とけて心は安らかに
悶々――
智は困惑していた。
あらゆる思考能力を絡められ、リクライニングチェアを横一文字に倒して
両手両足をだらりと伸ばしている。
骨のない人間が拳銃でも突きつけられて両手を上げれば、
倒れてしまってこんな姿にでもなるだろう。
真人間ではなく、エクトプラズムを口からこぼしてしまったと
説明されれば納得できるかもしれない。
しかし実際には口からはささやかにため息がもれ、
かろうじて生命活動を行っていることが伺える。
放心なのかそれとも無我なのか、それは誰にもわかりえないことだった。
ドアが開く。それは那々絵だった。
半袖の上から智の中学のころのウィンドブレーカーを羽織っただけの軽装。
すぐに異常な智を見つけ、眉をしかめる。
しかし彼はそれに気づかず、相変わらず目を虚ろにしている。
「さ……とし?」
身を引く那々絵がつぶやくが智の耳には届かない。
恐る恐る、近づいて肩をゆする。
浅く体がぶれて、その瞳にかすかに光が宿る。
「…………?」
緩慢なタコのような動きで視線を那々絵に移す。
そしてまた元の目線に戻る。
しばらくしてまた那々絵を見る。また戻すかと思われた瞬間、
驚きの声を上げてイスからずり落ちる。見事な三度見だ。
「のっ!?」
智の叫びを皮切りに、まるで磁石を介したように2人同時に後ずさる。
驚いた顔の那々絵に、気まずそうに頭を抱える智。
「お……おう」
背を向け肩越しにようやくつぶやく。
「なにが"おう"よ、変な格好なんかしちゃって」
立ち直すと髪をかき上げる。「マンガ貸してもらおうと思ったんだけど」
うつむき、何気ないふうを装う。
「そか、勝手にもってけば」
那々絵の眉がぴくりと動く。
「なに? なんでそんなにスネてんの?」
「スネてなんかねえよ!!」
振り向きざまに叫ぶが、平然とした那々絵に逆に体悪く黙り込んでしまう。
那々絵は記憶を辿ってみる。
このところ智と顔を合わせているのはこの部屋のなかがほとんどで、
那々絵が大学や外出したときの出来事が原因ではなさそうだ。
そういえばこの前マンガを読みに来たとき、なぜか智がふさぎ込んでいた。
彼女はとくべつ話すことがなかったから喋らなかったが。
ということはその前か。そのとき、彼女は得心した。
「ああ、一昨日のあれね」
那々絵は、外出しようと家のドアを開けてなんとなく顔を上げたとき、
この部屋の窓が目に入ったことを回想していた。
あのときは智のことに気づいてはいたが、逆光で表情が見えなくて、
彼が自分に気づいてるとは思わなかっただけだった。
「あれがなんだってのよ」
それ以外にはありえないと思い、智の背中に訊ねる。
しかし相変わらず黙したままだ。そしてまた納得した。
「ああ……なんか私が男のところにでも出掛けたんだと思ってるワケね」
「違っ……!!」
振り向いた智の顔は、少し怒っているように見えた。
那々絵は「その通りよ」とでもあしらってみようかと考えていたが、
智が嫉妬していることに嬉しくなってやめにした。
「やっぱ、マンガいいや」
軽い足取りで靴をはき、手を振る。智はわけがわからないと戸惑う。
「……そんなことじゃないよ」
振り向いて彼女は笑った。「ただ、友達の相談にのってただけ」
じゃね、と言ってドアを閉める。
那々絵は自分の顔が笑っていることに気づき、頬に手を当てたが、
やっぱりにやけたままでいいやとマンションの階段を折り始めた。
遠ざかる足音を耳にしながら、智は呆けていた。
しばらく凍結していた思考が次第に融解を始める。
ベッドにどさりと仰向けに横たわる。
天井を見つめ、そしてふっと吐息をもらした。
それはもうため息ではなく、表情には安堵が満ちていた。