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幻想再帰のアリュージョニスト 作者:最近

第4章 傷つけるのはハートだけ、口づけるのは頬にだけ

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死人の森の断章1-1 熱病のような加虐が彼女の望み



 昔々ないところに、大きな闇がありました。
 うん? 闇というのは何かが無いということだから、闇があったというのはおかしいって? 確かにその通りだけど、その闇には形があったんだ。そう言うことにしておいて欲しい。じゃないと話が進められないからね。それに最初に前置きしてるじゃないか。ないところに、ってね。

 さて、どろどろに溶けた闇の中から、五人兄弟、それか姉妹が生まれました。それを神とよぶか、巨人と呼ぶかは時代によって異なるけれど、ここではとりあえず巨人としておくね。
 巨人たちにはそれぞれ名前があって、上から【窮乏】、【疾病】、【無知】、【陋隘(ろうあい)】、そして【失業】といいました。

 ひどい名前だって? もっともな意見だね。でも、我々の神話ではそうなっているんだから、仕方無いじゃないか。ああ、『ろうあい』というのは、不衛生で狭苦しい住まいのことだよ。

 続けようか。名前の通り、巨人たちは常に苦しんでいました。それぞれが生まれつき持っていた苦しみがそのまま名前になったから、当然と言えば当然です。巨人たちは、光の射し込まないクォル=ダメルの洞窟の奥深くで、どうして自分たちはこんなにも苦しい思いをしているのかと考えました。

 【窮乏】は何もかもが手に入らず、常に飢えていたので、ついには色々な幻が見え始めました。その幻はいつしか確かな質感や匂い、音まで発するようになります。【窮乏】は、幻が確かな形を持ち始めていることに気がつき、幻を自在に現実のものとする術を身につけました。そうして、まじないによって出現した物品は『幻姿』と呼ばれ、【窮乏】とその子らの名前の由来となりました。

 【疾病】は常に耐え難い苦痛に苛まれていましたが、いつしか自分が苦痛そのものと一つになっていることに気がつきます。自分を苦しめているものの正体は、実は自分自身だと知った【疾病】は自らの在り方を自在に変化させる術と、暗がりに潜む生き物たちの中に入り込んでその身体を間借りする術を覚えました。穢れた悪い空気として、生きとし生けるものたちの血に入り込む【疾病】の眷族たちは、誰かの命を啜らなければ存在できません。いつしか【疾病】たちは『血を吸う悪いもの』と呼ばれるようになりました。

 【無知】はとても賢く、何でも知っていました。この世界がたった五分前に誕生したこと。世界は【無知】が創造したこと。そうした世界の真実を、だれよりも正確に理解できていたのです。朝に見聞きした事だけで昼に出くわした事の全てを簡単に説明できたので、夜になる頃には【無知】の周りで思い通りにならないことなど何もありませんでした。その上、闇の底はいつも夜だったため、【無知】は巨人たちの中で最も強い力を振るうことができました。【無知】に近い範囲になればなるほど当人が絶対の全知全能者として振る舞える度合いは高まり、他の四巨人たちはそんな【無知】を『小さいやつ』とだけ呼んで仲間はずれにしました。

 【失業】と【陋隘ろうあい】はいつも一緒でした。二人の苦しみは、ある意味で不可分のものだったからです。もちろん、五巨人はみな家族のようなものでしたが、二人の絆は特に強固なものでした。
 【失業】は他にも【怠惰】とか【無為】とかいう名前を持っており、【陋隘ろうあい】もまた【不潔】という名前を持っていました。二人はこうした名前を嫌っていましたが、名前を捨てようとするとどこからともなく【無知】がやってきてまたひどい名前を付けてきます。それは何度も何度も繰り返されたので、最後にはそうした不名誉を受け入れざるを得なかったのです。

 二人はこのままでは【無知】に殺されてしまうと思い、洞窟の外に出て行くことにしました。泥のような闇を這い上がり、二人は天に浮かぶまあるい光を目指します。そして、光の中に飛び込んだ二人は、闇で満たされた世界から光に満ちた世界に出てきました。けれど余りにもその場所は眩しかったので、【失業】は森の中に隠れ潜み、【陋隘ろうあい】は柔らかい土の中に住処を作りました。二人はいつしか『狼』とか『もぐら』とか呼ばれるようになりました。

 ――うん、まあ、ありふれた神話だよ。
 どこにでもあるだろう?
 この世がどうして今のようにあるのかを説明しようとするお話。
 小鬼ゴブリンラフディの棘の民(針もぐら)を夜の民とするかについては意見が分かれるところだけれど、同じ根の国に棲むものには違いない。
 僕にとっては全て変わらない、可愛らしい根棲ねずみたちだよ。

 ちなみに、僕が五分前に即興で考えたんだ。
 何か問題でもあるのかな?
 一応僕はスキリシアの神だからね。こういった神話を事実だと言い張ればそれは事実になってしまうんだよ。今の話にも出てきただろう? 【無知】――つまりは小鬼ゴブリンたちがしているのと同じだよ。世界はとても柔らかいんだ。

 ただ、僕は小鬼や邪神、巨人などとは違う。
 手の届く範囲、目に見える箇所でしか神として振る舞えない矮小な存在や、零落して存在を貶められた敗残者たちとは根本的な在り方が異なるんだよ。
 【紀】に至るとはそういうことだ。

