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幻想再帰のアリュージョニスト 作者:最近

第4章 傷つけるのはハートだけ、口づけるのは頬にだけ

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死人の森の断章8-5 生と死(トライアンドエラー)




 やるべきことはシンプルだ。私ことコルセスカと、俺ことシナモリアキラはその認識を共有する。グレンデルヒ=ゾーイをぶっ飛ばして、過去から未来へと駆け上がれ。押さえるべきは初戦と第五戦。勝利条件は六戦後に至ったヒュールサスで神を殺して未来への道を切り開くこと。そうして現代に辿り着いた先に、真の最終決戦が待っている。

 真っ暗な奈落の底から浮上する。表舞台までの距離は堆積する歴史の地層。途方もない時間の流れがそのまま私たちの道のりになる。舞台の下から緩やかに上昇していく足場が、私が操るアキラの土俵だ。再演の繰り返しの結果として私たちは時代を遡り、下降した果ての舞台下スキリシアでグレンデルヒ=ゾーイと対峙する。下へと続いてきた争いは、ここにきてその向きを逆転させた。私という邪視者の意思によって。

 状況を俯瞰で見つめる。このゲーム盤をより高い視点から見渡すことができるようになった私は、既にヴィヴィお姉様の浄界【世界劇場】の機能を限定的に掌握している。私が展開した浄界【コキュートス】の摂理が、【世界劇場】を覆うようにして取り囲んでいるのだ。打ち消しや侵食ではなく、上位世界として受け入れて許容する。それはあたかも、ゼオーティアが無数の内世界の存在を許容する、無数の視座に揺らぐ世界であるように。

 私の浄界は閉鎖された結界や位相の異なる空間を構築するような外宇宙アウタースペース型ではなく、体内や体表面で恒常的に起動させるような内宇宙インナースペース型でもない。
 【コキュートス】は森羅万象(オムニバース)型。個別の一元宇宙ユニバース、それらを内包する多元宇宙マルチバースといった全ての可能な宇宙を包み込む集合。概念的に規定された無限の終わりにして永劫の彼方。
 すなわち、【最果て】。

 その特性は、遍在すること。
 私の浄界は、とりわけ劇的で強い印象の見せ物、煌めくような美観、華やかな光景、目まぐるしいスペクタクルという属性と様態を有する。
 愉快な視座をこのゼオーティアに焼き付ける、永続する情景。

 決まった形を持たない為、わかりやすい効果は発揮されにくいが、【世界劇場】を破壊することなく影響を及ぼすことができるのはこのタイプの強みだ。おかげで、今の私は【世界劇場】の舞台装置全般を掌握することができている。舞台上の演出は、私の掌握領域だ。

 今ならわかる。ヴィヴィお姉様の意思が。彼女がこの浄界で何をしたかったのか、その真意が。だから私は、この浄界でなすべきことを全て為し遂げなくてはならない。私の意思に従って舞台機構が駆動、昇降装置がくり抜かれた床を上に迫り上げていく。巨大な歴史構造を落下し続けた私たちには、奈落の底から舞台の上まで辿り着くまでに乗り越えなくてはならない壁がいくつかある。絡み合った事象イベントを全て解決して、正しい道のりを辿っていかなければ私たちは無限の闇へと真っ逆さまに落ちていくだろう。

 因果を逆行し、過去から未来へと一直線に駆け上る。過去への旅はようやく終わりを迎えようとしていた。上昇し始めた『土俵』の上で、今まさにアキラとゾーイが激突しようとしていた。戦いの結果がこの舞台での趨勢を決する。それが今の私が展開する【コキュートス】の理だ。勝負ゲームの結果で状況は決定される。シンプルな帰結。

 初戦は暗闇の中。アキラが演じるのは、カーティスが内包する闇の眷族たちの中でただ一人、誘拐された少女に哀れみを抱いた存在。その名はリールエルブス。この始祖吸血鬼が有する無数の名前の中で、現代の同盟者リールエルバが名前を参照していると思しき者が選ばれたのは、恐らく偶然では無いだろう。ゆえに、この勝負は落とせない。この人物をこちらの影響下に置けなければ、最悪リールエルバが敵に回る。

 猛然と突きを放ち、相手が受けた瞬間に素早く身を寄せて肘を打ち込む。
 ――そのつもりで前進したものの、力士が放つ重圧に俺の足が、私の指が竦みそうになる。圧倒的に的が大きいにも関わらず、そして大きいが故に隙が無かった。質量とはそのまま力だ。高さはそのまま空間を支配する権利となる。当然のようにゾーイが先んじて攻撃する。私はアキラが肉体に刻み込まれた型を反射的になぞるよりも早く動作に割り込みをかけて攻撃をキャンセルし、防御と回避行動を同時に行わせた。ゲームパッドの九ボタンを叩く指先が、アキラに新たな命令を送り込む。

 重心を後ろに移すのと同時に手足に力を込め、片手で突っ張りを防御。圧倒的な力を受けるのではなく受け流して攻撃を躱しながら肘を放つ。足裏から伝達された運動エネルギーが力士の胴体に直撃。相手の勢いすら利用した渾身の一撃。だが体格で勝る相手をたじろがせるはずが、圧倒的な質量は小揺るぎもしない。もとより一打で終わらせるつもりは毛頭無い。立て続けの打撃で少しでも削り、その超越的なまでに堅固な鎧をはがしてみせる。トリシューラが銃撃を行ったときのようなやかましい音が響く。ボタンの連打は耳をつんざく音となってアキラの連撃動作と重なり合って力士を打ちすえた。

 ゾーイの眉がわずかに動く。肉体にはさしたるダメージを負っていないにも関わらず、その動きが鈍っている。その原因は、アキラの打撃が単純な物理攻撃ではないことにある。私が与えた氷の右腕と、ちびシューラが宿っている左腕。二つの掌から呪術的攻撃を相手の体内に浸透させているのだ。呪的発勁。ウィルスとして侵入した呪文の群れを、ゾーイの傍らに浮かぶ小さな男性が防壁を展開して防ごうとする。ケイトは外世界人にも関わらずこの世界に適応している。呪術を杖的に再解釈することで一級の言語魔術師に匹敵するだけの力量を持つに至っているのだ。二人がかりの呪的侵入を難なく防ぐケイトが不敵に笑う。しかし。

瘴気(ミアズマ)よ」

 私が操るアキラが――そしてアキラが演じているカーティス=リールエルブスが静かに呟くと、私たちの呪術が変質していく。ウィルスが、『何かよく分からないもの』となり、原因と結果を結ぶ過程プロセスが曖昧な闇の中に消失。その現象は、事象を細かく分節していく杖の正反対であり、物事が変遷していく流れを詳らかに語っていく呪文の異なる側面であり、結論ありきでそこから世界を逆算する邪視に少しだけ似ていた。

 それは因果関係の不確定性に呪力を見出す古代呪術。
 スキリシアの原始的世界観が具現していく。
 この暗黒の中では自他、主客の区別すら失われてしまう。使い魔を統べる吸血鬼の王は、ありとあらゆる事象が「なぜそうなるのか」「どうやってそうなるのか」という説明を、不定形にゆらぐ原初の泥から掬い上げる。
 原因と結果の関係性は古代においては神秘に包まれており、杖の叡智が及ばぬその闇の中には現代とは比べものにならないほどの呪力が宿っていた。

 ケイトの構築した高度な杖的なセキュリティが次々と突破されていく。
 正体不明の「悪い気配」を解析しようとする試みは失敗した。ここは未だ奈落の底だ。杖の光で迷信を切り裂くには闇が深すぎる。ケイトの防壁が完全に破壊され、それと同時にゾーイの物理的実体からも鉄壁の防御が失われる。

