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猫と弁天

作者:大和かたる
宝来文庫の大和かたるです。
芸術の女神・弁才天〔サラスヴァティ〕をモチーフにした「東京弁天」シリーズを執筆しています。
本作はその「アヤメさま篇」第一作目。ぜひ、ご一読を。
              1

 東京都足立区は千住地区にあります北千住の駅。
 荒川と隅田川にはさまれたこの駅の西出口を出て左手に曲がりますと、昔ながらの飲み屋がつらなる夜の通りがございます。じつはちょっと前まで、この横丁の路地裏に、おかしな習慣をもつ一匹のトラ猫が住んでおりました。
 その猫は毎朝、決まった時間に北千住駅の改札をくぐって上り電車でお出かけし、夕刻頃には下りに乗って帰って来るのですが、いったいノラ猫ごときが日中、何処で何をしているのか、それを知る者はありません。同乗する人間にとっても、彼はすでに当たり前の日常になっていて、今さら誰も注意を払おうとはしないのでした。
 ところがそんな彼の行動に関心を抱き、尾行までして行き先をつきとめたお方がいます。墨田区は向島にお住まいの中学一年生の女神、アヤメさまでした。
 アヤメさまは七福神でおなじみの弁才天でありまして、普段は曳舟にある七福寺というお寺で人間の少女として生活しています。そして彼女こそは、大和の国にあまたおられる中でも特に珍しい平成生まれの弁才天なのでした。なぜ平成生まれが珍しいかと言うと、神仏をあつく祀っていた昔ならいざしらず、この現代に新たな神さまがお生まれになることは滅多にないからです。
 アヤメさまは花の都の治安をまもる《東京弁天》こと、弁才天女サクラさまの妹君でありまして、姉君の命により曳舟・押上地区を治めてもいるのですが、実際はまだまだ半人前。自分ひとりで何かを成し得ることはほとんどありません。警備にあたっているのも自分が住んでいる町くらいなもので、他の町は、周辺地域の姉さま方が分担で巡回して下さっているのです。

 さて、ある土曜日。アヤメさまが寝坊をして、自宅のある曳舟から一本遅い電車に乗って学校に向かっていた時のこと。満員電車にもみくちゃにされ、金魚が水面から顔を出すように背伸びしてあっぷあっぷしておりますと、網棚の上に恰幅のよいデブのトラ猫がどでんと香箱座りをしているのが視界に入りました。
 猫はなぜか自信満々にまっすぐ前を見据え、置き物のように動きません。
『あの猫はなにゆえ、あんな所にいるのでしょう』
 アヤメさまは首をかしげました。
 もしかして、何かの拍子に閉じこめられてしまったのでしょうか。だとしたら次の駅で抱きおろし、逃がしてやらねばなりますまい。
 そのうち電車は、押上の駅に到着しました。女神が救いの手を差し伸べようと身じろぎした時、ドアが開いて猫が立ちあがります。そして大きく伸びをしたかと思うと網棚から飛び降りて、たまたま真下にいた若いサラリーマンの肩にどすんと着地し、そこを踏み台にもう一度ジャンプ。見事、満員電車から脱出してしまいました。
『おお…』
 珍しいこと、面白いものに目がないアヤメさまが、
「わたくし、降りますっ」自分もついつい釣られて、琵琶をぎゅっと抱きかかえたまま寿司詰めの車内をかきわけて下車すると、ホームの端を猫が悠々と歩いていくのが見えます。やがて彼は改札に向うエスカレーターの手すりに飛び乗り、そのまま静かに上フロアに流されていきました。
 切符を持っているとは思えません。無賃乗車をするつもりなのでしょうか。
 勘ぐるアヤメさまを尻目に、猫は当たり前のように自動改札の下をくぐり、出口につづく階段を上がっていきました。そして、地上からさす朝日の中に消えてしまいます。
「あ、待って…」 
 慌ててアヤメさまが階段を駆け上がりますと、まず目に入ったのは巨大なスカイツリーの足元部分、ソラマチでした。その下を人間たちに混じって小さくなっていく猫の後姿を見ながら、さて、どうしたものかと考えます。
 学校に遅刻したくない気持ちと、猫を尾行したい衝動。ふたつの感情がぶつかった末、呆気なく勝負はついたようでした。
 アヤメさまは抱いていた琵琶を背負い、いそいそと尾行を開始したのです。

