第7章
「いやあ、やっぱり若い人の回復力っていうのは凄いなあ」
回診にきた佐久間先生は、ベッドから起き上がって、食卓テーブルの上のワープロと向きあっている巧くんに、何度も頷いて感心していた。
入院してから三か月もすると、手術した巧くんの頭の傷痕は見えなくなり、短い黒い髪の毛が生え揃っていった。リハビリのほうも順調で、先生方が思っていたよりも早く、車椅子も松葉杖もなしで歩けるようにもなっていた。
「そりゃそうですよ」と、主治医の医師やら研修医やら、また婦長さんや看護婦さんやソーシャルワーカーの人やらに囲まれつつ、巧くんは屈託なく笑っている。「俺がこうなって一番嫌だったのが、自力でトイレにいけないことでしたからね。とにかく、看護婦さんの手を早く煩わせないようになりたいという一心で、リハビリに励んだようなもんですよ」
「ああ、でも出雲さんには……」と、まだ年若い巧くんの主治医は、クリーム色のカーテンに隠れるように佇むあたしのほうへ、ちらと意味ありげな視線を投げた。「看護婦以上に、彼女の存在のほうが大きかったんじゃありませんか?前途有望な作家と、美しい妻……将来のために、ちょうどいい予行演習になったように思いますけどね、僕は」
これだから回診の時に居合わせるのは嫌なのよ、と思いつつ、あたしはむっつりした顔で、押し黙ったままでいた。あたしからなんの言葉も発せられないのを見て、巧くんがフォローにまわる。
「先生、前にも言ったじゃないですか。ちえみは弟の恋人なんですよ。いってみれば、将来の義理の妹ってとこですね。それじゃあ、来週には退院できるっていうことで、あと一週間ほど、お世話になります」
「執筆活動、がんばってくださいね」
巧くんが看護スタッフに向かって頭を下げると、マシュマロみたいに優しい印象の残る太った看護婦が、そう最後に声をかけた。
佐久間医師を筆頭にして全部で七人ほどの人間がぞろぞろと部屋をでていき、カルテを乗せたカートが、それに続く……ソーシャルワーカーの三宅さんは、最後にひとり残ると来週の退院について、その手続きのことなどを軽く説明してから、隣の病室へと移っていった。
「退院おめでとう、巧くん」
あたしは誰もいなくなった個室で、ほっと溜息を着いてから、ベッドの脇のパイプ椅子に座った。そして彼が二作目の小説として上梓する予定の、『ヘリオトロープホテル』という、ロンドンにある(架空の)ホテルで起こった、密室殺人の謎に挑むべく、印刷されたばかりの原稿を再び手にした。
「まだ本当に退院したってわけじゃないさ」
巧くんはワープロに向かってパタタタタ、と素早いタッチでどんどん文字を打ちこんでいる。彼の言うとおり、頭の中にできあがっているものを、後はもう脳の回線を通して移植するだけという、いかにもそんな感じだった。
「予定は未定であって、決定ではないってね。まあ、それでもたぶん、来週の水曜日には退院できるだろうな。そうしたらロンドンへ小旅行して、自分の書いたことが確かに間違ってないかどうかチェックリストを手に調べにいかないとな」
「うん、あたしも読んでて凄いと思った。イギリスの地理とか鉄道の路線とか、向こうの文化とか習慣とか……イギリスについて本だけたくさん読んだだけじゃあ、ここまではとても書けないと思うんだ。出雲健一郎って、ワールドワイドに活躍する探偵なんだね」
「そうだね。これからも世界各国を舞台に、難事件を次から次へと解決する予定……なのはいいとしても、ちえみ、俺が来週退院したらそのあと――一緒にロンドンへいかないか?」
巧くんは、相変わらずワープロと向きあったまま、顔色ひとつ変えるでもなく、眉ひとつ動かさずに、なんでもないことのようにそう言った。
「巧くん、何いって……」
あたしはパイプ椅子を思わず後ろへ引いた。ギィ、と床の擦れる、嫌な音がする。
「やっぱり無理、だよな。健を裏切ることは、ちえみにはできないもんな」
ワープロから目を上げた巧くんと、あたしは暫くの間、見つめあったままでいた。言葉でなんて直接言われなくても、眼差しだけでわかる。愛している、と彼は言っていた。
「ちえみ……」
