第4章
C組の大塚さんが、もうほとんど登校してこないということもあり、健ちゃんは彼女と廊下でいちゃつくかわりに、あたしのいるA組へしょっちゅう入り浸るようになった。当然のことながらびっくりしたのは、親友の美紀とさつきで――でも健ちゃんは、そこのところ、よく心得たものだった。健ちゃんはその気にさえなれば、いくらでも人に対して愛想よく振るまえたので、ふたりはころっとすっかり騙され、休み時間にいつも健ちゃんが横にいても、邪魔者扱いになど全然しなかった。
「黒木くんて、間違いなく犬だよね、犬」と、さつきが笑いながら言ったことがある。更衣室で着替えをしている時のことだった。
「そうそう。それも、ちえみにしか懐かない犬」
ふたりが忍び笑いを洩らしながら楽しそうに頷きあっているのを見て、あたしはとりあえず怒ったようなふりをしたけど――でも内心では少し得意だったし、そのことが嬉しくもあった。
あれから健ちゃんは家に遊びにいっても何もしなかったし、巧くんと三人で彼の大学合格おめでとうパーティを開いたりもした。ようやくこれで幼なじみ三人、昔のような関係に戻れたというわけだ。そしてあたしはそうなってみて初めて、やっぱりまた自分が<女である>ということに対して、違和感を感じた。自分がもし<男>だったら――健ちゃんとふたりで女の子をナンパしたりとか、あるいは巧くんに向かっても、大学でいい彼女を見つけろよ、なんて軽い気持ちで言えたはずだった。
健ちゃんとつきあっていて何より面倒くさいのは、自分が女である、ということだ。あたしがこれでもし男なら、喫茶店で食事をしながら、可愛いウェイトレスさんのことをふたりで冗談まじりに品定めしたり、C組のなんとかって胸でかいよなとか、D組の吉岡ってマジ超大人っぽいよなとか、そんな話で盛り上がれただろう――そしてあたしが健ちゃんに対して欲している関係というのは、まさにそういう友達として<対等な>関係というやつだったのだ。
「ふうん。でも俺は、ちえみが女でよかったって、今も本当にそう思うよ。それにそのことに気づいたのは俺が先じゃなくて、健の奴のほうだったからなあ。言ってみればまあ、先に唾つけたあいつの勝ちってわけだ」
「唾って何よ。なんかばっちい感じ」
――巧くんが東京の大学に入って、初めて迎えたその夏、彼は一時故郷に帰省して、『殺意のセラフィム』という推理小説を執筆中だった。あたしは途中まで読んで、すっかりその小説の虜になってしまい、続きはどうなったのかと残りの原稿をせっつくために、彼のアパートまで遊びにきていたのだった。
「ほい。これがペンタグラム殺人事件の続き。ちえみが途中まで読んだ感想、結構面白かったし、色々参考になったよ。残念ながら犯人は外れていたけどね」
「あ、やっぱし?でも流石文学部だね、巧くんてば。ねえねえ、もうシャーロック・ホームズのパロディは書かないの?あたし、巧くんが昔書いてくれたあれ、すごく好きだったの。『バスカヴィル家のバカ犬』とか」
「ああ、あれな」と、巧くんは苦笑している。「言ってみればまあ、あれが俺が小説を書く原点みたいなものだったのかもしれないな。ところでちえみは夏期講習とかいかないのか?地元の短大を推薦で受けるのは、あくまでも滑り止めだって、手紙に書いてなかったっけ?」
「う、うん……」あたしは少し、言葉を濁した。「なんかね、近ごろ全然駄目なんだあ。さつきと美紀には恋愛ボケなんじゃないかって言われてるんだけど、そういうんじゃなくて、勉強がなかなか手につかなくてね。うちって貧乏だから、できれば公立の四年制の大学いきたいってずっと思ってたはずなのに、何か特別これ!っていうなりたいものがあるわけでもないしさ……」
「もしかして、自分探しの旅ってやつか?」
