第十話 プネウマの鏡
アイオリアの王を前にして、ぼくは頼んだ。
プネウマの鏡を壊せば、母さんを取り戻せる。今はただ、そのことだけが頭にあった。
「いいわ」
意外にも、アイオリアの王ルイーズはこともなげに答えた。
ルイーズに付き従って、王宮の内部を進む。
いくつもの廊下と階段を通り、最上階の最も奥にある部屋へとたどり着いた。
部屋の前には二人の兵士が控えている。王の住まいのわりには見張りが少ないという気がしなくもなかったが、彼らが自分の背よりも長い槍を持った姿は、さすがにものものしい雰囲気があった。
「陛下。もうお戻りですか?」
「ええ、通してちょうだい」
兵士たちは初めぼくをいぶかしんだが、王さま直々に連れてきたということもあり、やがて道を開けた。
植物の蔓が描かれた扉が、兵士によって開かれる。
扉の向こうには、タイル張りの床の大きな部屋が広がっていた。
壁面や柱には植物の蔓が巻き付いている。
部屋の入り口から見て左側には大きなバルコニーがあり、春の陽がさんさんと射し込んでいた。そして右側には――。
聞かなくてもわかる。プネウマの鏡だ。
二メートルほどもある大きな姿見。鏡の縁には奇妙な文様が彫り込まれている。なにかを嵌め込むような穴があるのも見てとれた。
しかし角度が悪く、何が映っているのかはよく見えない。
「この鏡は、この世と魔界を隔てているのよ。この国にとってなくてはならないものなの」
鏡に歩み寄りながら、ルイーズが語り出した。ぼくもあとに続く。
「だから……」
彼女はおもむろに振り返ると、静かに言った。青色の澄んだ瞳と視線がぶつかる。
「誰かに壊されでもしたら、大変なことになるわ」
「!」
ぼくは、心臓が飛び上がるほど驚いた。知っているんだろうか、ぼくがこの鏡を割りにきたことを。
目の前が真っ暗になる。緊張と恐怖で息ができない。
バレていたんだ、始めから……。
さっきまでは美しいと思っていた彼女の姿が、恐ろしい魔物のように歪んで見えた。
「――丈夫?」
「え……?」
「大丈夫? 顔が真っ青よ」
気がつくと、ルイーズはぼくの肩に手を乗せ、心配そうに覗き込んでいた。別段、怒ってはいない。
そ、そうだ、落ち着け。まだバレたとは限らないじゃないか。
改めてルイーズのほうを見ると、相変わらず綺麗な、優しい顔で、魔物なんかではなかった。
「もしも……もしもこの鏡が割れたら……どうなるんですか?」
怪しまれないよう、慎重に尋ねる。自分でも声が震えているのがわかった。
「魔界が現世にまで広がり、今まで以上に魔物があふれかえるでしょうね。そして人間も動物も、魔物に食われてしまうでしょう」
「そんな……」
ぼくの脳裏に、昨日のワイバーンが浮かんだ。あんな恐ろしいものが、今以上に増えるだなんて。それから、シーアの言葉を思い出した。千年前の王国テラスティアは、魔界の侵食によって滅んだのだという。
そんなに大変なことになるなんて。ぼくはただ、母さんを取り戻したいだけなのに。
一瞬にして、記憶がさかのぼる。
父さんだって、昔は優しかった。休日はよく三人で出かけたものだ。
近所でも仲のいい家族として有名だった。
ある日父さんは怪我をして仕事を失い、そのときから生活は一変した。
ぼくらは安いアパートに引っ越し、母さんも仕事を始めた。
それでも三人が一緒なら、ぼくも母さんも満足だった。
しかし父さんはちがったようだ。
職を探そうともせず、酒ばかり飲み、毎日夜の街を遊び歩いた。
母さんと喧嘩が絶えなくなり、暴力をふるうようになった。
母さんは毎日帰るはずもない父さんの晩ご飯を作っては、泣きながら捨てていた。
もう、母さんにそんな思いはさせたくないんだ。
母さんはばかだから。優しすぎるから。
ぼくが守らなきゃいけないんだ。
不思議なことに、ルイーズは黙ったままのぼくをずっと見守っていた。まるでぼくの心が決まるのを待っているかのように。
この国は、ぼくの世界とはまるで別物だ。ぼくの知っている世界では、魔界なんてものは存在しない。何が起きたって、ぼくには関係がないんだ。
そうだ。大変なことになる前に逃げればいいんだ。
それに、ここで鏡を割らなかったらぼくはなんのためにこの国に来たんだ?