 さて。随分と混沌とした状況に陥っている様子。
 このあたりで一つ、僕が介入して色々と整理してみるのもいいだろう。
 何と言っても、このスキリシアは僕の領域だからね。
 おあつらえ向きに、出来の良い端末が二つも転がっている。

 どちらの端末も、世界の流れに干渉できる強い運命を持った個体だ。
 残念ながらアズーリアは期待外れだった。暫く青い鳥(ペリュトン)は見るのも嫌だね。だがカーティスとミシャルヒは僕の期待に応えてくれることだろう。

 そういうわけで、ラクルにヴィヴィ? 君たちの喧嘩は見ていて中々に微笑ましいけれど、今は少しだけ控えてもらえるかな?
 派閥争いは『塔』に戻ってやりたまえ。この場所は君たちの参加するべき舞台じゃない。どうしても干渉したいのなら、適切な駒を揃えてくることだね。ああ、ヴィヴィは舞台裏に残って『劇場』を維持するように。ただしそれ以外の行動は禁止。言いつけを破ったら毎晩夢の中に触手が出てくるからね。

 ステラもヴァレリーも、過保護なのは良くないよ。
 力のある存在がみだりに人の世に影響を及ぼしてはいけない。
 僕はいいんだ。何しろ大神院の格付けでは格は高いけど力は弱いということになっているからね。弱いんだから幾らでも現世に干渉していいんだよ。

 はいはい、いいから舞台からさっさと退場しておくれ。早くしないと触手でぐるぐる巻きにして混沌に放り込むよ。
 ふう、いなくなったね。これでちょっとはすっきりしたかな。
 まあ、やることに変わりは無いんだけどね。元々僕にとっては世界の全てが遊戯盤で、舞台のようなものに過ぎない。

 外側から操って、せいぜい望む未来を手繰り寄せてみせるさ。過去であろうと未来であろうと、この夜は常にこのマロゾロンドのものなのだから。








 その空間には、漆黒が満ちていた。
 黒曜石が用いられた床に赤い絨毯が敷き詰められ、暗い色合いの棚や卓といった調度の類が全体の色調を決定付けている。
 その中央で、緑色の波打つ長髪と赤い瞳を持つ人物がゆっくりと口を開く。

「全く、我らが神祖にも困ったものだ。とはいえ、今のあの方を祖と仰ぐのはいささか不本意ではあるが。友情に篤いのは結構だが、神としての器まで貸してやることもなかろうに」

 黒曜石の容器で飲料を口にしながら、その人物は気怠げにぼやいた。濃厚な血が血の気の薄い唇から口腔内へと注がれ、ごくりと細い喉が動く。黒革のソファにだらしなく寄りかかって足を組んでいる様子は男性的な粗雑さを感じさせるが、膨らみのない喉から紡がれるのは艶やかなアルトだ。

「不意の来客に時を超えた干渉。これにもあの方の悪戯が関わっているのかな。いずれにせよ、面倒なことだ」

 良く通るテノールの声。ソファの後ろに立つ、黒いドレスで着飾った影のような女性が発した音は、その容姿に似つかわしくない男のものだった。

「とはいえ我らがあの方の忠実なる端末――すなわち化身であることに変わりはあるまいて。神託を無視することは許されぬ」

 続く声はひどく掠れた金切り声で、耳障りな響きである。いつのまにか、二人の足下に矮躯の禿頭男が現れていた。見窄らしい布一枚を身体に巻き付けたその男の前歯は鋭く尖り、しきりに何かを囓っている。それは、霊長類の頭蓋骨だった。

「そら、我らが帰ってきたぞ。姫君を手土産にした私は上機嫌だが、異邦人を迎えにいった私は少々気疲れしている様子。労ってやらんとな。何なら解剖してやろうかね、ひひっ」

 医師が着るような白衣を纏った男が、片手で器用に医療用のメスを回しながら言った。異様なのは、その白衣が陰鬱な印象を醸し出す漆黒であったこと。引きつり笑いを浮かべながら舌の上で何かを転がしている――赤黒い、生肉を。

「ウグ、グルゥ、チ、ホシイ。オレ、イキモノ、オカス。オカシタアト、コロス」

「げひゃひゃひゃ、オンナだ、それも処女の生き血だぜぇ~」

「吾輩としては、執拗な拷問をしてたっぷりと悲鳴を愉しんだ後に味わいたいな。おお、加虐とはこの世でもっとも崇高なる文化的営みである!」

 いずれの人物も、血のように赤い瞳を持ち、どこか似通った禍々しい空気を纏っている点で共通している。それぞれかけ離れた容姿ながらも、一見しただけで『血の繋がり』があるのだと思わされる、そんな集団だった。
 しかし彼らは家族や親族といった関係性ではない。
 彼らを結ぶのは確かに血であり命であり、同質性ではある。
 にもかかわらず、全員が赤の他人。

「歓待の準備が必要だね、私」「それでは宴の支度をしようか、我々で」「久方ぶりに客人を持てなすのだ、手抜かりがあってはいけないよ、私たち」「客人だなどと余所余所しい。我らが花嫁は勿論この牙の祝福を受けていただくのだ」「その通り。闇の恩寵を受けた者は血族であり我々である」「そうだな。では、未来の私を持てなす宴としよう」「新たな私たちの生誕を祝して」「乾杯」「乾杯」「乾杯」

