第6章
あたしはその後、保育過程のある短大に推薦で合格し、健ちゃんは前々から宣言していたとおり、卒業後は一人前のタイル職人となるべく、知りあいのいる『高橋タイル工務店』というところに就職が内定していた。
あたしや健ちゃんの通っていた高校は進学校だったので、三年の終わり頃ともなると、受験ムード一色に染まっていたが、あたしたちは美紀やさつき、その他受験組のクラスメートのことを励ましつつも、日曜日にはデートを楽しみ、いつもながらの変わりばえのしない日々を送っていた。それでもひとつだけ――変わったことはあった。相変わらずキス以上の関係にはなかったものの、あたしが短大を卒業して保母さんになり、健ちゃんが一人前のタイル職人になったとしたら――結婚しようという約束をしたのだ。高校三年のクリスマスに。
「俺は結婚したら、絶対浮気はしない。もちろん今だってする気はないけどさ。それでちえみがもし――結婚するまで体を許してくれないっていうんなら、べつにそれでもいいよ。でも絶対に、俺以外の男にヴァージンはやらないって、約束してくれないか?」
ホワイトクリスマスの夜、なかなかロマンチックに過ごしたあとで、とどめとばかりにそう言われたら――どんな女の子だって、結婚まで待たなくても、今ここで……そうなってしまってもいいかもしれないって思うに違いない。もちろんあたしだって、心がまったく揺れなかったわけではないけれど――やっぱりもっと現実的に、一歩後ろに引いた視点から、自分たちの将来について眺めていた。
「健ちゃん、そう言ってくれてすっごく嬉しい。でもね、あたしが短大を卒業するまでの二年の間に――何があるかわからないじゃない?健ちゃんにもし、あたしの他に好きな人ができたとしたら、あたしは健ちゃんとその人がそうなっても仕方ないと思うの。もちろん健ちゃんのことは信じてるし、自分が他の人とそういう関係になるだなんて、想像もつかないけど……でも約束してほしいの。あたしとの約束を守るために嘘ついたりとか、絶対してほしくないから。そのかわりあたしも、健ちゃんとの約束は何があっても絶対に守る。健ちゃん以外の男の人に……ヴァージンをあげたりしないって」
あたしのこの言葉に、性格がとても真っすぐな健ちゃんはどことなく不服そうだったけど、互いに必ず約束を守るというしるしにキスをして、その夜、あたしたちは雪の中を別れた。
年が改まった一月の中頃、健ちゃんとあたしを驚かす、サプライズニュースが飛びこんできた。巧くんが、某文芸誌の新人賞を獲得したのだ。あたしは新聞の片隅に小さく載っていた記事を見て、善は急げとばかり健ちゃんに電話した――のだけれど、相手は話中だった。でもすぐにまた健ちゃんから電話がかかってきて、今巧と話してたんだけど、聞いて驚くなよ、と彼は息せききってまくしたてた。
「な、な、な、南斗水鳥拳じゃなくて、巧のやつ、ミステリー小説で賞とったんだってさ!すげえよ。さすが俺の兄貴って感じ?」
「えーっ、おめでとう!」と、あたしは新聞でたった今読んだとは言わずに、健ちゃんと祝福を分かちあった。「きっといつかはって思ってたけど、こんなに早くその時がくるとは思わなかった。さすが、あたしの幼なじみって感じ?」
あたしたちはそのあと、笑いながら陽気に昔あったことなんかを話し、巧くんに小さな頃影響を与えた作家や漫画家の話や、そういえば昔から巧くんにはストーリーテリングの才能があったことなんかを長々としゃべりあった。
「ほんと、すげえ嬉しいよ。俺はこう見えても、結構現実的なタイプだけど、巧は一生夢を追って生きるっていうタイプの男だからな。夢のためなら六畳一間の部屋で貧乏もいとわず来る日も来る日も売れない原稿を……なんてことにならなくて、本当によかったよ」
「どうしよう、あたし……巧くんに電話したほうがいいと思う?それとも電報とかのほうが嬉しいかなあ」
「何いってんだよ。直接電話しろよ。今電話番号教えてやるから」
そのあとあたしは興奮しながら東京の巧くんのアパートに電話をし、短い間、少しだけ話をした。巧くんは思ったよりもずっと落ち着いていて――はっきり言って、声を聞いたかぎりでは、いつもと全然変わりなかった。
「うん、ありがとう。俺も、ちえみにそう言ってもらえるのが、一番嬉しいよ」
謙虚な彼は、賞をとったといっても、やっとスタートラインに立ったというだけのものだし、問題はこれからだ、というようなことを言っていた。まるで、賞など取ったのは当たり前で、自分はまだアルプス登山の麓にようやく辿り着いたにすぎない、とでもいうかのように。
「作家っていうのには、色々タイプがあると思うんだ。最初から完成されている作家もいれば、まぐれ当たりの一発屋だっているし、長い作家生活の中で、当たりと外れを半々ずつ書いているような作家だっているだろう?俺は小説家としてはまだ完成されたスタイルを十分に持っているとはいえないけど――少なくとも無駄なものは一字も書きたくないと思ってる。とりあえず今は二作目にとりかかってるんだけど、自分ではこっちの作品のほうが受賞作よりいい出来だと思ってるんだ。大抵の作家は二作目で叩かれるらしいから、そうならないことを祈ってるよ」
巧くんは最後に、近いうちに実家に帰る予定でいるから、そうしたらゆっくり会って話をしようと言って、電話を切った。そしてあたしは電話を切るのと同時に、何故か溜息を着いた――巧くんが自分の夢を叶えることができたのはとても嬉しい。でもどこか、彼が遠くへいってしまったような気がして、寂しい気持ちになったのも確かだった。
(……あたしには、一体なにができるだろう?)