あたしは原稿の束をベッドの上に放りだすと、いたたまれない気持ちになって、そのまま巧くんの病室から外へでた。そして回診が終わったばかりの、佐久間先生と廊下でぶつかりそうになった。
「すみません」
あたしは小さく頭を下げると、先生の脇をすり抜けて、走っていこうとした。でも先生は毛深い、浅黒い手であたしの腕を引きとめると、どこか秘密めいた小さな声で、
「実は話があるんですよ」とわたしの耳元に囁いた。
「もしよかったら、今から少しお時間いただけませんか?」
ナースステーションの脇にある医務室で――ここは、先生方が入院している患者や患者の家族などに、病状や手術の経過などを説明したりする部屋だった――佐久間先生は読影台にかかったレントゲン写真などを机の脇に片付けると、あたしに椅子に座るよう勧めた。
「外科医っていうのは基本的に、体の傷を治したらハイさよならっていう存在ではあるんですがね」
先生は鼈甲縁の眼鏡をティッシュで磨くと、机に片腕をもたせかけた姿勢で、あたしのほうを振り返った。なんだか、これからガンを宣告される患者と医者の図といったような感じだった。
「出雲さんの場合は、極めて特殊なケースだと思うんですよ。精神的な意味合いでね――僕も脳外科医になって七年になりますが、頭の打ちどころが悪くて記憶を失くしたというケースは、出雲さんが初めてというわけじゃありません。乗っていた船が転覆して、奇跡的に助かった人が体の傷が全部回復してのち家族に会ったところ、まるで家族のことを思いだせないという、そういうこともありました……その方は自分のしていた仕事や職場の同僚のことはよく覚えているのに、家族のことがまるで思いだせないんですよ。その患者さんは航海士をしておられたので、航海のたびに何年も家を空けることも珍しくなかったという話ですから、そういうせいもあったんでしょうが――今も、家族との昔の記憶は思いだせないながらも、奥さんや娘さんや息子さんと、仲よく暮らしているそうです。出雲さんももしかしたら、これからもずっと交通事故にあった時の記憶は失ったままかもしれない。でも弟さんのことはいずれ、誰かが真実をお話しなくてはならないでしょう?その時、どうしても支えになる人が必要だと思うんですよ。ちえみさんは出雲さんの弟さんの恋人だったということですが……すみません、立ち入ったことを言ってもいいですか?」
構いません、という意思表示に、あたしは小さく頷いた。
「僕には、あなたが出雲さんの恋人のように見えて仕方がない。彼に聞いたところ、ちえみさんは幼なじみということでしたから、最初はそのせいかなと思ったんですが、僕の勘が間違っていなければ――あなたたちふたりはお互いを想いあっている、そうじゃありませんか?」
そうです、とも、そんなことはありませんとも、あたしには何も言えなかった。それでずっと顔を上げずに、俯いたままでいた。
佐久間先生は耳にはっきり聞こえるほどの、重い溜息を着いている。
「ちえみさんの、苦しい気持ちとつらい立場はわかります。でも真実を告げる時、できるなら彼の力になってあげてくれませんか?それができるのは、たぶんあなたひとりという気がするので……出雲さんが一般病棟に移ってから間もなくして、お母さんがお見舞いにいらっしゃったでしょう?いつもは冷静沈着な彼が、お母さんに向かっては『帰れ!』と怒鳴って暴れだした。そういうことを考えあわせると、頼めるのはあなたひとりという気がするんですよ」
――お母さんが涙ながらに病室に入ってきた時、巧くんは点滴の針をすべて引き抜くと、まだ不自由な体であったにも関わらず、そこいら中のものを彼女に投げつけ、ありったけの罵詈雑言を浴びせかけて、お母さんのことを追いだしたのだ。
『出ていけ、出ていけ!この淫売!俺の物に何ひとつ触るんじゃない!半径一メートル以内に絶対近づくな!この因業ババア!』
その場にいたあたしは、巧くんが精神錯乱を起こしたのではないかと思ったほどだったが、彼はあくまで正気だった。先生は廊下で泣きじゃくるお母さんに向かって『息子さんはまだ病状が安定していない』といったようなことを話していたけど、巧くんは看護婦さんに点滴針を交換してもらったあとで――『もう絶対、二度と会いたくないんだ、あんな女』と、押し殺したような声ではっきりとそう言っていた。
