻し始めた男は、次第に素の性格を見せるようになりはじめた。
 それは真っ白な心ゆえの幼さなのか、それとも抑圧されていた本性だったのか。
 横柄、粗暴、我侭、自分本位、他人を利用できる道具程度にしか思っていない、上手くいかないとすぐに怒鳴り散らし腕力に訴える――その他さまざまなトラブルを引き起こす問題児。
 看護ドローンを破壊し、トリシューラに罵声を浴びせ、看護師に怪我を負わせ、備品を壊し病室の窓を割って脱走を試み、食事がまずいといって床に投げ捨てたり同じ病棟の怪我人や病人を顎で使おうとして従わなければ殴り、無断で物を盗んだり強引に奪おうとしたり――女性に強引に迫って周囲に止められることまであり、周囲の認識が『哀れな犠牲者』から『凶暴な厄介者』に変化するまでそう時間はかからなかった。

 口癖は「使えんゴミめ」で二言目には「俺様のもの」が飛び出す。
 他人に人格を認めておらず、この世の全てが自分のものだとでも思っているかのような尊大な振る舞い。
 最後まで見捨てなかったのは、利用価値を見出しているトリシューラと奇妙な因縁で結ばれている牙猪だけ。とくに猪の男はどれだけ悪態を吐かれ、暴力を振るわれても辛抱強く相手に付き合っていた。
 それが自分の役目なのだと、苦痛の色も見せずに牙猪は言う。
 レオもまた、それを信じることにした。

「ちょっと危なかったけど――またカーインが守ってくれるでしょう?」

「それは、レオ様の身に危機が迫れば当然お守りいたしますが」

 レオの言葉は、果たして彼に届いていたのかどうか。
 カーインは神妙な顔でレオを見つめていた――と、その表情が引き締められる。
 病院のエントランスにはたくさんの人が集まっている。
 随所に警備ドローンとスタッフ、完全機械制御の受付と整備された待合席が並び、天井のモニターが受付番号を表示している。他の棟へと続く通路や階段は人の行き来が激しい。しかし呪的な監視装置は各所に潜んでおり、カーインほどの眼力があれば見破ることは不可能では無い。
 トリシューラとグレンデルヒ、そして『マレブランケ』たちの厳重な警備を潜り抜けることは難しいように思える。逆に言えば、難しいだけだ。
 突破できるのは、相応の手練れに他ならない。

 カーインは周囲を見渡し、耳を澄ませ、鼻で匂いを探り、足裏が捉える振動に細心の注意を払い、そして天井の照明を見た。光が地面へと向かい、人々の足下に影を作っている。向きはどうか。待合室の長椅子からこちらへ伸びている影、レオはちょうどその真横を通ろうとして――。
 滑るようにレオの前に出る。
 カーインは俯いていた老人の肩に手を置いて、そっと呼びかけた。

「もし、ご老人。もしやご気分が優れないのかな」

 その言葉にレオも遅れて気付く。
 老人は眉間に皺を寄せてなにやら唸っているようだった。

「ああ、すまねえな。どうも頭痛が酷くてよ。こういう時は一服すりゃあ一発なんだが、何しろ禁煙だろう? 我慢するしかねえと思ってたんだが」

 腰を低くして老人が言った。レオが何かを言おうとする前に、カーインが機先を制して申し出た。

「そこの通路をまっすぐ行ったあたりの中庭に喫煙スペースがある。よければ案内するが」

「ああいや、悪いね。近頃の若者は親切だ」

 老人は肩に置かれたカーインの手首、その外側に触れた。
 カーインが老人を支えようともう片方の手を脇の下へと伸ばすと、老人は相手のタイミングをずらすかのように細い体を前に進めて立ち上がる。零に近くなっていく両者の距離、カーインの両足がわずかに屈曲、老人は体重を滑らかに片側の足へと寄せていき、一呼吸。