 最大の好機を逃すことなく腰を低く落とした。体軸を中心に左右に両腕を開くようにして掌打を放つ。打開からの呪的発勁は力士に致命的な変化をもたらした。【氷腕】による有効打を重ねていくと、攻撃対象は凍結と呼ばれる状態に陥る。呪術防壁が失われたゾーイの肉体が完全に停止したことにより生じた隙。すかさず全体重を乗せたぶちかましを放つ。それは腕を経由しない打撃。足裏から伝わるエネルギーを最もロスの無い形で伝えるにはどうすれば良いか。体を使うのが合理的だということは、誰にでも確かめられる直感的な事実である。

 本来は転倒するところだが、力士の巨体は一瞬怯むのみ。長所となる重さが、この凍結状態では命取りだった。仰け反ったまま硬直した無防備な肉体に、横殴りの雨のように降り注ぐ打撃の嵐。乱舞する掌打が力士を土俵際まで追い詰め、遂には外へと弾き飛ばす。闇の中へ真っ逆さまに墜落していくゾーイを見て、私たちはまず一勝したという手応えを得た。

「私はこの曖昧な闇の中で、私だけの意思を示せたのだろうか。どうか教えておくれ、かわいそうな姫」

 短い独白と共に、カーティス=リールエルブスという役が薄くなって消えていく。視野を拡大する。盤面の片隅で、気紛れによって改心した吸血鬼と、それを赦す冥道の幼姫という光景が映った。未来の女王に傅く吸血鬼王を見て、もう大丈夫だという確信を得る。私たちは更に浮上していく。

 闇の彼方で、グレンデルヒがゲームの盤面に介入する気配が感じられた。
 初戦でのあちらの役、竜帝ガドカレク=クエスドレムは強大な敵だが、同じゲームという土俵に引き摺り込めばそれはシステムの枠内における強さに落とし込まれる。打ち破れない道理は無い。だがあちらにはまだ手札がある。

 転移能力によって土俵の上に再構成される力士。その脂肪が変質して、岩のような肌になっていく。役を変えて、ラウス=ベフォニスになったようだ。第二ラウンドが始まろうとしているのだ。

「危うい真似をするものだな冬の魔女。カーティスを引き込むということは、マロゾロンドを身の内に取り込むということでもある。あの暗黒神を御しきれる自信があるのかね?」

「当然です」

 挑発的に問うグレンデルヒには、やはり六王を完全に制御する術があるのだろう。現代に戻れば敵は目の前の相手だけではなくなる。現世に干渉しようとするマロゾロンドだけではなく、ラクルラールという怪物まで策謀を巡らせている。それでも、今はこの敵を打ち倒すことが先決だ。

 先程の勝利で手に入れた二つの魔導書を起動させる。
 【尊敬】の断章と【技能】の断章は確保した。これでこちらは七番目である【富】を除く全ての断章を確保したことになる。あとは六王を巡る戦いでグレンデルヒに勝利すればいい。

 【技能】の断章が藍色の輝きを放つ。開いた項から呪文が溢れ出し、その場に姿を現したのは眼鏡をかけた尊大な男。幻影のようなアキラの身体と重なり合うようにして土俵に降り立ったパーン・ガレニス・クロウサーがゾーイと真正面から向かい合う。

「ふん、カーティスは倒し損ねたか。まあ良い。結局の所、俺の敵はそこにいる無礼者のようだからな――見えているぞ、そこの女の後ろにいる男」

 藍色の瞳は、ゾーイの背後から盤面を見下ろすグレンデルヒを捉えていた。パーンは余りにも危険だが、いまこの瞬間だけは頼もしい私の操作キャラだ。いつしか周囲の闇は澄み渡った空に変化していた。白い雲が千切れて飛ぶ、そこはこの世のどこよりも高い頂の座。

「この俺が戦うに相応しい舞台だ。貴様を倒し、全てを手にするとしよう」

 断章から引き出された叡智と技術が、その右腕を新たに構築していく。アキラの【氷腕】は一時的に役者として後景に退き、失われていた【ガレニスの長い腕】が再び表舞台に現れた。ベフォニスとして巨人の幻肢を操るゾーイが土俵を踏みしめると同時に、浮遊するパーンが宙を蹴って空中から躍りかかった。

 鋼鉄の右腕が展開していく。四つの関節を有する機械義肢がパーンが操る波動を効率的に伝導、増幅させる。まともに受ければたとえ屈強な岩石肌であっても耐えることはできないだろう。更に、左の手掌からは波動エネルギーそのものが放出されていった。上空から繰り出される雨のような連射。間合いを詰めることすら赦さないパーンの攻撃が、力士の体力を削り取っていく。

 その時、力士の巨体がその場からかき消える。転移能力だ。攻撃後の隙を狙った、パーンの頭上への瞬間移動。足場の無い状況ではより高い位置にいる者、重量のある者が有利となる。パーンは一撃で真下へと叩き落とされてしまう。いかに彼が強大な力を持つといっても、種族的に脆弱な空の民が力士の一撃をまともに受けて無事でいられるはずもない。ヒーリングを行う間も無く頭上から落下してくる大質量。土俵を砕く勢い。咄嗟に転がって逃れるが、即座に立ち上がったゾーイが脚を持ち上げて踏みつぶそうとしてくる。狙いは頭部、喰らえば死。

 瞬時の判断で、パーンはその場に両手を突いて逆立ちをするように両足を跳ね上げた。勢い良く繰り出された蹴りを、力士は正確に見切って回避する。
 否、したつもりだった。だが、特殊な整骨法によって脚の関節を外したパーンの脚が伸張し、相手の目算を狂わせる。外れたはずの長い両足が弧を描いて曲がり、力士の顎に直撃。脳を揺らされた力士の動きが止まる。

 そして始まる、パーンによる一方的な蹂躙。伸びる四肢を用いての遠距離攻撃、波動エネルギーの放出、長い滞空時間を利用しての華麗な空中技の数々。箒が無い為、大地を蹴ることが出来ない彼は移動速度と打撃の威力という面で劣る。しかし彼はその短所を圧倒的な手数と波動で埋めていた。

 巨体を生かした近接戦闘を得手とする力士とは、基本的に相性が良い。
 アキラではなく役であるパーンの性能頼みのゴリ押しになってしまっているが、使えるものを使うのがアキラのサイバーカラテだ。存分にパーンの強力さを利用して勝利するまで。

「当然の結果だ」

 最後まで居丈高な態度を貫いて、高みから王者として全ての存在を見下ろすパーン。その視点が、俯瞰視点で土俵を見下ろしている私よりも高くなっていることに気付き、改めて認識する。どのような状況でも一番上じゃないと気が済まない性格が可愛い/危険だ。

 ――今、何か混線したが、『俺』の方は現状を正しく認識している。大丈夫だ。憑依状態のコルセスカに呆れたりもしていない。こういう奴である。
 私は牙が疼くのを感じた。もしかしてアキラ、拗ねてる? 拗ねてます? もしかしなくても怒っていたり? あ、どうしよう血が吸いたい。

 落ち着こう。ちょっとアキラの視点にのめり込むあまりに意識が接近し過ぎている。冷静になって、俯瞰視点で状況を把握する。アキラの目から背中へ、さらに頭上へ。段階的に距離を置いていく。浄界の神である私にとって、私とか俺とかアイとかいう人称はさして重要ではない。押さえておくべきは焦点と遠近法。呪文が時間を操作する呪術とするならば、邪視とは距離、つまり空間を統べる呪術。何を捨てて何を選ぶか。何に対して寄り添うのか。ただそれだけでいい。

 パーンの波動によって土俵そのものが破壊され、力士は落下していった。決着がついたことでパーンはその姿を消していく。自らのいるべき時空に帰還したのだろう。彼のいた時代を通り越していくと共に、舞台装置である床が自動的に再構築されていく。

