きみの口づけはあまい血の味がする
荒れ野から帰ってきたセラを、私は抱擁で出迎える。
「おかえりなさい」
「ただいま」
あいさつを交わすのさえ待ちきれなかった唇が重なり合うと、私の口にあまい血の味がにじむ。ふんだんに砂糖を散りばめたカラフルな飴菓子のように、なめらかでいて、すこしざらつく。
今日も、セラは奴らを喰ってきたのだ。
彼女のグレーのコートは砂と血で汚れている。強く抱きしめると、セラの温度と彼女の穢れが私の上着を透して身内にまで浸食してくるように思え、ますますきつく両腕に力をこめる。セラの華奢で折れそうな体は、しかしこの1年、みじんも変化することがないまま、この終末の世界を歩き続けている。
奴ら、生ける屍どもとおなじように。
そして私は、彼女の帰りを待ちわびて、夜を過ごす。
長い口づけが終わり、セラの温度がすこし離れる。
「平気だった?」
セラの真っ赤な瞳が、細い銀糸のような睫毛の下でかすかに揺れる。私はちいさくうなずき、一呼吸だけおいて、セラから両手を離す。
寂しかった、とは、当たり前すぎて伝えられない。
「大丈夫。セラは? 大丈夫だった?」
「傷ひとつないよ。平気」
淡々と告げ、セラはコートを部屋の隅のハンガーに掛ける。細い彼女の背中を、私はじっと見つめる。無傷の肌とは裏腹に、着古して長い戦いを乗り越えてきたセーターはひどくすり切れ、柄も不安げに波打っている。
「ちゃんと食べた?」
後ろ姿のまま、セラが問う。
「うん」
「気をつけてね。食べるのと寝るのは、健康の基本だから」
「健康、ね」
「どんなときでも、元気が一番大切だよ」
銀糸のような細い髪を揺らして振り返るセラの微笑みに、私も笑みをかえす。それがすこし皮肉に見えないかと心配だったけれど、セラはみじんも表情を変えない。だから、きっと大丈夫なのだと思う。
私は部屋の隅に積んだ段ボールへと歩み寄る。そこに蓄積された缶詰と保存食があれば、あと半年は生き延びられるだろう。
段ボールに手を突っ込んで、私は、バター味のぱさぱさの携帯食を取り出す。
「セラも食べる?」
「いらない」
肩をすくめたセラは、その場にすとんと腰を下ろし、壁に背中を預けてこちらを見つめる。がらんどうの部屋を隔てた微妙な距離で、私とセラは視線を交わし合う。彼女の上のグレーのコートの背中には、ずっと前に浴びて乾ききった色の返り血が、未だにこびりついている。
死んだものの血は、いつか、生者をも死者に変容させるのだろうか。
あいつらを喰って生き続けるセラも、いつか。
私は自分の唇に触れる。セラのつややかな唇のかすかな湿り気のなごりが、いまも残っている。
生ける屍が彷徨うのは、いつも夜だ。それは、彼らがほんとうに生きていたころのことを忘れたせいなのか、もともと世界の時間になずまない生き物だったからなのか、誰も知らない。
いずれにせよ、屍は夜を彷徨い、同胞を探す。生きた人間を捕らえ、食み、同属とするために。
人の力では、彼らに拮抗し得ない。
屍に抗しうるのは、セラのような人間だけ。屍の血を喰らって生きる、屍狩りの眷属だけ。
呪われた一族なのだ、と、かつてセラは私にそれだけ語ったことがある。
だからセラは、夜になると外界に出る。屍を喰らって生き延びるため。私を屍どもから守るため。
どちらがほんとうの目的なのか、きっとセラにもわからなくなっている。私にも。
深夜に目が覚めるようになったのが、いつのころだったが思い出せない。
一度、真夜中に部屋が屍に襲われ、すんでの所でセラに助けられたあの日だったか。
それとも、セラと初めて体を交わしたあの日だったか。
或いは、ただゆくりなく深更に目を覚まして、一晩中泣き続けた日だったかもしれない。
代わり映えのない日々は、記憶を曖昧にして、嵐の後の泥濘のように全て等しい夢幻に変えてしまう。
だから、この夜も、私の永遠に続くぬかるみの日々のいずれであってもかまわなかった。
締め切られた窓の外から、大地を包む屍どものうなり声が低い耳鳴りのように延々と響き続ける。地上3階の、壊れたソファの上に体をちぢこめて、私は膝を抱えながら夜の過ぎるのを待ちわびる。
人が生きていたころと変わらない月光が、窓のヒビに乱反射して、壁に裂け目のような金色の筋を描いている。その乱れた模様に、私は、セラの背中を思い起こす。
