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幻想再帰のアリュージョニスト 作者:最近

第4章 傷つけるのはハートだけ、口づけるのは頬にだけ

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死人の森の断章2-3 暗がりの中へ

 闇の中を行く二つの影――ミシャルヒとカーイン。自由落下に近い状態から、急な傾斜を駆け下りて、枝分かれする洞窟を縦横無尽に駆け巡る。地図も道案内も無いままに、迷宮同然の通路を迷わずに疾走していく。途上、はためく黒衣が不自然に静止する。ミシャルヒが何かに気付き、足を止めたのだ。

「先に行け。私は少し鼠を退治してくる」

 カーインは片方の眉を僅かに持ち上げて小さく驚きを表した。

「ほう? 気付かなかったな」

「巧妙な手だ。私も群青(ユネクティア)の幻惑に慣れていなければ見落とす所だった」

「私とは相性が悪そうだ――では任せる」

 カーインはそう言って、残していく仲間を心配するでも無く先を急いだ。
 去っていくカーインの背に向かって、ミシャルヒはふわりと手をかざした。微かに青い燐光が散って、消える。
 灰色の衣を纏った男とも女ともつかない影は、透き通る声を研ぎ澄まして暗がりに向けて警告する。

「そこに隠れているのは分かっている。私の目は誤魔化せんぞ」

「ばれてしまっては仕方無い――どの道、貴方には声をかけるつもりでしたがね」

 不可解なことに、何も無い筈の空間から低い声が響く。
 微かな光が発生し、景色が歪んでいく。するとその場所に、豊かな蓬髪に苛烈な意思を宿した目を持った白衣の壮年男性が現れた。手には黒い装丁の本を持っている。表紙に淡い文字が浮かび上がり、それは【技能】という意味を宿していた。

「何者だ」

 ミシャルヒは青いフードの中で目を細めた。目の前の男性が身につけている奇怪な腕輪。それが光を歪めるという呪術的現象を引き起こしたのだと即座に看破したのである。古代フロントクロンの遺産、旧世界で言うところの光学遮蔽装置。このような古代技術の産物は今や星見の塔が独占する知識の他には残っていないはず。それを保有するこの男は一体何者なのか。紅色の衣の内側で闘気が膨れあがっていく。中性の身体は細く背もけして高くは無いが、積み上げられた功夫は必要十分に足りている。警戒心を露わにする相手に、白衣の男性は薄く笑って答えた。

「私の名は骨相士ゲラティウス。ゲラティウス=グレンデルヒ」

「聞いた事があるな。骨相学とかいう呪術体系の創始者だったか」

「ええ。骨相学――すなわち、脳機能局在論は現代における杖という呪術基盤を確立させる上で極めて重要な役割を果たした呪術観。そして同時に、眷族種が持つ特質を邪視的に解釈する上で最も重要な――」

「要件は何だ」

 相手の長広舌を遮って、ミシャルヒは殺気を叩きつける。黄金色の闘気が長衣を鮮やかに染め上げていく。壮年の男は肩を竦めて残念そうに嘆息した。

「つまり、脳の呪術――幻肢呪術についてのお話をしたかったのですよ。私はこの研究をするために、この世界で最も強大な幻肢呪術の使い手を密かに観察していました。いや、穴蔵で息を潜めているのは中々に大変でね」

「世界で最も強大な――それは、あの巨人のような腕の持ち主のことか」

「その通り。北方の破壊王、隻腕の大山賊、トロルどもの王――呼び名は色々と御座いますが、この世で最も巨大な幻肢使いはこのガラドリア山に居を構えるラウス=ベフォニスをおいて他にはおりますまい」

 それが、パーンが敵と見定めた賊の名前だった。
 最強の称号、世界征服といった妄言を実現するための最初の一歩。確かにそれほどの強者を打倒すればパーンの名声は高まり、その存在はより強固に世界に確立することだろう。

 だが、ミシャルヒは今回の唐突な行動に不審を覚えていた。パーンが突飛な振る舞いに出るのはいつものことだが、その裏には彼自身の内側で完結する独自の論理が存在している。それがうっすらと見えるからこそ、ミシャルヒはパーンと『主従の契約』を結び、行動を共にしているのだ。しかし、あの奴隷の少女に関わり始めた辺りから、彼の行動には違和感がつきまとうようになった。

 更に、ここに来て謎の人物からの接触。
 言いしれぬ不安感がミシャルヒの心に忍び寄っていた。

「おお偉大なる巨人の腕! 極大不可視のラウスのかいな、一度振り下ろせば山脈は窪地となり、大河は逆流し、大地すら握り潰す。それはまさしく神の御手に他ならない。残念ですが、今のままでは貴方の主が敗北するのは必定」

「『今のままでは』と言ったな。察するに、貴様はパーンと取引でもしたいわけか。なら本人に直接言うがいい。私は奴の窓口ではない」

「誤解があるようですな。私は貴方の前に立っているのですよ、ミシャルヒ殿」

 男性は不敵に――そして不気味に笑い続ける。
 不快さを端整な顔に滲ませて、緑衣の麗人は一歩後退った。
 目の前の怪人物は危険だ。邪視に優れた種族特有の第六感で、ミシャルヒは身構えた。いつでも幻影の如き手掌を放てるように気息を導引し、内力を充溢させる。

「今回はアプローチを変えようと思いましてね。私の関心はパーン・ガレニス・クロウサーではなく、貴方に向いている」

 ミシャルヒの警戒にも構わず、男は言葉を連ねていく。
 続く発言は、これまで以上に理解不能なものだった。

「そう――ただの一度も代替わりせず、遙か未来までジャッフハリムの四十四士で在り続ける貴方にね。少々お時間を頂けないだろうか、スキリシア第四の幽鬼(レイス)、ミシャルヒ殿? ああ、どうか身構えないで欲しい。できれば末永いお付き合いをしたいのですよ。そう、遠い未来までね」



 何もかもが滅茶苦茶な状況だが、パーンが未来、つまりは劇の外を知覚している以上、舞台外も既に舞台と化しているに等しい。この世の全てが劇場、というわけだ。ならば、もはや神だろうが語り部だろうが作者だろうが全て舞台の上の登場人物に過ぎないのだ。俺が舞台に上がる程度のこと、もはや何の問題も無い。

 というわけで、俺は眼前の敵を見据えて勢い良く右拳を打ち出した。解放された幻肢体が錯覚というばねを駆使して標的を打撃する。パーン・ガレニス・クロウサーの虚を突いた、これ以上ないほど完璧な奇襲。伝達された架空の運動エネルギーが衝撃の錯覚と幻の痛みを押しつける。改心の手応え。懐に滑り込み鳩尾に突き入れた架空の腕がパーンの霊体を強かに打ち据えると、少し遅れて物理的な肉体も引き摺られるように吹き飛ばされる。並の霊長類よりも軽量な空の民は踏みとどまることも出来ずに壁面へ叩きつけられて――

(アキラくん、アキラくん、起きてっ)

 ちびシューラの声で、俺は夢から醒める。
 一瞬、意識が暗転していた。ほぼ意識のみの存在なので、全身の像がぶれて曖昧になっているのがわかる。

 幻の脳が有機的なニューロンネットワークを形成して、参照先の脳を幻として錯覚する。その錯覚が再帰的に元の脳部位を幻として錯覚。存在しない脳そのものが脳という構造をあると勘違いするという壮大な喜劇。幻肢ならぬ『幻脳』が俺の意識をあやふやな土台の上で継続させる。俺はよろめきながら壁面から這い出した。現実では、壁に叩きつけられたのはパーンではなくこちらだったのだ。

