第5章
――その夏の終わりも近い一週間のことを、あたしは……というより、あたしたちは一生忘れられないだろう。あたしたちが昔住んでいたボロアパートは今ではすっかり取り壊されて見る影もなかった。鉄の柵で囲まれた更地に、『売地』と大きく書かれた看板がひとつ、ぽつんと立っているだけ。すぐそばの、よく野球やサッカーをした広い空地はすべて新興住宅地の一部と化していたし、夏になると馬がやってきた牧草地も、同じ状態だった。
サイクリングロードの第一休憩所と第二休憩所の間にあった池も、今では埋め立てられてしまっており、唯一変わっていなかったのは……よく魚釣りをしにいった川の、上流付近だけだったかもしれない。
「ねえ、この花の名前、なんだか覚えてる?」
三人で裸足になり、釣り竿を手にしたふたりと、川の中をゆっくり歩いていった。陽気はとても麗らかで、川の水温が足にとても心地好い。
「その小さい白い花?……ええっと、なんだっけ?俺たちはアメフリソウって呼んでたけど、それは正式な名称じゃないと思うんだよな」
巧くんはイクラの小瓶の蓋を開けると、それを釣り針に刺しながら、ぼんやり言った。健ちゃんはすでにもう完全に釣り人モードで、先に川をずっと向こうの、大きな柳の垂れ下がった、大きくカーブしているところまでいっている。彼はあの場所で昔、大きなヤマメやイワナを釣り上げていたが、果たして今も同じように釣れるのやら。
「そうよ、アメフリソウよ!」と、あたしは川のせせらぎと同じくらいの小さな声で、囁くように言った。魚たちが人間の声にびっくりして、逃げだしたりしないように。
「あたし、健ちゃんたちが教えてくれたあの迷信、中学生になってからもずっと信じてたのよ。アメフリソウを摘んだ次の日は絶対に雨が降るっていう話……その話を健ちゃんがしてくれた時、試しにあの小さな白い花をいくつか摘んでみたの。でも翌日はかんかんの快晴だった。それであたしが健ちゃんのこと『嘘つき!』って言ったら巧くん、『健は嘘つきじゃないよ。ちえみは花と葉っぱの部分をとっただけだろ?あれは根っこから引き抜かなきゃ駄目なんだ』って、そばにあったアメフリソウを片っ端から根っこごとごそっと引き抜いていって……」
巧くんはもう、あたしの話なんて聞いていなかった。頭をぼりぼりかくと、どうもこの場所は駄目みたいだというように、ざぶざぶとさらに上流へ進んでいく。
(駄目だこりゃ)と思ったあたしは、くだらないおしゃべりをやめて、大人しく、黙って静かに彼のあとについていった。健ちゃんは川のカーブした、大きな柳の樹の下にはもうおらず、もっと山の奥のほうへと進んでいってみたいだ。もはや姿がどこにも見えない。そして巧くんは、健ちゃんがいなくなったあとのポイントに釣り竿を垂らして、岩の上でじっと待っている……あたしは土手にあがると、そんな巧くんの静かなる釣り人の姿を見守ることにした。(おそらくは雄の)揚羽蝶が何羽も視界を横切っていき、あたしのすぐそばの地面で水を吸っていた。
――アメフリソウを根っこからもぎとった次の日、大雨がやってきた。たぶん巧くんは天気予報か何かで見て、雨になるだろうと知っていたんだろうけど……その時七つか八つくらいだったあたしは、自分たちがアメフリソウを引っこ抜いたせいで雨が降ってきたんだと信じて疑わなかった。そして実に不思議なことに、そのあとも気まぐれにアメフリソウを根から引っこ抜いた日の翌日には、必ず雨が降ったのを、今もよく覚えている。
「おめでとう、巧くん!」
巧くんが中くらいの大きさのヤマメを釣り上げたのを見て、あたしは小さく拍手した。
「馬鹿だねえ、健ちゃん。もう少しねばっていれば、釣れたのにね」
「さあね。昔から釣りは俺よりも健のほうが上手かったからな。場所を譲ってくれたんだろ」