 むせ返るような血の匂い。杯が傾けられて、濃い色の液体が飲み干されていく。生命の味の芳醇さに、それぞれが恍惚の吐息を漏らした。
 いつのまにか漆黒の部屋は、血の杯を掲げて飲み干す者たちで溢れかえっている。次々と黒い靄が集い、その場に新たな個体が出現していく。影の中から這い出してくる。コウモリやネズミたちが集い、一つの生命を形作っていく。
 彼らの口からは、等しく鋭い犬歯――長い牙がのぞいていた。
 それこそが、その存在たちにとっての血を啜る為の触手。
 命を喰らう夜の民、吸血鬼の証である。







「意味がわからない――何だ、これはっ」

 剛腕が振り抜かれ、衝撃と共に巨大な肉塊が弾け飛ぶ。
 音速を超えた張り手が衝撃波を撒き散らしながら居並ぶ肉の巨体を次々に粉砕していく。血と絶叫が夜の闇を埋め尽くしていく。忌まわしい悪臭と耳障りな音、不快な感触に顔を顰める女が一人。

 禿頭に刺青を刻んだ長身の女。ゾーイ・アキラ。肩の辺りに浮遊している半透明のデフォルメされた人体は、相棒のケイト。
 戦い続ける二人からは余裕が失われていた。
 困惑し、疲労し、憔悴している。
 当然だろう。ゾーイが破壊し続けている肉の塊、その正体は――。

「消えろっ、消えろっ」

(なんて数だ、無尽蔵なのか?!)

 吹き飛ばされた脂肪の鎧が剥がれてその内側が露わになる。
 それは人だった。巨体を誇る女性の屍体。
 ゾーイとケイトにとって、馴染み深い顔。
 見間違うはずもない。何故ならそれは、

「私のコピーだって?! 誰がやったのかは知らないが、いい度胸だ! 偽物じゃ本物に勝てないってことを教えてやるよ!」

 全て、ゾーイ・アキラ本人だったからである。
 全身の筋肉を隆起、膨張させて全力を解き放とうとするゾーイ。それを支援するケイト。迫り来る偽力士の集団を一気に片付けようとした彼女に一瞬の隙が生まれる。その直後、彼方から飛来した巨大質量が一撃でその全身を粉砕する。

 ゾーイを殺害したのも、またゾーイだった。肩には同じようにケイトが浮遊している。そんな二人の周囲を輝く文字列が包み込み、情報的に解体していく。消滅した二人を見下ろすゾーイとケイト、それを撃墜する力士と行司、さらにそれを仕留めたのは複数人で徒党を組んだゾーイ、ゾーイ、ゾーイ、ケイト、ケイト、ケイト――その数に果ては無い。

 スキリシアの黒い荒野を遠目に見ると、その一帯を筋骨逞しい力士が埋め尽くしているのが分かる。絶大な力と質量を誇る力士たちによる、血みどろの殺し合い。
 力士は複製されている。
 それも、本人の意思とは関係無く、この世界特有の呪術によって。

(落ち着くんだ、ケイト! どうやら敵は君の量子力士としての脆弱性を突いてきたらしい。この世界で得たデータによれば、これは夜の民というコピーアンドペーストが得意な種族によるクラッキングらしい。君の本体権限が一部乗っ取られているぞ! このままでは処理能力の限界が来る。身体の維持を解除するんだ!)

「そんなことしたら、死んじまうだろ!」

(冷静になれ! 最後の一人になれば殺し合いは止まる。僕らが死んだとしても一人残れば総体としてのゾーイは継続する!)

 その言葉で、ゾーイは我に帰った。
 次の瞬間殺害されてもの言わぬ肉塊と化し、細かい粒子となって消滅するが、他の力士たちも次々にはっと何かに気付き、無防備に殺される個体が増えていく。
 死は伝播して、ついにたった一人のゾーイがその場に残された。

「なんてこった。いつの間にか、この世界の価値観に毒されていたのかな」

(そのようだ。おそらくは催眠か、幻術という奴だろう。すまない、言い訳になるが、攻撃を受けていることに気づけなかった。一応僕はこの世界における言語魔術師に相当するはずなんだが、防壁をすり抜けられてしまったよ。相手は相当の手練れだと思う)

「あー、気にしないでいーよ。つーか頭だっるー。同時に複製させられたせいでかなり頭にガタが来てる。こりゃしばらく休ませないと生体部品が死ぬわ」

(力士の機能には複数の自己を並列操作するなんて事態は想定されていない。いかに自己同一性への心理的縛りが無い高適性者でも、処理能力が足りなくなるんだ。現行の力士に搭載されている転移機関の大半は【分身の術】が実用化されるよりも前に製造されたわけだからね)