「今、あいつ何をした?」

 直前の攻防を思い出す。完璧な奇襲は、完璧な応手によって防がれた。そこから放たれた完璧な反撃によって俺は吹き飛ばされたのだ。問題はパーンの異様な体術だ。空の民は呪術的資質に優れる反面、物理的資質には恵まれないとか聞いた事があるが、あれは嘘だろう。

(あくまで一般論だよ! それにあいつは多分、何か呪術を使ってるよ! パーン・ガレニス・クロウサーが遺した呪術は、全て明らかになっているわけじゃないから推測だけど、シューラの見立てが正しければあれは――)

 幻の脳内に響くちびシューラの解説を聞きながら、俺はあることになっている双眸で浮遊するパーンを睨み付けた。
 異様な姿だった。全身の骨が脱臼し、伸びきったかのようで、身長、四肢の長さが数倍にも増している。奴は俺の打撃をあの柔らかい身体を使っていなし、更に物理的な左腕を俺の左腕に巻き付けて投げたのだ。

 軟体動物のように動いたパーンは、何事も無かったかのように骨を鳴らしながら全身の状態を戻していく。と、次の瞬間右の幻肢が伸びて追撃を放つ。反射的に幻肢体を飛翔させた。左に躱しながら相手の側面へと回り込み、こちらも幻肢による打撃を叩き込もうとした瞬間、尋常ならざる反撃が再び繰り出される。

 生身の左腕が長く伸びて、俺の腹部を貫通したのだ。呪力が通った打撃は呪術的な存在である俺を砕き、霧散させていく。消滅する寸前でちびシューラによる呪文構築が間に合い、意識を引き戻すことに成功した。急いで相手の間合いから離脱しようとするが、伸びる左右の腕、更には両足による追撃が続く。必死に回避しながら、相手の攻撃の正体を見極めようと目を凝らす。

(あれはまさか、ヨーガ?! いや違う、その流れも汲んでいるけど、もっと新しい――重引力法の応用? 特殊な呼吸法によって質量や骨格を操作しているの?)

 ちびシューラが分析してくれているが、もうちょっと要点を絞って説明してくれると助かる。つまり相手の攻撃はどういう性質のものなんだ?

(多分、整骨操手オステオパシー系統、カーインみたいな生体系呪術の使い手だと思うんだけど――ごめん、まだわかんない! とにかく今は近似した攻撃パターンに対しての応戦プログラムで凌いで!)

 状況は悪かった。勢い込んで飛び出してきたものの、パーンは超人的に強い。
 強引に屈伏させてこちらは一切譲歩せずに力を借りるか、先んじて脅威を潰すつもりだったのだが、そう上手くはいかない。こちらが繰り出すサイバーカラテの技の数々、初見の技術への対抗策は奏功せず、縦横無尽に空間を貫通する長い腕がこちらを攻め立てる。伸びる腕、柔軟な動きによってこちらの攻撃は意味をなさない。間合いを支配しているのはあちらだった。このままでは埒が明かないと一度距離を取る。パーンはつまらなさそうな表情で丹田の辺りで手を組むと、実体の左手と幻の右手で印相を結んでいく。気息の導引と共に丹田から全身へと呪力が充溢していった。

(あれはもしかして、細密活性波動印(レンファー)? だとするとこれは動物磁気――ううんそうじゃない)

 ちびシューラが何かに気付くのと同時に、パーンの瞳が藍色の輝きを放つ。
 それは呪文の詠唱なのか、何かを認証する際の音声鍵だったのか。
 独特の抑揚をつけた抑え気味の声が高速で紡がれていった。

「――前頭葉コイルシステム起動、右巻きは内側へ、左巻きは外側へ。生体電磁場を調整、抑圧されしイドを解放。其は閃き、其は波動言霊マントラの作用、天に肩凝りの解消、地に腰痛の改善、全にして一を内包する人工水晶の輝きよ、宇宙の中心的エネルギーを経絡へと導き、未知なる波動を既知に貶めん。掌握するは、大いなる生命(オルゴン)エネルギー!」

 裂帛の気合いと共に、パーンの周囲で藍色の炎が燃え立つ。揺らめく炎に包まれたパーンの気配は今までとは一線を画する威圧感だった。
 確か、カーインが気功とか言っている、運動エネルギーとウィルスと呪力の組み合わせみたいな奴になんとなくノリと雰囲気が似ているような気がする。

「――気穴開門(アチューンメント)

 烈火のような佇まいと相反するように、静謐な言葉が闇の中に響く。
 瞬間、強者の宣名にも似た圧倒的な衝撃が俺の幻肢体を突き抜けていった。
 ちびシューラが愕然と呟く。

(アキラくん、正解。あれは『気』と本質的に同じもの。波動とか、生命エネルギーとか、闘気とか呼ばれてるなんか素手でボコスカやるのが好きな人たちが纏うよくわかんない呪力の一種だよ。別名『超鍛えた俺は強いパワー』)

 ああ、なんか最後ので大まかに把握できた。
 正直俺には縁が無さそうな力である。

(一応、サイバーカラテの型をなぞる時に発生する形式的な呪力が同じ『身体性への確信』っていう性質も持っているから、上手くぶつければ相殺できるよ)

 わずかな希望が示されたが、パーンから放たれる威圧感はこれまで相対してきた強敵たちを彷彿とさせる。今は左右の義肢も無いし、どこまで戦えるかもわからない。とはいえ、ここまできて戦わないわけにもいかない。

「驚いているのか? 俺ほどに波動闘法ラジオニクスを極めた者は未来には現れなかったか――残念だな」

 なんとなくだが、その闘法は伝承されなくて良かったヤツな気がした。
 驚くべき胡乱さと脅威を並存させるパーンの武術はサイバーカラテユーザーとして多少興味があるが、ここは相手が手の内を見せる前に沈めるべきだ。恐らく悠長にデータを収集して分析している間に敗北する。先手必勝だ。

 俺は飛び上がると、宙に足場があると想定して踏み込んでいく。足裏から体軸に芯を通し、腰の捻転と共に運動エネルギーが全身を伝って右の掌へと突き抜けていく――ような気がした。幻肢体なので当然のごとく錯覚だ。しかし空想を打撃力に変換することでパーンへ渾身の一撃を見舞う。
 今度は回避も、防御すらされなかった。

「なあ、未来人。貴様、何がしたかったのだ?」

 心底から不思議そうに問うパーン。
 俺の掌打は確かに命中しているが、相手は小揺るぎもしていなかった。
 絶句するしか無い。実力に開きがあるとかそういうレベルですらなく、現時点の俺と奴とでは立っているステージが決定的に違いすぎる。

(アキラくん、方針を変えよう)

 ちびシューラの冷静な提言。俺も同意見だった。
 現段階ではパーンを力ずくで従わせるというのは無謀だ。失敗を認めず泥沼に突っ込んでいく意味はない。今は勝てないという事実を認識しただけで良しとしなければならないだろう。

「なるほど、実力の程は充分なようだな。これならばあのお方の前に立つ資格有りと認めてやってもいいだろう」

「はあ?」

 突然ふんぞり返って胡乱なことを言い始めた俺を怪訝そうに見るパーン。
 表情はアプリで完璧に制御されている。ちびシューラが事前に用意してくれていた別のプランに基づいて、俺は台詞を読み上げる。ちびシューラが持つ電子ボードには「そこでボケて」と表示されているが、お前はそこでボケんでいい。真面目にやれ。