なんて謙虚な巧くん。彼は昔からそうだった。健ちゃんがひとりずんずん先へ進んでいってしまっても――彼は時々ちょっとだけ振り返って、あたしのことをきちんと気にかけてくれるのだ。
「さっきの話、思いだしたよ。ちえみ、あんなつまんない嘘に引っかかるんだもんな。つい可愛くて、その他にも色々デタラメ言ったの、覚えてるか?」
「覚えてるわよ。たとえばあの背の高い、白い花。なんという名前か知ってる?」
あたしは川の向こうの野原にいっぱい咲いている、背の高い白い花の群れを指さした。
「ああ、知ってるよ。シシウドだろ」
巧くんも思いだしたらしく、にやりと笑っている。
「あの花は毒草です。さて、どうしたらあの花で人は死ぬのでしょうか?1.なめる2.匂いをかぐ3.触っただけで死ぬ……さて、どれでしょう?」
「やめてよ、もう」と、あたしは巧くんと並んで歩きながら、彼の背中を叩いて笑った。「その話もあたし、中学生くらいまでずっと信じてたのよ。そうか、あの花をなめただけで人は死んでしまうんだって……巧くんはみんなのリーダーだったから、なんていうのかなあ、彼の言うことには絶対服従みたいな雰囲気、あったでしょ?そのせいかなあ。あたし、小さい時、巧くんの言うことはなんでも本気で信じてた気がする」
「ハハハ」と、笑いながら、巧くんは足で川の水を引っかけて寄こした。「でもひとつだけ、俺にとって今でも忘れられない汚点があるよ。いつもちえみのことをいじめたり、仲間外れにしようとした奴がいただろ?俺と同じ年の猿渡って奴。あいつが健と喧嘩になって、荊の生垣に突っこんでさ、全身棘やら引っかき傷だらけになった時……まあガキ同士の喧嘩とはいえ、流石に猿渡の母ちゃんがうちのおふくろに文句言いにきてさ。でも俺、健のことを庇って、あいつはひとりで勝手に荊の生垣に突っこんだんだって言っちまったんだ。まわりで喧嘩を見てた奴は全員、本当のことを知ってるわけだから――健がはずみで、あいつのことを生垣の中に押しこんだって――まさかそれが本当になるとは思わなくてな。他の近所の子供もみんな、異口同音に、そうです、猿渡くんは自分から生垣に突っこんだんですって言ってさ。最後には猿渡自身までが本当はそうだったんだって、母ちゃんに対して認めるんだもんな。くだらない、些細なことかもしれないけど、俺はあれ以来どんな小さな嘘でもついちゃいけないもんだって、そう思うようになったよ」
「ふうん、そっか。でもあたしはそんなふうには全然思わなかったよ。もちろん、ざまあみろとか、そんなふうに思ったわけでもないけど……みんな、本当は心の中では猿渡くんのこと、嫌ってたじゃない。だから日頃の不満がそういう形で表れたんじゃないかって、そんなふうに思った」
「まあな。そうかもしれないけど……」
あたしたちは小さな声で囁くように話しながら川を上流に向かって歩いていると、ずっと向こうから「おーい!」と大きな声がした。見ると健ちゃんが、嬉しそうに息を弾ませながら、川をざぶざぶ水を跳ねさせながらやってくるところだった。
「これ見ろよ。でかいだろ!まあ三十センチはあるな」
「イワナか」と、巧くんまでもが目を輝かせている。「俺はさっき健がいた柳の樹のとこで、ヤマメを一匹釣っただけだけど……どうする?もうちょっとねばるか?」
「もち」と言って健ちゃんは、またひとりざぶざぶ上流に向かっていった。時計を見るとちょうど十二時。あたしは手に持っていたバスケットに目をやった。
「腹へったんなら、先にサンドイッチ食べてていいよ。俺も健に負けられないからな。ちょっと本気でやってくるわ」
あたしはやれやれと言うように、出雲兄弟の背中を見送り、時々サンドイッチをつまみながら、川の土手沿いに歩いていった。こういうところは、ふたりとも全然変わってないらしい。
