第3章
「これ、おまえが編んだんだろ?」
バレンタインデーの翌日の二月十五日、首に紺色のマフラーを巻きつけたまんま、健ちゃんは廊下であたしを呼びとめて、そう言った。いつものC組の子は隣にいない。でもあたしはできることなら逃げだしたくてたまらなかった。
「……どうして、あたしだってわかったの?」震え声で、やっとのことでそう聞いた。
「だってちえみ……」とあたしの名前を呼んでから、健ちゃんは失敗した、というように舌打ちした。「休み時間はいっつも、なんか編んでたじゃん。紺色のマフラーっぽいやつ。巧にでもやるのかなあと思って、ずっと見てたんだ」
「そう」
ちえみ、と名前を呼ばれた瞬間に、あたしは胸の鼓動がやや平常に戻っていくのを感じた。うまくいえないけど、一番高い山は越えたっていうような、そんな安堵感。
「巧くん、元気?健ちゃんと違って、巧くんは頭いいから、受験のこととかは全然心配してないけど……東京の大学へいっちゃったら、寂しくなるね」
「何それ、おまえ」健ちゃんはどっと肩の力が抜けた、というように、図書室の前の壁にもたれている。「去年は巧にマフラーやって、今年はあいつがいないから俺ってわけ?ちえみの頭の中って、一体どうなってんの?」
「さあ」と、あたしは首を傾げた。「去年も今年も、二本ずつ編めればよかったんだけど、何しろあたしってとろいでしょ?とりあえずひとつ編むのが精一杯だなあと思って」
「ふうん」
健ちゃんはなんだか納得していないみたいだったけど、あたしの手をぐいと引っぱって、図書室の下の階、美術室の前の廊下へとあたしのことを連れていった。そこなら、朝八時十五分の今、人気はまるでないはずだった。
「こっちこいよ」
健ちゃんは寒い廊下で、手をこすり合わせるようにすると、スチームの上に腰かけている。あたしも、彼の隣にちょこんと腰を乗せることにした。
「巧から、話だけは聞いてた。俺が不良になっちまったもんで、ちえみは話しかけられないらしいとか、そんなくだらない話……」
「違うわよ。そんなんじゃないってば」
「どう違うんだよ?じゃあさ、ちえみは俺の髪の毛が真っ黒で、ネクタイもきちっと締めてて、耳にピアスもしてなかったら、普通に話してたってか?そうじゃねえだろ」
「うん……それはそうかも」
「で、俺は考えた。そうか、人間っていうのは変わっちまう生き物なんだ。三年前までは『健ちゃん、健ちゃん』って言って、後ろをついて歩いてたのに、今じゃあ他人のふりかって。巧はそれは違うぞって言ったけど、俺は全然そうは思わなかった。俺みたいのとつきあってると内申点に響くとか、そういうくだらねえことを気にする女にちえみもなっちまったんだなあと思って……」
「違うってば!絶対そんなんじゃない!」
あたしはスチームの上から腰を下ろすと、健ちゃんと真正面から向きあった。
「それは、健ちゃんだって悪いんじゃないよ。いっつもいっつも、C組の女の子と廊下でいちゃいちゃして!巧くんはただの友達みたいだって言ってたけど、あたしは全然そう思わなかった!ずるいよ、健ちゃん。自分のことは棚に上げて、あたしのことだけ責める気!?」
「だから、話は終わりまで聞けって」
健ちゃんはあたしの肩を抱きよせると、もう一度、自分の隣に座らせた。手慣れたような、その馴々しい感じに、あたしはなんとなく苛々した。
「俺、てっきりちえみは巧のことが好きなんだとばっかり思ってたんだ。そしたらバレンタインデーの前の日に電話がかかってきてさ、下駄箱にもし紺色のマフラーが入ってたらそれはちえみからだって、巧が言うから……それどういう意味って、聞いたんだ。そしたらあとは自分で考えろって言うからさ……」
「ふうん。それで、悪い頭で考えたの?」あたしはわざと茶化してやった。
「うん、まあな」と、健ちゃんは笑った。「ない知恵しぼって考えたさ。それで、ふーんそうか、そういう意味かって納得した」
「へーえ。それで、これからどうするの?」
「こうする」
健ちゃんは紺色のマフラーを外すと、あたしの首と自分の首とに巻いて、端っこの房であたしの鼻の頭をくすぐった。
「これから、どっかいこうぜ。ちえみの成績なら、一日くらいさぼったってどうってこともないだろ。腹いてえとか保険委員にでも言って、早退しちまえよ。俺は突然いなくなっても『ああ、またか』って扱いだから、なんも心配いらねえし」