 結論から申しますと、猫の目的地は、駅から十分ほど歩いた所にある古い雑居ビルでした。彼は、そのビルの二階にある店舗に入ってしまったのです。《準備中》の札がかかったそのお店の名は《にゃんこカフェ 634》。
『猫カフェ、ですか。あの猫さん、ここの従業員なのですね…』
 猫と無職は同義語。それまでの自分の認識はどうやら間違っていたようです。一生のほとんどをぐうたらと寝て暮らす猫ばかりではなく、ちゃんとお仕事に汗する猫もいるようでした。
 アヤメさまは、この新知識を早く誰かに教えたくて仕方がありませんでした。

 そんな訳でありますから、夕刻、学校から戻ったアヤメさまはどんぶりに水をはって部屋に運び、その水面みなもに向かって、
「姉さま、姉さま」と話しかけました。するとそこに東京弁天サクラさまのお姿が浮かびます。
(これは《みなも通信》といいまして、弁才天同士が連絡をとりあう時のもっとも簡便な方法です)
「なんですか、アヤメ」
「お忙しいところ、申し訳ありません。じつはわたくし、とても面白いものを見つけてしまったのです」
「ほお、それはどんな…?」
「電車でお仕事に通う、感心な猫さんです」
「そうですか」
 サクラ姉さまは、妹君の扱いには馴れておられるようで、いささかも動じることなく、
「それは珍しい。その猫はきっと、またたび問屋の丁稚なのですね。昼間から酔ってばかりいて、奉公先からいとまを出されなければよいのですが…」着物の袖を口にあててお笑いになりました。
 でも、アヤメさまは大真面目な顔で、
「いいえ。その子は猫カフェの店員です」と返します。
 サクラ姉さまはしばし沈黙された後、
「おや、ねこかへの…」と、小首をかしげられました。
 その仕草、目下から見ても可愛いらしい。アヤメさまは、多くの少女がアイドル・タレントにそうするように心の内で「きゃあっ」と嬌声をあげつつ、姉君が猫カフェをご存知ないことは冷静に見抜いてしまいました。
 お若く見えても、姉さまは江戸時代のお生まれ。もう三百歳になられるのです。うつろいやすい浮世の流行など、いちいち追いかけておいでのはずがございません。
「あの… 猫カフェといいますのは…」遠慮がちに説明しかけますと、
「存じておりますよ、ねこかへ」サクラ姉さまはちょっと自慢げにおっしゃいました。
「このまえ書斎にインターネッツを入れましてね。アップロードがクリック・クリックです。もちろん、ねこかへも…」
『へ?』
 一瞬、アヤメさまは固まってしまいましたが、ああ、これは知ったかぶりをなさっているのだと納得し、くすりと笑います。するとサクラ姉さまも優しく微笑まれましたが、心と心が繋がったように思えるこんな瞬間が、アヤメさまは好きなのでありました。


