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第2章

「へえ。それじゃあ健とは、まだ一度も口聞いてないの?」

 健ちゃんとは違って、巧くんは雰囲気的にあまり変わっていなかった。昔と同じようにリーダー的存在としてまわりの人間をまとめるのが得意で、穏やかな優しい話し方をするところも全然変わっていない。

「ねえ、巧くん。健ちゃんてばなんであんなふうにグレちゃったわけ?」

 放課後、あたしは司書室で当番の巧くんとふたりきりになると、虫干しした本を整理しながら言った。

「ネクタイなんかだらしなーく緩めちゃって、あれ一体なに?もしかしてあれが格好いいとでも思ってるわけ?俺っていい男だとかなんとか勘違いしてんじゃないの」

「それ、あいつの目の前で言ってやれよ」巧くんは笑いをこらえきれないというように、吹きだしている。「実はあれからうちも色々あってさ、俺は父さんの家に、巧は母さんの家に引きとられることになったってわけ。ここらへんの事情は、説明しなくてもわかるだろ?」

「うん……」と、あたしは黴くさい匂いのする宮沢賢治の詩集を手に持ったまま、曖昧に頷いた。

 そうなのだ。あたしが小学生の頃から、上の階では夫婦喧嘩の物音が絶えなかった。何しろボロ安アパートなもんだから、天井や壁も当然薄いわけで……その喧嘩の理由も原因もすべて筒抜けだった。

「でさ、俺が中三で健が中二の時にふたりは別れることになったってわけ。こう言っちゃなんだけど、俺ってガキの頃から頭よかっただろ。母さんは自分がふたりとも引きとるって言ったんだけどさ、父さんが巧には十分な教育を受けさせてやりたいとか言いだしてさ……それ聞いてた健の気持ちがどんなだったか、ちえみにわかるかな。あいつ、夜中にボロボロ大泣きしてさ、なんにも言わなくても、俺には健の気持ち、すごいよくわかったよ。健にとっては、父さんの側につくか、母さんの側につくかなんてこと、そう大したことじゃなかったんだ。健も俺と同じで、兄弟離ればなれになりたくなかったっていう、ただそれだけ。母さんは父さんと別れてから、自分の店はじめてさ、夜働くからどうしても昼間は家でごろごろしてるだろ。しかも隣には離婚の原因になった愛人がいるんだもんな――なんか昼下がりのメロドラマみたいだけど、実際自分の身に起きてみると、結構きつかったりするんだよな、これが」

 巧くんは溜息を着くと、軽く肩を竦めてみせた。これで非行化傾向にある少年Kの説明終わり、とでもいうように。

「……そっか。結構大変だったね、ふたりとも」

「まあね。ところでちえみのほうはどう?この間、写真部の荒木が俺のとこにきて、こんなもの置いていったけど」

 巧くんは制服の内ポケットから一葉の写真をとりだして、あたしに見せた――それには新入生代表として体育館の講堂に立った時のあたしが真正面から写っていた。

「うわ、不細工……よく撮ったね、こんなの。あんまり緊張してたから、写真撮られてるなんて全然気づかなかった」

「ああ、あいつは隠し撮り専門だからね。結構有名だよ。ヌード撮らせてくれるんなら、三万円までならだしてもいいって公言してるし。真面目なお坊っちゃんタイプが多いってちえみも思ってるかもしれないけど――それは表面だけだったりするからな。じゃないと内申に響くからね」

「ふうん、そうなんだ。あたし……あたしも――健ちゃんたちと別れてから、結構大変だったよ。陰湿ないじめに合っちゃったりとかしてさ。そんで、がんばって変わろうかなあって思って、この高校にきたの。まさか巧くんと健ちゃんがふたりそろっているとは思わなかったけど」