「うん。じゃあ、ちょっと待ってて」
あたしは紺のマフラーを首からほどいて、健ちゃんの首にぐるりと巻くと、教室まで鞄をとりにいった。健ちゃんは『保険委員に腹いてえとでも言って……』なんて簡単に言ってくれたけど、保険委員にそんな権限はない。それに保健室にいったところで、「じゃあ薬あげるから、少し横になっていなさい」とかなんとか言われるだけだ。それだったら何か適当に理由をつけて、直接担任に早退届けを出したほうがどれだけ早いか。
日頃の行いのよさが幸いしてか、入院中の大好きなおばあちゃんが今日手術をする、というあたしの法螺話を、秋山先生はあっさり信じてくれた。両親は学校へいけと言ったけど、やっぱりあたし心配で……そうか。じゃあ、先生も川原のおばあちゃんの手術の成功を祈ってるぞ、みたいな会話のノリだった。
「嘘つき。ちえみんとこのばあちゃん、老人ホームに入ってるって言わなかったっけ?」
「巧くんから聞いたの?」
あたしはヘルメットをかぶると、健ちゃんのバイクの後ろに乗りながら言った。学校の裏手にある林に隠していつも登校しているらしい。
「まあ、それはいいさ。それより、後ろにしっかり掴まってろよ。人目につかないように、少し遠まわりするからな」
それでも、健ちゃんの話によると、彼がバイクで登校してくるのは、先生方のほとんどにバレていたらしい。よくわからないけど、雰囲気から察するに、健ちゃんはそれほど先生方に悪評を買ってはいなかった。むしろおまえみたいのがひとりくらいいないと、教師生活に張りあいがない……健ちゃんの担任の安土先生などは、そう思っているような節さえあった。
「あいつ、妊娠にだけは気をつけろって言って、俺にコンドームくれたんだぜ。信じられるか?」
ロッテリアでバニラシェイクを飲んでいる時にそんな話をされたので、あたしは思わず吹きだしそうになってしまった。
「健ちゃん、あたし今、バニラシェイク飲んでるんだけど」
「ああ、悪いわるい。べつにそういう意味じゃねえから」
そのあと健ちゃんはしばし黙って、大好きなチーズバーガーにかぶりついていた。飲み物はファンタアップル。
「健ちゃん、好きなものだけは昔から変わってないんだね」
「ああ、まあな。ロッテリアにきたら注文するのは絶対にチーズバーガーとファンタアップルだ。それとポテト」
彼があんまり真面目くさってそう言うので、あたしは少しおかしくなって笑った。
「なんだよ?」
「ううん、なんでも」と、あたしはかぶりを振った。「変わったのは外面だけで、中身は全然変わってないんだなあと思って」
「どういう意味だよ?それを言ったらちえみだって……」
「ちえみだって、なに?」
「……変わったよ。始業式の日、講壇に立って挨拶してるの見て、すげえびっくりした。うちの学校って、ガリ勉タイプの冴えない女子が多いからな。その中ではまあ……わりと可愛いかなって」
「ふうーん」と、あたしは意味ありげに頷いてみせた。「ようするに健ちゃんは、あれだ。C組の大塚さん?ああいう女の子がいいんだ」
「萌はそんなんじゃねえって。第一あいつ、彼氏いるし。知ってるか?あいつ今妊娠中で、今年の三月で学校辞めるんだぜ」
「えーっ、そうなの!?」
必要以上に、あたしは大声をだして驚いてしまった。廊下ですれ違いざま、軽く睨むあの目つきはどう考えても……嫉妬する女の眼差しだとしか思えなかった。
「そういうわけ。俺も高校卒業したら、萌の彼氏のいる会社に入って、タイル職人になろうと思ってるんだ。本当は今すぐ中退して働きたいくらいなんだけどさ、親方が……高校だけはきちんと卒業しとけって言うからさ。そしたら卒業後はきちんと面倒見てやるって」
「そっか。それが健ちゃんのやりたいことなんだ」
「まあな。そんで、ちえみは?将来どうすんの?」
とりあえず、どっか大学いって……とは、何故か健ちゃんの前では言えなかった。巧くんの前では、言えたけど。
「んー、まだちょっと考え中。保母さんになろうかなって、考えたりはしてるけど……」
「ふうん。ちえみなら、あってるかもな。子供と精神年齢一緒だから、向こうも懐いてくれるだろ」
「それはどうかなあ」
あたしはシェイクの底のまったりしたうねりをストローでかき混ぜると、健ちゃんの長い睫毛に見入っていた。そしたら「食えよ」と言って突然ポテトを口に放りこまれた。