電話の向こうの巧くんの声は、あたしが今まで聞いたことのない声質のものだった。自分の夢に熱中していて、またその夢に対して確かな手応えを感じている男の人の声だった。考えてみれば健ちゃんも、自分は昔からタイル職人になるよう決められていたかのような口ぶりで、自分の将来について語ることがある。でもその確信って、一体どこからくるものなんだろう?
「変な意味じゃないけど、さなぎからいまだに変態できていないのって、わたしだけなのかなあ……」
あたしは自分の部屋の、ベッドの上に立つと、そこにかかっている大好きなアニメのカレンダーと、マジックを手にして向きあった。そして巧くんが近いうち、と言った予定の日――一月三十一から二月の七日にかけて、花丸模様のしるしをつけた。若干前後するかもしれないけれど、大体この間に帰省する予定だと、彼は言っていたから。
でも巧くんが実際に帰ってきたのは、二月の四日から七日までの、たったの四日間だけで、その上中学時代の恩師やら高校時代のクラスメートやらと会うのに忙しく、あたしや健ちゃんと彼がゆっくりできたのは、最後の六日の夜だけだった。そして巧くんの運転する中古のシビックに乗って海辺の道をドライブしていた時――彼らは交通事故にあった。ちょうど、三人でイタリア料理店で食事をし、あたしが家まで送ってもらい、車から降りた直後のことだった。
その白のシビックは、巧くんがミステリー賞の賞金で購入したばかりのもので、彼は仮免に受かったばかりの健ちゃんと、運転を交代して――海辺沿いの隣町までいく予定だったらしい。ところが、あとから巧くんに聞いた話によると、片側が海、片側が山の切り立った斜面になっている道路で、突然何かよくわからない生き物が飛びだしてきた、ということだった。咄嗟に健ちゃんはハンドルを切り、対向車線にはみだした車は、向こうからやってきたダンプカーと正面衝突した。
ダンプカーの運転手は幸い軽症ですんだけど、巧くんは意識不明の重体で、ハンドルを握っていた健ちゃんに至っては、即死だった。
その日の夜遅く、電話で事故の知らせを聞いたあたしがどんな気持ちになったか、それは十年たった今でも、とても言い表すことはできない。健ちゃんのお母さんは昔からのキンキン声で、涙ながらに『それでも、ちえみちゃんが乗っていなかったことだけが、不幸中の幸いだった』と言った。でもあたしには――とてもそうは思えなかった。健ちゃんの死の知らせを聞いた時、その瞬間からあたしの心の中の一部もまた、凍りついたように死んでしまったからだ。
けれども、あたしはおばさんとの電話の最中には、涙一粒こぼさなかった。何故かといえば、まだ全然実感がわいてこなかったからだ。こうしたことはすべて、質の悪い冗談か何かで、明日の朝には「健ちゃんが死んだ夢を見た」と言って、彼と笑いあえそうな気さえしていた。でも実際には、翌日の朝には健ちゃんの死は揺るぎようのない現実として、あたしの存在の上にその輪郭を確かなものにした。
あたしは健ちゃんの家の客間で、白い布団の上に横たわった彼と面会し――白絹のハンカチがさっと彼の顔からよけられた時、初めて健ちゃんの死を実感して号泣した。
健ちゃんは、ダンプカーと正面衝突したというのが信じられないくらい、外傷というものがほとんどなく、顔もとても綺麗だった。こんな綺麗な顔をした男の子には会ったことがないとさえあたしは思った。彼は半分は確かにわたしのよく知っている幼なじみの健ちゃんだったけど、もう半分は死によって神聖さがその横顔に加わって、どこか見知らぬ人のようにさえ感じられた――ただ、首の骨を折ったということで、よく見ると首のまわりには二重に歪んだような赤い痕が残っていた。あたしは一度涙がおさまった時に、その首の赤くなった二本の筋を見て、再び涙が目の奥からあふれてくるのを止められなくなった。
おばさんは打ちひしがれた様子で、目のまわりを真っ赤に泣きはらしていたが、義理の父であるおじさんに至ってはもっと――ある意味ではおばさん以上に、痛々しい感じだった。それに比べたら、実のお父さんのほうは、義理で参列した赤の他人のようにさえ見えた。もちろん健ちゃんのお葬式が行われようとしている今この瞬間にも、巧くんは総合病院にある集中治療室で生死の境をさまよっており、おじさんにしてみればもはや――言葉も、顔に浮かべる表情も何も、なかったのかもしれない。