              2

 翌朝、日曜日だというのに早起きしたアヤメさまは、おじいさん、おばあさんに外出の許可をいただき、昨日と同じ電車の同じ車両に乗りました。
 案の定、例の猫が網棚の上で寝ています。
 休日の朝は乗客も少なく、
 カタコンカタコン、カタコンカタコン
 電車の音は子守唄のようです。猫は黄色い朝の光のなかで、気持ち良さげに眠っておりました。
 やがて電車が押上駅に着きますと、猫はパチリと目をさまして、大きな欠伸をひとつ。網棚から飛びおりて電車を降り、出口へと向いました。その後をコソコソと尾行するうち、猫は昨日と同じ道順で雑居ビルに向かい、《にゃんこカフェ 634》に入っていきます。
 アヤメさまは、彼が猫カフェの店員であるという、自分の考えに確信をもちました。
 いっそ、このままお客になりすまして、あのコの働きぶりを観察してみたかったのですが、とりあえず今日は閉店時間に猫が店から出てくるところを見るまでで止め、彼の接客を受けるのは次回のお楽しみにすることにしました。そうしないと勿体ない気がしたのです。
「さて、と…」
 猫がお仕事を終えるまで、街を見てまわることにしました。
 歩いてきた道をふり返ると、今さらではありますが、完成して間もない東京スカイツリーが大いばりで青空にそびえたっていました。自分の行動範囲のどこにいても視界に入るそれを、アヤメさまは少々うとましく思っています。
「わたくしの生活をおびやかす魔物…」
 もの静かだったこの界隈も、新しい電波塔が出来てどんどん賑やかになってきました。そもそもサクラ姉さまが、曳舟・押上地区を赴任地に認めて下さったのは、町が静かで平和だからです。これから先、人が増えていろいろとトラブルが起こるようになれば、転地を命じられてしまうかもしれません。そして、もっと優秀なベテランの姉さまが代わりに来られるのです。
 それだけは避けたいものだと、アヤメさまは思っていました。
「そもそもあんなものが出来なければ、わたくしは思い悩まずに済んだのです」 
 見上げた白い塔はまっすぐで若々しくて、まだまだこの先も空の高みを目指していきそうです。
 アヤメさまはふと、サクラ姉さまと東京タワーの頂上に腰をかけ、夜景を見た夜のことを思い出しました。そのとき、サクラ姉さまはこうおっしゃったのです。
『私はこの場所が好きなのですよ。地上を見下ろして、人々を慈しむのにちょうど良い。でも近頃は高い建物だらけでしょう。ここからでは人の営みを見下ろしきれなくなってしまいました。今、もっと高い塔が建設中だというので、引越しも考えたのですが、この塔にはたくさん思い出もありますからね。やはり私は、此処に留まることにしました。
 ねえ、アヤメ。今度の白い塔はお前に譲ってあげますね…』
 あのときの姉さまの笑顔。とても優しくて美しくて、そして何だかさびしそうでした。姉さまはもしかして、いつかお仕事を自分に引き継がせるおつもりなのでしょうか。でもそうなったら、サクラ姉さまは何処に行ってしまわれるのでしょう。
 胸がきゅっと苦しくなりました。地上で生きている限りつきまとう、それは孤独という名の感情。
 幼い女神はふうっとため息をつきました。
「一度、のぼっておいた方がいいのかな…」
 スカイツリーは、サクラ姉さまの赤いタワーより倍近くも背が高いです。今の自分がその頂上に立つなんて恐れ多くて出来ません。でも、観光客としてエレベーターでのぼる分には、失礼には当たらないのではないかと思います。
 小柄な体に斜めにかけた、京縮緬のがまぐちバッグ。その中には家のお賽銭箱から持ってきた硬貨がじゃらじゃら入っていました。五百円玉とお札を中心に入れてあるので、ひいふうみいと数えずとも、それが一日に遊ぶのに充分な額であることは分かります。
 アヤメさまはちょっと悩んだ末、スカイツリーに向って歩きだしたのでした。


              3

 夕刻になりました。空は、とろけそうな茜色です。
 展望台にのぼった後、水族館で大好きなペンギンを心ゆくまで見て、さらにソラマチでのお買い物も楽しんだアヤメさまは、おみやげの袋を両手にさげて、スカイツリーのふもと、押上駅の地上出口前に立っておりました。
 幼い女神はかなり上機嫌です。おみやげは姉さま方やおじいさん、おばあさんに買ったものですが、もちろん自分の分も忘れてはおりません。
 いま、アヤメさまの艶やかな黒髪にとまっているのは、自身の名でもあるアヤメの花の髪飾り。それは地元の職人がこしらえた造花でしたが、女神はその出来ばえに感心してお買いあげになったのです。
 さて、今日一日を有意義に過ごし、すっかり満足したアヤメさまが腕時計に目をやって、
「そろそろ帰ることにしましょう。おじいさん、おばあさんが心配なさいます」とひとりごとしたとき、
 ひゅー
 ひんやりした秋の風が、遊びの余韻冷めやらぬ女神の頬を撫でてゆきました。
 ここ数日は、夜の冷えこみが一段ときつくなっております。温かいお布団で眠れる者はよいけれど、外で朝を待つものには辛い季節が近づいてきているのです。
 アヤメさまは、ここでようやく本来の目的を思い出したのでした。自分はとても感心な《働く猫さん》を調査中だったのです。
「いけません。わたくしときたら大切なことを忘れておりました」
 まもなく、事前に調べておいた《にゃんこカフェ634》の閉店時間でした。
「急がないと…」
 アヤメさまは踵をかえし、いそいそと彼の勤め先に向かったのであります。