 遙かな時間の彼方で、山賊王を倒して奴隷の少女を取り戻すという本来の流れが滞りなく進んでいくのが確認できた。これから彼は、仲間たちと共に己の人生を歩み、実は冥道の幼姫であった奴隷の少女に導かれて、死後復活する。協力者としては期待できるが、彼を御しきることができるかどうかは未知数――というかほぼ無理だろう。そこはその時に対処するしかない。思考を切り替える。

 第三ラウンド。世界が変貌する。炎上する地獄のような背景。
 転移して現れた禿頭の女力士の表情が、これまでとは変わっていた。
 頭部に刻まれた溝が顔面にまで広がって、隈取り(ペイント)のようになる。東洋系力士に多いカブキスタイル。羅刹の如き形相となって、出し抜けに四股を踏む。床を踏み砕く程の衝撃。こちらが六王の力を借りていたとはいえ、誇りあるYOKOZUNAが二敗したのだ。不退転の覚悟で向かってくることは必至。

「出力――六十パーセント」

 雷光が閃き、ゾーイの巨体が膨張する。
 分厚い脂肪はその組成を変質させ、硬化した鎧となって力士の全身を覆う。
 昆虫の外骨格を思わせるフォルムに、毒々しいペイントが施された異形の身体。機巧廻しが背後の噴射孔から噴流ジェットを放つ。

「発気よい!」

 叫びと共に突撃する力士を真正直に打撃で迎え撃つのは愚策だ。豪快な突っ張りに向かって、生身の左手が鋭く払われる。手を真っ直ぐに伸ばした刃を思わせる形――手刀。左腕に一時的に宿っているクレイの力が打撃を斬撃へと変化させる。いかに強靱な力士の手掌と言えど、刃を前にしては引き裂かれる他は無い。しかし、こちらの思惑はいとも容易く覆される。

 硬質な音が響き、金属同士が激突する手応えがゲームパッドを振動させる。
 ゾーイは攻撃手段をこちらに合わせてきていた。力士にとって基本となる手掌の型は直線的な突っ張りや広い領域を制圧する張り手だけではない。
 チョップもまた、スモーレスラーの基本技能である。

 ケイトによる呪文強化が施された手刀は、圧倒的な迫真性を伴ってこちらの剣と鍔迫り合いを演じていた。凄まじい圧力に、一気に押し込まれてしまう。
 どうにか受け流して横に逃れた所に追撃。大振りの薙ぎ払いが襲いかかる。リーチの長い腕から繰り出される斬撃は防ぐだけでこちらの手刀が刃毀れしそうなほどの威力を有していた。

 こちらの手刀が鋭い短剣ならば、あちらの手刀は無骨な大剣だ。
 叩き斬るようにして真上から振り下ろし、空間を制圧するように横に振り払う。縦横無尽に振るわれる斬撃をあと何度か受ければ、こちらの刃が先に砕けてしまうことだろう。演技ジェスチャーの上であるからこそ、お互いの手が刃であるという設定は現実よりも重みを持つ。私たちには、演劇空間において両者が短剣と大剣で切り結んでいる光景が見えていた。短剣が砕け散った時、アキラの腕も肉片となって飛散することだろう。
 刃を刃で受けるのは愚策だ。怒濤の手刀を見切ることに専心。ゲームパッドの上で指先が激しく踊った。

 私は幼少期から星見の塔に篭もって様々なゲームをプレイしてきた。従って、私にとっては家庭用ゲーム機こそが友であり、ゲーム画面の中へと意思を伝える手足の延長はゲームパッドだった。アーケードの筐体は都会に出てきてアルマにボコボコにされるまでは触ったこともなく、対戦相手はもっぱらトリシューラやネット上の顔も知らない誰かだけである。

 そんな私に、改造ゲームパッドを贈ってくれたのがトリシューラだった。人間工学に基づいた、より操作性の優れたゲームパッド。増設されたボタン、多機能を割り当てられるマクロキー。トリシューラにしてみれば、精一杯考えた末の贈り物だったのだが、私がそれを使用したのはトリシューラとの対戦の時だけだった。トリシューラは、贈り物を私が気に入ってくれなかったのだ、気を遣って二人の時にだけ使用してくれているのだと考えて、少し落ち込んでみせたりもしたのだが、実際にはそうではない。

 ある種のゲームというのは競技スポーツだ。
 つまり、対戦する両者の間で駆け引きがなされ、双方の技量が対等な条件で反映されていなくてはならない――少なくとも、それが理想である。
 ルール上の規定の有無に関わらず、改造されたゲームコントローラーを用いることについて、フェアネスの観点から問題視するケースが存在する。
 別にどっちでも変わらない、という意見も当然あるが、重要なのは私がどう思うかということだった。それに私はこの使い慣れた『コントローラー』が好きだったのだ。

 アキラのすぐ傍に浮かぶちびシューラが、少しだけしょげているのが見えた。
 別に貴方の贈り物が嫌いというわけではありませんよ。心の中でそう言って、私は手の中にあるゲームパッドから意識を逸らした。瞬間、新たな感触を得る。今から私は己に課した禁を破る。両手にぴったりと吸い付くような流線型のゲームパッド。カラーリングは私の好きな白と銀、そして青。レスポンスは良好、使用感も抜群。

 更に重ねて、ちびシューラとサイバーカラテ道場が敵力士の攻撃パターンの解析を終了。相手の体格、これまでの斬撃の軌道から、こちらが選択するべき最適な攻撃パターンを提示していく。的確な割り振りがされたマクロキーを叩いて力士の大振りな攻撃で生まれた隙を責め立てる。息も吐かせぬ連撃が、僅かだが重装甲を削っていった。

 更に続けてアキラの両目が光り輝く。瞳が十字の紋様を映し出し、カシュラム王オルヴァの役が一時的に降りてくる。
 託宣によって未来を予知する大予言者にして大賢者。大いなるノーグの血脈がちびシューラの予測精度を上昇させ、サイバーカラテ道場に最適化された改造ゲームパッドがアキラの動きを劇的に加速させていく。

 機関銃のように連続したチョップからの地獄突き。一撃で相手の肉体を破壊する力士の殺人技を、正確無比な見切りでことごとく回避して、カウンター気味に斬撃を繰り出していく。傷付いた外部装甲に向けて更に掌、肘を叩き込み、体勢を低くして脚部への牽制。相手の注意を逸らした直後、両手を上下に並べて肉体言語魔術を発動。今のアキラの両手は、指を牙に見立てた獣の顎。カシュラムに生息する猛獣、紫槍歯虎を模した必殺拳がオルヴァの力を借りて放たれる。

 本物さながらの演技は現実を改変する。アキラの腕が獣となって力士の生体装甲を食い破り、唸るような咆哮が衝撃波となって力士の体内に伝わっていく。
 甚大なダメージを負った巨体に、不可視の『何か』が次々と囓りつく。強靱な装甲の至る所が何か巨大な顎で食い千切られたような断面を見せているが、失われた肉がどこに消えたのかはわからない。

「おお、全ての者よ、呪われてあれ! 万物は全てブレイスヴァに食らい尽くされるであろう!」

 オルヴァの宣言と共に力士が消滅する。
 私は勝利のために手段を選ばない。使えるものは全て使い倒して勝利するまで。この思考が私のものなのか、それとも今や私と一心同体となったアキラのものなのかは既に判然としない。もしかすると、操っているのは俺で、俺を操るコルセスカこそがゲームの中で操作される対象なのかもしれない。

 俺の視界隅で、ちびシューラが得意げな表情をしている。
 私は上からそれを微笑ましく見守って、流石は私の妹です、と心の中で語りかけた。末妹選定に参加している身でこんな事を言うのはどうかと我ながら思うけれど、たとえ私が末妹になってもあの子は私の妹だと、そう思う。

(そんなことないよー、セスカの方が妹だよー) 

