悪役の弟
僕が片桐家の子供になったのは、ちょど小学校に上がったタイミングだ。
シングルマザーである母は片桐社長に見初められ、あれよあれよというままに、社長夫人の座に収まった。まるでシンデレラストーリーだ。
そして母に手を繋がれ大きな屋敷に連れていかれた僕は、今までとのギャップにただただ驚いた。僕にとって家と言うのはアパートであり、広すぎるそこはまさに城だ。
そして、そのお城にはお姫様が住んでいた。
「紹介しよう。この子は、私の娘である小夜だ」
「これからは明のお姉ちゃんよ」
義理の父と母に紹介された少女は、まるで人形の様に整った顔立ちだった。長い髪は癖の全くない黒髪ストレートで、瞳も同じく夜闇の様にどこまでも純度の高い黒だ。今まであった誰よりも綺麗だけれど、儚いとかそんなイメージは全くない。それぐらい強烈な印象だった。
「初めまして、明」
「は、はじめまして」
声をかけられ、やっぱり人形ではないのだと思う。……彼女は、この城のお姫様だ。
僕は戸惑いながらもなんとか挨拶をした。この綺麗な少女が姉になるのかと思うと嬉しいというよりドキドキした。
「これから、よろしくお願いします」
「……ええ。よろしく――」
お姫様が姉だなんて何だか不思議だなぁと思い浮かれていたが、握手した手に突然力を入れられたビクッとする。突然の痛みに僕は意味が分からず小夜を見た。
「――するわけないでしょ? どこの野良犬の子とも知れない血の子供と」
母と父は少し離れた場所で仲良くなって良かったなと笑いあっている。僕らの様子には気が付いていないようだ。
「私は貴方を弟とは認めないわ。でも私を姉と呼ぶならば、私に恥を欠かせないだけのマナーや教養を身につけなさい、雑種」
……このお姫様、めっちゃおっかない。
綺麗だけど、彼女は優しいお姫様ではないと僕はすぐに理解した。
「小夜、明君。これから食事を食べに行こうと思うのだが」
「分かりましたわ。お父様」
義父が呼びかけると、コロッと態度を変え、小夜は可愛らしく笑った。しかし、先ほどの姿を見た僕としては、怖い以外の何物でもなかった。
「お父様と……一応貴方のお母様の顔だけは立てて上げるわ。雑種、行くわよ」
……雑種って、僕のあだ名?
一方的に嫌われて、これから彼女とちゃんと兄弟をやっていけるのかと、僕は不安になった。
◇◆◇◆◇◆◇
初めての食事会は、とても味が分かるものではなかった。
テーブルマナーなんて、母に連れていってもらった事のある外食チェーン店なラーメン屋ではないに等しのだ。もちろんナイフなんて使った事がない。
何もかもが初めてで、最初に置かれていたナフキンすらどうしていいのか分からなかった。とりあえず母のマネをして膝に置いてみたもののさっぱり分からない事だらけだ。
そして食べている最中に音を鳴らしては、凄い勢いで小夜に睨みつけられた。その為、何が正しいのかは分からなかったけれど、何が間違っているかは、よぉぉぉく分かった。
そして食事が終った後に散々小夜には嫌味を言われた。
やはり野良犬には、野良犬らしい食事しか分からないのねから始まるものだ。
「いいこと。お父様は家族の食事会を楽しみにしていらっしゃるし、これからは不本意ではあるけれど貴方も片桐家の人間として食事会に招かれたりもするの。でもそんな野良犬のような食べ方では私が恥をかくわ。食べ方ぐらいすぐに矯正なさい」
