真夜中の街。
月さえ出ていない暗い路地を、一人の少女がふらふらと力なく歩いている。
顔は青ざめ、肩まで垂らした栗色の髪を乱し、ひたすら歩く。
その正気ない顔が、一瞬だけ夢見るように輝いた。それは、彼女の親友ターニアの奏でるヴァイオリンの音色を思い出した瞬間。
全寮制音楽学校で、共にヴァイオリンを学び、寝食を共にした親友。親友というありきたりな言葉だけでは、表現出来ないほど、二人の仲は親密だった。
家族より心を打ち解け合い。まだ二人とも得たことのない、恋人を思うより深く、お互いに心を通わせ合っていた。
授業の後、音楽室で、何時間もひたすらヴァイオリンを奏でることが、二人の日課。
二つのヴァイオリンの音色は、窓から差す夕焼けの光に溶け合い、やがて、日が西の空に沈み、夜空の小さな星の煌めきの中に吸い込まれいく。
二人は、言葉で語るよりも多く、ヴァイオリンで語り合っていた。
そのターニアが、今はもういない。
──あなたがいなくなって、私はどうすればいいの……?
少女の顔は、再び悲しみに沈んでいく。音楽学校の発表会を前にして、ターニアは突然学校を去って行った。
「ごめんなさい、アネス……。父の紹介で別の学校に行くことになったの。もっと早く言えば良かったけど、どうしても言えなかった……」
あの日、ターニアが学校を去る前日。いつもの音楽室での練習後、ターニアは突然の別れを宣言した。
「どういうこと……?」
言っている意味が分からなかった。ずっと永遠に、二人は一緒だと思っていた。
ターニアが行く学校は、国内でも有名な名門校だ。アネスにはとても入学出来ないような、優秀校。
涙さえ出なかった。
悲しみも怒りもおきない。心は大きな衝撃を受け、壊れてしまった。
ターニアのいない毎日が、これほどにも辛いとは思っていなかった。心の支えのヴァイオリンでさえ、ターニアがいなければ、何の興味もおこらない。
無気力、無感動。アネスは、あの日以来魂を抜き取られたような日々をおくっていた。
──消えてしまいたい……。
自ら命を絶つ力もなくなったアネス。彼女は学校を出たまま、行くあてもなく、ひたすら街を彷徨い歩く。真っ暗な夜の闇の中、このまま姿を消し去りたい。アネスはそう願っていた。
「お嬢さん、こんな夜更けの一人歩きは危険だ」
暗闇の中から、突然声が聞こえ、アネスは足を止める。
「誰……?」
じっと前方の闇を見つめていると、やがて一人の男の姿が浮かび上がってきた。
黒いマントのフードを目深に被り、長身の男は鋭い目をしてアネスを見下ろす。彼はまだ若く、美しい顔立ちをしていたが、無表情でアネスを見つめる視線は、驚くほど冷たかった。
「私の名は、ジュリオ。『時間屋』を営んでいる」
「時間屋……?」
男に対して恐怖心は沸かなかった。怖がる心さえ、今のアネスにはない。どうなろうと、どうでも良かった。
「どんな仕事なの?」
アネスの言葉に、ジュリオの口元が、少しだけ弛んだ。
「依頼者の願いを叶えること。それが、私の商売だ」
「願いを叶える? どんな願いでも叶えられるの?」
「あぁ。今まで叶えられなかった願いなど、一度もありはしない」
ジュリオは、小さく含み笑いする。
「かわいいお嬢さん、あなたの望みはなんだね?」
アネスは目を伏せ、キュッと唇を結んだ。
「望みなんて何もないわ。何も欲しくない。ただ、この世から消えてしまいたいの」
「この世から消えてしまう? 命を亡くしてしまうということかい?」
「えぇ。もう、生きていても仕方ないの……」
俯いたまま、アネスは投げやりな口調で答える。
「悪いが、その願いを叶えるわけにはいかない」
「どうして?」
アネスは顔を上げ、キッとジュリオを睨んだ。
「あなたは、どんな願いも叶えられると言ったわ」
「フッ、お嬢さんの命を奪うことなどたやすいことだ。だが、あなたが死んでしまっては、私の商売は成り立たないんだよ」