その日は結局三時近くまでふたりは魚釣りに熱中し、合計でアメマス二匹、イワナ三匹、ヤマメを七匹釣り上げた。アメマスとイワナの大きいのを一匹ずつ釣り上げたのは健ちゃんだったけど、ヤマメを五匹釣った巧くんのほうが、数の上では勝っていた。あたしたちはレンタカーを返してから巧くんのアパートまでいき、とり散らかった台所の洗い物などを片付けたあとで、アメマスとイワナは塩焼きにして、ヤマメはフライにして食べた。とても美味しかった。
そしてあたしが鍋や食器類などを洗ってそれを布巾で拭いていた時――健ちゃんがいわゆる裏ビデオなるものを、山積した衣類の下やら、埃だらけのビデオデッキの横から発見して、お願いだから貸してくれと、兄に懇願している声が聞こえた。
「もしかして、親父の?そうだよなあ。男ふたりの生活じゃあ、無理ねえよなあ。おお、これは松島まりあちゃんの写真集じゃありませんか!貸してください、お兄さん!いや、お兄さま!」
そのあと健ちゃんは、あたしが見ていてあきれるくらい――その手のエッチな写真集やら雑誌やらを手にして、出雲家のアパートを意気揚々と出ていこうとしていた。
「いやあねえ、これだから男って」
あたしは暮れなずむ空の下を、健ちゃんとふたりで肩を並べて歩きながら、わざと軽蔑したようにそう言ってやった。せっかく三人で、思い出の良き日を振り返りつつ、美味しい食事をしたあとだっていうのに――美しき懐かしの思い出の場所ツアーのしめくくりがこれでいいのかと、疑問を呈してやりたくて仕方なかった。
「しょうがねえだろ。ちえみ、いつまでたってもやらせてくれないし……まあ、仮にやらせてくれたとしても、男にとってこれとそれとは別だけどな」
「やらしいわね、もう」
あたしはもう一度、軽蔑したように、健ちゃんが大切そうに抱きかかえている、布製の厚い手提げ袋をちらと見やった。
「そうカマトトぶらなくてもいいじゃんか。第一、これはちえみの尊敬する巧兄さんのものなんだから、俺がいやらしいってことは、巧だって十分いやらしいっていうことなんだぜ」
「あたしはそういうことを言ってるんじゃないの」
第一、巧くんは健ちゃんがよく鼻の利く犬のように、次から次へとエロ雑誌やら写真集やらを発見するので、多少罰が悪いというか――そういう表情を微かに浮かべていたような気がする。最後にはもう、開き直っていたけど。
「じゃあ、どういうことだよ?俺はとても素直なオープンスケベだけど、巧はどっちかっていうと、ムッツリスケベタイプだからな。ちえみも気をつけろよ、いつだったか、キスされたみたいに……」
「もう、やめてってば!」
あたしは健ちゃんのことを突き飛ばすと、早足になって、やがては思いきり走りだして、彼のことを置いてけぼりにした。そして健ちゃんが追いかけてこないのがわかると、速度を落として、バス停でぼんやりしながら、バスがやってくるのを待った。
べつに、健ちゃんのことを怒ったわけではない。彼は自分で言っていたとおり、かなりのところあけっぴろげなオープンスケベというやつだった。あたしにも色々、こういう時男だったらこうだけど、女だったらどう感じるかということを、何度か聞いてきたことがある。たとえば――女でもエロビデオを見たら感じるのかとか、そういうこと。あたしが見たことないからわからないと答えると、じゃあ一緒に見ようと言ったけど、流石にそれは断った。
バスに揺られて、家の近くまで辿り着くまでの間――不吉な感じのする、灰色や薄墨色や、真っ黒な暗雲が三重に折り重なったような不気味な空を窓ごしに見ていた。輝かしいオレンジ色の太陽はすでに没し、藍色の夜の吐息が聞こえようとしている。この空模様だと、明日は雨かもしれないとあたしは思った。そして思いだした。サンドイッチを食べながら、一度アメフリソウを根っこごと引き抜いてしまったことを。