まったく、躾がなってないわとブツブツと小夜は文句を言う。
翌日、テーブルマナーを教える講師がついたので、よっぽど酷かったのだとは思うけれど、でも仕方ないのにと思った。勿論、小夜に言い返した日には何十倍にもなって返って来るのは目に見えていたので、できなかったけれど。
こうして片桐家での生活は始まったのだけれど、慣れなかったのはテーブルマナーだけではない。
初めて1人部屋を貰ったのだけれど、あまりに大き過ぎる部屋は僕にとって恐怖でしかなかった。いつもなら、母が居るのにこれからは1人で寝る様にと言われてしまい、恥ずかしい話だが夜になった時不安で涙がこぼれた。
もう僕も小学生だ。
分かってはいるけれど、人の気配を感じられるアパートとここはあまりに違った。
しばらくしくしく泣いていると、突然部屋の扉がバンと勢いよく開いた。そして僕に向かって何かが投げつけられた。
「煩い。片桐家の者が簡単に泣くんじゃないの」
そこに立っていたのは、隣の部屋に居る小夜だった。
「いいこと。もしも私のお父様と貴方のお母様の間に子供ができたら、貴方なんて用済みよ」
僕が泣いているというのに、小夜は遠慮なく冷たい言葉をぶつけた。優しい声かけをしてもらえると期待していたわけではないけれど、流石にそんな言葉を言われるとは思わなくてキョトンとしてしまう。
「だから、今のうちに片桐家の者として恥ずかしくない振る舞いを身につけなさい。雑種でも躾けられた飼い犬になれば少しはマシのはずよ」
今にして思えば、これは小夜自身が思っていた事なのだと思う。
片桐家には運よくというか、運悪く、この後も義父と母の間に子供は生まれなかった。仲睦まじいのは分かっていたのでそこは心配していなかったけれど。
でももしも生まれていたら、たぶん家督はその子供が継ぐことになっただろう。
そして、現在も女である小夜ではなく、男である僕が基本的には継ぐものだと誰もが思っている。この時点で小夜は自分が要らないのだと感じていたのだ。
だから用済みと言うのは僕に対してではなく、小夜自身がずっと思い続けてきた言葉だ。
「野良犬の子供だったら、仲間が居れば少しはマシでしょ。遠吠えなんてせずにさっさと寝なさい。夜更かしは美容の敵なのよ」
そう言って、バタンと閉じられた扉を見つめる僕の傍には、犬の縫いぐるみが転がっていた。たぶん先ほど小夜が投げつけたものだろう。
まるで幼い子供のように縫いぐるみを抱きしめながら、僕はその日眠った。
でももう、夜の闇が怖いとは思わなかった。夜のお姫様である小夜が隣の部屋に居るのだから。
◇◆◇◆◇◆
それからも、僕は小夜に事あるごとに小言を言われるようになった。
勉強ができなければ片桐家の者として恥ずかしい。武に通じていなければ片桐家の者として恥ずかしい。華道や茶道ぐらいできて当然。できなければ――エンドレスである。
遊ぶ時間なんてほとんどなく、毎日のように習い事をさせられた。
そしてそれを小夜は絶対褒めたりしなかった。ただただ出来ないことに対しては、ここぞとばかりに馬鹿にして攻撃をしてくる。その為、僕は必死に勉強するのだ。
勿論誰も褒めてくれないわけではない。義父や母は褒めてくれた。テストがいい点なら嬉しそうにし、書道で賞を貰えば褒めた上で何かプレゼントをくれる。
それに対しては小夜は決して何も言わなかった。褒めない代わりに、何も言わない。
むしろ、使用人や親戚の方が面倒な人が多かった。