 雑居ビルの前で立ち止まり、二階部分を見上げました。
 外壁には青色と黄色の電光看板。明かりの灯った窓の向こうには、猫じゃらしをもった女性客と、接客中の猫の影が見えます。
 アヤメさまがビルの階段をのぼっていきますと、店の自動ドアが開いて件の猫がゆらりと出てきました。
 猫とアヤメさまの目が合いました。猫は大きく目を見開き、驚いたような顔をしていますが、それはこのような動物にでもアヤメさまが神だということが分かったからかもしれません。
(それでも猫のことですから、二秒後にはその驚きすら忘れ、不機嫌な顔にもどりました)
 猫が音もなく階段をおりてきます。すれ違いざまにアヤメさまは、彼が首から何かをぶら下げているのに気づきました。
 穴を開けてヒモを通した小さな白い封筒のようなもの。
「あ、猫さん。お待ちなさい」
 自分も身をひるがえして、あとを追います。首から下げている物の正体が気になりました。それが何なのか、質問したくて仕方がありません。
 アヤメさまは陽の暮れた町で、ふたたび尾行を開始しました。
 そして、はじめて知った事実。どうやら彼は、帰りは行きと違うルートを通るみたいです。
 猫は道の端をひたひたと歩いていたかと思えば、いきなり塀にあがったり、その後すぐに干あがった溝の中をほふく前進したり。後をつけるのも一苦労でした。
 やがて路地裏にはいり、猫が一軒のお家の前で止まりました。首をのばし、あごを突きだすようにして庭先をのぞいています。どうやら、猫を飼っているお家のようで、
「お母さーん、タマがエサほしいって言ってるよー」と中から子供の声が聞こえてきました。
 猫は目を細め、ただよってくる夕餉のにおいをくんくん嗅いでいますが、彼のような自由猫でも、飼い猫を羨ましく思うことがあるのでしょうか。
 アヤメさまがだまって見ていると、猫は門の格子をするりと抜けて忍び足で庭に侵入し、植え込みに入っておしっこを始めました。おしっこが終わるとていねいに砂をかけ、何事もなかったように戻ってきます。
 彼は「くしゅんっ」とくしゃみをして、そのまま路地を抜けていってしまいました。