「これから、うちにくる?」
トレイを下げながら、何気なく健ちゃんがそう聞いた。あたしは「もちろん」と答えつつも、なんとなく変な気持ちだった。巧くんのいない、健ちゃんとお母さんと、その恋人のいる家……健ちゃんがグレてしまった原因のある家。そう思うと、なんとなくだけど、少しだけ怖いような感じがしたのだ。
その真っ白くて瀟洒な、二階建ての洋館を見た時、もしかしたら健ちゃんのお母さんは離婚してよかったのかもしれないと、あたしは初めて思った。健ちゃんはガレージの脇にバイクを停めると、「ほら、ここ」と言って、白い鉄柵に囲まれた、広い庭つきの家にあたしのことを案内してくれた。
「すごいねえ、素敵だねえ」と、あたしはかつて自分たちが住んでいた、オンボロアパートのことを脳裏に思い浮かべながら、はしゃいだ調子でそう言った。
「そう喜ぶなよ」健ちゃんは溜息を着きつつ、ライオン型のノッカーのついたドアを開けている。「これ、全部借金なんだからさ」
「へえ……」
でも家なんてみんな、ローンで購入するものだし……なんて思いながら、ふくよかな木の香りの漂う玄関で靴を脱いでいると、健ちゃんが二階に続く階段のほうへ顎をしゃくった。
「下に、誰かいるの?」
そっと階段を上りながら、囁き声でそう聞いた。
「おふくろはもう店のほうにいってる。家にいるのはヒモだけさ」
あたしが小さな声で聞いたことに対して、健ちゃんはわざと大声でそう答えていた。そしてドカドカと足音も高く階段を上りきると、ひんやりした廊下を通って、奥の部屋の茶色いドアを開けた――廊下に置いてあった二段のカラーボックスには、少年漫画の雑誌がびっしりと詰まっている。そのほとんどが少年ジャンプ。
「なんか飲み物とお菓子とってくるから、ちょっとここで待ってろ」
健ちゃんがそう言い置いて部屋を出ていったので、あたしは健ちゃんの、陽当たりのとてもいい、十畳ほどの室内を遠慮なく眺めまわした。机の上は普段まともに使っている形跡がまるでなく、真新しい参考書などが山積みになっている。ソファがひとつに、その上にクッションがふたつ。あたしは桜色のソファに腰かけると、四角いクッションを胸に抱いて、思っていたよりずっと綺麗にしてあるなあと感心した。そしてCDラックに百枚はあるかと思われる、洋楽のCDを何枚か引っ張りだして見たり、意外にも、本棚にびっしりと詰まった推理小説や怪奇小説などを一冊一冊手にとっては、中をぱらぱらめくって読んだりした。
『うるせえな。てめえに関係あんのかよ』
『……のくせに、何言ってやがる。この家の建っているこの土地は俺のもんだ。それを忘れるんじゃねえぞ、生意気なこのくそ坊主』
あたしはラフカディオ・ハーンの『怪談』を閉じると、下から聞こえてくる罵声や怒声に、思わず耳を澄ませてしまった。ガシャーン、と何か、食器類が割れるか落ちるかした音が聞こえたかと思うと、バタン!とドアが閉まり、健ちゃんがドカドカと足音も高く階
段を上ってきた。
「……どうしたの?大丈夫?」
「ああ、全然平気」
健ちゃんはあたしの心配そうな顔を見ると、にかっと明るく笑って、お盆の上にのせたコーラやジュース、それにポテトチップスなんかを小さなテーブルの上に置いた。そして煙草を一本とりだして、火を点けている。
「もしかして、新しいお父さんとうまくいってないの?」
「もしかしなくても、全然うまくいってなんかねえよ」と、健ちゃんは悪ぶったように言った。「俺、近いうちに犯罪者になるかもな。ちえみはそれでも俺のこと、好きでいてくれるか?」
「なあに?そんなに嫌いなの、新しいお父さんのこと……」
「嫌いなんてもんじゃねえよ。大っ嫌いだ、あんなやつ。確かに、あいつが金だしてくれたから、母さんは自分の店を持てたのかもしれない。この家の建ってるこの土地だって、元々はあいつのもんだ。でもだからって、説教される筋合いなんか、これっぽっちもねえよ」
「……………」
あたしは押し黙った。ここまで話を聞いただけでも、あとのことは大体容易に察しがついた。おそらく健ちゃんのお母さんは、ホステスをしている時に今の旦那さんと知り合ったのだ。前の旦那はしがないタクシードライバー、それに引き換え愛人は土地と金を持っている……果たして秤にかけたとしたら、重いのはどちらだったのか?