 カーインの伸ばされた右手が貫手の形を作り、老人の左手が浅く拳を握る。
 風が唸る音と共に、鋭い攻防が立て続けに空間を引き裂いた。
 丹田狙いの貫手を弾く拳、腕をとろうとする動きごと巻き込んで引きつけようとする罠、それらを囮として放った本命打としての膝蹴り、そして頭突き――いや違う、噛み付き。カーインの膝が老人の腹部にまともに入り、鋭い犬歯を剥き出しにした老人が血を吐きながら倒れていく、直前で片腕を掴んで強引に引き寄せ、今度こそ貫手を壇中目がけて叩き込んだ。

 老人――吸血鬼の刺客がかっと目を見開かれる。直後、全身が無数のコウモリとなって散らばり、エントランスホール全体を漆黒が覆い尽くした。
 更にはその場にいた全ての住民の影が蠢動する。
 カーインは鋭く影を踏みつけて『何か』を叩き潰すと同時に「疾っ」と鋭い呼気を発した。背後、側面、そして真上から断末魔の悲鳴が響いた。臓器じみた怪物が潰れた死体となって影から湧き出して、灰となって消えた。だが空間を埋め尽くす無数のコウモリは次々と人々を襲い、阿鼻叫喚の地獄絵図を作り出す。その犠牲者には小さな三角耳の少年も含まれており、「助けて」と悲痛な声を――。

「そこだな」

 カーインは迷うことなく貫手を主に向けた。
 「信じられない」という表情。どろりと融けていくレオの全身。
 基点を潰されて、悪意ある攻撃呪文の檻が崩壊していった。
 時間にして五秒にも満たない。
 カーインと老人は目を合わせたまま、何事も無いままの病院のエントランスホールで立ち尽くしている。
 平穏な光景――当然である。先ほどの戦闘は全て両者の精神の中でだけ行われたものなのだから。老人は深く息を吐き出して言った。

「いやあ、参った参った。こういうのは勘付かれたら終わり、正面から挑むなんざ二流三流のやることだ。老いってのは恐いねえ」

「機先を制されてなお目を逸らさなかったのは大したものだと思うが。二流三流というのは謙遜が過ぎるのではないかな」

 二人のやり取りに、不思議そうに首をかしげるレオ。
 落ち着き払ったカーインを、老人はじっと観察している。
 そして視線を足下に落とすと、

「まだ俺の影を踏んでいるってこたあ――影の攻防に自信ありと見たが」

 低く、囁くように探り、誘いをかけてきた。
 カーインは韜晦するように曖昧な口調で応じるのみ。

「さて、どうかな。何事も試してみないとわからない。若輩者としては、先達に一手御指南願えるのなら喜ばしい限りではあるが――」

「はっ、抜かせガキ。てめえ吸血鬼じゃねえだろう」

 敵意に満ちた言葉が棘を持ち、空気が硬く固化していく。
 互いの重心が低く落とされて、沈んだ。
 不動のまま、時が流れる。
 傍目からはただ立ち尽くしているようにしか見えない。
 しかし数瞬後、両者は弾かれたように飛び退いた。波打つ二人の影。カーインの表情は険しく、老人は愉快そうに笑みを作る。

「いいね、動けるじゃねえか。覚えのねえ幻想の匂いだが――はてさて、カーインの家系がどこで夜を取り込んだのやら」

 両者が圧力を発し始めたのを自然と察して、住民たちがそそくさと距離を取り、各々自衛用の武器や呪符を構え始めた。危険に慣れている彼らは荒事に対する勘が優れている。ここが幻影の世界ではなく現実である証拠だった。

 双方が同時に掌底を激突させ、次々と放たれた連撃が流れるような攻防を形作る。カーインは並行して濃縮させていた瘴気を口から吐息に乗せて解き放ち、老人も同じタイミングで迎撃の一打を放つ。両者の間で呪力が炸裂した。一方は最速にして万能の風邪、もう一方は頭部から飛び出してきた正体不明の拳。
 軍配が上がったのは老人の拳。
 六淫を押し込まれ、打撃を受けてしまうカーイン。頭部を押さえて膝をついた。激痛を堪えるように眉間に皺を寄せている。