 照れながら言うちびシューラはまんざらでもなさそうだ。
 だがその直後、弛緩した空気が一気に緊迫する。
 オルヴァの瞳が強く輝き、未来が変化したことを教える。
 ちびシューラの索敵網には一切引っかかっていない。

 壮絶な悪寒と共に振り向く。背後から飛来する大質量。まさに現在進行形で再構成されつつあるそれは、紛れもない力士ゾーイ。廻しからのジェット噴射で迫り来る独特の型は、力士の華とも呼ばれる空中殺法だ。両手が動く。あの構えは諸手突き――いや、そうではない。私の中に存在する外世界アキラの知識がその技の正体を教えてくれていた。

 両手が交差して双剣の鋭さを宿す。
 その銘こそは、フライングクロスチョップ。
 回避は間に合わず、咄嗟の防御も力士の巨体の前には無意味に等しい。

 凄まじい衝撃に吹き飛ばされ、土俵の外へと押し出された。斬撃は幻影の胴体を切り裂き、アキラを構成する呪力が目に見えて減少してゼロになる。上昇し続ける床から落下していく途中、オルヴァの存在が消失して炎上する世界へと去っていく。本来の時間流で、カシュラムの王は断頭台にかけられて死んでいった。

 事前に流れを変えていたお陰でジャッフハリムが侵攻してくるという最悪の事態だけは回避できたようだが、ここでの敗北は六王の一人を取りこぼしたことに等しい。恐らくはグレンデルヒが何らかの『汚染』を行って自らの世界観に取り込んだはずだ。

「安心したまえ。心配しなくともヒュールサスを救うという流れに変化は起きないとも。ただし、現代に甦ったカシュラム王がどのように振る舞うかは保証できないがね」

 どこからともなく響くグレンデルヒの声。
 舌打ちしたい気分を堪えて、氷の足場を作って着地。そのまま力強く跳び上がった。あらゆる種族の中でも屈指の跳躍力。アキラに重なるようにして、太陰の王子ヴァージルが出現していた。

 周囲の光景も、広大な暗黒の宇宙空間、そこに浮かぶ無数の石碑というものに変化している。文字が刻まれた滑らかな石の数々は、兎たちが用いる呪文を唱える杖――すなわち魔導書である。古のイルディアンサでは、魔導書とはすなわち石版のことだったのだ。現在のような紙の書物は、アヴロニアの大地から森の民こと妖精たちが持ち込んだものである。

 兎と妖精の耳を半分ずつ持つという極めて特徴的な容姿を持った少年が、土俵の上に帰還する。通り過ぎた歴史の中でオルヴァ王がどうなったのか、気になる所ではあるが、今は目の前の戦いに集中するしかない。第四ラウンドだ。
 出し抜けに、ゾーイが静かな口調で話し始めた。

「今までのは関脇クラスの出力だったけど、ここからは大関クラスだ。分かりづらいかもしれないけどね。私は今うれしいんだよ。あの時からずっと、全力で戦うことには躊躇いがあった。でも、あんたたちにならまだまだ力を出しても良さそうだ――七十パーセント」

 何度でもその肉体を再構成できる不死身の力士は、全身を更に禍々しく変貌させていった。肩は鋭角に尖り、背中から突きだした管は排気用のものなのか陽炎が揺らめいている。しなやかな生体外骨格を太い筋肉が盛り上げて、顔のペイントが青白い稲妻を走らせた。大関クラスとはすなわち、多脚歩行戦車の砲撃を正面から耐え抜く装甲と重装甲の車輌を圧壊させる膂力を兼ね備えた生きた兵器のことを指し示している。

 こうなれば、もう相手の体勢を崩すことは不可能だ。加えて、力士としての経験に裏打ちされた絶妙な取り口が隙を消している。立ち会いの圧力は迷宮で巨大石像と対峙した時を上回るほどで、あらゆる点で厄介と言う他無い。
 そして始まった戦いは、どっしりと構えた相手をこちらが機敏な動きで翻弄して少しずつダメージを与えていく――という流れにはならなかった。細かく隙の少ない打撃で相手の動きを固めていくような手、このレベルの相手に通用する筈も無い。ゲームパッドの機能を駆使したターボ連射が神速の連撃を実現するが、ゾーイの防御は鉄壁の一言である。

 状況は、力士がその重い腰を上げて攻めに転じた瞬間に一気にひっくり返った。言葉通り、アキラの身体が引っ繰り返されていた。土俵の上に叩きつけられ、凄まじい激痛が熱となって私の中を駆け巡る。アキラの痛みを肩代わりしているという実感に安堵しながら、起き上がりに追撃されないようにタイミングを見計らいつつ転がってその場を離れる。アキラの肉体が悲鳴を上げた。

 ゾーイはその圧倒的質量から繰り出される張り手の威力も危険だが、より怖いのは投げだ。アキラが多用する打撃技は、下手をすれば投げに吸い込まれてしまう。間合いを正確に測っているにも関わらず、打撃で投げを潰すことができない。ゾーイの手は確かに届いていないように見えるが、一体何故このようなことが起きるのか。その秘密は、ゾーイの瞬間転移能力にあった。普段は両の脚を動かして移動しているため分かりづらいのだが、ここぞという時に小さく転移を行って間合いを微調整しているのだ。

 高威力の張り手によって防御や回避を意識させたところに必殺の投げ狙い。ゾーイが厄介なのは、前段の張り手が既に必殺の威力を有している点である。防御してもダメージが蓄積していく。一度引いたが最後、怒濤の寄り身で一気に押し切られてしまうのだ。

 このままでは負ける、と焦りが不用意な動きを生んだ。相手を牽制する為に放った顔面への突きは届かない筈だったが、力士の腕が一瞬だけぶれて、アキラの身体が一気に引き込まれる。吸引されるように腰を掴まれ、豪快に投げられた。追撃の踏みつけを回避しながら蹴り上げるが、同じ攻めが二度通じるような相手ではない。

 蹴りは正確な防御で防がれ、一瞬の隙が生じる。ここは既に投げの間合いだ。
 浮遊した身体がまたしても掴まれて、そのまま頭から叩き落とされる。幻影の頭部が霧のように散っていく。ちびシューラによる必死の修復作業によってアキラが再構成されていく。ヴァージルという役への影響も甚大だ。

 まだかろうじて幻影の身体を維持出来ているが、たとえガード越しにでもあと一撃ダメージをもらえばしばらくアキラという幻脳を休止させなくてはならなくなる。そうなればこのラウンドはこちらの敗北だ。

 グレンデルヒと力士が突きつけてくるのは二択。
 張り手か投げか。防御を選べばダメージは貫通して蓄積され、間合いを詰められれば一瞬で投げられる。かといって回避を続けていれば土俵際に追い詰められてそのまま押し出されるだろう。隙の小さい小技で攻めても力士の巨体はびくともせず、かといって大振りの一撃を繰り出せば相応の隙が生まれる。それを見逃してくれる相手ではない。

 まず張り手で相手の行動を誘導し、そこから投げるという力士の王道とも言うべき戦法。これにいかに対処すべきか。
 ちびシューラが提示する推奨行動リストには得られるリターン、すなわちどれだけこちらに有利な隙を作れるか、またその行動によってどの程度のリスクがあるかという注釈が付けられている。それぞれにこれまでに得られたデータから弾き出された行動期待値が紐付けされているが、万能の選択肢は無い。どこかでリスクをとって決断しなければならなかった。

 そして、その決断はアキラにはできない――してはならない。
 それはサイバーカラテ道場というツールが行うべき判断であり、これまではちびシューラが、そして今この瞬間だけは私がやるべきことだ。
 ちびシューラは左右へと素早く回避して横合いから打撃を加える変化を推奨しているが、私はそれとは異なる意見だった。