あたしは先生との話を終えて医務室をでると、頭の中の考えがまとまらないままに、巧くんの病室に戻った。自分のずるい考えを言葉にして巧くんに伝えるには、まだもう少し時間が必要だったので、少なくとも巧くんが退院する来週までに――自分の気持ちを彼に伝えるつもりだった。そして巧くんが『健のことはどうするのか』と聞いたら、真実を話そうと思った。これからふたりでその真実の重みに耐えていこう、と。
病室には巧くんの姿はなく、ワープロのディスプレイも閉じられていた。ベッドの、彼の座っていた箇所が、軽く窪んでシーツに跡を残している……売店にでも買物にいったのだろうかと思い、あたしはトートバッグを手にすると、時計に目をやり、少し早いけど帰ろうと思った。今日はお昼の一時から夜の八時まで、ウェイトレスのバイトが入っている。そのことは朝、巧くんにも伝えておいたので、何も言わずに帰っても、彼はわかってくれるだろうと思った。
喫茶店のアルバイトは、とても楽しかった。お客さんの注文をとったり、コーヒーやパフェやスパゲッティのお皿などを運んだりしている間は、仕事に集中していて、何も考えずにいられた。そして仕事が終わったあとの、肉体を酷使した充実感……あたしはそれがとても好きだった。マスターやお店の他のスタッフとも、とてもよい呼吸で仕事をすることができていたし、顔なじみのお客さんもだんだん増えてきた。
(これでもし、健ちゃんが生きていたら……)とあたしは考えた。たぶんあたしは、健ちゃんと結婚することに、なんの疑問も感じることなく、ウェイトレスのアルバイトをずっと続けていたかもしれない。巧くんは作家になって、どこか異郷の遠い存在として感じ、彼にはきっと東京のほうにいい人がいるに違いないと、そんなふうに想像していただろう。でも、あの交通事故によって健ちゃんは死んでしまい、その後のすべても変わってしまった。アルバイトの前か後に病院へいくことが、ここ三か月間の、あたしの唯一の生き甲斐で、それがなくなってしまったらあたしは――一体何を支えにして生きていけばいいのかわからなかった。
佐久間先生と話をしたことによって、あたしは自分のずるい考えを正当化した。つまり彼にはこう言えばいいのだ。健ちゃんとつきあっている時からすでに、自分は巧くんのほうに惹かれていたと。今こうなって初めて、自分の本当の気持ちに気づいたのだと……彼のほうでも決してそれを嘘とは思うまい。そしてわたしの中でもそのことは間違いではなかったし、巧くんが交通事故にあって意識不明になってからというもの――健ちゃんに対する想いとは別のところで、巧くんに対する想いというのは日毎に、だんだんと大きく重くなっていったのだ。もし、健ちゃんが一人前のタイル職人となるべく遠く離れたU市に……という話が本当で、その間に帰省していた巧くんがひとりで事故にあっていたとしたら……そしてわたしがその看病やお見舞いのために毎日病院に通っていたとしたら、それでもやっぱりわたしは巧くんへの想いに気づいていたんじゃないかという気がした。
(ごめんね、健ちゃん。でもあたし、健ちゃんがいなかったら、ひとりでなんて生きていけないの。巧くんのことは、健ちゃんのかわりっていうわけじゃなく……自然に普通に愛しているって、そう思えるの)
あたしにはわかっていた――今、この瞬間にも病院のベッドの上で、巧くんが自分と同じ気持ちでいるだろうことが。わたしと巧くんの想いの違いはただひとつだけ。健ちゃんが生きているか、死んでいるか……そして生きていると思っている巧くんのほうが、重い罪悪感のようなものを引きずっているに違いなかった。もしかしたら、真実を話した瞬間に、巧くんのわたしへの愛はすっと醒めて消滅してしまうかもしれない。でも、それでもいい。これ以上嘘をつき続けて、健ちゃんが生きているという振りをするよりは……怒鳴られても、憎まれても、軽蔑されてもいいから、巧くんにすべてを決めてほしかった。