 路地から出ると広い大通り。
 アヤメさまが追いついた時、猫は横断歩道の前でお座りをしておりました。
 彼も都会の猫ですから、自動車がたくさん通る道が危険なことは知っているのかもしれません。あまりに大人しく信号が変わるのを待っていますので、アヤメさまは後ろから近より、首にかけてある物をそっと外してみました。
 それは、ピンクの肉球がスタンプされた愛らしいポチ袋。表にはきれいな字で《お給金》と書かれています。
「おやおや、これは日当でありましたか」
 袋の口をひろげて中を覗いてみますと、入っていたのは五千円札が一枚と、《ごくろうさま!》と書かれた小さな便箋が一枚。
「ずいぶんとお金持ちなのですね」
 アヤメさまは感心して言いました。そのお金は、一日に自分のお賽銭箱に入るお金より、ずっと多かったからです。
「でも、あなたにお洋服は必要ないでしょうし、住む場所も軒下で充分なはず。これだけのお金があれば、毎日おいしいものが食べられるのではありませんか。今夜のごちそうは、何なのでしょうね」
 質問したところで猫は答えてくれません。ただ黙ってアヤメさまを見つめるだけです。それは、他人のお給金を覗いた女神の不作法に抗議しているようでもありましたので、アヤメさまはコホンと咳をひとつして、
「わたくしは、好奇心にかられただけですよ。盗もうなどという気はありません」と言い訳しました。
 ポチ袋を首に戻してやりますと、猫は一度大きくしっぽを振り、またのそのそと歩きだします。そのうしろ姿を見送りながら、アヤメさまの中には、次々と新たな疑問が浮かんできました。それは例えば、言葉が分からないのに、彼はどうやってお買い物をするのか、もし何か目的があってお金を貯めているのなら、貯金はどこに預けているのか、などなど。
 もはや隠れることもせず、堂々と後ろをついて歩くアヤメさまを、猫はとくに気にするでもなく商店街を歩いていきます。
 やがて、酒屋さんの前を通りかかったとき、何処からともなく浮浪者ふうの男があらわれました。
「よお、にゃんこ」男がへへへと笑います。
「あいかわらず愛想のないツラだな。今日もたんまり稼いだのかい」
 男は猫のポチ袋から五千円札を抜きとりました。
「タバコと酒、めぐんでもらうぜ」
 そして酒屋さんに入って、タバコを一箱とカップ酒をひとつ買ってくると、おつりをポチ袋にもどして、猫の首にかけます。
「あんがとよ。また明日な」
 通りをふらふらと歩いていってしまいました。
 どうやら、男は常習犯のようです。アヤメさまは開いた口が塞がりませんでした。
 人間が猫からお金をとる。ありえないこと、恥知らずなことでした。
 すぐにでも男にバチを当ててやりたかったのですが、猫がぜんぜん気にしていない様子なのと、男もおつりを返していたところを見ると、少しは後ろめたさを感じているようですので、思い直すことにします。 
 ポチ袋に硬貨がまじったせいで、前を歩く猫の体が微妙に左右に揺れているのが滑稽でもあり、物悲しくもありました。

 押上の駅が見えてきました。
 猫は帰りの電車に乗るのだと思われます。
「ところで、猫さんは何処から通ってきているのでしょうか」
 曳舟で電車に乗ったときには既に網棚の上にいた訳ですから、もっと北の方、埼玉あたりから来ているのかもしれません。
「それも調査してみる必要がありそうですね」
 アヤメさまが呑気にうなずいておりますと、猫がよそから遊びに来ているらしい若者グループと擦れ違うのが目に入りました。
 若者のうちの一人が猫に気づいて、
「あれ、この猫、何かつけてるぞ」しゃがみこんで、ポチ袋に触れます。
「金が入ってんじゃね?」
 若者はポチ袋を猫からとりあげ、中からお金をとりだしてジーンズのポケットに入れました。ポチ袋は捨ててしまいます。
「うわっ、ショーちゃん悪っ。猫から金とってやんの」
 仲間たちは彼の所業を笑いの種にこそすれ、返してやれとは言いません。
 彼らは大声で冗談をとばしあいながら、夜の町に消えてしまいました。
 若者たちがいなくなった後、アヤメさまは道ばたに落ち、踏みつけられたポチ袋を拾いました。愛らしい肉球スタンプのポチ袋と、そこからはみだした《ごくろうさま!》のメモを見るうち、思わず唇をかみしめてしまいます。
「あなたは、悔しくないのですか」
 つとめて冷静さを保ちつつ尋ねましたが、猫は何も感じていない様子でした。むしろ煩わしいポチ袋が無くなって清々したとでも言いたげに、後足で耳のうしろをかいています。
「今日一日のあなたの苦労が、つまらぬ輩に奪われてしまいました。もし望むなら、彼らにバチをあて、おのれの所業の卑しさを思い知らせてやりますよ」
 そう強がりつつも、アヤメさまには分かっておりました。自分には人間にバチをあてるだけの勇気はありません。それに、仮に若者たちの手足を動けなくしても、彼らにはおそらく自分の身にふりかかった不幸と、小さな生き物から略奪した非道との因果は分からぬでしょう。ただ痛いめに合わせたいだけなら、それも良いかもしれません。ですがアヤメさまは女神です。改心をともなわぬ罰を与えることは無意味でした。
 猫が小さく「みゃあ」と鳴き、アヤメさまの手を舐めます。幼い女神は猫の頬に手をあてて呟きました。
「今夜は、もう帰りましょう…」
 そして、いっしょに帰りの電車に乗ったのです。
 アヤメさまが曳舟の駅で降りる時、猫はまだ網棚の上にいました。そして小さく手を振る女神をじっと見つめておりました。