「わからないか? さっきまでのは試験に過ぎない。お前に最低限の力が備わっているかどうかを測ったのだ」

 かなり苦しい言い訳を続ける。
 案の定、パーンから怒気が膨れ上がった。

「貴様――」

 攻撃的な意思がこちらに向くが、それは一瞬で霧散した。
 威圧的な声が突然に途切れる。
 轟音と共に、途方もなく巨大な幻の腕が伸び上がった。俺のものでも、パーンのものでもない。咄嗟に飛び出す。不意を突いてパーンの背後から迫り来る脅威を強引に殴りつけて軌道を逸らした。巨木を殴りつけたような手応えだが、ちびシューラが架空の脳を操作して手応えを錯覚させる。幻の右腕は幻の巨腕を軽々と弾き飛ばした。

 本来あり得ない処理を行った事でちびシューラが悲鳴を上げる。こんな無茶はそうそう行えないのだと実感した。今の俺は『思考する左腕』を基点に生成された幻肢体ゴーストだが、なんでもありの存在ではないということだ。
 俺は改めて、明確な敵手を注視した。横でパーンが何かを言おうとしているが、優先順位は低い。

 今更だが、俺たちは今だだっ広い空間に浮遊している。
 山中に空いた穴、その奥に広がっていた蟻塚のような通路を抜けた後、俺たちを待っていたのは途方もない規模の、半球状の大空洞だった。
 壁面や天井にはびっしりと呪鉱石が露出している。

 呪鉱石が放つ淡い燐光によって照らし出されているのは、およそ三メートルほどの巨大な人影だ。巌のような肉体、岩石のような肌の質感。すっかり放置してしまっていたが、あれが問題の山賊に違いあるまい。

 ここが過去であると同時に演劇空間であるため、『パーンに干渉する未来人』という役どころである俺は目の前の人物を見たままの存在として知覚しているが、あの山賊役はきぐるみを着込んだ牙猪バビルサが演じている。ラクルラールに支配されたトリシューラの配下、チリアットが。

 横目でパーンを見る。この男もどうにかしなければならないが、明確に敵というわけではない。従属ではなく対等な関係にまで持ち込み、リーナへの攻撃を止められるくらいの協力態勢を築くのが理想だ。

「妙な事を言う男だ。この俺が力を示し、貴様らの望みである奴の排除をもって貴様らは俺に『従属』する。それが約束だったはず。未来で俺がクロウサー当主を打ち負かした後には便宜も図ってやると、寛大な配慮をしたが?」

「そもそもあんたにその資格があるのか?」

 パーンの眉が急な角度をつけて持ち上がった。
 ああ、言ってしまった。
 ちびシューラにけしかけられるままに、とんでもない挑発を口にする。
 危険極まりないが、それでも言われるままにリーナ・ゾラ・クロウサーを売るのはやはり気にくわない。

 相手は力の論理を口にして、それを強引に押し通している。ならば、同じ土俵に立つことで対等な交渉が行える可能性が生まれるかもしれない。割と死ぬ予感があるが、混戦の中であれば話は違ってくる。

「未来のクロウサー家当主であるリーナ・ゾラ・クロウサー様はな、地上ではその名を知らぬ者がいないほどの傑物。史上最年少で【空使い】になった本物の天才だ。まさに血族の精髄、天上の至宝。人は彼女をこう評する。天はリーナの上に人を作らず。その背を追い、並ぼうとする者をことごとく置き去りにする神速のスピードスター! 俺はあのお方の同盟者として、お前が挑戦者として相応しいかどうかテストしなければならない」

 いや、だって、ちびシューラがそう言えって。流石に「俺は四天王の中でも最弱、この程度でいい気にならないことだな」という指示は無視したが。
 意思決定をやってくれる上に責任転嫁できる相手がいるって楽でいいなあ。けっこうギリギリの綱渡りにも関わらず精神が安定している。別に自棄になっているとかではない。どうにでもなれとか別に思っていない。

「この俺の力を知ってなお、格下の挑戦者だと――遙か未来の【空使い】、リーナとはそれほどの者か。なるほど、未来のゾラ家はダウザールを超えるどころか、初代クロウサーに匹敵する怪物を生み出したらしいな」

(よし、いい感じに誤解してなおかつワクワクしてるよ! やったね!)

 いいのかこれ。特定の誰かに迷惑かかってないか。
 不安に感じつつも、始めてしまったものは最後までやり通すしかない。

「その上、俺を試す、と――いいぞ、愉快な事を言ってくれるではないか。では未来人、貴様はこの俺をいかにして試すつもりだ?」

「パーン・ガレニス・クロウサー。先ほどの非礼は詫びておく。だが今はあのでかぶつを排除するのが先だ。それを以て次の試練としよう」

 性格を除けば、強大な力を持つパーンは理想的な協力者と言える。
 何より、この男にはラクルラールの支配が通じない。この機会を逃さず、劇中で暴れ回ってラクルラールの支配からチリアットたちを解放するというのが修正された現時点でのプランだ。情けなくない。臨機応変なだけだ。

(場合によってはパーンの闇討ちも辞さないよ! シュッシュ!)

 ちびシューラは何かシャドウボクシングをしながら物騒な事を言っているが、それは最悪の場合だ。しかし、パーンという男が危険過ぎるのも事実。簡単に利用できないのなら、混戦の中で殺してしまうということも選択肢に入る。可能なら、という但し書きが付くが。
 パーンが、鼻を鳴らして呟いた。

「ふん、結局やることは変わらないな――」

 山賊の頭領には右腕が無く、左腕には奴隷の少女フェロニア――つまりは冥道の幼姫がぐったりとした様子で囚われている。幻肢体ゴーストと化した今の俺は自由に浮遊することが可能だ。三次元的な移動力を獲得しているため、素早く接近すれば彼女を奪い返すことは容易いように思える。しかし、そのためには大きな障害を取り除かなければならない。

「おうおう、ちっせえのがちょろちょろしてやがんなあ。俺様はこれからお楽しみの時間だってえのによう」

 荒っぽく、下劣なだみ声でがなり立てる山賊は、存在しない右腕を一振りした。
 滞空していた俺とパーンは上下に素早く退避する。まともに受ければ死ぬと、共に幻肢を操る者として理解できたからだ。

 三メートルというのは、多様な種族が存在するこの世界においても度を超した巨漢と言って差し支えない。俺は見たことが無いが、世界槍の第八階層にいるという巨人ネフィリムという種族を除けば三メートル級の個体が普通にいるらしい岩石肌の種族は最大級の大きさと思って良い。

 しかし、山賊が操る幻肢の大きさは、本体がちっぽけに思えるほどだった。肉体に比して余りにも不釣り合いなそれは、初見では腕が本体なのではないかと思わされるほどである。

 悠久の歳月を重ねた巨木、あるいは大地を分かつ激流の大河。
 それこそ巨人と形容するのが相応しいサイズの、出鱈目な幻肢呪術。
 大空洞を震撼させる一撃が、岩壁を削りながら大空洞を崩落させていく。
 雨のような落盤を回避しながら、俺は絶叫した。

「正気か、生き埋めになるぞ!」

「安心しな、ここは夜の異界スキリシアにあるクォル=ダメルの洞窟と繋がってるからよ! あの柔らけえ世界の特性を反映したこの暗闇の中では、破壊された箇所は即座に再生するってな!」

 縦横無尽に振り回される巨大な腕によって大空洞は徹底的に破壊されるが、彼の云う通り薄暗い洞窟内部は可塑性のある素材で形成されているらしい。呪鉱石の光によって生じた影がざわりと蠢動したかと思うと、それらが触手のように崩落箇所に伸びて、欠落を埋めてしまう。影が無を埋めるという不可思議な修復作業は瞬時に終了し、暗闇の中は元の半球状の大空洞に戻ったのだった。落盤もまた足下の大地に吸い込まれて消えていく。

「と、こういうわけで俺様はこの腕を振るい放題ってわけよ。大暴れしたら熊人(ディスノーマ)どもが冬眠から目覚めてくるかもなあ。てめえらぶち殺したらエサにでもくれてやろうか、ええ?」