ふたたび彼女に会えない気がする。
けれど、きっとセラは帰ってくる。
夜のたび、いつも私の思いはその両極に引き裂かれ、抑えようもなく乱れ、崩れ、壊れそうになる。ずっと乗り越えてきた夜に、今度こそは、呑み込まれてしまうのではないかと。
体の下で、クッションのバネが、すこしずつ錆び付いて歪んでいく。きしきしと、かすかな音が、屍の鳴き声に混じって私の耳をかりかりと引っ掻く。そのたびに、目に見えないものがどうしようもなく傷ついて、取り返しがつかなくなっていく。
私も、セラも、目に見えない場所で傷ついている。
きつく膝を押さえつける。自分の体温と、汗と、埃の匂いがする。
遠くでひときわ甲高い悲鳴が聞こえる。セラの、捕食の音だ。
その、ガラスの砕けるような音を聞きながら、私はつかのまのまどろみに沈み込んでいく。
ふいに目が覚めた。
響きがやんでいた。きん、と氷のように冴え渡る静寂が空気を満たしていた。
その静けさが、逆に私を恐れさせ、目覚めさせた。野生の警告のように。
目を上げると、ひび割れた月明かりが部屋にさしこんでいる。
裂けた月は、銀色の光で、私の瞳を突き刺した。
静寂を砕いたのは、私の悲鳴だった。
コートににじんだ血の色は消えることがなく、灰色の背中や、銀の髪や、夕暮れの赤い陽光と重なり合っている。それはまるで、骨がらみになって決して離れられない執着のようだ。
私の視線に気づいて、セラが戸口の前で振り返る。
彼女の美貌は、いまや、まるで金槌で滅多打ちにされた粘土のようにねじ曲がっている。出来損ないの人形、遠い昔に見た抽象画、本で読んだ古代の壁画。
私の目は、あの夜以来こわれてしまった。銀色の、こわれた月の光を直視すれば、人はこわれてしまう。
「だいじょうぶ?」
セラの声は前よりもずっと鮮明に聞こえる。視力を失った私を助け、慰め、哀れむような声音は、かつての、真っ当な愛情にあふれたそれとは違ったふうに聞こえる。耳までこわれているのでなければ、これが、ほんとうのセラの声なのかもしれなかった。
私はソファからよろよろと立ち上がる。クッションから飛び出したバネが、醜い音を立てて伸び縮みし、ソファの隅々から埃が舞い上がる。
前に足を踏み出した私を、セラが抱き留める。すがりつく私の腕の上から、セラの骨張った二の腕が覆い被さってくる。腕の細さも、かすかに震える指先も、倒れ込むような体重の動きも、いまになって初めて教えられたように私の感覚に伝わってくる。
顔を上げると、目の前には、ズタズタに切り裂かれたセラの顔。
口づけを交わす。寸前の、かすかな吐息の熱が、唇の熱量に呑み込まれる。
絡み合う舌の表面が、ざらざらと、野生動物のそれのように粗く熱いのを私は知る。自分の舌が、セラの長い犬歯に触れる。おそろしく尖った先端が、私の肌を突き破る夢想が脳裏を駆け抜けて消える。
私の血の味は、きっと、いまや、カラメルのようにあまくとろけて、ふたりの舌を満たすだろう。
だから、いっそセラに私を噛みちぎってほしい。彼女の唇のなかで、粉々に砕けて、あまい亡骸になってしまえばいい。歪な欲望が、私の中であふれかけては砕ける。
ふわり、とセラが離れていく。万華鏡から目を外すときのように、きらびやかな世界が遠離る感覚が襲う。
泣いていたかもしれないけれど、私の目には区別がつかない。あの夜から、私の瞳は、焼けるような熱を帯びたままだった。
「すぐ帰ってくるから、ね」
泣く児をあやすように、セラは告げて、きびすを返した。ふたたびドアの方に向かう彼女の背中を、私はこわれた瞳で見送る。
セラが戸を開ける。外の空気がどっと流れ込んでくる。この部屋以外のすべての窓も壁も穴だらけだから、吹き込んでくる風はひどく荒々しい。
一瞬、セラの髪とコートがはためいた。砂のような砕片を散らして波打つその様は、あたかも翼のよう。だけれど、天使だなどと彼女を呼べば、セラはきっと笑う。
「じゃあ、おとなしく、待っててね」
迷いを振り払うようにかぶりを振って、セラは告げる。うん、と、私はかすかにうなずく。
ふわりと翼をはためかせ、セラの姿が扉の果てに消えていく。
きらきらに砕けた世界のなかで、ひとり沈黙に取り残されて、私はそっと自分の唇に指先を寄せる。
彼女のくれる、あまい血の味だけが、私をこの世界につなぎ止めている。