告別式が終わった時、義理の父であった黒木さんは、とても感動的な弔辞を読みあげた。おじさんは決して綺麗な言葉でなど語らず、日常にあった自分と義理の息子との間の確執について語り、また喧嘩ばかりしていたことも包み隠さず語った。そして最後にしかし、とおじさんは涙を拭いながら言ったのだ。その言葉をあたしは今も、忘れることができずにいる。
「しかし、わたしは健くんのことが好きでした。彼にとってわたしは、説教ばかりする、ただの煙たい親父でしかなかったでしょう。あるいはもしかしたら、お母さんの愛情を奪った、憎い存在でしかなかったかもしれない。でもわたしは――喧嘩ばかりしながらも、彼のことを心のどこかで尊敬していたような気がします。もっとも、日常会話にでてくる言葉は、お互いにひどいものばかりではありましたが、彼は本当に心が綺麗で真っすぐで曲がった大人、汚い大人のすることが許せなかったのだという気がしてなりません。ここにこうしてお見送りくださった皆様方も、健くんのそうした気質をよくご存じのことと思います。都合のいいことを言うようですが、わたしは――彼がこれから結婚したり、可愛い孫が生まれたりということを、本当に楽しみにしていたのです……」
わたしが黒木のおじさんの弔辞を今も忘れられないのはもしかしたら、この時おじさんがちらとわたしのほうを見たせいなのかもしれない。今でもわたしは時々、この瞬間のおじさんの哀切な、何かに訴えるような眼差しを何かの拍子に思いだすことがある。
『結婚したり、可愛い孫が生まれたり……』
きっとおじさんは、その時には結婚祝いにどんなことをしてくれたろうか、可愛い孫を見た時には、どんな顔をしたろうか、随分あとになってから、そんなふうに想像しては、あたしはとても切なくなった。その時にはきっと、健ちゃんもおじさんも喧嘩なんてすることなしに、仲のいい義理の父と息子になれていたかもしれないのに。
健ちゃんのお葬式が済んで、一段落したあと、あたしは巧くんの入院している病院までお見舞いにいった。本当は事故の知らせを受けたあと、すぐにでも駆けつけたかったのだけれど、おばさんから「今いってもどうにもならない」と言われ、「とりあえず健のお葬式がすんでからのほうがいい」と忠告されたためだった。
実際、病院の待合室では随分長いこと待たされたあとで――看護婦さんの話によると、ちょうど処置中だということだった――マスクをしたり、白い割烹着のようなものを着たり、頭に薄い水色の帽子のようなものをかぶり、さらに手を消毒したあとで、ようやく、巧くんに会えた。けれども、面会できたのもほんの十五分かそこらで、すぐに看護婦さんから「もうそろそろ……」ということを言われた。
巧くんのお父さんも一緒だったが、おじさんは健ちゃんのお葬式では一粒も涙をこぼさなかったのに、ICUや待合室では祈るように手を組み合わせ、陽に焼けた黒い頬に、涙を滂沱と流していた。
あたしも、人工呼吸器やたくさんの点滴の管にとり囲まれた巧くんを見て、思わしくないものを感じて愕然としてはいたものの、ICUをでた時には思わず、腹が立って、おじさんにこう怒鳴り散らしていた。
「おじさん、巧くんは絶対によくなりますから、そんなふうに泣かないでください。そんなことしたら、巧くんがもうこの世にいないみたいじゃないですか」
おじさんは「うん、そうだな。ちえみちゃんの言うとおりだ」などと言って、手の甲で涙を拭っていたが、あたしが言いたかったのは本当は、まったく別のことだった――「おじさん、ひどいじゃないですか。健ちゃんのお葬式では涙ひとつ見せなかったのに、この差は一体どういうことなんですか。健ちゃんが本当はおじさんの子供じゃないって、本当なんですか?もしそうだとしたら、何を根拠におじさんはそんなことを、健ちゃんの前で言ったりしたんですか」
それはもしかしたら、完全に八つあたり、だったかもしれない。健ちゃんを喪ったことに対する、どうしようもない哀しみと怒り……大切な、かけがえのない人を失った時、怒りという感情は悲しみとは程遠いと考える人もいるに違いないけれど――あたしは巧くんのことをお見舞いにいって、こみあげる哀しみと同時に何故か突き上げる怒りを感じた。それは、何故仮免に受かったばかりの健ちゃんと運転を代わったりしたのかとか、そういうことではまったくなく――心のどこから溢れてくるのかわからない、世の中の不条理というものに対する怒りだった。