「ほざけ、ラウス=ベフォニス。エサになるのは自分自身だと知るがいい」

 不遜に言い放ったのはパーンだが、その肉体は満身創痍だった。
 巨人の腕の一撃が生み出した衝撃の余波だけで、俺と違って右腕以外は生身である彼のダメージは深刻だった。吐血している所を見ると、恐らく骨や内臓もやられているだろう。ぼろ切れとなった上衣を脱ぎ捨てると、傷だらけの上半身が露わになる。空の民としては驚くほどに鍛え上げられた肉体の至る所に裂傷が走り、腹部は内出血しているのか青黒く変色している。

「おいおい、そんなボロボロの身体で上からもの言っても惨めなだけだぜぇ?」

 山賊の頭領ラウス=ベフォニスは嘲りの言葉を発したが、パーンはそれを一顧だにせず、何故か無事なままの眼鏡の奥で藍色の瞳を輝かせた。その全身から藍色の燐光が溢れ出す。呪力の輝きは彼の傷付いた肉体を優しく包み込むと、時間を巻き戻すかのように修復を行う。あまりにも劇的な治癒に俺は息を飲んだ。激痛があるのか、パーンは額に脂汗を浮かべていたが、それにしてもキロンの超再生能力を彷彿とさせる、尋常ではない回復術だった。トリシューラが作成した治癒符でもああはいかない。

(アキラくん、あれは【癒し(ヒーリング)】だよ。経絡に呪力を浸透させて自然治癒させたんだ)

 いつものように俺の視界の隅に立ったちびシューラが解説してくれた。パーンは『法箋穴ほうせんけつ』なる経穴に『波動』を送ることで治癒ヒーリングを行ったのだという。本人が苦痛を感じているのは好転反応という呪術現象であり、効果が現れている証明なのだとか。カーインみたいな奴だな。

(波動って、ウェーブじゃなくてバイブレーションだからね。混同しないでね)

 よく分からない補足をされたが、意味不明だ。
 肉体が万全の状態に戻ったパーンは、かろうじて無事だった箒に両足を乗せてラウス=ベフォニスに向けて突撃する姿勢を見せた。

(あれは有名だから知ってるよ。ガレニスの血族は空の民としては異質で、杖系統が得意なんだ。反面、普通の空の民が得意なことは苦手で、高速の飛翔ができない。けれど、パーンは史上初、その常識を覆した天才なの)

 ちびシューラが解説してくれているように、目の前の男は普通の空の民のように身体一つで空を飛ぶわけではない。彼にできるのはゆっくりと浮遊することだけ。恐らく幻肢体ゴーストとなった俺よりも飛翔速度は落ちる。だが、本来のスペックを外付けの道具ツールで超越するのが杖のやり方だ。

(あれが、魔女術ウィッチクラフトの流れを汲む、箒による飛翔。長いクロウサー家の歴史上、たった二人しか使い手がいない異端の業)

 ちびシューラの言葉と同時に、パーンが獰猛に叫んだ。
 それは余りにも短い呪文詠唱、その起句となる文言。叫ばれた瞬間、その言葉すら置き去りにして彼は飛び立っている。

「言理飛翔――十倍加速」

 目にも留まらぬ速度だった。
 箒に両足を乗せて大気を引き裂いていくパーン。呪具全体に微細な呪文を刻むことで異次元の加速すら可能とする、『鈍足のガレニス』から誕生した『最速のクロウサー』。呪具を使用した飛翔が恥とされた為にクロウサー家の正式な記録は残っていないが、一説によればその最高速は亜光速に迫ったとも言われている。その力が、今まさに牙を剥こうとしていた。

 甚大な大地の破壊、遅れて壮絶な衝撃音。
 巻き上がる粉塵の中から、減速したパーンが上昇していく。緩やかな弧を描きながら突進を終えたパーンは、鋭い視線を真下に向けたままだ。 

 無傷。否、パーンの突撃は確かに巨漢の肉体を破砕していた。だが、その肉体は異常な再生能力によって瞬時に元通りの状態を取り戻したのだ。唯一頭部だけが強固な呪術障壁によって保護されており、同様にフェロニアも光の膜に包まれて無事だった。少し安堵してしまい、やや複雑な感情を持て余す。

 巨大な幻肢使いから凄絶な呪力が迸った。山賊の頭領、いや北方の王ラウス=ベフォニスもまた真の怪物。大空洞中の呪鉱石が一斉に共鳴し、空間が激震して俺とパーンの動きが一瞬竦む。解き放たれる巨腕の一撃。神速を誇るパーンであっても、全方位への攻撃によって加速を封じられては回避が間に合わない。

「ちびシューラッ!」

(任せて! 【弾道予報Ver3.0】、おまけに【弾道占いVer1.0】並列起動!)

 密かに復旧が進められていたかつての俺が愛用していたアプリ群。今回は更にそれらを元にトリシューラが改良し、別用途の新アプリまでもが起動する。この世界に適応させた、呪術的バージョンアップ。それは予測を占いに置き換えた、未来を手繰り寄せる能動的なアプリ。

 視界に表示される弾道予測線、つまり巨大幻肢の軌道はパーンに直撃するコースを描いているが、それとは別に、血液型やラッキーアイテム、その他乱数に基づいて決定される占いによる予測線が出現する。パーンから外れるという占い結果を、俺とちびシューラが『支持する』ことにより事象の蓋然性が変化し、現実が占い結果に引き寄せられる。物理的な事象ならばより多くの人々が信じてくれなければ軌道を変えることはできないのだが、今回は幻肢という非実体が対象だったのが幸いした。ラウス=ベフォニスの一撃はパーンにはかすりもせず天井に激突するのみ。

「未来人、今の術は何だ? 中々興味深い真似をする!」

 緩やかに風に乗りながら呼びかけてくるパーンは、このような状況だというのに楽しそうだ。関心事に向かって全力で駆けていく子供のような表情でこちらを注視している。あるいはそれは、彼の傲慢さや残酷さのもう一つの一面なのかもしれなかった。

 轟くような絶叫が響く。目算を外した山賊の王が怒り狂っているのだ。
 巨大な腕を引き戻して、ぐっと腰を落として力を蓄える。幻肢側の肩を引いた状態から、大きく息を吸うと架空の腕が膨れ上がっていく。腕という形状すら維持することを放棄した幻肢は、膨張し続ける呪力の塊となって解き放たれる寸前で留め置かれている状態だった。回避しようにも、予測される巨腕の効果範囲は空洞全域。先ほどのように軌道を逸らす手段は使えない。来た道はいつのまにか塞がれている。俺とパーンは全く同じ選択肢をとった。すなわち、前に出たのである。

 巨大幻肢が生み出す圧倒的な破壊の波。しかし左右から迫る標的にラウス=ベフォニスの表情に迷いが生まれ、放たれる一撃がわずかに乱れる。その隙を逃さず、俺は荒れ狂う呪力流が弱まった一点へと突入し、抜けた。敵の懐に飛び込み、渾身の掌底打ちを叩き込み、そのまま背後に回って振り向きざまに肘を叩きつける。体勢を崩したラウス=ベフォニスに更なる追撃。上空から一直線に打ち出された藍色の衝撃波が巨体を叩き伏せたのだ。

 破壊の奔流が荒れ狂う真上を見る。巨腕の一撃をまともに受けたはずのパーンが、高笑いをしながら箒の上に立ち、繊細にして大胆な制御によって破壊の波に乗っていた。呪術攻撃に対して波乗りで受け流すってちょっと意味がわからない。

「乗るしかないな、この運命の荒波ウェーブに!」

 あいつウェーブって言ってるけど、バイブレーションと違うの?

