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消去スイッチ
作:アオキチヒロ


「この箱を開ければ、世界は変わるよ」
 そんな夢みたいな台詞を言いながら近所のお姉さんがくれた小さなクッキーの缶箱は、その時からずっと私の宝物だった。
 小さなその箱は、大きくなった今では片手で収まるほどの大きさだったから、私は毎日持ち歩いていた。この箱を持っているだけで、私は自分が他の人とは違う気がしていた。



「書けた人から提出すること」
 先生のその一言で、私の持つシャーペンはまるで鉛のように確実に重くなった。
 もうそろそろ本気で将来のことを考えなければいけないこの時期、今の時間は進路希望調査のプリントと睨めっこの時間だった。
 私は近所に住む沢村の方をちらりと横目で見た。プリントはもうすでに書き終わったのか、相変わらず訳の分からない本をしかめっ面で読んでいる。あんな本を読んでいなくとも、沢村はしかめっ面をしているから、きっとあの顔はもう癖なんだ。そうに違いない。
 なのに、あれがクラスで一番格好良いと騒がれるのだから、他の女子の気が知れない。あんな仏頂面のどこがいいのだろうか。頭が良ければいいというものでもない。
 睨むように沢村を見ていたら、彼がこっちを見たような気がしたので、私は慌ててプリントとの睨めっこを再開した。このプリントの空白を、あと四十五分で埋めなければ。
 書かなければいけない。目標のこと、行きたい高校のこと、やりたいこと。
 考えなければいけない。明日のこと、これからのこと、大人になってからのこと。
 風が出てきた。カーテンが揺れる。私の足下に、ゆらゆらと陽が当たる。それを見て、私は一度だけ伸びをした。





 ***





 沢村と初めて喋ったのは、小学校に入りたての時。私がずっとあの箱を握りしめていたから、沢村は気になって仕方がないようだった。
「おれにもそのクッキーくれよ」
「クッキーは入ってないよ」
「じゃあなんで持ってるんだよ」
「この箱にはね、魔法が入ってるの」
 私は、高らかにその箱を掲げる。太陽に透かしたところで、肝心の中身は一つも見えない。
「どんな魔法?」
「世界が変わる魔法」
 沢村は笑わなかった。すごい、と言って、その言葉を信じてくれた。あのころの沢村は、まだしかめっ面の癖はついていなかったと思う。
 ちょうどその日、魔法の箱をくれたお姉さんは遠い都会の街へと引っ越した。

   *

 桜が咲いている。いきなり場面が変わった。今より少し垢抜けない顔をした私が、必死で自分の名前を探している。そうだ、これは中学校の入学式だ。
「小川は三組」
 ぶっきらぼうに言ってきたのは、今ほど制服を着こなせていない沢村だった。
「沢村は?」
「二組」
「そっか」
 いつの間にか、沢村は私のことを苗字で呼ぶようになっていた。背も、私の方が高かったはずなのに、軽く追い抜かされていた。
 私は変わらないのに、沢村はどんどん変わっていった。





 ***





 目を開けると、横向きにクラスメイトが伸びしているのが見えた。
 慌てて起きあがると、頬には進路希望調査のプリントが貼り付いていた。将来のことを考えるつもりが、いつのまにか過去の夢を見ていた。
 提出期限は今日までのようで、周りのみんなは真面目にプリントへと書き込んでいる。教卓の椅子に座る先生は、俯いて床を見ていた。たぶんあれは寝ているのだと思う。
 私はキャラクターがブラブラ揺れるタイプのシャーペンを握って、『就職・進学』の選択肢で迷うことなく『進学』に丸を付ける。なんだ、楽勝じゃないか。そう思うのも束の間、次の選択肢で早速詰まった。
「高校の名前……」
 声に出すつもりは無かったけれど、思わず漏れた。誰も気にしなかったようで、何も言ってこない。
 どうしよう。行きたい高校なんて決めていない。
 私は諦めてシャーペンを机の上に置き、代わりにもう一度伸びをする。

 カツン。
 
 置き所が悪かったのか、シャーペンは机の上から飛び降り自殺をした。
 静かな教室で、その無機質な音だけがいやに響く。誰かが自分を見たけれど、それに気付かないふりをしてシャーペンを拾った。
 それで終わり。なんだか全部いやになった。どうでもいいじゃない。
 なんとなく沢村をもう一度見る。まだ本を読んでいた。彼ならこのプリントになんと書いただろうか。きっと、有名な進学校の名前に違いない。彼はそういう人間だ。
 だからいい高校へ行って、いい大学へ行って、いい職業に就くんだろう。小学校から夢が変わっていないのなら、医者になるつもりなのかもしれない。彼は、そういう人間だ。
 沢村はどうしても本から目を離さないので、仕方なく私は机に向かって、プリントを見つめるふりをした。まったく何も書けそうにない。頭の中がごっそり抜け落ちたようだ。先生、もしかすると私、頭の中身を家に忘れてきてしまったのかもしれません。