「へいへい、どうせ力士はニンジャより旧式ですよっと」

 熱を持った頭部を手で仰いで風を送るゾーイ。
 周囲を見回して、脅威となる存在がいないことを確認する。
 訝しげに眉根を寄せた。

「あのカーティスとか言うやつ、どこに消えた?」

 二人は、何らかの呪術によって強制的にこの暗闇の大地に連れてこられた。
 第五階層での戦い。標的たるシナモリ・アキラの排除。【変異の三手】との共闘。そして完全な勝利。かと思えば、わけも分からずにいつの間にか闇の中を落下し続けている。泥のような、重い空気のような、海のような、一面の影。
 その中をひたすら落ちて、降り立った場所で二人はカーティスと名乗る何者かと遭遇した。男とも女ともつかないその人物に言われるまま、二人は後を追いかける。よほどのことが無い限り、現地住民とのいらぬ軋轢を生じさせないというのは二人の基本方針である。

 何より、その時にようやく、途絶していた元世界との通信が復旧したのである。
 青い糸のようなライン。情報的にのみ存在する、流動する細長いそれが、ゾーイとケイトの頭部に融けるように繋がっている。

 二人が所属する、元世界の巨大複合企業体メガコーポ、その中に存在する一部署からの連絡と命令が下ったのだ。
 勤め人である以上、それに従うのが社員の使命だ。

 カーティスと行動を共にして、可能ならば殺害せよ。
 ドラトリアの王と名乗る人物に接触し、協力態勢を築こうとする者があれば、それもまた妨害せよ。
 意味が分からない指令ではあるが、兵隊は上の命令に疑問を差し挟む必要は無い。表に出せない荒事を一手に片付けるためにゾーイはここにいるのだ。

 民間警備会社から転生保険会社に出向しているゾーイ・アキラとケイトの所属は、共にトライデントホールディングス傘下の子会社である。
 トライデントジェネラルセキュリティサービスジャパンに、トライデント転生保険。通称をTGSJとTRIというその巨大企業は、昨今の巨大複合企業の大半がそうであるように多世界企業となるべく外世界への進出を目論んでいる。
 その過程で発生する複数の課題を解決しなければ、競争に負けて淘汰されるのみ。であれば、あらゆる手段を駆使して成果を勝ち得なければならない。

「細かい事はいい。私はただ何もかも駆逐して終わらせる。それだけだよ」

(それでいいよ、アキラ。上位システムの決定は絶対だ。理不尽でも必ず遂行するんだ。それで僕たちは有用性を証明できる。証明し続けることでしか、存在を許されないんだ――個を捨て、常に総体の為に奉仕せよ。イェツィラー)

「イェツィラー」

 唱和して、二人は歩き出した。
 やがて力士の前に黒い靄が集まっていく。
 闇の中から現れた黒衣は、姿を消していたカーティス本人に他ならない。

「やあ、強いんだね、君たちは」

 薄く微笑む端整な顔。
 ゾーイは眉根を寄せて相手を睨み付ける。

「今のはアンタがやったの? 何が目的?」

「失礼した。偶然を装って近付いたけれど、実は君たちの存在は最初から知っていた。これから君たちが私を害しようとしていることも。というわけで先に手を打とうとしたのだけれど、どうやら私では力不足だったようだ」

 カーティスは言いながら、足下の影を蠢かせた。
 本来平面であるはずの闇が、三次元的な質量を持ち、霞のような触手を伸ばし、漆黒の粒子を立ち上らせている。禍々しい漆黒から光が放たれ、近くにあった比較的大きな岩に影絵を映し出す。投影された映像の中で、大柄な影が小柄な影を襲っている。未だ起きていないはずのゾーイによるカーティスの襲撃を予知した映像。呪術による未来予知だと、この世界に慣れ始めた二人は即座に理解した。

影占い(プシュコマンシー)と言ってね。このスキリシアでは比較的よく使われている神秘の業だよ。我々カーティスは暇を見つけてはこうして未来を占い、災厄を回避してきた。時には直接未来に影を飛ばして積極的に事象を改変することもある――こんな風にね」

 突然、足下の黒い大地からわき出てくる複数の影。
 黒衣を纏ったそれらは、皆一様に同じ顔をしていた。

(同一人物?! まさか、過去のカーティスなのか?)

「その通り。数日前から毎日私を未来に送って君に攻撃を仕掛け続けていた。近い未来に影を投げかける程度のことは造作もないのだよ。流石に時空が離れればその分大掛かりな儀式と供物が必要になるが――立場上、そうしたものには事欠かないのでね。安心して外敵を排除できる」

 無数のカーティスの足下から伸びる影が蠢き、夥しい数の触手が殺到する。
 屈強な肉体は強固な束縛をものともしないが、足下の影は違った。
 力士の影が伸ばされた吸血鬼の影によって束縛され、物理的な実体もそれに引き摺られて停止する。身動きの取れないゾーイ・アキラとケイト。

「さて、これの処遇をどうしようか、私?」「そうだね。処分するのがいいのではないかと、私は思うのだが」「私も昨日まではそう考えていたのだが、明日以降の私と話して気が変わった」「そうだな。複製して使役するのが良いと思うよ。外世界人の従僕だなんて、他の真祖たちに自慢できるよ」「我々の一部にしてしまうのも面白くはないかな?」「この外世界人に、闇の恩寵を与えると?」「それも悪くはないな。複製して両方試して見ればいいのでは?」