「今のを凌ぐのかよ! 殺す気で撃ったがな」

 驚きながらも声に楽しさを滲ませる老人。
 カーインは苦しげに分析する。

「く――頭痛の症状を含む風邪では分が悪かったか」

「そういうこった。様子見に無難な手を打つのはいいが、俺は特化型でね」

 老人は全身に黒い靄を纏わせながら、その異様な本性を露わにした。
 その額には円形の穴が開いており、そこから脳細胞で構成されたような異形の小人が上半身をさらけ出していた。途方もなく巨大な手に不格好な頭部。大きく突き出した顎と唇は禍々しく、耳や鼻、ぎょろりとした目などの感覚器ばかり大きく、逆に体そのものは貧弱極まりない。

 今しがたカーインを打ち据えたのは自由自在に伸びる小人の拳だ。頭蓋骨を穿孔し、脳を小人に変えて飛び出させる――いかに夜の民とはいえ、異様にも程がある戦闘技術。カーインは苦痛を堪えながら、

「聞いたことがある。確か頭痛の原因とされる吸脳鬼ザッハーク伝説――脳を啜り知性と理性、感情と魂を奪う始祖吸血鬼がいるとか」

 と言った。老人はにやりと笑う。

「『これ』は俺の血統に刻まれた記憶。なら俺が模倣し、創造できねえ道理はねえ。俺はこれを『E-E』と呼んでいる。最近になって拝借した名前だがな」

 その言葉が事実なら、老人は自分で始祖を再現したということになる。
 極めて強力な邪視と使い魔の複合呪術――藍色の光が影と融け合い、深い夜の色彩が老人を中心として世界を侵食していった。院内の人々が次々に頭痛を訴え、あらゆる場所から異形の臓器型使い魔レゴンが湧き出して暴れ出す。

 即座に警備ドローンが使い魔を迎え撃つが、混乱の中心である老人を捕らえることは誰にもできない。夥しい量の瘴気の壁が男を守っている。老人は悠々と苦しむカーインに近付くと、長い髪を鷲掴みにして顔を上げさせた。

「さて、さっき俺はお前から『吸った』わけだが――なあカーインよ。何か無くなってんのに気付かねえか?」

「ぐ、貴様、何を――!」

「さっきまでの余裕がねえなあ? まあそいつを奪ってやったんだから当然だが」

 愕然と目を見開くカーイン。そして、老人は驚くべきことを口にした。

「もう耐えなくてもいいんだ。欲望を解放しろよカーイン。好きに力を振るえ、気ままに生きろ。我慢は身体に毒だぜぇ?」

 誘惑の囁き。老人の声には蠱惑的な響きがあり、独特な抑揚が聞く者の耳を蕩けさせるような魔力が宿っていた。

「だからよ、本国からの任務なんてもうどうでもいいよなあ? 秘密を後生大事に抱えて何になる? どうせ大したことでもねえんだ、パーっと吐いて全部放り出すんだ。そしたら楽になれるぜ――」

 知性と理性、感情と魂を奪う能力。
 脳を吸う吸血鬼というと恐ろしげだが、要するにそれは情報を吸うということを示している。コルセスカがそうであるように、吸血鬼が欲しているのは人の命であり魂でもある情報に他ならない。

 恐らくザッハークはそうした情報の略奪に特化した、最も吸血鬼らしい吸血鬼なのだ――周囲で両者の戦闘を見ていた幾人かはその推測に辿り着いたし、ドローンたちが統合した情報からトリシューラもそうした判断を下している。カーインが理解できないはずもないだろう。

 だが、理解できていても抗えないほどに理性が吹き飛んでいたらどうなるか。
 カーインは喉から絞り出すような絶叫を迸らせた。
 記録にある限り、カーインをここまで追い詰めたのはこの老人が初めてであり、その事実が周囲の人間を恐怖させていた。自分が手出しをすれば確実に死ぬ。感情を持たない自律型ドローンたちですら注意を引いて無駄に損耗することを避けるべく援護を控えている。