なんのために森をさまよって、なんのためにワイバーンと戦ったんだ?
その結論に至ったとき、ぼくはついに決心した。
そのとき、ルイーズが再び「大丈夫?」と尋ねながらぼくに近づいてきた。
「すみません!」
「あっ」
ぼくは近づく彼女を軽く突き飛ばし、目の前に置いてあった椅子に手をかけた。
これで鏡を割るんだ。
プネウマの鏡に近づき、手に持った椅子を大きく振りかぶる。そうして、鏡にむけて勢いよく放り投げた――。
――いや、放り投げようとした。
しかしそれはかなわなかった。驚くべきことに気がついてしまったからだ。
「ぼくが……映ってない! 周りの景色は映ってるのにぼくだけ……どうして!?」
ぼくは部屋全体に響き渡る声で叫んだ。
鏡に映っていたのは、椅子を振り上げたぼくの姿ではなく、逆さまになった椅子が不自然に浮かんでいる姿だったのだ。
肩にそっと手が触れる。
鏡の中では、ルイーズの両手が何もない空間に置かれていた。
そして、そっとつぶやいた。
「この鏡はね、悪い心を持った人間は映らないのよ」
ルイーズはぼくの行動に怒ることも慌てることもなく、ただ静かにそう言った。
――悪い心。
一気に力が抜ける。持っていた椅子を取り落とし、ぼくはへたり込んでしまった。
「ごめんなさい……ひょっとしてぼく……すごく自分勝手なことを……」
まるでなにかに取り憑かれているようだった。ぼくは、なんてひどいことをしようとしていたんだろう。
自分の身勝手な考えで、この国をめちゃくちゃにしようとしていたんだ。頭にシーアや、サテュラや、村の人たちが浮かぶ。どんなに不思議な世界だといっても、彼らは確かに生きていた。同じ人間だった。自分に関係がないからって、彼らを苦しめていいのか?
自分の浅はかさに、涙がこぼれた。
「思った通り……あなたは優しい人なのね。一度は悪い心に負けてしまったけれど、他人を思いやる心はちゃんと持っている。ほら、もう一度鏡を見てごらんなさい」
ルイーズに言われて、恐る恐る鏡を見る。まだ周りの景色に比べて、すこし薄いけれど、今度はちゃんとぼくの姿が映っていた。
でも、「思った通り」って……?
ルイーズは続けた。
「試すようなことをしてごめんなさい。あなたがどんな人間か、知りたかったの。ほんとはね……」
ルイーズはぼくが落とした椅子を拾った。そして、なんと鏡に向かってそれを投げたのだ。
衝撃に備えて目をつぶろうとしたとき、鏡から光のようなものが出て、大きな音と共に椅子を弾き返した。
ぼくは慌てて鏡の表面をなでる。しかし当然ながら、傷ひとつついていない。鏡のむこうでは、色の薄いぼくが驚きの表情を浮かべている。
「プネウマの鏡はそう簡単には壊れないわ。申しわけないけど、プネウマの鏡を壊せば願いが叶うというのは嘘よ」
ルイーズが軽く手を上げると、先ほどと同じようにデュークが飛んできて、そこにいることが自然なように彼女の手にとまった。そして、まるで敬愛する主人にかしずく従者のように、デュークは頭を垂れた。
「わたしはアイオロスにあなたを連れてくるよう頼んだの」
ぼくは、なにひとつ言葉を口にすることができなかった。怒りの言葉も、驚きの言葉さえも出てこない。まるでテレビの向こうの出来事を見ているかのように呆然としながら、ぼくはただ、ルイーズの慈愛に満ちた、けれどもどこか憂いを帯びた目に見とれていた。
「どうして、そんなことを……?」
ぼくが発することができたのは、ただそれだけ。
彼女は大きく息を吸うと、静かに、ゆっくりと言った。
「あなたが、この国の新しい王だからよ」