  

 そういえば昔、あの箱を開けようとしたことがあった。私が沢村に告白をして、ふられてしまった日のことだ。沢村は、ただ一言「ごめん」と私に言った。
「違うよ、何本気にしてんの、馬鹿じゃない? 冗談に決まってるじゃん。私が沢村を好きなわけないじゃん。いま流行ってるからさあ、告白するの。馬鹿、冗談に決まってるじゃん、そんなの」
 あの後、何を言ったのか全然思い出せなかった。見栄っ張りな私のことだから、何か下らないことを言ったのだろう。
 涙がボタボタ出た。どうしようもなく、ボッタボタ流れた。有り得ないくらい涙が出てくるので、私は世界を変えようとした。つまり、逃げた。
 結論から言うと、私は結局その箱を開けなかった。ぞの日、別の女の子が沢村に告白をして、同じようにふられたからだ。
 そうだ。あの日だ。あの日から沢村は、私のことを苗字で呼ぶようになった。



 カーテンの揺れが激しくなってきた。風が吹き荒れている。ばさばさと吹くもんだから、窓際の席の人達がみんな窓を閉めてしまった。やめてくれ、息が詰まる。
 教室は、余計に静かになった。カリカリと将来を書き綴る音しか聞こえない。前を見ると、先生はまだ眠っていた。寝てる場合じゃないだろ、教育者。
 私は、目の前のプリントに腹が立ってきた。こんな一グラムにも満たない紙に、私は何を書こうとしているんだろうか。
 もう一度寝ちゃおうかと思ったけど、やっぱりやめた。五時間目終了まで、あと十五分しかない。
 寝てはいけない。寝てる場合じゃないだろ、受験生。
 書かなければいけない。目標のこと、行きたい高校のこと、やりたいこと。考えなければいけない。明日のこと、これからのこと、大人になってからのこと。
 逃げてはいけない。いまのこの時間とか、廊下側の席とか、教室とか学校とかこの町から。
 迎えなければいけない。あと一年も経たないうちに、受験だとか卒業だとか。そしたら、高校生になって、すぐに大学受験が来て、そうだ。
 大人にならなければいけない。大人にならなければいけない。大人にならなければいけない。大人に……



 なんか、いやだ。



 お姉さんは、ほんとうは「世界が消える」と言っていた気がする。あの箱は、世界を変えるのではなく、消すのだと。
 その時の私は子供だったから、そんな魔力を持った箱が怖くて仕方なかった。だから、お姉さんは言い直したんだ。世界が変わるのよ、と。
 きっとそうだ。そうだったんだ。
 なら、もう迷いは無い。
 私はいつも持ち歩いているあの箱を鞄の中から取り出す。もらった頃は綺麗な赤色をしていたそれは、いつの間にかペンキがはげて朱色になっていた。取り出したとき、沢村がこっちを見た気がした。
 もう片手に収まるようになってしまったそれを机の上に置いて、深呼吸。
 今日、世界を消してしまおう。消すことは出来ないかも知れないけど、この箱を開ければ、何かが変わる気がする。こんな面白味もない世界、変えてしまおう。
 さようなら、いままでの世界。
 


 つん、とかび臭い匂いが、私の鼻を掠めた。



 そう、世界は消えた。私が缶を開けたから。
 もう顔も思い出せない、だけどぼんやりと綺麗だったことは憶えているあのお姉さんから貰った、小さなクッキーの缶箱。
 それを魔法の箱だと信じていた世界は消えた。
 魔法を信じていた私は、魔法を信じない私へと変わった。
 何だか頭の中が空っぽのようだ。先生、どうやらやっぱり私は頭の中身を家に忘れてきてしまったようです。
 目の前にあるプリントが、私をあざ笑った気がした。分かったよ、諦めて君の空白を埋めることにしよう。私には、それしか出来ない。
 大丈夫。こんな空白、五分もあれば埋まる。
 だからちょっとだけ泣いておこう。変わってしまった世界と、変わってしまった私のために。
 それから、後で沢村に聞きに行こう。第一志望の、高校の名前を。



















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