「んん――? 抗えるはずはねえんだが、効きが遅いな。理性で動いてるわけじゃあねえのかこいつ。忠誠心とかは藍の領分だから奪えると思ったんだが」

 訝しげな顔をしつつ、額の使い魔――始祖ザッハークに再びカーインを攻撃させようとして、思い留まる。老人の視線はその背後、カーインが手も足も出せずにいるのを呆然と見つめているレオに向けられた。
 老人の顔に刻まれた皺が深くなり、目に嗜虐の火が灯る。
 『七色表情筋トレーニング』によるカーインへの挑発行為だった。

 カーインは容易く引っかかった。
 絶叫し、怒りに我を忘れて暴れ狂う。
 滅茶苦茶に両手を振り回し、乱れた長髪を振り乱しながら滑稽に踊る。
 その勢いに「おっと」と老人が下がったが、その顔から余裕は消えない。
 狙い通りに狂乱した相手を手を横にしてくい、とばかりに招く。

「ほれほれこっちだ。お爺さんと遊ぼうぜ。素敵な場所に案内してやる」

 エントランスホールから外へ。逃走と同時にカーインをどこかに誘い出し、連れ去ろうとしているのは明らかだった。老人は使い魔であるレゴンたちに号令をかけて呼び戻し、獣のような状態のカーインを誘導しながら外へと逃げていく。

「ちょろいもんだ。さて、あとは旦那の仕事に期待――」

 老人が呟いたその時、細い身体がぐらりと揺れて、額の始祖が不格好な頭部を傾げた。二人の『頭痛』は視線を巡らせ、自らの肩に噛み付いている悪霊レゴンを目撃する。更に衝撃。腕、足、脇腹、さらにさらにと全身を噛み付かれて老人が絶叫。たまらずよろめいた老人に声がかけられた。

「どうした。遊んではくれないのか、ご老人?」

 冷静そのものの表情で踏み込んでくるロウ・カーインの姿を目の当たりにした老人は今度こそ本当の感情を思い出して息を呑む。恐怖に身が竦み、咄嗟の防御行動が精一杯だった。鋭い貫手が迫り、老人の掌ごと心臓を穿つ。

「が――はぁっ」

 続けて膝蹴り、掌底、肩への打ち下ろし、止めの貫手。
 容赦のない連撃に溜まらず膝をついた老人が目と鼻と口から血を流しながら声に鳴らない叫びを上げた。間を置かない蹴りと貫手、さらにレゴンたちの追撃。全身を食い荒らされた老人は哀れに逃げ惑うことしかできない。

 老人はアプリで表情を偽装することを好んでいたが、自分が騙される側に回るということを想定しきれていなかった。カーインは錯乱した演技をしつつ密かに瘴気を飛ばしていた。そしてレゴンたちの経絡秘孔セキュリティホールを突き、その制御を奪っていたのだった。そうしてさも相手の術中に嵌ったと見せかけて油断を誘い、一気に攻め立てたのである。

 無造作に止めの一撃を刺したカーインは、老人の頭部から小人が消えていることに気付く。いつの間にか頭部から抜け出していた小人は影の中に飛び込むとそのまま逃走していった。

「本体を移したか。思ったよりもしぶとい。まるでシナモリアキラのような生命力――いや、あれもまた彼か。そういえば、久しぶりに戦ったような気もするが」

 心なしか楽しげに言うカーイン。
 騒ぎが治まり、各々レゴンたちと戦っていた人々がほっと息を吐く。
 戦闘の終了を見計らったかのようにトリシューラから通信が入る。端末上にちびシューラの立体幻像が浮かび、「終わった? 敵の死体分析したいからそのままにしといてね。回収斑向かわせる。え? 本体逃がした? 別にいいよ」などと一方的に言い放って通信が終了。終わってみれば怪我人も無く、被害はドローンが破壊されただけ。強いて言えば、カーインが『何か』を奪われたらしいこともあるが。

「レオ様、ご無事ですか」

 カーインはいつものまま、冷静に振る舞っている。
 どう見ても理性や自制心が失われているようには見えない。
 少年は深い色の瞳でカーインを見ると、黒い耳をぴくりと動かした。