(いや、あれはまた別の文脈だと思う)

 さすがのちびシューラもやや戦慄を隠せない様子で真上を呆然と眺めていた。
 調子に乗ったパーンには誰もついて行くことができないのではないか。そんなことを思ったせいかどうかは知らないが、何かに亀裂が入るような音が響いた。高笑いが止み、サーファーの体勢が崩れる。半ばから真っ二つに折れた木の柄が落下していく。使い手の無茶に箒の方が耐えられなくなったのだ。

 ラウス=ベフォニスが腕を振り回しながら立ち上がる。破壊の渦に巻き込まれかけた俺は咄嗟に飛び退くが、放たれた衝撃波は一直線に無防備に宙に浮かぶパーンへと突き進んでいく。【弾道予報】と【弾道占い】の並列起動による強制介入を実行するが、正体不明の呪力によって弾かれる。ラウス=ベフォニスのつるりとした頭部から、いつの間にか青い髪の毛が生えていることに俺は気が付いた。どろどろに融けた毛先が闇色の大地と一体化している。

 パーンが絶体絶命の危機に晒されたその時、闇を鮮やかな赤色が引き裂いた。
 上空から鋭く舞い降りたそれは、一輪の赤薔薇。
 紅色の花弁を散らせながら幻の巨腕に突き刺さった赤薔薇は、その小ささからは想像もつかないほどの重みで打撃の軌道をねじ曲げる。

(巨人の腕を押しのけるなんて、あの薔薇、古き神の加護でも宿っているの?)

 ちびシューラが首を傾げる。俺は天井のあたりを見上げて、同じように不可解さに首を傾げた。今、確かにラクルラールに操作されたラウス=ベフォニスの攻撃を同じく操られているはずの役者が妨害した。薔薇を投げたのが誰か、言うまでもない。天井から逆さまに咲いた巨大な食虫植物の中から現れたカーインの髪色は黒いままで、体のどこかに青い髪の毛が巻き付いている様子は見られない。パーンが俺に気づかないうちに融血呪を破壊したのだろうか?

「やれやれ、その箒はオーファから預かった貴重な呪具なのだが。そのうち繁茂の神から天罰が下るぞ?」

「神の怒りなど、この俺が恐れるとでも? ああ、だがオーファには悪いことをしたな。今度何か詫びでも持って行ってやるか」

「キミに謝られても彼は困ると思うがね」

 親しげに会話するパーンとカーインに、激怒しながら暴れ狂うラウス=ベフォニス。役者の増えた舞台に、更なる混沌が渦巻いていく。





「――君たち幻姿霊スペクターには言うまでも無いことだろうが、邪視つまり直感的なイメージによって人の身体機能は常にゆらぐ。研究によって明らかになりつつある脳の諸機能が誇張されて伝播し、わかりやすいものとして巷間に流布、現実化していくようにね」

 闇の中で、白衣の壮年男性の言葉が続く。
 地の底での戦いは遠く、激しい音が微かに聞こえてくるだけ。
 ミシャルヒはパーンが負けるとは全く思ってはいないが、どうしてか心がざわつくようで落ち着かなかった。それでいて、どうしてか目の前の男、ゲラティウス=グレンデルヒという骨相士の言葉に耳と傾けてしまう。

「脳の気質、機能によって頭蓋骨を始めとした骨格が変形、更には皮膚の色や角質が変異することで角や鱗になる。わかるだろうか。骨相学とは邪視系統の学問なのだよ。少なくとも父が体系付けた骨相学はそうだった。しかし私はむしろ杖寄りでね。母に似たのかな。父が骨相学に着目したのはこのゼオーティアに存在する多様な種族が何故このような身体的特徴を獲得するに至ったのか、という謎を解明する為だったが、私は違う」

 与太話だ。全く以てどうでもいい話。
 あらゆる『起源』に関する説明は、全て神話で説明がつく。
 神がそのように設定したから。進化論はそのような呪文プログラムを遺伝子に刻み込んだ古の言語支配者たちの成果であり、やはり神の御業に過ぎない。

 もっと言えば、学説などはそれが『有力』と見なされた時点で正誤に関わらずそれが事実として世界を改変してしまうのだ。ならばそのような研究は、自分に都合の良いように世界を歪めるための政治的な活動、もしくは愉快犯的な悪戯でしかあり得ないだろう。

 事実、目の前の男はこの上なく楽しそうに持論を展開している。
 子供が英雄になりきってごっこ遊びをするようだと、ミシャルヒは思った。
 演劇は原始的で普遍的な衝動だ。格好をつけた口上と、男の与太話に本質的な違いは無い。どちらも自己の慰撫だ。

「私は骨相学を新たなステージへと引き上げたいのだよ。頭蓋骨の形状により人の気質は決定される。同様に、その内側にある脳もまた各部位で機能が分かれているのではないか、と私は考えた。脳機能局在論とでも呼ぶべきかな」

 ミシャルヒは、その学説を聞いた事があった。
 他ならぬパーンが、似たような研究をしていたからだ。
 彼が脳内に埋め込んでいる杖の機械――確か前頭葉コイルと言ったか――には『左巻きの力』と『右巻きの力』を制御する機能があり、それによって波動を自在に操っているのだとか。

 確か、左脳が論理的な分析能力を司っており、男性的な呪力を宿す部位。そして、右脳が芸術的な共感能力を司っており、女性的な呪力を宿す部位だと言っていた。事実かどうかはともかく、パーンがそう信じた以上それは呪術として効力を有する。説明を受け入れたミシャルヒを、パーンは薄笑いで見て言ったものだ。

 ――ミシャルヒよ、お前は本当に見たまま、聞いたままを受け入れる奴だな。

 自分で言った癖に、それを本当に信じているのかいないのか、よく分からない振る舞いをする男だった。ただ彼は、中性であるミシャルヒを研究対象にしようとはしなかった。それが端的にパーンの本心を示しているように、ミシャルヒには思えてならない。意識を今に戻すと、白衣の男は言葉を続けていた。

「脳機能がある程度局在していることは確かなのだ。たとえばだ。実際にハード面から人工知能を作っていくとすれば、臓器のように独立した器官としてモジュール化していくのが現実的だろう。脳機能が局在する『システムの構成要素のまとまり』であるとするか、脳全体である程度の可塑性があるとするかについては検証中だ」

 ミシャルヒは沈黙したまま話を聞き続ける。
 そこにどのような意味があるのか。
 直前に、骨相士から告げられた言葉が未だに長衣の中で反響していた。

 ――更なる力が欲しくはないか? 主であるパーンの為に。

 ミシャルヒは、静かに目を閉じて、動かない。

「脳とは交換可能な『柔らかい臓器』なのか、それとも『固い臓器』なのか。失った四肢を脳が錯覚してしまう『幻肢』という脳の誤作動がある。この現象が適切な治療や時間経過で治ることは、脳機能の『柔軟さ』を示しているように、私には思える。幻肢はいつか消えるのだ」

 いつしか、下で戦っているパーンやラウス=ベフォニスにも繋がる話が展開されていた。つまり、今回の物語はそういう意味を持っているのだ。だとすれば、今の自分にとって最適な振る舞いとは――

 ぴくりと、フードの内側が動いた。頭頂部に違和感があったが、即座に消える。ミシャルヒは奇妙な感覚を訝しんだ、自分の内側――否、外側に誰かがいるような気がしたからだ。不気味な現象が我が身に降りかかっているというのに、その事に対して全く違和感を覚えていない自分が、逆に異様だった。むしろ心が安心している。疑問を追求する気分は全く起きずに、疑念は雲散霧消する。ミシャルヒはフードの中で猫耳を動かした。

「四肢の欠損に伴う邪視系統の呪力増加は、一時的なものでしかないことが非常に多い。例外は、義肢や介助動物の使用に躊躇いが無い三本足の民くらいだな。これは私の推測だが、彼らは増幅した呪力を新しい思い入れの対象、つまり『呪物』に注ぎ込むので、脳が呪力が増大した状態を覚えてしまうのだと思われる」

 与太話が、延々と続く。
 レオは、退屈そうに欠伸をした。
 楽しそうに喋り倒すグレンデルヒの額をちょんとつつく。

 もちろん、まるで気付かずに劇の中に入り込んだまま。ゲラティウスという役、それを演じるグレンデルヒという役、そしてベースとなる役者としてのゾーイ・アキラとケイトの外世界人二人組。そういえば、すっかり引っ込んでしまったこの二人は一体どういう役回りなのだろうか? 