小夜の評価は、ある意味平等だ。できる事は褒めない、できない事は貶す。妄想で僕を見たりはしない。
それでも使用人たちは、僕の父親が分からない事もあって、陰口を叩いていた。でも面と向かっては何も言わない。親戚も同じだ。義父の前で優秀だと褒めた口で、裏で身分が卑しいと口にする。正直、僕の周りは敵ばかりだ。
ある意味、小夜はわかりやすかった。義父達の前で僕を罵らないのは、義父達の仲に水を差さないため。自分が怒られないためとかではないというのは彼女の行動でわかる。母のことを認めているのかは分からないが、お父様がそれを望むならと何も言わなかった。
それに小夜は、僕が相手だからと仕事に手を抜く使用人にも容赦がなかった。
「明が雑種だということは認めるわ。でも、今は片桐家の者。それをどうして貴方が侮辱できるというの? それは片桐家に刃向うのと同じ事」
偶然見かけてしまったのだが、パチンと扇を鳴らしながら話す小夜は、とてつもなく迫力があって怖かった。
もちろん傍から見ていた僕が怖いぐらいなので、直接対面している使用人などもっと怖かっただろう。
「誰にでも失敗はあるもの。間違えてしまう事もあるわね。でも片桐家で働く者なら、一度で覚えなくてはいけないわ。私もお父様も物覚えが悪い人を雇う趣味はないの」
そう言い放ち廊下を歩いてきた小夜と鉢合せしてしまい、僕は俯いた。
小夜が僕を見た瞬間、少しだけ目を大きくして、すぐに不機嫌そうな顔をした為に。
「野良犬のようにコソコソ立ち聞きとは行儀のいいことね」
「あ……ごめんなさい」
「でも聞いていたならちょうどいいわ。片桐家を名乗るなら、使用人などに侮られないで。同じ雑種だから言う事を聞かせられはしないかもしれないけれど、雑種は雑種なりのやり方があるでしょう」
パチンと扇を鳴らされて、僕は背筋を伸ばした。姿勢が悪いとそれでも厭味が飛んでくるので、たぶんその癖だと思う。
背中を丸めるな。前を向け。顔を上げろ。
小夜は僕を虐めるが、決して卑屈になることを許さない。片桐家で居る限り、それ相応の振る舞いを要求する。
「雑種なりのやり方って?」
「母親と同じきれいな顔もらったなら、それを武器にできるでしょう? 私はごめんだけど」
「きれい?」
「お父様がお認めになった顔なのよ。何か文句あって?」
小夜の言葉に僕はぶんぶんと首を振った。
それだけ言うと、小夜は僕の横を通りすぎて行った。
「……どうしよう」
話の流れだとは分かっている。でも小夜がきれいだと褒めてくれた。
その言葉は想像以上に、僕の心を浮かれさせる。うれしくて仕方がない。
その日から、僕は小夜に馬鹿にされないように習い事を頑張るのではなく、認められる為に習い事を頑張るようになった。
◇◆◇◆◇◆
こうして片桐家で過ごしてしばらく経った頃、僕は大きなパーティーに出る事になった。
必死に頑張っただけあって、付焼き刃だがなんとか立食パーティーのマナーは小夜に睨まれないレベルにはなっていた。
でも睨まれないのは睨まれないでなんだか寂しいと思ってしまう。
もっと構って欲しいけれど、小夜は何もしてくれない。
「小夜さんも来ていたんだ」
「ごきげんよう。雨宮様。奇遇ですわね」
パティー会場で小夜に駆け寄るように近づいてきた男は、うれしそうに笑った。
その表情に、僕はなんだかムッとする。距離もなんだか近いし、馴れ馴れしすぎではないだろうか?