「カーイン、行ってもいいよ」

 男の表情が固まる。
 取り繕っていた何かが綻び、仮面の奥が一瞬だけ覗いた。
 レオはどこか感情の窺えない曖昧な微笑みをつくって言った。

「アキラさんといっぱい戦える機会だもんね。じつは火車さんが暴れたとき、すぐにでも飛び出したかったでしょ?」

 何もかも見透かすような透明な少年のまなざし。
 やわらかい声に、カーインは思わず息を吐く。

「少しだけ、本気でやってもいいと思う。きっとアキラさんもその方が喜ぶから」

 迷いは一瞬だった。
 少年の言葉は許しというよりもむしろ『お願い』という方が近い。
 護衛としての立場はそのままに、主の頼みが優先順位の上に移動する。
 カーインは表情を引き締めて言った。

「しばらくこの場を離れることをお許し下さい。シナモリアキラを倒し、安定した彼をレオ様の前に連れて来ることをお約束いたします」

 生真面目な宣言の中に隠しきれない興奮があった。
 それは常のカーインらしくもない感情の発露であり、老人の攻撃が無意味ではなかったことを示していた。
 走り去っていくカーインの後ろ姿を見送ったレオは、再び頭頂部の耳を動かした。ぴくり、ぴくりと動くたび、少年は首を傾げる。
 きょろきょろと周囲を見渡し、そわそわと半ズボンの脚を動かして小走りに移動。元々二人は一階の反対側の棟にいる蠍尾(マラコーダ)に会いに行こうとしていた。今後の警備計画について話し合うためだ。

 しかしエントランスホールから通路へと足を踏み入れた途端、レオの表情が凍り付いた。耳がぴくぴくと動き、目が大きく見開かれている。手は緊張の余りか強く反って硬直していた。彼の感覚がなにものかを捉えている。

 いつの間にか、連絡通路の照明が消えていた。
 先程大きな騒ぎがあったというのに誰もいない。
 背後はまだ喧噪に包まれており、この異変には誰も気付いていないようだ。
 かつん、かつん、と薄暗い通路の先から音が響いてくる。
 闇の中、次第に輪郭がはっきりとしてきた。

 その人影には両腕が無かった。
 細い吐息がフェイスマスクから漏れて、頑丈な靴がリノリウムの床面を規則的に叩く。その後ろから浮遊しながらついてくる奇妙な影はドローンだろうか?
 そのはっきりとした姿を見る前から、レオはそうではないと理解していた。

 浮遊していたのは、生白い二本の腕。
 その手からぶらりと垂れ下がるものは、二つの生首。
 長めの髪の毛を掴まれている、蠍尾(マラコーダ)銃士(カルカブリーナ)の、無惨な末路だった。

 ゆっくりと、存在しない両腕が『創造クラフト』されていく。
 それはチェーンソー。樹木を伐採するための機械。
 甲高い音を立てながら、伐採用義肢が唸りを上げる。
 男がゆっくりと口を開いて、言った。

「除伐しよう」

 ぼとりと生首が二つ落とされて、チェーンソー男がレオに一歩近付いた。
 彼を守る護衛は、既にここにはいない。
 レオは柔らかい微笑みを作っていつものように対話を試みようとしたが――その時、少年の三角耳が動いた。くるりと振り返って全力で駆け出す。
 背後から男が追いかけてくる。
 どんな時であっても穏やかさと朗らかさを失わない少年の顔に、本心からの驚愕と混乱、そして恐怖が刻まれていた。

「うぃぃぃぃん、除伐、じょばーつ!」

 完全なる異物。言葉の通じない相手にも臆せず対話を試みたレオ。その彼をして対話不可能と判断するしかない怪人は、警備ドローンを破壊しながら少年を執拗に追いかける。その足取りが止まることは無く、その意思に迷いは無い。ただ作業として繰り返し同じ事を実行するだけ。
 男がそう名乗ったことは無いが、彼を『シナモリアキラ』と規定するのなら、その『異物』としての性質が当てはまるのかもしれなかった。
 森で淡々と伐採を続ける樵――彼には言語のまやかしなど必要ない。
 天然の異言者(グロソラリア)とは全ての既存文脈を破壊する悪魔そのものだ。
 そしてレオは、初めて本当の危機に直面する。



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