巧くんは小学生の時からずっと使い続けている、シールがやたらにべたべた貼られた(ちなみにこれを貼ったのはおもに幼き頃の健ちゃんだ)、傷跡の多い木の机に座ったまま、ベッドに腰かけているあたしのことを見下ろした。
「どうなんだろ。それすらよくわかんないの。とにかく精神的に何やってもだるくて、それで健ちゃんにバイクの後ろに乗っけてもらってスッキリしたりとか、なんかそんなことばっかりやってんの。それよりもっと他にああしなきゃとかこうしなきゃとか、頭の中ではわかってる。でも机に向かって参考書開いても、全然やる気起きないんだよね。巧くんはそういうことってなかった?受験勉強してる間」
「俺は、そういうのはなかったけど……」と、巧くんは少し考えこむような顔をしたのち、
「じゃあさ、ちえみ。俺が東京に戻るまでの間、健も入れて三人でどっか遊びにいかないか?昔よくいったサイクリングロードを自転車で走って、おたまじゃくしのいた池までいってみるとか、『入るな、キケン』って看板の立ってたあの工業地帯……あそこらへんとかさ、ぶらぶら歩いてみようよ。今と昔じゃあ、大分あのあたりも変わっただろうからな。俺たちが住んでたアパートも、もう取り壊されてしまってないし、近くに馬のいる牧場があっただろう?あそこももう、馬なんて一頭もいなくなってるしな」
「え、そうなの!?」あたしは驚きのあまり、ベッドの縁から腰を上げた。「あの、有刺鉄線で囲まれた牧場だよね?夏になるとどこからともなく馬がやってきて、草を食んでて……今も覚えてるよ、あたし。健ちゃんと巧くんと三人で、雑草の葉っぱあげたりしたじゃない。最初は噛まれたらどうしようと思って、こわごわあげたりしてたけど、馬がはむはむ食べてくれたら、すごく嬉しくて……」
「じゃあ、決まりな。健にはちえみから言っといてくれないか?どうせこれから会うんだろ?」
「うん、一応その予定だけど……健ちゃん大丈夫かなあ。夏休み中、レンタルビデオ店のバイト、結構びっちり入ってるんだよね。近ごろあいつ、『早く家をでて一人前のタイル職人になるんだ』っていうのが口癖だからなあ」
「で、ちえみと結婚して、子供をたくさん作るんだろ」
巧くんは笑ったけど、あたしは笑えなかった。どっちかっていうと、顔が引きつった。
「あたし、やだなあ。まだ結婚とかそういうの。遊びたいとかなんとか言うんじゃなくて、あんまりそういうこと、まだ具体的に考えられないっていうか……」
「ちえみは昔からマイペースだからな。そんで健はせっかちなんだ。まあ、そのうち全部うまい具合にいくようになるさ。健はちえみ一筋だし、自分の家庭が不幸だったから、若くてもいいお父さんになるだろうしさ」
「……………」
あたしは巧くんになんとも答えなかった。ただ彼から原稿の続きを受けとって、夜にまた電話するねと言って、巧くんの部屋を出た。
意外にも、巧くんの部屋は健ちゃんの部屋よりずっと散らかっていた。なんていうか、たとえて言うなら、これぞ『ザ・男の部屋』という感じだった。お父さんとふたりきりの男所帯なんだから仕方ない……といえば仕方ないのかもしれないけど、流石にあたしも巧くんのアパートにいった時だけは「よかったら、掃除しよっか?」と一言聞かずにはいられなかった。そして巧くんはその度に「いや、いいよ。どうせ三日もすればまた元どおりだから」と答えるのだった。
あたしは巧くんのアパートから、バスで健ちゃんの家に向かい、おじさんに一言挨拶してから、二階の健ちゃんの部屋で待たせてもらうことにした。おじさんとはもうすっかり顔馴染みだったし、気心の知れた仲でもあった。それで、ソファに腰かけて、巧くんの書いた推理小説の続きを読みながら、一応彼氏であるらしい男の帰りを静かに待っていた。
『どうして、こんな恐ろしい殺人計画を思いついたんですか?彼を殺したところで、香那子さんが、あなたのものになるわけでもないのに……』