 あたしが無理したように笑うと、巧くんはあたしの顔をじっと覗きこむようにして、真剣な目で、言った。

「健から手紙、いかなかった?あいつ、ちえみが引っ越してから、何度か手紙書いてたと思うんだけど……しょっちゅう郵便ポストを覗いては溜息ついたりしてたし。しまいには俺が『ちえみから返事こないのか?』って聞いたら、顔真っ赤にして怒っちゃってな。あいつの手紙の文面、今もよく覚えてるよ。『何か困ったことがあったら、自分に知らせろ』みたいな文章。俺にもさ、何か伝えたいことあるかって言うから、『熊のケンタロウは元気にしてますか?』って、熊の絵の横に書いておいたんだけど」

「え、嘘」あたしは本気で凍りついた。「そんな手紙、きてないよ。確か最初の一通か二通くらい、手紙がきたのは覚えてるけど……それ、今も机の引きだしにあるもの。でもそれ以外のは全然……」

「ははあ、なるほど」巧くんは突然合点がいったように頷くと、なんの前触れもなくげらげらと笑いだした。これが笑わずにいられるか、とでもいうような大爆笑だった。

「なあに?ひとりで笑っちゃってずるいわよ。どういうことなのか、きちんと説明……」

 してよ、という言葉は、巧くんにぐいと腕を掴まれたせいで、声にならなかった。昔は体のどこを触られても気にしたことなんかなかったのに――何しろ、風呂まで一緒に入った仲だったから――今は腕を掴まれただけで、意識してしまう自分がなんか嫌だった。

「最初の一通目と二通目は、俺が書いたんだよ。手紙の内容も宛先も全部。そしたら健の奴が、今度は自分が書くとか言いだしてさ、三通目も四通目も五通目も、ずっとあいつが書いたわけ。ちえみも知ってるだろ、健の奴の筆跡。ミミズが心臓発作か胃痙攣でも起こしたような、判読しがたい字だもんな。きっと郵便局員にもわからなかったんだろうよ、あいつの独特の文字は」

 そう言いきると、巧くんはあたしの腕を離して、またさらに大きな声で足までばたつかせながら笑っていた。最後には灰色の事務机に突っ伏して、胃のあたりを押さえるようにしてやっとのことで笑いをおさめている。

「……でも、そんなことってあるのかな。もし宛先がわからなかったら、差出人の住所に戻ってくるんじゃない?」

 巧くんは再びブッと吹きだすと、笑いをこらえるように、苦しそうに言った。

「だから、その差出人の住所と名前も、読めなかったってことだろ。あいつ、結構落ちこんでたんだぜ。ちえみが学校生活楽しくて、俺たちのことなんか忘れちゃったんじゃないかって。そうかあ。なるほどなあ。この真実は是非、健に直接教えてやらねば」

「え?ちょっとどこいくのよ、巧くん」

 鞄を片手に立ち上がった彼を見て、あたしも慌てたように椅子を引いた。

「家の留守電にメッセージ入れてくるよ。今日は母さんのとこでメシ食うって言っとく。よかったら、ちえみも一緒にくる?」

 司書室の入口のところで巧くんは振り返ってそう聞いたけど――あたしにはまだとても健ちゃんに直接会うような勇気はなかった。それで、小さく首を振った。

「そっか。まあ、無理にとはいわないけどさ、また三人で今度どっか遊びにいこうよ。健の奴も喜ぶだろうし……あ、そうそう。健にまつわる笑える話をもうひとつ。あいつが堀ちえみのファンなの、ちえみも知ってるだろ?」

「……うん、知ってる」

「あいつの部屋、いまでも堀ちえみのポスター張ってあるんだぜ。なんでだかわかる?」

 わからない、という意思表示に、あたしはまた首を振った。

「名前が一緒だから、好きなんだってさ。ずっと口止めされてたけど、もう言ってもいいよな。何しろガキの頃の話だから」

 そして巧くんは「時効、時効」と呟きながら、図書室を出ていった。そして西日の差しはじめた誰もいない司書室にひとり残されたあたしは――少しの間、追憶に浸ってから、重い鞄を手にとって、陽が完全に没する前に図書室を後にした。