雨になった次の日、あたしは健ちゃんと一緒に、駅まで巧くんのことを見送りにいった。巧くんは太っ腹にも、健ちゃんにエロ本やら写真集やらをただでくれると言い――きのうは早速あれをおかずにして、寝る前に一発抜いたとか、何かそんな話ばかりしていた。
「可愛いよなあ、松島まりあちゃん。一度でいいからあんな可愛い子とやってみたいよな」
「おまえ、堀ちえみはどうしたんだよ」と、待合室で巧くんが笑う。
「それに、ちえみがいるだろ」
「ちえみは全然駄目」と言って、健ちゃんは顔の前で手を振っている。「バストサイズがいくつかって聞いただけでも怒るからな、ちえみは」
「当然じゃないの」あたしは隣の健ちゃんの腕を、思いっきりつねってやった。「なんでわざわざそんなこと、健ちゃんに教えなくちゃいけないのよ」
「なんでって、彼氏の特権ってやつだよ。なあ?」
巧くんは同意を求められても、どこか曖昧に微笑んだだけだった。
「まあ、急ぐことはないだろ。ふたりともまだ若いんだし」
「なにジジむさいこと言ってんだよ。若い人間には今が一番大切なの。第一巧だって、俺らと一個しか違わないじゃん」
「そりゃそうだけどな……まあ、俺がいなくなったら、またふたりでよろしくやればいいさ。邪魔者は東京へ帰るよ」
そう言って巧くんは立ち上がると、わたしにも「じゃあな」と手を振って、改札口へ向かっていった。ボストンバッグをふたつ持った彼の姿が人の波に紛れて見えなくなると、あたしはなんとなく、寂しいような物足りないような気持ちになり、「あーあ。巧くん、いっちゃった」と、ひとりごちた。
「なんだよ、それ」と、途端に健ちゃんの機嫌が悪くなる。「おまえさあ、本当は俺より巧のことのほうが好きなんじゃねえの?馬鹿な弟より、賢い兄のほうを選べばよかったって、後悔してるんじゃねえ?」
「かもね」
ああ馬鹿らしい、と思ったあたしは、椅子から立ち上がり、メロンソーダを飲み終わったあとの紙コップを、ゴミ箱のある場所まで捨てにいった。当時はまだ駅の中に喫煙室が設けられていなかったので、待合室は煙草の煙の匂いが充満していた。健ちゃんもまた、煙草をもみ消して立ち上がると、あたしの肩を抱きよせ、
「これからどっかいくか?」と、聞いた。
「んー、なんかお腹すいちゃった。確か地下にミスドあったよね?食べていかない?もちろん健ちゃんのおごりで」
「おまえ、ほんとたかるの得意な。でも俺あんまし今ドーナツ食いたくねえ。それよか上の喫茶店でカツミートが食いたい気分。それでいいならおごってやるよ」
「わあい!さすが健ちゃん太っ腹!あたしの十倍、お小遣いもらってるだけあるねえ」
「おまえんとこ、月三千円っていってたもんな。おばさん、相変わらずケチケチしてんの?」
あたしたちは螺旋階段を上り、駅のビルの二階を目指した。ここには若者向けのジャンクファッションの店やら、ゲームセンターやら、ちょっと暗い雰囲気の、あやしい感じのする喫茶店やらが入っていて、S市の十代、二十代のカップルが、デートコースとしてよく利用するらしい……なんともダサい感じではあるけど、それだけ田舎なんだからしょうがない。
その日、あたしと健ちゃんは、カツミートとオムレツを食べて、ゲーセンで遊んで、期待していたわりにはあまり面白くなかった映画を一本見て、雨の中、相合傘をして帰ってきた……なんとも高校生らしいおつきあい、だとわたしは思う。特別気分が盛り上がった時にキスしたりすることはたまにあるけど(あと、健ちゃんがやたらしつこい時だけ)、いわゆるBとかCとかいうのはなし。そしてあたしはそういう、友達とあまり変わりばえのしない健ちゃんとの関係が大好きだったけど――時々彼の瞳やちょっとした表情の中に、彼がそれだけでは満足していないらしいということは、敏感に感じとっていた。