ヤツ
カーテンを締め切った自室で、那々絵が読書している。
若年層をターゲットにしぼった女性向け恋愛小説で、
彼女にはかなりくすぐったかったが、その感覚を楽しんでいた。
マグカップのミルクティを口に運ぶ。
紙面から目を離さず、文の流れるさまと湯気にまとう香りを感じる。
少しぬるくなった紅茶。彼女のまぶたの動きは緩慢になってきていた。
音がする――
那々絵はびくりと首をすくめて、その方向を見た。
家の軋みだろうか。それともラップ現象?
彼女が最終的に察知したのは、そんな生易しいものではなかった。
部屋の隅、洋服ダンスと壁の隙間。彼女の視線はそこへ向かっている。
いまにも黒いヤツが表れそうな気配。
それは霊にも似た存在感だった。
実際にその場所にいるかはわからない。なぜなら確認しないから。
けれどそこにいると感じてしまう。
そして頭では現れる瞬間をつくり出してしまっている。
そしてその姿は、想像であるために普段の姿とは違っていた。
闇になっている隙間からは、
部屋の高さギリギリの横幅をもつソレが壁を這いながらこちらへ来るのだ……
のそりのそりと。確実に。
黒い体をてからせながら、節のついた脚をしゃかしゃか動かしながら。
高校のころ、友人に騙されて見てしまった図鑑の写真を思い出す。
小さな頭。トゲのようなものがついた脚。背中で羽が左右にわかれている。
そう、あの羽は飛ぶときにこれでもかと開かれる。
のみならず、ヤツらは潰れるとその羽の間から体の内容物をはみ出すのだ。
彼女の感覚は覚醒し、視神経は研ぎ清まされている。
脳内では黒いアレが這いずり出る場面がリフレインされている。
なにか気をそらなければ、と思い目をそらす。
しかし室内には隙間、小暗がりがいくらでもある。
そしてその闇からは、アイツが出てくる可能性があるのだ。
いよいよ幽霊じみてきた、と思いながら、ベッドの毛布を体に巻く。
部屋をきょろきょろ見回し、影の場所を探す。
家具の闇のみならず、ひきだし、テレビのスピーカーの奥、
ドアの下、カーテンの向こう、そして自分の背後。
死角はすべて、可能性を秘めている……
そこで彼女は重大なことに気づいてしまう。
今日、現在。まだ父親は帰ってきていない――
つまり、本当に出現したときの最善策があてにできないということ……
薄気味わるい気配を首筋に感じながら、彼女は声を上げた。
「おかあさ――――ん!!」
電話が鳴る。
「はい、智で――」
「早く来て!!」
耳をつんざくような悲鳴に驚き、智は受話器を離す。
それでも興奮している那々絵の声は聞こえる。
「……とりあえず落ち着け。話は聞いてやるから」
ことの一部始終を聞き、智は乾いた笑い声をこぼした。
那々絵は母を呼んだ後、部屋を出る決意をすることができず
電話の子機をもってきてもらい室内から通話しているそうだ。
那々絵の母もアイツのことを聞いてしまい、
娘の部屋に入られず子機をドアから放り投げたという。
早口でまくしたてる様子から、那々絵は相当まいっているようだ。
「……わかったよ。で、俺はどうすればいいわけ?」
「とにかくこっちに来て……すぐに部屋に、ひっ」
那々絵が怯えれば怯えるほど、智はくだらないと思えてしまう。
たぶん部屋にはなにもいないんだろう。
ひとりで一触即発して、なにをしてんだか。
靴をはきながら、まあ那々絵の部屋に入れるのは僥倖かと考える。
これはこれで、かわいいのかもしれない。
かわいい。その感情がわいてくる前に考えを振り払い、
智はドアを開けて階段を下り始めた。
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