 複数の自分たちで話し合うという奇妙な光景。
 時間を超えて、過去現在未来の同一人物が一堂に会するという異常な事態。
 不可解な会話の流れによって自らの運命が決定されてしまうという状況に、ゾーイは怒りを覚えた。自らを構成する情報構造体を離散させ、別の座標で再構成しようと試みるが、正体不明の力によって封じられる。恐らくはカーティスの呪術だろう。この吸血鬼はケイトにも理解不能な力を振るうのだ。 

「そういえば、近々クエスドレムの城に赴く機会がある。あの遊びを試して見るのも面白い」「ああ、それがいいね」「それにしてももうそんな時期か」「秩序の更新が近づいている証拠だ」「いずれ大きな災厄が起きる。地脈の乱れも激しい」「まず大地が平面となり、それから二つに引き裂かれることだろう」「些細な未来は変えられても、運命の流れは変えられない」「それが世界というものだ」「それがさだめというものだ」

 ゾーイは闇に沈んでいく。
 意識を手放す直前、元世界と繋がる青い糸からの通信と、現地で得た協力者からの声、そして頼りにしている相棒の叫びがゾーイの耳朶を打った。




 可憐な少女が、漆黒の花嫁衣装を着せられて寝台の上に横たえられている。
 蜂蜜色の髪は艶やかで、繊細な顔のつくりは幼いながらも咲き誇る前の蕾としての愛らしさを十分に見るものに感じさせる。意識を失っているため、閉ざされた目蓋の裏はわからない。カーティスはその目が好きだった。見たことは無い、知らないがゆえに、それを愛する。隠されたものこそ美しいのだという、それは夜の民にとっての美徳である。

 細い指先が、寝息を立てる少女の顔に触れた。
 こわれ物を扱うような手つき。
 カーティスは、幼い少女に心を奪われていた。
 その影のかたちを知った瞬間、その魂は冥道の幼姫に囚われてしまったのだ。

「私の可愛いペルセフォネ。それともプロセルピナと呼ぼうか。ああ、猫の国から名を引いてくるのは難しいね。候補が沢山ありすぎて、適切なものを上手く選ぶのが難しいよ」

「近頃の流行りだからね、こういうのはしっかりとやらないといけない。クエスドレムの城でお披露目をするのだろう? 田舎くさい名前では彼女が馬鹿にされてしまうよ。それは我々の誇りにも傷をつける」

 カーティスは寝台の上にある天蓋から逆さにぶら下がっているコウモリと会話をしている。薄暗い室内では、翼手を畳んでいるとまるで装飾過多な寝台の一部のようにも見えた。部屋の中には地を這う鼠もおり、それらもまた口を利くことができた。いずれもカーティス本人として振る舞い、対等に言葉を交わしあっている。

「それで、宴の準備はいいのかな、天鼠こうもりの私」「もちろんいいとも、地鼠ねずみの私」「ではこの霊長さるの私が姫君を運ぼう」

 カーティスは複数人で言葉を交わし合う。
 その途中、影の中から新たなカーティスが現れる。

「あまり良くない知らせがある。我々の聖なる婚姻を邪魔立てしようとする者たちが現れたようだ」

「ほう? 詳しく話してくれ、私」

 全くおなじ顔の二人が向き合う。
 片方が赤い瞳を輝かせると、投射された幻影がもう片方の瞳の中に入り込む。
 更に二人の影が融け合い、言葉も無く情報がやりとりされていった。

「なるほど。これは私の手落ちだな。花嫁を攫いに行った時に、追跡を許してしまったのか。全員始末しておけば良かった。いや、言い訳になるが、あの時は花嫁以外のものが目に入らなくてね」

「わかるよ。私の気持ちだからね。責めても仕方無い。対処するとしよう。早速適任の私を向かわせたよ」

「ありがとう、私たち。それにしても、再演による過去の改竄か。いつだったか、私たちも影絵芝居でやったことがあったね?」

 暗がりの中で、赤い瞳が輝きを放つ。
 光を反射しているのではない。瞳それ自体が発光しているのだ。
 さながら、深海の底に棲まう生物のように。

「このマロゾロンドの化身を操ろうとは、実に不遜極まりないな」

「では逆に、我らが未来をほしいままにしてみようか」

 蠢く影が、無数の触手を伸ばしていく。
 遠隔地へと解き放たれた暗い影は、時間と空間を超えて標的へと襲いかかるのだった。群をなす闇は、鼠のように素早く大地を駆けていく。
 その数は無限大。
 増殖し続ける闇がスキリシアの大地を席巻する。
 この影世界における最大規模の『数の力』が振るわれようとしていた。




 見渡す限り、無限の黒。重たい色の木々は海草のようにも見える。滑らかな形の岩石は生きているかのように柔らかい。黒い荒野は気がつくと灰色の沼地に変貌し、その中から悪霊や深海魚が顔を出して共に牙を突き立てあっている。空は星一つ無い暗い天幕で、ただひとつの光源である夜月がこのスキリシアという内世界と親世界ゼオーティアとを繋いでいる。

 本来は静謐な世界であるそこに、凄まじい轟音が響き渡っていた。
 不可視の巨腕が振るわれる。
 浮遊する眼鏡の男が雄叫びを上げながら群をなす影を薙ぎ払っているのだ。大地が砕け、影の動植物たちを死滅させ、破壊の嵐を巻き起こす。