              4

 次の日も、アヤメさまはまた猫の後ろをついて歩きました。
 昨夜見たイヤな場面は何かの間違いだった。そう思えるようなステキな出来事を期待したのです。
 でも、結果は同じでした。猫は浮浪者の男にタバコと酒をめぐみ、残ったお金を昨日とは別の人間に奪われてしまいました。
「あの者どもに、バチをあてなくてもよいのですか」
 アヤメさまは再び猫に問いましたが、彼は小さく「みゃあ」と鳴いただけ。幼い女神は頭をたれ、自分のふがいなさを恥じました。
 イライラだけがつのります。
 女神は次の日もまたその次の日も、今度こそ良い日になれと猫の後を追いつづけるのですが、やはり結果は変わりません。たまたまタバコと酒をたかる男が現れない日があっても、猫は最後には必ず、誰かにお金を根こそぎ獲られてしまうのです。
 そして、更に何日かたった夕刻。とうとう恐れていたことが起こりました。
 いつも通り浮浪者風の男に酒とタバコをふるまった後、駅に向かっていた猫は、またしても観光客の若者にお金を奪われかけていました。しかもその夜の若者は今までより粗暴で、ポチ袋を奪うのに強くヒモを引いて猫の首を絞めあげたのです。驚いた猫が相手の手に噛みつきますと、若者はあろうことか、彼のおなかを思いきり蹴り上げました。
 サッカーボールをシュートする時のような、力一杯の蹴り。哀れな猫は「ぎゃうっ」と悲鳴をあげて川に転げ落ちてしまいました。
「うっ…」苦痛に顔をゆがめ、下腹部に両手をあててしゃがみこむアヤメさま。
「ナイスシュートッ」若者たちの歓声を聞いて、その艶やかな黒髪が燃えるような赤に染まります。
 次の瞬間、若者の体が一直線に空中に舞い上がり、そのまま真っ直ぐに転落しました。
 ぐしゃっ
 とてもイヤな音がして若者は動かなくなり、体の下からは血がどくどくと波紋のように広がっています。ちょっと間にして我にかえったアヤメさまはその様子を見て愕然とし、両脚をガクガクと震わせました。振り返ったその目には、冷たい水に流されていく猫の姿が見えます。
「ま、待って…」川に向かって両腕を伸ばすと、水をすくいあげるような仕草をしました。猫の体が宙に浮かび上がり、空中を移動しながら女神の両手に抱きとめられます。女神の体がまばゆい金色に輝き、それが止んだあと、猫は何事もなかったようにアヤメさまを見上げました。
 女神がポロポロと涙をこぼす後ろでは、若者が虚ろな目で、
「た、助けて…」と呻いています。
 救急車を呼べ。誰かが叫んでいるのを聞きながら、
「さあ、行きましょう」女神はずぶ濡れの猫を抱いて駅に入りました。
 最後に、若者が今夜だけはたっぷりと苦しみ、明日には体が元通りになるように言霊を残して…
 果たして彼は明日の朝、自分が受けた痛みと、相手に与えた痛みが同じであったことに気付いてくれるのでしょうか。