「俺ってマジ、よっきゅんだぜ」というのが、近ごろの健ちゃんの口癖で、あたしはといえば「そんなに欲求不満なら、バッティングセンターにでもいく?」とかなんとか、茶化してごまかしている始末……この手のことに関して、一番痛いのが、相談相手が誰もいないということだった。親友の美紀やさつきも、いわゆる真面目な優等生タイプで――今はそれぞれ自分の志望大学に向けて、受験準備の勉強を塾でしているところだった。そんなくだらないことで悩んでいる暇があったら勉強、勉強というわけだ。それであたしは結局、巧くんに宛てて悩み相談の手紙を書いた――もちろん、投函することのない手紙として書いているわけなんだけど、それでも一度文章にしてみると、見えてくることって、結構あるものだ。
まず第一に、あたしが健ちゃんに対して性欲を何も感じないということ……それよりもむしろ、そういう意味でなら、巧くんのほうに惹かれていると言ってもいい。一度、彼が買物へいっている間に、部屋を少し掃除しておこうと思った時、健ちゃんと同じようにエッチな漫画の本を偶然発見してしまったことがある。(へえ、巧くんでもこういうの読むのねえ)と思ったあたしは、好奇心からパラパラめくってしまったわけだけど――それはいわゆる使用済みという代物だった。エッチなシーンのページに、いくつか精液が飛び散っている箇所があったりして、そのことにあんまりびっくりしたあたしは――それまでに片づけたところも、また元どおりぐちゃぐちゃにして、どこにも、なんにも触れなかったという涼しい顔をしながら、巧くんが戻ってくるのを待った。その時に感じたドキドキした気持ち、それがあたしにとって、これまで経験した中で一番性欲というものに近い感情だった。
たとえばもし――健ちゃんが冗談半分に「やらせろ」とか「犯すぞ」とか言ったとしたら、あたしは「ばあか」とか「やらしいわねえ、もう」と言って茶化すかごまかすかするだろう。それでその話はそれきり終わり。それがいつものパターンだった。でももし巧くんに同じことを言われたとしたら――話はまるで別だった。たとえば、もし巧くんが(これはあまりにもありえない想像ではあったけど)「お願いだからちえみ、やらせてくれ」と懇願したとしたら、あたしはおそらく、彼の言うとおりにしてしまうに違いなかった!
……これは一体、どういうことなんだろう?
当時の幼い感情を綴った日記帳には、こんなふうに書き記されている。『あたしは健ちゃんのことが好き。でも巧くんのことも、別の意味で同じくらい好きらしい……健ちゃんとの関係は先が見えないけれど、巧くんとなら、はっきりとした関係をイメージできる。美紀もさつきも同じ、東京の大学を目指しているけれど、あたしも健ちゃんでなく、巧くんが彼氏だったら、まったく同じ道を選んでいただろう。巧くんとなら、結婚して彼の子供を生んだり……ということに何故か不思議と全然違和感を感じない。にも関わらず、これが健ちゃんが相手ということになると、これから何年かつきあっても、もしかしたら別れることになるかもしれないし、結婚しても離婚するかも……そしたら子供を引きとってシングルマザー?なんていう可能性を、頭の隅のほうでどうしても考えてしまう。もし巧くんに相談できるなら、気休めでもいいから「考えすぎだよ」と笑って言ってほしかった。でも健ちゃんには絶対に何も言えない。これがもし、巧くんなら……』
(――これがもし、巧くんなら)
この日記帳はもう燃やしてしまったが、どちらかと言えば、健ちゃんよりも多く巧くんの名前がでてきていた記憶がある。あれから十年の月日が流れ、健ちゃんが死んでしまった今も、あたしには答えることはできない。健ちゃんと巧くん、本当はどちらの幼なじみのことを、異性として好きだったのかと。