 千にも及ぶ数の黒衣が千々に裂かれて絶命した。それらは瞬時に霞と化して大地に広がった影の中に沈んでいく。
 だが、圧倒的な戦果にも関わらず隻腕の男は舌打ちをした。

「きりが無いな。雑魚とはいえ、殺しても殺しても這い出してくるとは、厄介な」

 パーン・ガレニス・クロウサーは、不快さを露わにして無造作に幻肢を操る。巨人ラウスの右腕と同化したその呪術的な腕は襲いかかってくる黒衣を容易く引き裂いていく。しかし、一人倒しても勝利には至らず、二人三人と屍を積み上げようとも何の意味も無い。

「吸血鬼は眷族の支配を得手とするというが、ここまでのものか――おい、ミシャルヒ、カーイン! 無事だろうな?!」

「ここにいる」

「どうにか無事だ。上で見た奇妙な連中は見当たらないが」

 呼びかけに応えて現れたのは、パーンの仲間たちだ。
 彼らも迫り来る大群に応戦していたが、次第に消耗しつつあった。
 黒衣を纏った吸血鬼。
 その全てが、全く同一の気配を有するという異様な光景。

「二人とも、あれは恐らくカーティスという吸血鬼だ。墓の下の王国ドラトリアを統べる軍勢にして王でもあるものたち。個にして群れ、支配者にして従僕という、集団で一つの生命を構成している吸血鬼の真祖が一人」

 同じ夜の民であるミシャルヒが敵の正体を明かす。
 スキリシアでは暗黒神マロゾロンドの加護を最も強く受けたと言われる存在が強い権力を握っており、各地を支配している。

 クォル=ダメルの洞窟に潜む九人の幽鬼レイスたち、影世界においては神にも等しい青い鳥(ペリュトン)の古老たち、それぞれの部族を束ねる古き大人狼(リュカオン)たち、そして王侯貴族として所領を持つ始祖吸血鬼(ルートヴァンパイア)たち。真祖とも呼ばれる存在は、この地クォル=ダメルにほど近いドラトリアにも所領を構えている。それがカーティスという王だった。

 直接の面識は無いようだったが、同じ世界で生を受けたものとして噂を耳にしたことはあったのだろう。群となって蠢くカーティスもまた、ミシャルヒの存在を認識したのかわずかに表情を変えた。

「なるほど真祖か、面白い。この俺が高みに立つための踏み台にしてくれる」

「一応、攫われたお嬢さんを取り戻すのが目的だってことを忘れないでくれよ?」

 目の前の脅威についての危険性を知らされながらもパーンは不敵に笑みを作り、カーインもまた余裕を崩さない。
 彼らを取り囲む黒衣の影たちは、カーインの言葉に反応して口を開く。

「させない。姫君は我々のものだ」

「主張するのは勝手だが、妄想を口にするのは貴様らの頭の中だけにしておくがいい。いいか愚物。この世の全ては俺のものだ。貴様も、あの奴隷女も、ありとあらゆる栄光と勝利、時空と運命のことごとく、俺を愉しませるためだけに存在するのだ。わかったらさっさと俺と死力を尽くして争うがいい」

 睨み合うパーンとカーティス。
 藍色の視線と血色の視線がぶつかり合い、衝突した呪力がスキリシアの重い大気を引き裂いて風を巻き起こす。
 カーティスたちは代わる代わる口を開いて、幻惑するかのように妖しい声音で囁いた。それは語りに偽装した呪いにして力ある言葉。抵抗すべくカーインが黒薔薇を大地に突き立てて周囲に魔除けの障壁を張り巡らせる。大地から生えた茨が半球状の屋根となった。

「我々の影占いによれば、『正史』では我々は【死人の森】という王国に組み入れられるのだという」

 パーンは防戦に周りながらも冷静に相手の戦力を分析する。相手の呪術の正体は知れた。占影術師プシュコマンサー。霊通術、影占いなどと呼ばれる、古代の死霊術使いである。その形態は現代の死霊術師ネクロマンサーよりも原始的かつ包括的で、曖昧な霊的現象全般を取り扱う。

「確かに私は彼女と結ばれたいのだが、女王の夫という形式では困る。あの美しい少女を娶るのはあくまでも私でなくてはならない」

「カーティスが上位でなくては我々という形は維持出来ないのだ」

「女王の下に従属してしまえば、『我々』はカーティスというただの『私』に貶められてしまうということだよ」

「私は我々で在り続けたい」

「ゆえに私は我が愛しの花嫁を攫ったのだ」

「奪い、犯し、牙を突き立て血を啜り、その魂を我々の影に引き込むために」

「これは存在を賭けた闘争なのだよ。我々が我々として在り続けるか、それとも我が愛しの君が我々を卑しい下僕として従えるのか。どちらが支配者になるのか、という主導権争いというわけだ」

 パーンたちの周囲を巡る黒衣の影は、次第に厚みを失って影絵の群れとなっていく。それはさながら光が見せる錯覚、幻のように内側の者たちを惑わしていく。
 ふと、パーンが怪訝そうな表情をした。
 隣にカーインが立っていることを確認し、次いでミシャルヒの方を見る。
 黒衣の幽鬼は、どこにもいなかった。