              5

 暗い夜の帰り道。
 アヤメさまは震えておりました。足に力が入らなくて、いつもより小さな歩幅で歩いています。
 お願いだから、どなたかわたくしを肯定して下さいと祈りましたが、あれは明らかにバチではなく、暴力でした。アヤメさまはただ、猫のかたき討ちをしただけなのです。
「猫さん、心が痛いです…」
 アヤメさまは、自分が助けた相手に泣きごとを言いました。でも、当の猫が何事もなかったように平然としているのでやりきれません。
「もう、あなたを放っておく訳にはいきませんね。また酷いめに会うかもしれませんから。ところで、なにゆえ猫さんは、あのような者たちに施しをしていたのです。あなたの行いは、結果として人の心の卑しい部分を増長させてしまったのですよ」
 アヤメさまの問いかけに、猫はなにも答えません。自分は関係ないとでも言うように大きな欠伸をひとつしただけです。
 女神は夜道の途中で足をとめ、猫の瞳をのぞきこみました。
「どうやら、あなたとは意思の疎通がはかれていないようですね。ごめんなさい。わたくしは今、無性に誰かと言葉を交わしたいのです」
 そっと額の髪をはらい、おでこを猫の額と合わせてみます。そうやって心をつなげた刹那、アヤメさまは「ああ…」と少女マンガのヒロインのようによろめいてしまいました。
 猫が腕から逃れ、地面にすたんと降りたちます。
「あ…」アヤメさまは呆然としてしまいました。
 猫とおでこをあわせたとき、女神の中に入り込んできたのは、いくたの星々を散りばめた無限の世界。猫の頭のなかには宇宙が広がっていたのです。
「あなたはもしや大日如来、なのですか…?」
 ここで少し、解説をしておいた方が良いかもしれません。
 そもそも弁才天は智恵と芸術と戦勝の女神であります。もともとはヒンドウ教の神で、インドでは多くの学生や芸術家の信仰を集める存在なのですが、仏教においては、お釈迦さまに出会って仏法に帰依し、護法神になった外来の神であるとされています。ここでいう護法神とは、仏法を護る神さまのことです。
 例えばある大病院で、悟りを開いた《如来さま》が院長先生、修業中のインターンの先生が《菩薩さま》だとします。この場合、弁才天のような《天部神》は、患者を病院へ運ぶ救急救命士に当ると言えます。つまり、病院の外にいて患者と医療をつなぐ仕事を担っているのですが、弁才天の中でもひときわ幼くて未熟なアヤメさまは、猫の頭に宇宙が広がっているのを大日如来《宇宙の理》と勘違いしたようです。
「もしかして、わたくしを試したのですか…」
 地面に膝をつき、涙目になって訊きました。
 何ということでしょう。あろうことか如来さまの前で怒りに我をわすれ、人間に怪我を負わせてしまったのです。
「でも… あれはその…」
 しばらくはオロオロとしていましたが、そのうち追いつめられて、自分でも訳が分からなくなってしまいました。
「こ、こんなの酷いです。騙しうちではありませんか」恨めしげに顔をあげます。
「こうなった以上、責任をとって下さい。わが師となって、わたくしを悟りの境地へお導き下さい」
 なぜ怒りながら教えを乞うているのか、アヤメさまは自分でも理解できておりませんでした。