ジュリオは、アネスの心に突き刺さるような、鋭い視線で見つめ返した。
「言っただろう、私の仕事は『時間屋』だと。商売を成り立たせるためには、依頼人に生きていてもらわなければならない。私が欲しいのは、あなたの『時間』だ」
「私の時間……?」
「そう、あなたが消し去りたい過去の時間」
「……あ」
ジュリオはアネスに近づくと、その右手をサッと取った。夜の風よりも冷たい手。見知らぬ男に突然手を握られた驚きよりも、その氷のように冷たいジュリオの手に驚いた。
「ここに『時間薬』がある」
彼は、アネスの手の中に、小さな茶色の瓶を握らせた。
「過去の時間を消すといっても、全ての記憶を失う訳ではない。あなたが消してしまいたい記憶だけを失うのだよ」
アネスはじっと小瓶を見つめた。
──消したい記憶……消してしまいたい私の過去。
すぐに、ターニアの顔が浮かんだ。こんなに苦しい思いをしているのは、みんなターニアのせい。
ターニアのことさえ忘れてしまえば、どんなに楽になるだろう。
「どうだね? 消しさりたい過去が見つかったかい?」
ジュリオは、アネスの反応を楽しんでいるかのように微笑んだ。
──ターニアとの思い出さえなくなってしまえば、私は元のアネスに戻れる。ターニアに会う前のヴァイオリン好きの無邪気な少女に……。
「……過去の時間と引き換えに、私の願いを叶えてくれるのね?」
アネスは顔をあげ、ジュリオを見つめる。ジュリオは微笑みながら頷いた。
──私の願い。それはヴァイオリンの才能。
ターニアに憧れ慕いながらも、いつもターニアの才能には勝てなかった。コンクールで優勝するのは、いつもターニア。ターニアの活躍を喜びながらも、心の底では彼女に嫉妬したこともあった。
──ターニアに負けないヴァイオリンの技術が欲しい。
「私の願いは──」
ジュリオは、人差し指でそっとアネスの唇を押さえた。鋭い冷たさが唇から伝わる。
「言葉にしなくとも、あなたがその瓶の薬を飲みさえすれば、全ては望み通りになる」
戸惑うアネスの表情を、ジュリオは面白そうに眺める。
「もし、気が変わったのなら、その薬は飲まずに捨てればいい。あなたの過去は消えないが、願いも叶わない」
ジュリオはアネスの唇から人差し指を外す。
「全てはあなたが決めることだ」
「……あの」
黒いマントを翻し、ジュリオは踵を返した。夜の闇の中、足音も立てず、ジュリオは去っていく。
彼は、すぐに闇の中に溶けていった。
茫然と立ちつくすアネス。現実なのか夢を見ているのか定かではない。しかし、アネスの右手の中には、『時間薬』がしっかりと握られたいた。
それから一月も経たないうちに、アネスは音楽学校一の生徒となった。
彼女の奏でるヴァイオリンは、聞く者全ての心をとらえた。昼も夜も、アネスはヴァイオリンを弾き続け、みるみるその才能を開花させていった。
もう、彼女を悩ませるターニアは、心から消え去っている。既に、アネスはターニアの顔さえ忘れ、学校に存在したことすら記憶にない。
あの美しい笑顔、心震わすヴァイオリンの音色。全ては、完全にアネスの過去から消えていた。
アネスが数々のコンクールで優勝し、世界中にその名を広めるのに時間はかからなかった。
その腕前は、とうにターニアを超えている。アネスは天才少女と呼ばれるようになった。
だが、それと引き換えに、アネスの無邪気さや優しさは失われるようになった。ヴァイオリンだけを心の友とし、孤独を愛する少女になった。
アネスは高嶺の花。近寄りがたい存在。しかし、アネスは気にもかけなかった。
ヴァイオリンこそが、命。アネスの全てなのだ。
アネスが『時間屋』のジュリオに出会って、一年後のこと。
音楽学校に、ある女生徒が転入して来た。
彼女の名前は、ターニア。過去に天才少女と呼ばれたヴァイオリニスト。