『へえ、健ちゃん。堀ちえみが好きなんだあ。でもなんで?あたしは堀ちえみより、もっと可愛いアイドルの子、いっぱいいると思うけどな』

『どうしてもだ』と健ちゃんは何故か赤くなりながら言った。『好きになるのに理由なんてない』

 ……小学生のわりには、なかなか哲学的な答えではないか。そのとおり。誰かを好きになるのに、理由なんてない。巧くんは昔のとおり、頭がよくて格好よくて性格も優しいまんまだったけど――ついでに、笑い上戸なのも相変わらずだったけど――それはあくまでもひとつ上のお兄さんとして「好き」ということだった。でも健ちゃんとは――廊下ですれ違っただけでも緊張して、息が苦しくなって、どう考えても自然に話せそうになかった。

(……もしかして、これって恋?)

 そう考えてあたしは、ああやだやだと、自分のそんな考えを慌てて打ち消した。まだ陰毛も生えてない頃に一緒に風呂に入った奴のこと、なんで好きにならなきゃいけないのよと、自分を茶化そうともしてみた。でもやっぱり駄目だった。

 そして何か小さな衝撃の少ない変化が起きてくれることを――ただひたすらに願った。たとえば廊下ですれ違いざま、向こうから軽く声をかけてきてくれるとか、兄貴から話を聞いたとかなんとか言ってくれるとか――でもそんな兆しは全然まったくなかった。健ちゃんは相変わらず、休み時間は廊下で、C組の可愛い女の子といちゃいちゃするようにしゃべくっているばかりだった。そして体育館の倉庫とか屋上で煙草を吸っているのを見つかっては、職員室で注意されたり、上級生をカツアゲしたというので担任に叱られたりしていた。

 最初は巧くんも、「思いきって話してみればいいのに」というようなことを言ってくれていたけれど、その沈黙の状態が半年以上も続く頃になると、もう何も言わなくなった。今ではもうすっかり健ちゃんとわたしは赤の他人――どころか、真っ赤な他人、深紅の他人と言ってもいいくらいだ――廊下ですれ違おうが、共同の授業で同じ教室になろうが、体育館で整列した時に隣り合おうが――視線さえ合わせなかった。

 そして高校二年の三学期、二月――あたしは懲りずにまた、マフラーを編みはじめていた。去年のバレンタインも、本当は健ちゃんにあげるつもりで編みはじめたのだけれど、結局その藍色のマフラーにはTの文字を入れて巧くんにあげてしまった。もっとも賢い彼はよくわかっている――本当はあたしがTのかわりに、Kの文字を入れるつもりでいたことを。

 親友の美紀とさつきは、あたしが図書委員長の出雲巧先輩のことが好きなんだろうと、少しも疑ってなんかいない――休み時間に編み針を動かしながら話をする間も、チョコレートは手作りかとか、それとも市販で間に合わすのかどうかとか、そんな話ばかりだった。

ふたりとはこれまで仲良く、なんでも腹を割って話しあってきたけど――何故か健ちゃんのことだけはどうしても言いだせなかった。

「黒木健?ああ、あの変に悪ぶってるダサい不良」というのが彼女たちの見解で、あたしにしてみたところで「右に同じ」という意見ではあった――一応、とりあえず表面上は。

「まさかとは思うけど、今年もそのマフラーを俺にくれるんじゃないよね?」

 放課後、司書室でせわしなく編み針を動かしていると、隣で巧くんが言った。『シャーロック・ホームズ全集』の第十六巻、『サセックスの吸血鬼』を読みながら。

「わかってるってば。今年はね、一応作戦があるの。この紺色のマフラーにKの文字を入れたら、チョコレートと一緒に、下駄箱に入れておくつもり。去年はたまたま、あのC組の女の子が卵型のチョコ渡すとこ見ちゃったもんだから――渡すに渡せなくなったっていう、ただそれだけだもん」