「あのね、健ちゃん」と、あたしは暫くの沈黙のあとで、言葉を選びながら聞いた。「元のお父さんのところにいくってことはできないの?ほら、この家にいるのが嫌だったら、お父さんと巧くんと三人で暮らすっていうことだってできるじゃない」
「それができればなあ」
健ちゃんは吸いはじめたばかりの煙草を灰皿の上でもみ消すと、溜息でも着くみたいに、煙を吐きだしている。
「なんかさあ俺、本当は父ちゃんの子供じゃないんだってさ。おふくろは否定してるけど、少なくとも父ちゃんはそう信じてるみたいなんだ。だから父ちゃんは、巧は間違いなく自分の子だから引きとるけど、俺のことはいらないって、別れる時にはっきりそう言ったんだ」
……あたしにはもう、言葉もなかった。これがもし友達の彼氏とかだったら、「よくある話」で済ませてしまえたかもしれない。でも健ちゃんと巧くんのお父さんはあたしが小さかった頃、二番目のお父さんみたいな感じで、あたしともよく一緒に遊んでくれた人なのだ。あの温厚で優しそうなお父さんが……そんな残酷なことを子供の目の前で言うとは、とても信じられなかった。
「なんか、ごめんな。つまんない話して。それよか音楽でも聴くか」
健ちゃんは機嫌を直したように笑顔になると、CDラックからニルヴァーナのCDを選んでかけた。あたしたちが高校生だった頃、カート・コバーンはまだ生きていて、銃を自分の頭に突きつけてはいなかったのだ。
『イン・ユーテロ』の『サーヴ・ザ・サーヴァンツ』が大音量でかかる。
「……ねえ、いつもこんな感じなの?」と、あたしは声のボリュームを上げて聞いた。
「こんな感じって、どういうこと?」
「だからあ、こんな下に響くくらい大きな音でガンガン音楽かけて、煙草吸って、本読んでるのかってこと」
「ああ、わかったよ」
健ちゃんはリモコンでコンポの音量を下げると、隣に座るあたしの肩を抱いて言った。
「ちえみはさ、こんないい家に住んで、高いコンポまで買ってもらってるくせに、これ以上一体なにが文句あるんだって、そう言いたいんだろ?俺はこんなもの、べつに欲しくなんかなかったんだ。向こうがさ、最初にゴマでもするみたいにして買って寄こしたっていう、ただそれだけ。まったく恩着せがましいぜ、あの狸親父」
「健ちゃん、違うよ。あたしが言いたいのは……」
そこであたしは言葉に詰まった。肩にまわされた手から、健ちゃんの荒々しい感情が流れてくるみたいだった。俺はこんなに可哀想なんだ、俺は癒されない心の傷を持っているんだ、心がひからびたみたいにカラカラで、飢えてるんだ、だから俺の欲しいものをくれ、欲しいものをくれ、欲しいものをくれ……。
「ちょっと、嫌だってば!なにするのよ!」
気がついたら、健ちゃんのことを引っぱたいていた。
「いってえ。巧にはやらせたのに、俺にはキスもなしかよ」
「……巧くんがしゃべったの?キスしたって」
「ああ、まあな」と、健ちゃんは左の頬を押さえながらふくれっ面になって言った。「一応話しておかないと、フェアじゃないからってさ。魔が差したとかなんとか言ってたっけ。だからちえみにあやまっといてくれって」
「ふうん、そう……」
あたしは拍子抜けしたみたいに、ぼんやり頷いた。そしてもうこれ以上ここにいる理由も必要もないような気がしてきて、ソファから立ち上がった。
「あたし、もう帰るね」
「あっそう。勝手に帰れば?」