名門音楽学校に入学した彼女だったが、自ら希望し、もう一度学校に転入してきたのだ。今でもヴァイオリンの腕前は一流だが、名門音楽学校は、ターニアの肌に合わなかった。伸びかけていた才能が、窮屈な学校の中で潰されそうになっていた。
その原因は、彼女が一番理解している。
──アネスがいないから……。
寝食を共にし、いつも傍らに寄り添っていてくれたアネスと別れ、ターニアも辛く苦しい毎日を送っていた。
──アネスがいないと、私は私ではなくなる。
悲痛な思いで、父親を説得し、懐かしい学校に戻って来た。
──アネスに会いたい! もう一度アネスと演奏出来たらどんなに幸せかしら。
アネスの評判は、ターニアも知っていた。だが、彼女を羨むことなく、ただひたすら、アネスとの再会を待ち望んでいたのだった。
しかし、再会したアネスの反応は、予想以上に冷たかった。
「アネス!」
一年ぶりに会った親友をしっかり抱きしめ、喜び合うつもりだった。だが、大きく広げられた両手の中に、アネスは飛び込んではこなかった。
「あなた、誰?」
無表情の冷たい口調。荊のようにとげとげしい態度。
「……ターニアよ。私を忘れてしまったの?」
「私、あなたなんて知らないわ」
茫然と立ちつくすターニアを残し、去っていくアネス。
もはや、アネスの中にターニアはいない。あの薬を飲み込んだ瞬間、世界一大切な親友は、消え去ってしまった。
その日から、ターニアの絶望と苦しみの毎日が始まる。
悲しみに沈んだ心では、ヴァイオリンの腕も上達しなかった。彼女の奏でるヴァイオリンの音色は、暗く苦しい音しか出せなかった。
それから数ヶ月が過ぎ、毎年恒例の学内発表会が行われることになった。
全生徒が集まり、ヴァイオリンの腕前を競い合う。今年は発表会前から、アネスの優勝は確実視されていた。それでも、生徒達一人一人、心を込めてヴァイオリンを奏でる。
──くだらない。みんな、なんて下手なの。ヴァイオリンが泣いているわ。
アネスだけは、心の中でそう思い、退屈そうに演奏を聴いていた。
しかし、ある生徒が壇上に上がり、ヴァイオリンを奏で始めた時、アネスの心の中で何かがうごめいた。
「……これは」
何でもないヴァイオリンの響き。なのに、心が激しく揺さぶられる。
夕焼けに染まる赤い空。夜空に煌めく数千の星達。優しい春の風。雪の舞う冷たい冬の空。夏の夜に聞こえる虫たちの声。
断片的に、アネスの頭の中に甦る光景。そして、心を震わせる繊細なヴァイオリンの音色。
「ターニア……」
自然と涙がこぼれ落ちた。忘れ去っていたターニアとの思い出の日々。心苦しいほど、慕い合ったかけがえのない親友。
一心にヴァイオリンを演奏するターニアと、一瞬目が合う。ターニアも涙をこぼしていた。二人の心が再び繋がる。
だが、次の瞬間。ターニアの細い体が壇上にくずおれていった。ヴァイオリンの弦が切れ、歪んだ音が場内に響く。あちこちから上がる悲鳴。
「ターニア!」
アネスは壇上のターニアに駆け寄る。彼女は血の気のない顔をして、倒れていた。アネスはターニアを抱き寄せる。
「アネス……」
ターニアはアネスを見つめ、薄く笑顔を作る。しっかりと握り合った手と手。だが、ターニアの手はスルリとアネスの手の中から離れていった……。
壇上の横のカーテンが揺れ、一人の男がその様子を見守っていた。
「私は言ったはずだ。記憶を取り戻すためには、あなたの魂が必要だと……」
男は低く呟やくと、マントを翻し、踵を返す。静かに去って行く男の後ろ姿には、悲しみが漂っていた。
数日前、一人の少女が街を彷徨っていた。彼女のただ一つの願いは、親友の過去の記憶を取り戻すこと。最愛の友に忘れ去られることほど、彼女に辛いものはなかった。
アネスは、ようやく気付く。自分にとって一番大切なものが何だったのか。だが、それに気付いた時、大事なものは彼女から消え去ってしまった。
永遠に……。 了
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