「話を戻そう。人工知能の話だ」

 そう、その話が聞きたかった。
 何しろ本筋だ。
 その話をせずには先へ進めない。

「もし人工知能、あるいは機械化した人工脳を持つ者が四肢を欠損した場合、彼ないし彼女ないし『それ』のモジュール化された脳は誤作動を起こし、幻肢を知覚するだろう。この幻肢は、あらかじめそれを織り込み済みで対処方をプログラムしておかなければ自然治癒しない。当然だな、そんな機能が無いのだから」

 ふむふむ。
 まじめくさった顔で頷くレオ。黒い猫耳がぴこぴこと動いている。

「逆に言えばだ。人工知能は、意図的に幻肢を知覚することができるのだ。幻肢は呪力を宿し、四肢の欠損や臨死による幻視体験は呪術的な儀式に等しい。これは自然治癒力という点で明確に生体脳に劣っている部分ではあるが、整備性や応用性という点できわめて有用だと捉えることもできる」

「じゃあ、人工脳なら幻肢呪術を使い放題ですね。機械に邪視適性が生まれれば、という条件付きですけど――残念ながら、普通機械には魂が無く、基本的に邪視は発動できないとされているって、トリシューラ先生が言ってました。ちょっと寂しそうだったなあ」

 レオはぺたんと猫耳を伏せてそう言った。
 しょんぼり。
 かわいそうな、かわいそうな、かわいそうなトリシューラ先生。

「でも、もう一人じゃないから安心ですね」

 にっこりと微笑む。
 愛らしい表情を壮年の男は無視したまま、言葉が自動的に続いていく。

「考えてもみよ。遊離型の幻肢を自在に操作できたなら? 身体のセルフイメージを変化させることができるのでは? 『痛み』という感覚の遮断、制御技術が実用化できたならどうだろう。これを応用すれば従来の四肢の形態にとらわれない、全く新しい義肢が作れる。外世界からもたらされた転生者の知識、クロウサー家の秘宝【ガレニスの長い腕】がこの世界の技術で再現できる可能性があるのだ! 人という矮小な括りを飛び越えて、より発展的な肉体が獲得できる。それこそ変身者や夜の民のように!」

 興奮した口調。レオはうんうんと愉しげに頷いて相槌を打つ。
 先を促すと、グレンデルヒは熱を込めて語るのだった。

「かのラウス=ベフォニスはその幻肢呪術で恐るべき力、それこそ『紀』に到達するほどの呪力を発揮して見せた。幻肢呪術には飛躍の可能性が残されている。それは身体性という軛から人類が解放される為の一歩になるやもしれぬ」

「うんうん。じゃあ交代です」

 ミシャルヒはゲラティウスの語りがどこに行き着くのかが掴めず、黒衣の中で麗しいかんばせを歪めた。ゲラティウスはそして、ようやくお互いにとっての本題に入った。それは、二人にとっての転機でもあった。

「ミシャルヒよ、その幻影の力もより効果的に作用させることができるだろう。お前の兄姉たるユネクティアのように幻影を実体同然に錯覚させることも、視覚を介して人の脳、つまり心を操る事すら可能になるかもしれぬ」

 丁寧な口調は取り払われ、爛々と光る眼がミシャルヒを舐め回していく。
 向けられている視線が実験動物に対するそれだと気付き、幻影のように儚い麗人は嫌悪感に眉根を寄せた。

「私は、そのように人の心を弄ぶような事は好きではない」

「だがお前は必ずその道を選ぶ。不和を振りまき、心に忍び寄る猜疑を広げ、悪辣に運命を弄ぶ。選択肢がある以上、お前はそれをせずにはいられないだろう」

「くどい」

「今は拒絶しても良い。だが忘れるな、お前が力を求める限り、きっといずれ限界にぶつかる。その時に私の言葉を思い出したのなら――」

「消えろ」

 残像を残す速度でミシャルヒが踏みだし、手刀を繰り出した。ゲラティウスは高笑いしながら下へと消えていく。思いのほか素早い。

「今は待つさ。機が熟するまで。なあに、時間は幾らでもある。何しろ、今はまだ大地が引き裂かれてすらいないのだ! 悠久の時間を、我ら百二十八人は待ち続けるぞ、ミシャルヒよ!」

 逃げ去るゲラティウスと、それを追うミシャルヒ。
 風を切る感覚の中、意識の深いところで幽鬼レイスは静かに迷い悩んだ。
 誰も死なせない。それがミシャルヒの誓いだ。

 ――短命の種族は、余りにも儚すぎる。

 自分は長命の種。同じ幻姿霊スペクターでさえ、たった九人の幽鬼レイスと同じだけの歳月を歩むことはできない。
 それは絶望だった。大いなるマロゾロンドはその身を友に捧げて久しい。多くの夜の民は神の異変に気付けずにいるが、真実を知る幽鬼たちにとって神の愛が届かない世界は無明だった。誰もが愛を求めて彷徨うが、それは永遠に得られない。クォル=ダメルの同胞たちを思い出す。ハンアルトは光のない世界へと沈み、ユネクティアは光に満ちた地上へと旅立ち、苦闘を続けている。

 たとえ誰かを愛しても、いずれは消えていく。誰もがミシャルヒの前から去っていく定め。だが、彼ら彼女らの孫子、その先に連なる血脈を見たいと、創り出されていく流れをいつまでも覚えて語り継いで行きたいと、いつしかそう思うようになっていった。それは多分、ある男との奇妙な出会いによって生まれた答えだ。

 ――これか? 腕を作っている。師が使っているものだが、いずれこの俺が自分で使うことになる。いつかは、弟子に継がせることになるだろう。

 眼鏡の奥で不敵に笑顔を作る、青年になろうとしている少年。今よりも少しだけ幼い表情を、今でもはっきりと覚えている。数多くの影がその黒衣の内側を通り過ぎていった。その全てが色褪せるように、それは強烈な記憶だった。

 ――ガレニスの血は、遺伝子よりも摸倣子が濃いという。ならばこの代でガレニスという血族は最盛期を迎え、如何なる青い血の者どもよりも濃い血が生み出されるであろう。見ろ、この鎧の如き右腕こそが、俺という神なる存在の血の結晶だ。

 腕の関節が四つに増え、神話に伝えられるクロウサーの右腕を再現したパーンの名は世に轟いた。その勢いは留まるところを知らず、パーンは全てをその手の中に収めようとした。クロウサー家当主の称号【空使い】を名乗り、現当主クロウサーと対立するのは必然だった。そして、失墜。転落。放浪。

 力が足りなかった。パーンは当主ダウザールに敗北したとされているが、それは事実ではない。個として傑出していたパーンは、群れとして傑出していたクロウサー家に敗れたのだ。抗えない数の暴力。