「なるほどね。それはまた随分消極的な作戦だとは思うけど、成功を祈ってるよ」

 図書委員長とあたしは、よくこんなふうにして放課後、貸しだしが終わったあとも司書室で仲良く居残っているため、一部の人間には「つきあっているらしい」と勘違いされている。確かに巧くんには特定の彼女というのはいないけど、彼はあくまでシャーロック=ホームズのように――少なくとも大学受験が終わるまでは女っ気なしでいたいという、そういう優等生タイプなのだ。

「でも理解できないな。あたしがもし男で、巧くんくらいもてたら――絶対誰かと試しにつきあっちゃう。それで、きっかけがあったらキスしたりとか、チャンスがあったらおっぱいもみもみとか、そのくらいのこと経験したいなって思うと思うのよね」

「おっぱいもみもみねえ」と、巧くんは笑いながら本を閉じると、優しく隣のわたしの顔をのぞきこんだ。「つまりちえみは、健にならされてもいいなとか思うわけ?キスされたりとか、その他いろいろ」

「そういうんじゃないってば」

 あたしは編み針を動かすのを止めて、丸い毛糸球やら、これまで編んだ五十センチほどの長さのマフラーのできかけやらを紙袋にしまいこんだ。流石に二月ともなると、陽が落ちるのが早い。そろそろ帰らないと、家に帰るまでに真っ暗になってしまう。

「じゃあ、たとえばさ、俺が」と、巧くんは椅子から立ち上がると、開け放しにしてあった司書室のドアを閉めにいった。

「今ここで、ちえみに胸さわらせろとか言ったら、やらせてくれる?」

「やだ、冗談やめてよ、巧くん」

 あたしはコートを手にとると、それを着ようとした。でも巧くんがそうさせなかった。そして隙をつかれたような形で、気がつくと唇が重ねられていた――そのあと、自分がどんなふうにして家まで逃げるようにして帰ったのか、いまでも記憶が定かでない。

「どうしたの?ちえみ」

 ただいまも何も言わず、居間を横切って自分の部屋の戸を閉めた。お母さんはちょうど天ぷらを揚げているところだったから――手が離せないということもあって、あたしのことはあまり気にしなかったみたいだった。夕ごはんの時に「何か嫌なことでもあった?」とは聞かれたけど、あたしは適当にごまかしておいた。

「ううん、なんでもないの。ただ犬に追いかけられて、急いで家まで帰ってきただけ」

 ――それで話は終わった。とりあえずお母さんとあたしの間では。

お母さんはさつまいもの天ぷらをつまみながら、昔若かった頃、犬ではなく変質者に追いかけられて物凄く怖い思いをしたことがあるという話をした。男がその気になったらあっという間に押し倒されてしまうんだから、夜道には気をつけなきゃ駄目よ、と。


 次の日から、図書室に巧くんの姿はなくなった。それもそのはずで、三年生はもう自由登校になっていたから、東京の大学を受験する予定の彼は、勉強の追いこみで本当は今が一番大変な時期のはずだった。そのことを言っても巧くんはいつも、「今さらじたばたしたって、どうにかなるもんでもなし」と茶化していたけど――もしかしたら、放課後、毎日のように司書室に居残っていたのは他に理由があったからかもしれなかった。

 でも巧くんは、次にあたしと顔を合わせたとしたら、こう言うだろう――「あの時はちょっとどうかしてた」とか、そんなようなこと。そしてあたしも何もなかったような顔をするに違いない――「べつに、全然気にしてないから大丈夫」って、笑いながら……だけど、本当にそれでいいんだろうか?

 あたしが頭を悩ませてるうちにも、その年のバレンタインデーの日はやってきた。巧くんがあたしにキスしたことを思うと、あたしもまた勇気をだして、健ちゃんに直接、マフラーと手作りのチョコレートを手渡すべきだったかもしれないけど――やっぱり消極的に差出人不明、メッセージカードなしで下駄箱に置いておくことにした。ずるい自己満足かもしれないけど、仕方ない。今のあたしにはそれが精一杯だったから……。



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