あたしは次の日も、またその次の日も、巧くんのことをお見舞いにいった。何故なのかはよくわからないけれど、巧くんはあたしがいくと必ず「処置中」で、いつも長く待合室で待たされた。しかも、それでいながら面会できる時間はたったの十五分程度……あたしは毎日、巧くんが助かるようにと神さまに祈っていたけれど、祈りながらもいつも怒りを感じ続けていた。何故、健ちゃんは死んでしまったのかという、神さまに対する愚痴や文句を抱えながらも、それにも関わらず巧くんのことを助けてくださいと祈らずにはいられない矛盾……そうした矛盾に対して、あたしはひどく腹を立てていた。時には怒りのあまり、祈りながら目尻から涙が溢れてしまうほど。
果たして、あたしの祈りが聞き届けられたのかどうか、看護スタッフのよくいき届いた看護と処置のためか、それとも巧くん自身の生命力の賜物によるものか、彼は一か月後に奇跡的に意識をとり戻し、その二週間後には集中治療室から一般病棟に移れるほどに、容体が回復していた。
ただし、巧くんには事故の前後の記憶がまったくなく――医師からは、まだ弟さんの死や、交通事故の詳細については伏せておくよう、重々注意されていた。巧くんは、自分が小説で賞をとったことさえ忘れており、そのことを話すと「夢みたいだ」と、子供のように笑って言った。
「なんだか、変な感じがするよ。これを自分が書いただなんて、とても信じられない……なんだか、他人の書いたものを読んでいるようにしか感じられないんだ」
巧くんは、『殺意のセラフィム』という彼の書いた処女小説をテーブルの上に置き、斜めに持ち上げたベッドの背にもたれていた。
あたしは毎日、巧くんの口から健ちゃんの名前がでるたびにぎくりとしながらも、おじさんやおばさんたちとあらかじめ打ち合わせていたとおり――健ちゃんはタイル職人の修行のために、今遠く離れたU市のほうで頑張っているという話にそって、適当にごまかしていた。いつか巧くん自身に記憶が戻ったらどうなるのだろうと怯えながら……。
「ちえみ、短大にいくのをやめて、今ウェイトレスのバイトしてるんだって?じゃあ、卒業するまでと言わず、健がタイル職人として一人前になったら、結婚できるわけだ。そういうことならまあ、健も頑張り甲斐があるよなあ。羨ましいよ、本当に」
「なに言って……なに言ってるの、巧くん」と、あたしは林檎の皮を剥きながら、ためらうような口振りで言った。「結婚なんてそんな……まだずっと先の話よ。ずっとずっとずううっと、先の話」
「先の話か。でも健は早く結婚したがってるだろ。あいつ、ちえみが四年制の大学じゃなくて、短大を受けるって聞いて、喜んでたからなあ。女子大なら、変な虫がつく心配がないって」
「健ちゃんの考えすぎじゃない?あたし、そんなに男の人にもてるほど、美人でもなければ特別可愛いっていうわけでもないし」
あたしは林檎をおろし器ですりおろすと、お皿に入れて、スプーンを添えた。そしてテーブルの上、巧くんの前に差しだした。
「おお、サンキュ。これぞ病人食」
――奇妙なことだけれど、意識が戻り、ICUから出てきた巧くんは、どことなく物言いが、健ちゃんに似ていた。顔つきにしても、なんというのだろう、前はこんなふうじゃなかったような気がするというか、死んだ時の健ちゃんの神聖な面差しが半分乗り移ったような感じというか……時々、そんなふうに感じることがあって、あたしは涙をこらえきれなくなりそうになると、急いで廊下を走っていってトイレに駆けこんでいた。
集中治療室での、意識が戻るまでの一か月間は恐ろしく長く感じられ、巧くんはこのまま目を覚ますことなく死んでしまうんじゃ……と、あたしは正直何度も不安に思った。けれども、一度意識が戻ると、巧くんの病状はみるみる回復し、今は寝たきりの間に衰えてしまった筋肉を鍛えるために、リハビリに精をだしている。事故にあった時に頭蓋骨を挫傷したということで、頭は暫くの間丸坊主だったけど――彼はよく自分の頭を撫でながら「このくらいですんでよかった」と口癖のように言った。「もしかしたら、もっと悪いことになっていた可能性だってあるのだから」と。