 もし、自分にそれを覆すだけの力があったら?
 不和をもたらす力。
 心を操る呪術。
 迷い、迷い、迷い。

 続きが見たい。あの鎧の腕、濃い摸倣子の血脈が連なっていくその流れを、パーンという男が生きていた輪郭を、ずっと覚えていられるように。だからこそ彼には勝ち続けて欲しいと願う。栄光を掴み、遙か高みへと昇り続けて欲しいと祈る。

 せめて、思い出の中だけでも共に生きていけるように。
 記憶だけを、永遠という孤独の慰めとする。

「こんなつまらない所で死んでくれるな。お前たちには、いくらでもやるべきことがあるのだろう?」

 呟きは風の中に消える。
 悪魔の誘惑は残響となって耳に残っている。
 逃げる影と追う影、それらはやがて闇を引き裂いて地下の大空洞へと突入する。





 岩肌種トロルとよばれる種族は、とある巨人ネフィリムによって生み出された眷族種である。
 神は自らを信仰する眷族種を生み出し加護を与え、眷族種は神に祈りを捧げその存在を強固にしていく。

 この一種の共生関係、相互依存が何かの切っ掛けで崩れるなどした時、神は零落し、邪神もしくは巨人と呼ばれる存在になってしまう。
 そしてその巨人が荒ぶる存在として人々に認識されようと災害を引き起こし続けることがある。そうなればかつて神だったものは排除すべき害獣でしかない。

 巨人が討伐された後に残された眷族種。
 神に嫌われる、もしくは神そのものがどこかの異界へと姿を隠してしまったなどの原因により加護を失った眷族種。そうして落ちぶれていった人々は、忌民ネヴァドゥンと呼ばれて人間社会から排斥された。

 巨人ラウスが槍を持って放浪する少年によって討たれてからというもの、岩肌種トロルの末路は悲惨の一言だった。
 彼らの肌は岩石の如き強靱さを誇り、高い生命力を持つため多少の傷はたちまち再生してしまう。

 だが大いなる加護が失われた結果として、日中は岩のような身体がかえって彼らの動きを妨げ、思うように動けない彼らは「のろま」と嗤われた。
 その上、夜間であっても強い光を浴びせられると身体の動きが鈍り、外部から呪力を補給しなければ一日中まともに動けない。

 外界の光を効率よく吸収して呪力に変換する呪石を肉体に埋め込むことでどうにか生活を成り立たせることができた者もいたが、それができたのはごく一部の有力な者だけであった。大半の岩肌種トロルは最貧困層に転落し、なりふりかまわず体外から呪力を取り込む方法を選んだ。

 すなわち、強盗。
 そして人食いである。
 彼らは山賊として道を行く隊商などを襲い、積み荷ごと人々を喰らって体内に呪力を溜め込むということを繰り返していた。

 ベフォニスは神の霊媒として生を受けたが、崇拝する対象が零落した後は流れの手相見となり、それが上手く行かないと分かると山賊に成り下がった。彼にとって幸運だったのは、隊商の護衛に腕を切断されたことと、何の偶然か死した神の残滓がベフォニスの幻肢と融合し、巨人の幻肢を手に入れたことであった。

 ラウス=ベフォニスと名乗るようになった山賊の頭領は、名前の通りに神の力を振るうことができた。ベフォニスは右腕に限って言えば神そのものだったのだ。その力さえあれば彼に怖いものなど無い。存分に破壊の力を振るい、暴虐の限りを尽くしたラウス=ベフォニスはいつしか破壊王と呼ばれるようになる。

 だが、その栄光も遂に終わりを迎えようとしていた。
 ちびシューラによる解説を聞いてしまうと少々同情できる部分もあるが、まあ山賊なんてそういうものだろう。哀れではあるが、それだけでしかない。凍り付いて行く心で、殺意を研ぎ澄ませる。

 占いアプリで荒れ狂う破壊の力に干渉する。だが敵もさるもので、元々は占手相術師キロマンサーであったラウス=ベフォニスは手相、すなわち掌の線を視ることで気質、人柄、未来を判断することができる。占いには占いで対抗するのが定石であり、奴はこちらの占いを手相占いで相殺しているのだった。

 巨大幻肢の掌が開き、広げられた手掌が壁のように迫り来る。
 手相見という呪術を突き詰めると、線は一種の呪文と見なすことができるという。指と線と丘、掌は三要素が絡み合う呪文円だ。

(解析開始――指は右から左へ、水晶天、太陽天、土塊天、天堂天、火力天にそれぞれ支配されている。親指は上部と下のふくらみで別個に考えられているから、親指の下は彗星の支配。手の下、直角三角形は太陰以外の三つの呪的な月の支配で、掌の中央が太陰。以上のデータに基づいて、占術干渉に対する逆干渉を試みるよ)

 なんか面倒くさそうだが、よくわからないのでちびシューラに全部任せる。
 相手の呪術がどういう理屈なのかは知らない。
 俺はただ、ちびシューラがこじ開けてくれた道を突っ走って全力でぶん殴る、ただそれだけでいい。

 呪文を発動させながら近付く巨大掌底の動きが止まる。
 巻き付いているのはカーインが操る茨の鞭。更にパーンが突撃して岩石の身体を吹き飛ばしていく。波動とか言う謎のエネルギー、更には柔らかく伸びたり縮んだりする肉体が大空洞を縦横無尽に駆け抜けていった。箒を無くした代わりに、予測の出来ない奇抜な動きで敵を翻弄している。

(手相見には大別して推論法と直観手相という二種類があるんだけど。推論法は手の形との関連で手の線を細かく分析し、それを根拠に個性の合成図を造るから、解釈の法則を当て嵌める疑似科学的手法と言えるの。対して直観手相は神秘的な力を効率よく引き出せるように、方法を規則的に自動化、手続き化したもの――オートスコープとして手相を用いるもの。占星術師のカードみたいなものだね)

 ちびシューラによれば、ラウス=ベフォニスは後者の直観手相によって手相呪文を発動させているという。一定の手続きに従って幻の手相を自在に錯覚して、様々な呪文の組み合わせを発動させる。そうすることで神の力を制御しているのだとか。ということは、そのパターンさえ掴めれば――。

(――解析完了。手相診断アプリ【ハッピー皺合わせ】起動!)

 そのアプリ名どうにかならなかったのか。日本語ネイティブの俺でも笑えないんだが?

(ひどい! 頑張ったんだから褒めてよー!)

 ちびシューラが発動させた手相占いの結果が、ベフォニスの手相占いの結果に干渉していく。自動化された規則に割り込む、異なる手続き命令。定められたルールに従うしかない占いのメソッドはそれを正しい命令だと認識して掌の皺を書き換えていく。呪文が改変され、神の力が制御を失って暴走する。

「発勁用意!」

 乱れた幻肢、曖昧化した一点に向かって渾身の掌打を繰り出す。幻肢が千切れて飛んでいき、パーンが幻肢を伸ばしてそれを掴み取る。

「貰ったぞ! 巨人の腕!」

(ぎゃー! 何してるのアキラくんのバカー!)

 融血呪、つまりは【血脈】の呪術が発動し、零落した神である巨人ラウスの腕がパーンの幻肢と融合していく。凄まじい負荷にパーンは蹲って呻くが、恐ろしい事に暴走する呪力が次第に落ち着いていく。

(うっそー。ベフォニスが霊媒だったからこそ巨人と同化するなんてことができたんだよ? 何で霊媒適性も無いのに、完全に掌握できてるの?)