 それは選択肢の中で最もリターンが少ない消極的な回避行動。相手の腕がこちらの廻しに伸びる。アキラは廻しを締めていないが、存在するかのような力士の振るまいによって実際にあることになってしまうのがこの世界だ。何も無い腰の辺りを掴まれれば廻しを掴まれたのと同じ事になる。

 力士が空気を掴もうとした瞬間、相手の腕の下にこちらの手を差し入れる。脇を上げさせて廻しを取ろうとする動きだ。無論、アキラが力士に対して組み付くのは危険過ぎるためフェイクでしかないが、突き上げるような掌底に相手の重心が一瞬だけ高くなる。

 投げを仕掛けられた瞬間、こちらから投げを狙うことで投げから抜けるという防御手段。僅かな遅れも許されない瞬間的な回避行動は成功し、両者が共に後退していく。ゾーイの巨体に小さな、だが致命的な隙が生じる。しかしアキラの背後は土俵際、これより下がればただ落ちていくのみだ。

 私はアキラの動きを止めず、そのまま跳躍させた。真後ろにある壁に向かって。瞬間的に生成されたその構造物は、彼が得意とする足場の生成。第五階層の物体創造能力を応用したものだ。そう、これが使用できるということは、つまりこの【世界劇場】は第五階層の中に存在しているということを意味する。

 空中に足場を生成することにより、上方向に跳躍して逃れる。壁のように垂直に生成した足場も併用して跳躍の軌道を修正、三角跳びの要領で相手の頭上へと飛び上がる。上空からの強襲。兎の跳躍力と俊敏さで跳び蹴りを繰り出す。

 無論、即座に対空の打撃を放たれる。力士にとって飛び技は基本だ。土俵によってはロープや金網を利用してのアクロバティックな空中殺法が乱れ飛ぶことになる。転移能力で空中に移動できるゾーイにとっては、三次元的な視野を持つ事は当然なのだ。

 こちらの足裏を掴もうとする力士。絶体絶命の状況だが、そこでアキラを――彼が演じるヴァージルを救い出すものがいた。
 雷光が閃き、輝く文字列と稲妻によって構成された獣が力士に食らいついていた。青白い雷獣の頭部は三つ。呪文によって生まれた三首の犬がヴァージルの敵を猛然と攻撃していく。

「ありがとうサイザクタート。君はいつでも僕の傍にいてくれるね」

 優しく仮想使い魔の頭を撫でるヴァージルは、赤い眼を禍々しい月のように輝かせて瞬時に呪文を構成。土俵の至る所から鋭利な剣のような水晶が迫り出して、力士の巨体をずたずたに引き裂く。さらに透明な結晶構造の内側に刻まれた膨大な情報量が文字列となって溢れ出し、雷撃呪文となってケイトの防壁を突破、ゾーイ諸共に焼き尽くしていく。

 格闘戦は不得手だが、ヴァージルは言語魔術師として信じがたい技量を有していた。現代の基準で言えば、上級言語魔術師に匹敵する程だ。そもそも、太陰が実施するあの試験の基礎はヴァージルが築いたものなのだから当然と言えば当然だった。

 必殺の雷撃呪文が凄まじい光と熱を生み出して、焦げ付いた臭気と煙が辺りに立ちこめる。その内側ではさすがの力士も無事では済まないだろう。
 ――という思考が、まさかの敗北に直結するのはキロンとの戦いで十分に理解しているので、念には念を入れて駄目押しの雷撃を間断なく放つ。土俵全域にわたって降り注ぐ雷撃が、三首犬の口から次々に吐き出されていった。
 しかし、予定外の事態が起きてしまう。

(やったか!?)

 左腕に宿るクレイが、痛恨のミス。やったと思ったらやってないのは強敵との戦いでは当たり前に起きる出来事だ。当然のように、煙の中から無傷で現れるゾーイ。クレイの不用意な発言が無ければ、手傷くらいは負わせられた可能性があるというのに。

 ちびシューラが無表情で激怒しながらクレイを蹴り飛ばしているのを横目に見つつ、私は対抗策を模索する。しかしそれよりも力士の方が速い。仮想使い魔を前に出してガードを行うが、突き出された突っ張りから呪力が迸る。あちら側からの呪的発勁。それも、ケイトによるものではない。

「流石は偉大なる狂王子の仮想使い魔。美しい呪文構成だ――古典的で無駄がない。ゆえに、手に取るように理解できるよ」

 グレンデルヒの言葉と同時に、ゾーイが退いていく。これまでに無かった動きを奇妙に感じたが、その狙いはすぐに明らかになった。力士は合掌するように両手を近づけていく。虚空にある目に見えない『何か』を保持するように双掌が静止。次の瞬間、ぐるりと両手が動いた。『何か』を回転させるかのように。

 力士の手の動きに連動して、巨大な仮想使い魔の姿が変貌する。
 三首の犬サイザクタートの全身が細かく分割され、丸みを残した立方体となったのだ。三掛ける三の九個からなる色の付いた正方形。各列ごとに自由に回転させることで色を揃えるという立方体パズルと化した仮想使い魔が、全身の構造を出鱈目に入れ替えられてしまう。

「サイザクタート?!」

 悲鳴を上げるヴァージルの目の前に、回転してきた犬の頭が現れる。
 表情を緩めた少年に向かって、制御を奪われた使い魔による無慈悲な一撃。
 雷の吐息によってその身を灼かれ、兎の少年は場外へと落下していった。哀れな主従は共に姿を消していく。
 第四ラウンドはこちらの敗北。太陰の王子の物語は、グレンデルヒの手中に収められてしまった。悔しさに歯噛みする思いだ。

 背景が変化して行く。広がる世界には様々な色彩が広がり、多種多様な種族が争い、血を流すという戦乱の世。歴史の中を上昇し続ける昇降機にかぎ爪を引っかけて、強靱な腕力に任せて復帰。目の前に立ち塞がるのはでっぷりと太った巨大力士と、それに重なる漆黒の亜竜ダエモデク。

 一部だけを真の姿に戻していたのを、もう一度霊長類体に変化させる。
 今のアキラは、隻眼に白髪、首回りを帯状に覆う詰め襟の軍服を身に纏った背の高い男性となっている。伝承に基づいて、『私そのもの』である氷の三叉槍を構築。見得を切るように大きく旋回させて構えた。

 亜竜王アルトの幻眼が邪視を発動させ、黒い大蜥蜴のようなフォルムとなった力士の動きを束縛する。グレンデルヒによる干渉で即座に解除されるが、生まれた隙を突いて槍による刺突を放つ。アルトの槍捌きは古流の型に乗っ取ったものだ。突き、払い、更には三叉の穂先を爪に見立てての引っ掻き。亜竜に伝わる槍術ならではの動き。大型爬虫類の猛攻を、同じく亜竜と化した力士が迎え撃つ。

 両者の実力は拮抗していた。アキラという器に宿りながらも、アルトの心技体呪全てが揃った戦闘技術はダエモデクを宿す力士と伍する程のものだ。氷の三叉槍はかするだけで相手に呪力を浸透させ、その量がある閾値を超えると凍結してしまう。攻めきれない状況に業を煮やしたか、力士はその場で片足を大きく持ち上げていく。四股踏みだ。

 激震。足場を揺るがす行動を見越して私は跳躍を選択したが、それは相手の狙い通りだった。とはいえ発生した地震で転倒するわけにもいかない。
 力士の足裏を通してグレンデルヒの高位呪術が発動。
 土俵に、そして周囲の空間そのものが架空の立方体に包囲される。
 空間そのものが二十七分割され、力士の手掌によって自在に動き出す。
 空中にいるこちらの座標が、強引に動かされて力士のすぐ傍に引き寄せられてしまう。怒濤の突っ張りによろめきながらも、アルトは衝撃を足裏から逃がしてダメージを最小限に抑え、反撃の槍を振るった。

 しかし、力士の位置が急激に遠ざかる。転移ではない。今のゾーイはあの能力を投げ技の引き込みのために温存している。回避させたのはグレンデルヒ。空間の座標をキューブの回転を利用してずらしたのだ。

 空間そのものを操作するというグレンデルヒの呪術は、こちらの見当識を狂わせてしまう。普段とは異なる戦場の感覚に惑わされ、こちらへの攻撃は一方的に命中し、あちらへの攻撃は届かないという悪循環に陥る。窮地に立ち上がったのは小さな赤毛の妖精。情報処理用の眼鏡をかけたちびシューラは、架空の鍵盤キーボードを叩きながら言い放つ。

(シューラに任せて! こういうパズル系はセスカより得意だよ!)