「ミシャルヒ、どこにいる?」

 愕然と仲間の名を呼ぶパーンは、周囲の幻影がいつの間にか自分の見当識を失わせている事に気がついた。
 それが幻姿霊スペクターが得意とする幻術であると気付いた瞬間、怒りに我を失って絶叫する。

「貴様っ、この俺に牙を剥くかっ」

 カーインが築いた茨の障壁を破壊して、影の群が殺到する。
 パーンは飛び上がって襲撃を逃れるが、そこに飛来する黒衣が一つ。
 幻肢で貫くが、それは残像だった。
 遅いように錯覚させられてしまう特殊な浮遊法により、幻の如き残像で相手を幻惑しつつ掌打を繰り出す武術。
 ミシャルヒの連撃を捌くパーンは、苛立ちを隠しきれずに舌打ちする。
 フードの内側に見えた端整な表情が、苦悩に歪められていたからだ。

「私を殺せ、パーン」

「何があった」

「我が神の勅命だ。逆らえん。これより私は大いなるマロゾロンドの手足として、このカーティスと共に動くことになる。全ては、我らの神こそが紀元槍を手に入れるために」

 カーティスと並んで立つミシャルヒ。
 パーンは一呼吸の間、微かな迷いを吐息に混ぜたが、次に息を吸い込む時には藍色の瞳に殺意を宿してかつての仲間を見据えていた。

「そうか。では死ね」

 莫大な呪力が右の幻肢に収束して、膨れあがった破壊の波が幻影や影の群れごとあらゆる敵を薙ぎ払おうとしたその時。パーンが唐突に顔を仰け反らせた。直後、パーンの目の前を通り過ぎていく薔薇が一輪。

「貴様もか、カーイン」

「勘違いしないで欲しい。私は君に失望したくないだけだ。頼むからつまらない振る舞いはしてくれるなよ」

 茨の鞭を手に、仲間を手にかけようとする暴挙を諫めるカーインを、パーンは忌々しそうに睨み付けた。
 一触即発の空気を引き裂いて、吸血鬼の軍勢が奇襲をかける。
 今度こそ、パーンたちは圧倒的物量に抗えなかった。
 敗北は、劇的なものではなくやむを得ない撤退という形で決定付けられた。
 疲労と消耗、終わりの無い抗戦、殺戮と勝利の終わりの無い繰り返しに、さしものパーンもこれ以上は戦い続けることは不可能だと判断したのである。

 カーインが呼び出した大輪の花に乗って、空を飛んでいく二人。
 遙か上空から、大地を埋め尽くす黒い群れが地平線の向こうまで続いているのが見えた。幻姿霊の棲まうクォル=ダメルから広大なドラトリアまで、見渡す限り全ての空間をカーティスが埋め尽くしている。

 ゼオーティアの東方、ヘレゼクシュの一地方の地底には、根の国が広がっているという。人々が築き上げた墳墓の下に広がる異界は影の世界スキリシアと繋がっている。影世界に収まり切らなくなった吸血鬼の群れは横ではなく縦に広がり、天高く塔となり、地上へと溢れ出す。それは墓の下から起き上がり、世に災厄をもたらす疫病のごとき悪夢。夜の貴族は、物質世界においては無限の増殖を象徴する魔獣の姿となって暴威を振るう。
 すなわち、その名は――。

「ちゅー!」「ちゅうちゅう」「ちー!」「チュッチュ」「キーキー」「イーク、イーク」「スクィーク、スクィーク!」

「目障りな連中め! いずれ全て駆除してくれる!」

 夥しい数のネズミの群れに向かって、パーンが絶叫した。
 どこまでも伸びる巨大幻肢が数千、数万にも及ぶネズミを一撃で殺戮していくが、それは大海に向けて拳を繰り出すのに等しい行為だった。
 万を殺す間に、カーティスは億、あるいは兆に達する数だけ増えている。
 この真祖を殺すことは、尋常な手段では不可能なのだ。

「私はカーティス」「俺の名はイウワァバイ」「またの名をリールエルブス」

 黒い群れが一斉に唱和する。
 圧倒的な数の宣名により、スキリシアそのものが激震した。

 ――すなわち我らは【大勢(リィキ・ギェズ)】なり。

 絶対的物量に対しての敗北。
 かつてパーンは同じようにクロウサー家という巨大さに敗れた。
 今もまた、カーティスという莫大さに膝を屈し、仲間の一人を奪われている。
 飛行する花弁の上から、遠くで立ちつくすミシャルヒを見る。
 ひととき視線が絡み合ったが、やがて溢れかえるネズミに遮られてしまう。
 パーンは、屈辱に震えながら、遠ざかっていく吸血鬼の王を睨み付けた。