 予想外の事態に、俺もちびシューラも驚きを隠せずにいる。
 カーインが茨の鞭で無力となったベフォニスを捕縛したため、危機は去ったように思われたが、その時さらなる異変が状況を一変させた。

 天井を突き抜けて現れた二つの影。
 一つは見間違える筈も無い、グレンデルヒ。
 もう一つは、カーインの仲間であるミシャルヒ。
 何か、文法上の規則性でもありそうな名の並びだが、その二人がこちらへと向かってくる。グレンデルヒが爛々と目を輝かせて無防備なパーンへと迫る。

「さあ、主が危機に陥った時、お前は何を選ぶっ?!」

 意味不明な叫びと共に地面に降り立ち、「はっきよい」のかけ声と共に張り手でパーンを突き倒す。投げつけられた薔薇を片手で弾き飛ばし、体勢を整えたパーンに組み付いて豪快に投げ飛ばす。

 加勢に駆けつけたミシャルヒがグレンデルヒ――というより力士として戦うゾーイと相対する中、俺はどう行動するべきかを迷っていた。既に台本など無く、各人が出鱈目に戦う混沌とした状況において、最善とは何だ?

(普通に考えたら狙うべきなのはグレンデルヒだけど――うーん、今のパーンはちょっとやばい感じがするよ)

 同感だ。そして、彼は既にラウスの右腕を取り込みつつある。ミシャルヒとカーインが時間を稼いでいるために、集中して幻肢の制御ができているのだろう。
 どちらも軽んじていい相手ではない。
 どうすべきか迷っていると、左腕から声がしていることに気がついた。

(――おい! さっきから呼びかけているのが聞こえんのか! 貴様ら、陛下の安全を確認したのだろうな! さっさと陛下の大いなる慈愛によって山賊と無礼者どもを纏めて跪かせろ! それで物語は幕を閉じ、次の道が開かれる!)

 クレイの声で、するべき事に気付いた。
 混沌とした状況を強制的に終了させる方法がそれだった。
 そもそも、冥道の幼姫に六王を従わせることが目的なのだ。グレンデルヒより先に勢力を強化できれば勝ちという方針は変わらない。

 途中経過がだいぶ滅茶苦茶になったが今は考えないことにしよう。パーンの危険性については後回しだ。
 倒れているフェロニアを見ると、幸い気を失っているだけで息はあるようだ。
 俺は彼女を起こそうと、幻肢体を動かして近付いていく。

 だが――結果として、俺はパーンの脅威度を甘く見積もりすぎていたのかもしれない。その後の展開は、完全に俺たちの予想を超えるものだったからだ。
 パーンが突如として激昂し、叫びと共に幻肢を伸ばした。
 倒れている、フェロニアに向かって。

「そこにいるな――影喰いめがっ」

 黒い影が砕け、闇が巻き上がる。
 幻肢の一撃はフェロニアではなく、その横で蠢く影に命中していた。
 不定形の輪郭が歪み、鮮血と共に大量の死骸が土の中に消えていく。見間違えでなければ、死骸は沢山のコウモリ、そして鼠の群れによって構成されていた。
 わだかまる闇が、男のような、女のような、正体の掴めない声を発する。

「いきなり殴りかかるとは、ひどいな。それに、よく私の存在に気づけたね」

 影が凝縮して、人の輪郭を形作る。
 黒衣を纏ったそれは、ミシャルヒとは違い地に足を着けており、より確かな質量を有しているように思えた。何よりも、鼻をつく悪臭が優雅な麗人との違いを際立たせている。悪臭――すなわち、むせ返るような血の臭い。
 誰もが動きを止めて新たな闖入者を注視する中、パーンが口を開く。

「なるほど、影占いだな? 予見した未来を演じる事でこちらに干渉を仕掛けて来たというわけだ。夜の民め、味な真似をしてくれる」

 パーンの言葉は想像を絶するものだったが、しかし納得の行くものでもあった。過去から未来への干渉ならパーンがして見せたばかりである。占いの精度が高ければこのような事も起こりうるのは当然と言えた。

 しかし、俺はあることに気を取られてそれどころではない。ちびシューラも俺ほどではないが同じように驚いている。新たに現れた人物が纏う黒衣、そのフードの内側に見え隠れする容貌が、俺たち二人にとって馴染み深いものだったからだ。

「リール、エルバ?」

 フードの内側に見える、波打つ緑色の長髪に、血のような真紅の目。
 なによりそのまま引き写したようにしか見えない、鮮烈な印象を残す美貌。
 現れた何者かは、ドラトリアの協力者、リールエルバと瓜二つだったのだ。

「誰かな、君は? 確かに私の中にはリールエルブスという名が内包されているが――曲がりなりにも夜の眷族である私の名を、中性形からわざわざ女性形に直す意味がよく分からないな」

 不思議そうな言葉で、俺はようやく気付く。
 そうか、逆だ。
 リールエルバと瓜二つだが、どこか女性的な雰囲気を薄くして中性的にしたこの人物――リールエルバ『と』似ているのではなくリールエルバ『が』似ているのだ。それも恐らく、必然の結果として。

「カーティスという。よろしく」

 気のない宣名によって、大地に影が広がっていく。
 泥沼のようになった足下が、無数の触手を伸ばして空間の中にいた者たち全てを捕らえていった。

(ドラトリアの首都、カーティスリーグ。その名前は、初代国王に因んで付けられた名前だけど――パーンがいた時代より、ずっと前の人物だよ!)

 ちびシューラの言葉とパーンの推測を総合すると、カーティスは過去の人物で、未来であるこの舞台に干渉を仕掛けてきたらしい。
 カーティスはフェロニアを抱きかかえると、優しげな手付きで乱れた髪の毛を払い、整えた。リールエルバに似た顔が穏やかな表情を作るのを、俺とちびシューラは驚きと共に見つめた。

「攫いに来たよ――私の花嫁」

 左手の内側で、クレイがもの凄い絶叫と罵声を喚き散らしているがあまりにも口汚い為に内容は伏せることにする。

「ふざけるなよ過去人。それは俺の所有物だ」

 パーンは身体にまとわりつく影の触手を振り切って浮上すると、カーティスに飛びかかっていく。振り下ろされた幻肢の一撃。巨人の腕と同化したそれは既に神の裁きに等しい。しかし、カーティスはそれを無視した。

 血のような瞳は既にパーンを一顧だにしていない。ただフェロニアを抱えたまま、地の底、影の下へと沈んでいってしまう。
 パーンの攻撃は空振りに終わり、震えるその身がまたしても荒れ狂う影に捕らわれてしまう。カーティスが残していった呪いは未だ効力を残しており、他の者たちも束縛を受けたまま影の中に引き摺り込まれようとしていた。無論、俺も例外ではない。そんな中、パーンは一人震えている。

(あれ、泣いてるとかじゃないよねえ)

 まあそうだろうな。
 案の定、高笑いが響く。

「は、愉快だな素晴らしいこれは飽きん! 実に面白いぞ未来人、そして吸血鬼! こうなれば未来も過去も、まとめて俺が蹂躙してくれる!」

 それからのパーンの行動は、正気の沙汰ではないが想定の範囲内のものだった。
 彼は自ら荒れ狂う影の中に飛び込んだのだ。
 恐らくは、去っていったカーティスと攫われたフェロニアを追って。

「踊るがいい! 時空の全ては、この俺を楽しませる為にある!」

 高らかな笑いを最後に、世界が闇に包まれる。
 俺たちもまた影の触手に取り込まれ、真下へと引き摺り込まれているのだ。
 カーティスが繋げた過去への経路が影の世界を曖昧に歪め、俺たちはまとめて混沌の渦へと投げ出される。

 落ちていく。
 翻弄されるように、ただ無秩序の闇へと落下していく。
 落ちた先に何が待つのか。
 霞んでいく視界の中で、誰かが手を差し伸べているのが見えた。
 それが誰なのかわからないまま、俺は意識を手放した。
 暗転。








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