 瞬時に戦場と空間が移動するパターンを分析し、そこから相手が選択しうる有効な手をピックアップ。それに対する最適な対処行動を次々と提示してリスクとリターンを併記した評価を付けていく。

 空間が回転。力士に引き寄せられたアキラはサイバーカラテ道場に導かれるまま自動的に身体を操縦させて、速やかな反撃の突きを繰り出した。更に、アルトの目が輝くと、架空の立方体が束縛の邪視によって鷲掴みにされる。それは亜竜が持つ形の無いかぎ爪。強引に動かされた立方体の制御権が、今度はこちら側に移動する。ちびシューラによる空間制御と、構図を変えての反撃。

「いいぞ、乗ってきてくれなくては面白く無い」

 グレンデルヒが愉快そうに言いながら、再び立方体を支配する。戦いはいつしかアキラと力士の戦いに重なるようにして、それを支援するちびシューラとグレンデルヒのものに変化していた。グレンデルヒの呪術の技量は卓越している。人間を超えた情報処理能力を有するアンドロイドの魔女を圧倒するグレンデルヒの姿が力士の背後に見えた。

 信じがたい事に、グレンデルヒが使用しているゲームコントローラーは鍵盤キーボードだった。専用のゲーミングキーボードとはいえ、実際に使用に耐えうるとは俄には信じがたい。膨大な数のマクロを各キーに割り当てて、相手の動きを完璧に予測しているのだ。指先が霞むほどの速さで鍵盤上を疾走し、快音と共に実行エンターキーが叩かれる。

 グレンデルヒとちびシューラの間には、埋めきれないだけの言語魔術師としての技量の差があった。同じ四魔女でも、呪文の座のハルベルトと同じ上級言語魔術師グレンデルヒに勝つことは杖の座であるちびシューラには難しい。けれど、今の彼女は一人ではない。一時はグレンデルヒに奪われた私の【氷鏡】は、浄界の展開と同時に奪い返している。これまでの戦いではアキラに預けていたそれを、ちびシューラの周囲に展開する。

 合わせ鏡の中に連なる無限の自己像。私を映すものは沢山ある。その中から『唯一無二の自分』を画定し、確定させることこそが邪視の真髄。己の意思を確信して、私は今ここにいるのだと強く叫ぶ。私は両手を伸ばして、鏡越しに隣り合う誰かと手を繋ぐ。骨と鉄を両手に、邪視寄りの呪文が発動する。

 古めかしい呪文使いが紡ぐ呪文は叙情的で言葉遊びの色合いが強いが、杖使いが紡ぐ呪文は硬質な論理に支配されている。使い魔を支配する者たちのそれは法や契約といったものになる。そして邪視使いの呪文はというと、己の意思を押し通すための牽強付会で我田引水な詭弁と誤謬の力業だ。重要なのは、他人の言葉に良く耳を傾けて、自分の構築した論理の中に取り込んでしまうこと。

 ちびシューラが操る【氷鏡】の中で、二十七分割された世界が凍り付く。
 呪文を構築。
 現在アキラが演じているアルトは【死人の森】の至宝である【断章】のうち、五番目である【道徳(モラリティ)】に対応する王だ。
 五番目とは、すなわち九つある断章の中心。

 一つの面に九つの正方形が並ぶキューブのうち、ちょうど中央に位置しているのが五番目という数字だ。頂点である八個、辺である十二個、そして回転の軸となる中央の六個。そのどれにも属さない、外側から見ることのできない立方体の中心。その位置だけは、回転によって動くことがけしてない。当たり前の事実だが、今まではグレンデルヒの妨害でその安定した位置に辿り着く事ができなかったのだ。その状況を、この【氷鏡】が覆す。

 王が座すのは、常に王国の中心だ。
 この【世界劇場】は第五階層ガロアンディアンの内側にある。
 ゆえに、ガロアンディアンの前身である竜王国初代国王アルトはこの空間の中央に存在する。確信が世界を書き換えていく。

「鏡よ鏡、この世界の中心にいるのは誰?」

 呪文と共に、【氷鏡】が女王の王国を構築する。
 それは氷と鏡からなる光の世界。
 呪文立方体の空間が、異なる世界構築によって改変されていく。世界創造ワールドメイクにおいて、邪視者に挑む愚かさを知れ、グレンデルヒ。

 鏡は視点を反射させる。無限に連なる多様な視座の中、個人の立ち位置が無限の中に迷い込む。迷宮化したミラーハウスを構築し、グレンデルヒらは己の立ち位置を見失ってしまう。その隙を狙って空間の中心を奪取。これでもう空間制御によって振り回されることはない。私は次なる一手で敵を追い詰めていく。

 ちびシューラが膨大な創作物のデータベースへアクセス。
 アストラルネット上に無数に存在している『冬の魔女伝承』に関わる私のイメージ群から有用なものを抽出。無数の【氷鏡】から次々に出現する様々な私の幻像が力士の全身を蹂躙していった。

 その攻撃手段は多種多様。アルトが手にする三叉槍のように、人型ですらない武器、形の無い呪文、私を天災の擬人化として解釈した猛吹雪が荒れ狂う。老齢の魔女が、幼い少女が、人食い鬼が、右腕に宿る封印された異能が、力士の重装甲を剥ぎ取っていく。【死人の森の女王】という在り方を認め、前世を受け入れた私にとってそれらの異なる解釈は私を脅かす呪いではなく、私の可能性を認める希望の光だ。

 無限に連なる合わせ鏡。
 私はこの中でなら、何にだってなれる。
 私たちは今、こんなにも自由だ。
 亜竜王アルトが咆哮する。口から吐き出されたのはオルゴーの滅びの呪文(オルガンローデ)だ。詠唱時間に応じて威力を増す最高位呪文が竜蛇となって氷の三叉槍に巻き付いて同化していく。

 槍が姿を変えて、私は長くのたうつ氷の竜となった。第九紀竜オルガンローデ。人造の真竜。邪視によるオルガンローデは、自らが竜だと強く確信して竜に変化するというものだ。私は『竜を殺す者』としての自身に拘るあまりこの呪術を未だ習得できていなかったが、ちびシューラによる『氷の竜伝承』の収集、アルトによる呪文のオルガンローデを参照することで今ようやく竜変化に成功。

 飛翔した私は甲高い叫びを上げて舞い上がると、口を開けて襲いかかった。
 力士の巨体に噛み付いて、丸呑みにして腹の中で凍結させる。
 鏡の館が砕け散ると共に、力士の氷像もまた粉々になった。
 氷の竜である私を見上げながら、亜竜王がぽつりと呟く。

「我が正義はあまりにも血に塗れている。友の屍を踏み越えた果てに、理想郷は存在するのか――?」

 懊悩する彼の前に現れたのは蜂蜜色の髪をした少女。もの言う槍が変化した不思議な子供は、彼に血のように赤黒い柘榴を差し出して、友を生き返らせる代わりに、死後、女王の従僕となるように要求する。アルトは承諾し、少女から貰った柘榴をダエモデクに与えて生き返らせる。理想的な歴史の流れに満足して、私は足場を浮上させた。