「姉さん、その方は?」
二人っきりにさせたくなくて、僕は小夜に声をかけた。
「雨宮湊斗と言います。えっと、……弟さん?」
「ええ。先日私の父が再婚しましたの」
「片桐明と言います。よろしくお願いします」
僕は猫を被って、ニコリと笑った。どういう関係なのかなど色々聞きたい事があったが、たぶん今根掘り葉掘り聞くと小夜の不機嫌度が一気に上がるので止めておく。
「そう言えばそんな話があったっけ」
僕の声など聞こえないと言うかのように、彼は僕の挨拶を無視すると小夜と話した。ムッとしたが、マナーに煩い小夜も何も言わないので、僕もいつもの事だと流す事にする。流石の小夜も、相手が同じく金持ちだと何もいえないらしい。
「それにしても小夜さんも大変だね。野良猫が家の中に入りこむなんて。いくら綺麗な外見でも、野良は野良だからね」
しばらく小夜と話していた雨宮は、僕の事を野良猫と例えた。もしかしたら僕ではなく母の事かもしれないけれど。小夜も僕の事を雑種だと例えるので、お金持ちの例え方って結構みんな同じなのかもしれない。
「あら、野良は野良でも従順な犬だからご安心を。しっかりと手綱は握っておりますわ。それに、犬というのは結構賢くて物覚えもいいんですのよ」
「それならいいけど――」
「でも雑種と馬鹿にしてもしも負けては、雨宮家の恥ですわね。お気をつけあさばせ。明、挨拶に周るわよ」
にこりと笑いながら小夜はその場を移動したので、僕も一礼をして小夜の後ろについて行く。
「あの馬鹿男に負けたら承知しないわよ」
「えっ?」
「片桐家の名を名乗りたいなら、それぐらいやってのけなさい。彼と貴方は同学年なのだから」
ぴしゃりとそれだけ言うと、小夜は話は終わりだとばかりに突き進む。
……僕の事信じてくれているのかな? もしかしたら自分の家を馬鹿にされるのが我慢ならなかったのかもしれないけれど。
でも小夜はちゃんと僕を見てくれている。
「まったく。お父様同士が仲が良いからって、あんな馬鹿男の許嫁なんてあり得ないわ。いつもはあそこまで馬鹿ではないと思うのだけどね」
「えっ? イイナヅケ」
「ただの口約束よ。でもおかげで私の事を自分のものだと思っている節があるのよね。おかげでくだらない事を言ってくるのだから、本当に馬鹿だわ」
小夜は迷惑そうに言うけれど、僕の頭の中では、『イイナヅケ』と言う言葉がぐるぐるとまわる。
それと同時に、雨宮という男は敵だという認識が高まった。どうやって彼に負けなければいいのかは分からないけれど、絶対負けたくないと思った。
◇◆◇◆◇◆
「小夜は僕に対して厳しかったけれど、自分自身にもとても厳しくてね。だから彼女は正しいんだと思うんだ」
「あ、それ分かるなぁ。小夜様に言われると、直さなきゃって気分になるんだよねー」
僕は青空光と話ながら、こんなに小夜の話で気が合う子は初めてだなと思う。小夜は大抵の人からは恐れられていた。
外部入学生な光は庶民の出な為、お嬢様とは違う価値観で動き小夜の眉をしばしば顰めさせるけれど、小夜の事をちゃんと評価している所には好感度が持てた。
「明君って、本当に小夜様の事が大好きだよね」
「当たり前だよ」
どれだけ初恋を拗らせていると思うんだ。初めって会った時の姫様は今もなお気ぐらいの高いお姫様だ。
小夜は相変わらず僕の事を弟と見ていないけれど、でもそれでいいと最近は思っている。僕は小夜の弟なんかに収まりたくはない。
だから雨宮が光を好きになるように仕向けたわけだし。
「私も小夜様ともう少し仲良くなりたいんだけどなぁ」
光は小夜が苦手とする天然な性格だから色々難しいかもしれないけれど、僕は言わないでおく。
「光が雨宮をもっと躾けられたらね」
「躾けるって……私はそんな事出来ないよ」
見事雨宮は、光に引かれて、小夜の事はどうでも良くなったようだ。そのままフェイドアウトしてくれれば僕としては万々歳である。
「光なら大丈夫だよ。よろしく、小夜の活躍をそっと見守る会の会長さん」
「仕方ないなぁ。明もあまり小夜様を苛めちゃ駄目だよ」
最近よく屋上で泣いている小夜を思いだして僕は苦笑した。
小夜の場合、中々優しくさせてくれないから困るんだけど。彼女が優しくさせてくれるなら、どれだけだって甘やかせてあげるけれど、きっとそれは小夜のプライドが許さないだろう。
それでもそんなお姫様を手に入れたいのだから仕方がない。
「肝に銘じておくよ」
そういって、今日も誰よりも気高いお姫様の元へ、僕は向かった。