              6

「それで、その小汚い猫を拾ってきたというのですか」
 風呂桶にはった湯に、サクラ姉さまが映っておいででした。一方で入浴中のアヤメさまは猫にシャンプーをしています。
「はい、姉さま。この方は猫如来。大日如来の化身であらせら… いたっ」手を噛まれてしまいました。
 女神はそれでも猫をしっかりと押さえつけ、ごしごしごしごしと洗い続けますが、長年汚れのたまった体はなかなか泡だちません。そのうえ猫は濡れるのを嫌がって、浴室から出ようと必死です。
「じっとしていて下さい。このままでは、お布団が汚れてしまうではありませんか」
「アヤメ、余計なことかもしれませんが、どうせ飼うなら犬がよいですよ。犬は忠義にあつく、誠実な生き物です。猫などは身勝手で、己のことしか考えておりません。お前が宇宙と勘違いしたのは無知と利己主義の暗黒。愚かの海です。本当に、どうかしていますよ…」
「どうもしておりません。わたくしは一刻も早く、一人前の弁才天にならなければならないのです。今夜のような過ちをおかす訳にはいかないのです」
「私は過ちとは思いませんが… とにかく、バチのことはあまり気にしないことです。誰もが通る道ですから。それに回復の言霊も残してきたのでしょう。何も問題はないではありませんか」
 でも、今のアヤメさまには姉君の気遣いは届きません。ご自身の「想い」で頭が一杯でした。それは若さというより、彼女が置かれている状況が原因であることを、サクラさまはよくご存じでした。
 今、神々の世界では空前の少子化が進行しております。民が天に祈らなくなったため、地上に降りてくる神の数が激減しているのでした。数が減ったからといって、お仕事が減る訳ではありません。むしろ天罰を恐れぬ民が跋扈する世になったということは、教化のお仕事は増える一方なのです。
 なのに、現在もこの国を守っておられるのは《ベビーブーム》とよばれた鎌倉時代生まれや、《中堅クラス》である江戸時代生まれの先輩方が中心。大正、昭和生まれなどは、人間でいえばまだまだ中学・高校生ですし、ましてや生まれて十年しか経たないアヤメさまなど、赤ん坊同然でした。しかも、平成になって生まれた弁才天はまだアヤメさましかいないのです。
「如来さま、きれいになりました」
 シャンプーが終わったようでした。アヤメさまは猫をバスタオルで拭き、赤子のように抱きあげかけて、ふと自らの白くて平べったい下腹部を見てしまいます。
 おへその左上から、陰部すれすれのところまでくっきりと残る無残な縫合の後。人間の女の子として生きることを決めた日から、泣きながら消していった傷の最後のひとつ…
 アヤメさまの表情から笑みが消えました。風呂桶に映る姉君をふり返って、
「おやすみなさい、サクラ姉さま。いつも心配ばかりかけて申し訳ありません」肩を落として浴室から出ていってしまいました。
「可哀想なアヤメ…」
 サクラ姉さまも不憫な妹を想って、大きくため息をつかれたのであります。


 アヤメさまがパジャマ姿で猫を抱き、スリッパをパタパタといわせながら縁側を歩いていきます。
 日本庭園の向こう、秋の夜空に浮かぶのは、丸いお月さまと紫色にライトアップされたスカイツリー。
「あんなことさえなければ、とても良い一日でしたのに…」
 そっと呟いた時、向こうから、
「明日は学校ですよ。はやく寝なさい」と、おばあさんの声が聞こえます。
「はーい、おやすみなさーい」
 アヤメさまは明るく返事をしたあと、そっと目をふせました。
 思い返せば十年前。女神は、息子夫婦と四歳の孫娘を交通事故で亡くし、絶望の淵に暮れていた老夫婦の前に示現したのです。それも、孫娘の亡骸を依代よりしろにするという前代未聞のやり方で…
 生きている人間に神霊が依ることを尸童よりましと言います。でも、死体に依った神は、おそらくアヤメさまが初めてではないでしょうか。
 あの日、少女の肉体を蘇生して示現したアヤメさま。その刹那、幼い少女が味わった地獄の苦痛は再現され、女神は凄まじい悲鳴を産声にかえてこの世に生まれました。
 あれから十年。当時の計算違いを、アヤメさまは今も気に病んでいます。 
 せっかく蘇生させた体に、本物のアヤメを戻してやれませんでした。世のことわりに反するとして、制止が入ったからです。
『結局、わたくしは何のために生まれてきたのでしょう』
 本物のアヤメは死にました。いま、女神であるアヤメさまが生きているのは彼女のためではなく、この世に置いてけぼりにされたおじいさん、おばあさんのためです。
 アヤメさまは温かな猫のやわ毛に頬を埋め、
「これで、いいのですよね…」。
 心細くなったらしく、つい、おでこの髪をかきあげて猫の額にあててしまいます。でも、
「ああっ…」また目眩を起こしてしまったようで、よろめきながらお部屋に戻っていったのでありました。

                         (おしまい)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本作は平成24年末にアップした「猫と弁天」の改訂版です。当初、童話のつもりで書いたのですが、2作目「アヤメさま、宝船に乗る」がファンタジー小説化したため、そのトーンにあわせてリライトしました。ことにラスト近くのアヤメ出生の秘密は、オリジナルではカットしていた部分です。
お楽しみいただければ良いのですが…


大和かたるの新作情報はブログにて発表しております。

(公式ブログ「だぶはちの宝来文庫」)
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