なんて憎たらしいんだろう、あたしはそう思ったけど、そのまま黙って鞄を手にして、部屋から出ていった。帰り際、ドアの内側に貼ってあった、古くさい堀ちえみのポスターと目が合ったけど――たぶん、昔の明星の付録か何か――あたしは堀ちえみのセクシーな水着姿を見ただけでも、腹が立って仕方なかった。
そして玄関まで階段を足早に下りていった時、どことなく心配そうに上の様子を窺っている、太った白髪頭のおじさんとばったり鉢合わせてしまったのだった。
「……こんにちは。どうも、お邪魔しました」
あたしが礼儀正しく挨拶すると、向こうでも「こちらこそ」というように会釈して、どことなく決まり悪そうにこそこそとおじさんは居間のほうへ戻っていった。
(なんだ。結構優しそうな雰囲気の、良さそうな人じゃないの。きっと健ちゃんはただの我が儘なだだっ子なんだわ)
あたしはその時物凄く頭にきていたので、勝手にそう決めつけると、家までかなりの長い距離を歩いて帰った。
「うん、そう。うまくいったっていうか……今日早速喧嘩しちゃったけど。昔みたいに」
「ふうん、そっか。でも良かったじゃないか。これでとりあえず一歩前進だろ?」
「一歩前進ねえ」と、あたしは受話器に向かって思いっきり大仰な溜息を着いた。「あたしの気持ちって実は、恋愛感情じゃないのかもしれないって、今日健ちゃんと話してて思った。お父さんとお母さんが離婚したり、色々あって大変だったんだなって思いはしたけど……あれじゃあただの、甘ったれたガキじゃないの」
受話器の向こうで、巧くんが笑っているのが聞こえる。
「まあ、そう言わずに。気長につきあっていけば?ああ見えて健って実は、俺よりもしっかりしてたりするんだぜ」
「そうかなあ。あたしはあまりそう思わないけど。巧くんのが絶対に全然大人よ」
「じゃあ、俺にもまだチャンスはあるってこと?」
「え?巧くん、それは……」
「冗談だよ。じゃあ、そろそろ切るな。それと最後に、『巧くん、受験大変だろうけど頑張って』って、励ましてくれないか?」
あたしは彼に言われたとおりの言葉を口にすると、コードレスの電源を切った。巧くんと話をしてる時のほうが全然楽だし、思ってることなんでも話せるし、彼のほうが健ちゃんよりも断然大人でスマートで、余裕がある。図書室でキスしたことについても、真面目にあやまりながらも、どこか冗談のように軽く流してくれた――これであたしも卒業式、ただの先輩と後輩、仲のいい幼なじみとして顔を合わせられるし、寂しいけれど、駅まで見送りにいくこともできるだろう。
「……どうしてあたし、巧くんじゃなくて、健ちゃんのことが好きなんだろうな」
それは不思議な疑問だった。もしあたしが巧くんのことを本当に恋愛対象として好きなら――今から来年の受験に向けて、猛勉強を開始していることだろう。彼と同じ大学へいくために、あるいは同じ大学が無理でも、同じ東京にいたいがために、必死になって勉強するはずだ。
あたしは目標が決まると、意外に行動が速いタイプなのだけれど、健ちゃんが相手となると、何を目標としていいのかもわからなかった。そもそもあたしの場合、好きだからといってべつにキスしたいとか、エッチしたいとか、そういう感情とか衝動はあまりないのだ――とりあえず、今のところは。
「やれやれ。なんだか面倒くさいことになってきたなあ」
あたしは健ちゃんと再び昔のような関係になったその日の夜、嬉しい溜息を着きながら、眠りに落ちた。