 和解した二人はそれぞれの道を歩んだ後、共に不死者となる。そして片方は【死人の森の軍勢】に、もう片方は【四十人の勇士たち】という勢力に属し、レストロオセという強大な敵に立ち向かうだろう。六王はその戦いで力尽き、長い眠りにつくことになるのだが、王の理想はダエモデクに、そして後のジャッフハリムに受け継がれていく。いずれにせよ、後のことはこの時代の人々の物語だ。混沌とした世界が遠ざかっていく。

 遙かな天に光が見える。あれこそが目指す舞台。
 背景が暗闇に包まれ、そこに淡い光を放つ大小の球体が浮かぶ。
 そして天上から伸びてくる青い糸と操り人形たち。
 ここはラフディ。六王国の中で、最もラクルラールと縁深い大地。

 第五ラウンドはこちらの勝利で終わった。これでどうにか押さえるべき王はこちら側に引き込むことができたわけだが、問題はこの後だ。
 恐らくこの領域では、グレンデルヒとゾーイたちはラクルラールに支配されてしまうだろう。グレンデルヒは利用されることを不快に思うかもしれないが、抗うことはできまい。なぜならば彼は本来利用されるべくして生み出された存在だからである。彼の在り方は、実のところ私に近い。

「イェツィラー」

 ラクルラールの融血呪、青い髪の毛という形をとった操り糸が垂らされ、そこに繋がる人体が形成されていく。再構成されていく力士が今回演じるのはフィフウィブレス=ハルハハール。美しき闇妖精にして死霊を統べる王。空を飛ぶ大烏賊クラーケンと同化した力士は「八十パーセント」の声と共に九つの触手をうねらせる巨大怪獣へと変身してみせた。

 第六ラウンドの開幕と同時にアキラの全身を覆い尽くす無数の鱗。その姿が隠れていく。一言で今のアキラを形容するなら、鱗に覆われたアリクイ。湾曲した爪は鋭く、長い尻尾を丸めるとまるで球体のようになってしまう。大きさもまた膨れあがり、大烏賊と対峙して何ら見劣りしない巨獣が土俵に立つ。いつの間にか、私たちの認識のスケールに合わせて土俵も広がっていた。

 穿山甲(パンゴリン)と呼ばれる動物そっくりになったアキラは、紛れもなくラフディの王を演じ切っている。かの国の王は、国宝である鱗鎧を身に纏って戦うのだ。建国神話に登場する偉大な亜竜から剥落した鱗がその由来であるとされ、それはあらゆる危険から持ち主の身を守り、また自在に形を変えて攻撃にも防御にも応用できる万能の装備だという。

 巨獣同士の対決が始まった。無数の触手による連続攻撃を、アキラは身を丸めて球となり、ごろごろと転がって回避していく。移動はそのまま攻撃に繋がる。勢いのままに突進した巨大球。大烏賊はそれを真っ向から受け止めて、触手で包み込むように捕縛しながら巨大な口で食らいつく。

 鋭利な歯は、しかし硬い鱗に阻まれて逆に砕けてしまう。あらゆる攻撃を受け付けない無敵の護り、そして球神ドルネスタンルフの加護を受けたラフディ王の呪力が大地を鳴動させ、岩石で出来た無数の槍を迫り出させていく。触手を貫かれた大烏賊は空高くに固定され、そこに穿山甲の長い尾が叩きつけられた。

 全ての触手が千切れていくと共に、地面に叩きつけられる大烏賊。しかし、溢れ出した青い血が大地に染み込んでいくと、その下から実体を持たない亡霊たちが這い出してくる。青い糸が地縛霊たちを操っているのだ。

(切り裂けっ)

 叫んだのはクレイだ。鱗を刃のようにして射出すると、次々に糸を切断していく。女王第一の配下である彼の『剣』は融血呪に対して極めて有効な切り札となり得る。ラクルラールの気配が遠ざかり、状況がこちらに有利な状況に戻る。私はアキラ演じる巨獣を操作してきぐるみの中に入り込む。

 力強く踏み込むと、片足を前に出して、四足歩行の獣特有の前傾姿勢から足を前方へと引き付けていき、至近距離から突き上げるようにして背中からタックルした。硬い鱗が柔らかい大烏賊の全身へとエネルギーを伝える。足裏から直に響く、大地のエネルギーだ。

 穿山甲(せんざんこう)による鉄山靠(てつざんこう)。全体重を乗せた渾身の一撃が巨大な海獣を吹き飛ばしていく。
 空を舞う大烏賊は全身を四散させて土俵の外で消滅した。
 勝利を確信したその時、悪寒を感じて振り向こうとする。

 しかし時は既に遅く、穿山甲はその尻尾をがっしりと掴まれてしまう。
 視点を浮上させると、案の定そこには巨獣と比して遙かに小さな力士が。
 ここにきて私は理解する。ラクルラールが操る大烏賊ははじめから囮の人形だったのだ。グレンデルヒとゾーイはもう一つの肉体を地中に構築して、機会を窺っていた。ラクルラールに利用されるのではなく、その人形を囮にして利用してみせたあちらの勝利だった。

 力士の怪力が巨獣の尾を掴んで、豪快に振り回していく。
 ジャイアントスイング。回転させて目を回させるだけではなく、そのまま場外まで吹き飛ばすという荒技だ。精妙なバランス感覚と回転軸を保つ技量が要求される、テクニカルなタイプの力士が得意とする技。穿山甲は土俵の外に飛んでいき、闇の中で星となって消えた。

 寸前で脱出したアキラは辛うじて土俵に帰還する。これで三勝三敗。
 五分の状況で、私たちは遂に舞台の上に辿り着く。
 昇降機が停止して、土俵は舞台の床と一つになる。
 ここは【世界劇場】の中心。演劇空間の基点となるヒュールサスだ。

 役者は揃った。
 再演の儀式によって六王を呼び覚ます準備が整い、あとは鍵である【断章】を用いて呼びかければいいだけ。
 ヒュールサスの中心で巫女クレナリーザや王国の住民を苦しめる荒ぶるハザーリャ神を六王と共に打倒し、【死人の森】という王国を打ち立てる。

 六つの【断章】が光を放ち、そのうちの一つが空に浮かぶ太陰へと呪文を届かせる。情報の海底で眠り続けていた石版が輝き、冥道が開いていく。ヴァージルが作り出した冥府へ続く門。そこから飛び出した六条の魂魄がヒュールサスに飛来して、土の中に飲み込まれていく。

 やがて土塊が盛り上がると、六人の男たちが整然と居並んでいった。
 その中の一人、ヴァージルがヒュールサスに留まっていた老サイザクタートの頭を労るようにして撫でて言った。

「良く待っていてくれたね。僕の友達」

「ああ、この時をどれほど待ったことか。これでようやく、孫たちに後の事を任せられます」

「しばらく休むといい。そして、僕たちの母に抱かれて眠るんだ。死人としての新たな生を得て目覚めたら、沢山話をしようね」

 老犬は安らかな表情で目を瞑り、そのまま動かなくなると、急速にその身を朽ち果てさせていった。意思の力のみで命を長らえてきた老いた番犬は、ようやく休暇を貰うことができたのだろう。そして、彼にはこれからも再生者として親しい相手と過ごすことのできる時間が待っている。

 土に還っていく老犬と入れ替わるようにして、土塊が盛り上がって新たな人物が生誕する。大地から生まれた娘。蜂蜜色の髪と灰色の瞳を持つ、その少女の名は冥道の幼姫。この一幕の後に死人の森の女王と呼ばれるようになる、再生者たちを統べる生と死の女神である。

 ここに六王は召喚された。彼らは冥道の幼姫――女王の勅命を待つ。
 アキラから土塊へと視点を移動させた私は、前世を演じながら高らかに叫ぶ。
 それは呪文の詠唱であり、儀式でもあった。