「ふざけるなよ。何がマロゾロンドだ。何がカーティスだ。神ごときが、この俺を見下ろすなど許されんぞ」

 形の無い右腕を握りしめ、拳を形作る。
 怒りに震えて輪郭を失いつつあった神の腕が、決意によって安定した形態に落ち着きつつあった。

「取り戻すぞカーイン。手伝え」

 それを聞いて、カーインはパーンに向けていた厳しい視線をようやく和らげた。

「最初からそう言ってくれ」

 パーンはカーインの方を見ないまま、強く鼻を鳴らす。
 それから、大輪の花の上で立ち上がり、腕を組んで胸を張り、背を反らすようにして眼下を睥睨した。

「ミシャルヒもフェロニアも、俺のものは全て奪い返す。下らぬ神め、足蹴にして身の程をわきまえさせてくれる」





 影の世界での戦いが、マロゾロンドのしもべたるカーティス、そしてミシャルヒの勝利に終わった後。
 自らの居城に帰還したカーティスの一人が、用意された一室で寝台に横たえられている蜂蜜色の髪をした少女に近付いていく。
 そのカーティスは、戦いに赴いている群れから離れて独自の動きをとるという、通常では考えられないことをしていた。

 カーティスが、左腕で少女の額に触れる。
 すると、閉じられた目蓋が開いて、灰色の目が黒衣の吸血鬼をとらえた。
 フードの中に隠されたその容貌を見て、囚われの少女が掠れた声で呟く。

「ああ、私を、攫いに来て下さったのね?」

 はぐれもののカーティスは、小さく頷くと、少女の手をとって言った。

「待っていてくれ。この舞台が最後だ。ここで決着をつけて、俺と六王を加えた死人の森が未来のヒュールサスを、そして更に未来のガロアンディアンを救う。そこまでが俺たちの協力できる――」

「ねえ、アキラ様」

 言葉を遮るように、口にしてはならない名を唱えて、少女は柔らかく微笑んだ。力の無い表情。小さな声量。その肉体から、いつの間にか力が失われているのは、度重なる戦いで消耗したためだろうか。何のために。誰の為に?

「どうか信じて欲しいのです。私は、アキラ様の愛する人の敵かもしれないけれど――けっして、あなたの敵ではありません。それだけは、覚えておいて」

 真摯に、切実に訴える少女の言葉を聞いて、左腕が僅かに震える。
 狼狽えたように、一歩後退る。

「私は死人の森を復活させるでしょう。来るべき大きな戦い、巨大な運命に、きっとガロアンディアンでは抗えません。今のままの、弱く不完全なあなたたちでは、これから先を勝ち抜いて、生き残ることは難しい」

「死人の森なら、それができるのか?」

「その通りです。だから、どうか私に守られて下さい。私は第五階層を掌握した後、新たなる秩序によって一つの内世界を治め、あらゆる困難から第五階層を守護してみせましょう。その中には今のガロアンディアンの住人や、貴方の大切な人たちも含まれているから」

 黒衣の内側で、何かを言おうとして失敗し、沈黙を吐き出す気配があった。
 ややあって、躊躇いがちな言葉。

「どうして、俺を?」

「――だって」

 不意に、少女が頬を朱に染めて視線を逸らした。
 下唇を噛んで、片手がぎゅっと敷布を掴んで皺にする。
 おずおずと、何かを恐れるように。
 小さな子供がするように、上目遣いで甘えるように口にする。

「あなたは、罪の苦痛を望んだでしょう?」

 瞬間、世界が闇に沈む。
 暗転した舞台。
 背景に映し出されるのは、横たわる狼の死骸。
 血塗られた『鎧の腕』。

「あの小さな子に書き換えられて、救われてしまったけれど」

「やめろ」

「それでも一度だけ、それを切り捨てずに、感情を誤魔化したままにせずに、殺人を邪悪として己の中に受け入れた。耐えられないことを知りながら、弱いままで現実に立ち向かった貴方が、私の目にはとても哀れで醜く映りました」

「やめてくれ」

 一方の声に熱が込められる一方で、もう片方の声は掠れて力を失っていく。
 怯えるように、頭を振って下がろうとする黒衣。その左手を、少女の小さな手が掴んだ。精一杯の力で引き留めようとする。

「私は、貴方にあのままであって欲しかった」

 切実に、なりふり構わずに縋り付く。余裕も何も無い。
 まっすぐな言葉をぶつけるだけ。

「だから、いらないのです。色のない呪文も。心を奪い取る邪視も。全てを委ねて寄りかかれる杖も。貴方という純粋な心に寄り添えるのは、苦痛を苦痛として、罪を罪として糾弾する私だけでいい」

 灰色の瞳に宿るのは、熱情。
 狂おしいほどの、欲望のかがやきだった。

「お願いだから、他の誰も視界に入れないで」

 妄執を、偏愛を、狂信を。
 露わになってしまえば、見苦しいだけのそれを、取り繕うこともできずに溢れ出させてしまう。それはさながら決壊した堤防のように。
 濡れた瞳が、真情を告げた。

「私だけを見て」

 狂おしく。
 狂的に、歪んだ殺意を吐き出していく。

「アズーリアを消して、トリシューラを壊して、コルセスカを消し去って。全ての邪魔者を排除したら――そうしたら、私だけを見てくれますよね?」

 純化された熱情は、言葉にすればあまりにも単純で。
 多数の勢力が入り乱れて混沌としたこの状況が、全てたった一言で片付けられてしまうという事実に、黒衣の内側で誰かが震える。

 劇の題材としてはひどくありきたり。
 世にそれはありふれている。氾濫しすぎているにも関わらず、あらゆる時代を通じて価値が変わることのないそれこそは、この世で最も古いまじないの一つ。

 ――つまるところ、これは恋の物語だ。








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