『あなたになんかわかりませんよ、僕のこの気持ちは。人を愛したことのない人間に、一体なにがわかるんですか?出雲さん、すべてはあなたの推理どおりかもしれないが、それでも少なくとも僕は――あなたよりは遥かに幸福な人間だ。僕は香那子を愛している。彼女が幼い頃から、ずっと今に至るまで見守り続けてきたんだ。そして、彼女の中で僕の存在は永遠になった。何故って、僕は香那子を守るために……そのためだけに、これまで六人もの男を殺してきたんですからね!忘れようったって、忘れられるものか。ねえ、そうだろう?香那子……』
「よう、来てたのか」
健ちゃんは二階の自分の部屋まで上がってくると「まったく、今日もあちいな」と言いながら、早速エアコンのスイッチを入れた。窓を全開にして、一台の扇風機でどうにかこうにか暑さを凌いでいる出雲家とは、雲泥の差という気さえしてしまう。
「バッカじゃねえの、おまえ。俺いなくてもさ、エアコンくらい黙って入れとけよ。そしたら俺も帰ってきてサイコー涼しかったのにさ。なにそれ?もしかして巧の小説?」
「うん、そう」と、あたしは健ちゃんに素っ気なく返事した。犯人と殺害のトリック及びその動機も判明したが、あともうちょっとでエピローグまで読み終わるのだ。それにしても、主人公の探偵、出雲健一郎は格好いい。彼は過去にトラウマがあって、女性を愛することができないという設定も、なんだか妙に女心をくすぐられる。
「ふうん。で、面白いの?」
「うん、面白い」
あともう少しで読み終わるから黙ってて、という意思表示に、あたしは手に持っている原稿用紙を数枚、ひらひらさせた。健ちゃんにはあたしの言いたいことがわかったようで、ふくれたように、テーブルの上の煎餅をばりばり食べている。
「あー、面白かった。きっと巧くんは作家になるね。それでTVでドラマ化されちゃったりするの。どうする、健ちゃん?そしたら健ちゃんは有名作家の弟だよ」
「アホか」と、健ちゃんは馬鹿にしたような目つきで、隣のあたしのことを見た。「俺は巧の書いたものを読んだことはないけど、大体想像はつくよ。なかなかいいもの書いてるんだろうなってことくらいはね。だけど、作家になれるかどうかってのは、また別の話じゃねえの?大学の文学部でたってだけで作家になれるんなら、この世は小説家だらけになっちまうぜ」
「わかってないなあ、健ちゃんは。あたしが今持ってるのは途中からだから、今度一番最初のところから読ませてもらいなよ。そしたら考え変わるから」
「まあ、今度な」
健ちゃんはそう面白くなさそうに言い、そのあと、ベッドとTVのある隣の寝室で、今はまっているRPGのゲームをやりはじめた。
あたしはベッドの端に座りながら、少年ジャンプの最新号を読んだり、ピザを摘みながらコーラを飲んだりしていた――時々、健ちゃんが構ってくれないかなと、彼の様子を窺いながら。
(でもまあ、このゲームがクリアできるまでは無理だろうな)
あたしはそう思いながらTVの画面をぼんやり眺め、その昔、健ちゃんや巧くんがどうしてもファミコンが欲しくて、お母さんに駄々をこねていた時のことを思いだした。
『友達みんな持ってるんだよ。ファミコンがないのなんて、うちくらいのもんだよ』
我が家にもファミコンはなかったが、それでもあたしは女の子だったせいか、ドラクエのダンジョンがどうのとか、そんな話についていけなくても、学校生活に一向差し障りはなかった。今では巧くんの家にもプレイステーションがあるし、毎日のようにゲーム機に電源入れてるのは俺じゃなくて、親父のほうだという話も聞いている。でもあたしや巧くんや健ちゃんがまだ小学生だった時――まわりの子供たちには一家に一台あるのが普通でも、我らがオンボロアパートの住人にとっては、それはとても高価な品物だった。