「死せる者たちに問いましょう。王に求められるものとは何か」

 応じるのは六王たち。
 一人ずつ、その資格を口にしていく。

「それは愛情」

「それは道徳」

「それは健康」

「それは地位」

「それは技能」

「それは尊敬」

 王に必要な器とは何か。六王はその在処を各々が信じるものに求めた。
 それらは全て、王が与えることが出来るものであり、民を民と、王を王と規定する権力に他ならない。更に少女の背後で【知識】の文字が輝く。

「然り。翻ってこの国の現状を見なさい。制御されぬ力とはただの災厄に過ぎません。そして、かように荒ぶる神に王としての資格があるでしょうか?」

 問いに答えたのは、眼鏡をかけた空の民。
 パーン・ガレニス・クロウサーだ。

「否に決まっている。器も無しに王の名を僭称する不遜な輩に神の名などは勿体ないというもの。あれは醜い巨人族に過ぎん。その座から引きずり下ろして足蹴にしてやるのが相応の扱いだろうよ」

 他の五人が未来の女王に跪く中、ただ一人腕を組んで少女を見下ろして言い放つ。不遜ともとれる態度だが、不思議と誰もそれを咎めない。その不遜さこそが、神に挑むという大業に必要とされる資質だからかもしれなかった。

「ならば我らが為すべきことは一つだ。邪悪なる僣主を弑することで、より良き世界の理を示す。それが正しき王道なれば」

「我らの王道は一つに重なるであろう」

 連なる声と共に、再生した王たちの意思が一つになっていく。
 彼らは皆、自らが望む理想の王を演じる事が叶わなかった者たちだ。
 在るべき王としての理想像はあまりに遠く、未練を残したまま土に帰った王たちは、女王の導きに従って、今一度やりなおしの機会を与えられる。

 もう一度。
 敗れて、それでも諦めきれずに立ち上がり、何度でも挑戦を繰り返す。
 失敗を踏み越え、敗北を背にしながら勝利を求め続ける。
 生と死(トライアンドエラー)
 暗愚な暴君たちは、求めた栄光へと手を伸ばし、そして小さな手に握り返して貰ったのだ。

 その願いを、死人の森は赦して包み込む。
 今こそ再生(リスタート)の時。
 裁き(ダモクレス)の剣を振り下ろし、無法の僣主を断罪せよ。
 偽りの平穏を繋ぎ止めていた剣を吊す髪の毛は既に断ち切られている。
 少女の右手に光が集い、それは黒い本の形をとった。

 最後の【断章】である【生存(ウィクトーリア)】が開かれ、内側から無数の文字列が飛び出す。力ある言葉が寄り集まって直剣となった。
 それは青銅よりも石よりもなお古い、骨の剣。
 妖精神アエルガ=ミクニーを殺し、遺骸から削りだした原初の滅び。
 古の時代、【災厄の剣】と呼ばれていたその呪文は、あまりに危険過ぎるためにその形を意図的に歪められ、後世に【災厄の槍】として伝えられていた。
 まことの名を取り戻した大呪術が荒ぶる神へと向けられる。

「これなるは掟の剣。人の世に秩序をもたらす約束と契約の祈り。罪には罰を、背約には裁きを。王国に突き立てられた、万人を秤に載せる絶対の摂理」

 それは王の首を刎ね、神の命すら奪う特権を有した至高の呪い。
 使い魔――すなわち関係性の拡張における奥義、王国の根幹を成すもの。
 剣は人々に願われて顕現する最後の救世主だ。
 多様な願いと祈り、その連関が織りなす複雑な構造が絡まり合い、条文となって刃を形作る。それがヒュールサスの出した答えだった。
 少女は、剣を振り下ろして宣言する。

「これより我ら【死人の森の軍勢】は権力の選定を開始します。法と掟の名に於いて、終端を喰らいて弑殺せよ」

 それは使い魔に属する関係性の呪文。
 人々の中から生誕するそれは、絶対なる上位者すら打ち倒す力となる。

「神の代理人たる巫にして王、クレナリーザに神への抵抗権を付与する! 王国を統べる存在とはすなわち民の同意により権力を信託された権力の行使者。背約の神王は速やかにその座を明け渡し、大いなる死人の森を王国に返還せよ!」

 【死人の森】とは、生と死を司るハザーリャ神の加護によって守護された王国の名である。だが現在のヒュールサスは、ハザーリャが零落したことによって正しい再生者の社会を維持できなくなっている。

 人々はみな諦めていた。神への信仰を捨て、祈ることを止めれば堕ちた神はやがて忘れられて平穏な生活が戻るだろう。だが、そうなれば解体された王国には今までの加護が失われ、過酷な自然のままの状態へと投げ出されてしまう。そうなれば、拠り所のない人々は忌人とされて世界に排斥されるだけだ。生贄としての女王を捧げて、ただ邪神に平伏するだけの日々。

 そんな人々に、少女は希望を示す。
 神を、王を排除しても、王国が解体されない道は存在するのだと。
 そして、女王が宣言する。

「これより私がヒュールサスの神、死人の森の女王となる。天よ、この神殺しの怒りを知るがいい!」

 虹色に燃えさかる刃が横薙ぎに一閃され、屹立する神体である巨大な柱が鮮やかに断ち切られた。落下するかつての女王を、少女はしっかりと受け止めた。骨と皮ばかりとなった軽い身体。傷だらけのクレナリーザは、ようやく救い手が現れた事を知ると、安らかな顔で息絶えた。

 そして戦いが始まった。
 六王を率いる小さな女王は、輝く剣を振るって現れた名状しがたい醜悪な邪神と激闘を繰り広げる。それは雄々しい男性の化身のようであり、また巨大な力士のようでもあった。

「九十パーセント! ああ、楽しいな、楽しいよ! 私はこんなにも強い相手と、何度だって戦える! まだ終わらない、この程度じゃ満足できない! 私は本当の本当に、全身全霊でやっていいんだろう?!」

 強大な力を持つ神は、それを倒しうるだけの力を持った強大な六王と小さな女王によって討伐された。哄笑しながら、邪神に乗り移っていた存在の気配が遠ざかっていく。

 切断された巨大な柱が、切断面から火を吹いて飛翔する。衝撃と熱波に、たまらず退く再生者たち。
 その座を追われ、新たな神にして女王の権能の一部となったハザーリャが笑い出す。雄々しき男神そのものとなった巨大な槍の中にいるのは、もはやお馴染みとなった宿敵グレンデルヒだ。

 柱が内側から割れて、内部から現れたのは巨大な艦船――否、翼を備えた飛行機だった。上昇しているのは時空を航行する軌道船オービタなのだ。
 グレンデルヒに続き、ケイトの声が響く。

「まさか、念のために持ってきていた無人機の出番とはね! こうなったら最後までやってやろうじゃないか。この劇場は相棒の本体が暴れるには狭すぎる。外で待っているよ、雌雄を決しようじゃないか!」

 軌道船が空間を跳躍してその場から姿を消した。
 最後の決戦、その舞台は遙か未来――現代で行われる。
 その事を全員で確かめ合うと、六王は静かに目を閉じて土の中に還っていく。
 次に目覚めた時、彼らは盟主と共に決戦に挑むのだ。

 そして、少女は振り返った。
 そこには、一人の男がいる。
 霊長類のようでもあり、牙猪のようでもあり、虹犬のようでもあり、またその他のあらゆる可能性に満ちた曖昧な人物が、そこにいる。

「さあ、幕を引きましょう。あなたの苦しみ、その尊さに、答えを出す時です」

 蜂蜜色の髪をした少女は、小さな手を伸ばして男の手を握った。
 いつの間にか、男の右腕は血に濡れた金属の義肢に変化している。
 二人はそうして、遙かな道のりを歩き、その場所に辿り着いた。
 暗く深い森の中、それは始まりの闇の中。
 月光に照らされて、死せる命が静かに眠る。
 そこに、始まりの罪が横たわっていた。





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