あの頃のことを振り返ると、今でも時々少し考えこんでしまうことがある。健ちゃんの家もわたしの家も、普通の中流家庭の水準よりも少し収入が下のほうで――それを不幸と思ったことはないにせよ、『みんなと同じ』になれないことほど惨めなことはないと感じた記憶はある。その頃はまだ幼かったので、具体的に言葉としてうまく言い表すことはできなかったけど――それはたぶん、こういうことだったのだと思う。仮にどんなに貧しかったとしても、まわりのみんなが自分たちと同じくらい貧しかったとしたら、それはそんなに不幸なことではないのだ。それと比べてもし、まわりの人間がみな豊かで、自分の家だけがひどく貧しかったとしたら、どんなにつらい思いを味わわなければならないか――今ではあたしの家も巧くんの家も、まあ中流くらいかなという感じの暮らしぶりではある。あたしのお父さんはボーリングの資格をとって、なかなかの高給とりになったし、巧くんのお父さんはタクシードライバーからトラックの運転手になり、以前よりずっと稼げるようになったと聞いている。
(でもあたしは、穴のあいたジャージの膝に、チューリップのアップリケをつけたりしてた、あの頃のほうが今よりずっと……)
「げげっ!そんなのアリかよ。ここで全滅したら、セーブ前からやり直しだぜ」
あたしはあんまりゲームをやったことがないので、健ちゃんの言ってることがよくわからなかった。でも画面を見るに、ボスキャラを相手に戦っていて、仲間のうち三人が死亡しているのがわかった。そして最後の生き残りである主人公らしきキャラクターもまた、虫の息だった。
「ぐおっ!やられた!」
健ちゃんは絨毯の上に引っくり返ると、頭を抱えこみながら、プレステのリセットボタンを押している。
「チェッ、またやり直しか……」
そしてたった今その存在を思いだしたというように後ろのあたしを振り返り、ベッドの上に横になると、図々しくも太腿の上に頭を乗せてきた。
「あーあ、なんかついてねえなあ。バイト先でも店長に叱られるしさ……やめちまうかなあのバイト。金も結構たまったしさ」
「何いってるの。お金がたまったのは、月に三万円もおじさんからお小遣いもらってるからでしょうが。どうしてもっと仲良くできないのよ、あんたは」
「違うって。あの金はおふくろが稼いできた金だもん。適当に土地転がしてれば金が入ってくるなんてさ、なんか世の中不公平だよな。それにあの親父、アパートとかマンションの家賃収入もあるからな。老後の生活は安泰ってわけだ」
「まったくもう、健ちゃんは……」
そう言いながらもあたしは、彼の前髪を撫で、健ちゃんが気持ちよさそうに目を閉じているのを見下ろしていた。
「今日、巧のとこいってきたの?」
「うん。小説の続きが気になったからね……そうそう。今度健ちゃんとあたしと巧くんの三人で、昔の思い出の場所にいかないかっていう話をしてたんだけど、健ちゃん暇ある?」
「昔の思い出のばしょお!?」と、健ちゃんは突然がばりと起き上がった。「そんなとこいって何するんだよ。この年になってからいまさら、蛙とったりバッタとったりトンボ捕まえたりして、何が面白いんだよ……まあ、釣りにいくくらいなら、つきあってやってもいいけどな」
「本当!?」あたしは嬉しさのあまり、声を弾ませた。「じゃあ、いつにする?巧くんもうあと一週間くらいしかこっちいないしさ、いくんなら、早いとこいこうよ。あたしたち、来年はまたどうなってるかわからないし」
「ちょっと待て。今バイトのシフト表調べるから……げげっ、駄目だ。一週間のうちたったの一日しか遊べる日ねえもん。よっしゃ、わかった!俺明日からはもうバイトいえねえわ。それでおまえらのくだらない思い出の場所ツアーとやらにつきあってやるよ」
「まったく、しょうがないなあ」
あたしはそう言いながらも、この時だけは少しばかり嬉しかった。といっても、バイト先をやめたなんていうことになると、おじさんがまたくだくだと健ちゃんに説教をしだして喧嘩になるのだろうなというのが、少しだけ気がかりだったけど。