3・切望
「…まだ5時じゃない……」
ベッドに倒れ込んでから、昨日はそのまま寝てしまったようだ。
「フッ…情けないわね」
一度目が覚めてしまうともう起きるしかない。哀はとりあえず制服に着替え、朝食の準備をしに下へ降りていった。
しばらくして…
もう出来ちゃったわ、と言って哀は嘆息する。トーストと目玉焼き、サラダにベーコン。
いつもと同じ、簡単な朝ご飯。 しかしあまりに簡単すぎては時間つぶしにならない。
壁に掛かっている時計に目をやるとまだ6時。学校に行く時間まであと2時間もある。
「どうしようかしら…」
たとえ決心したとはいっても昨日の今日。正直、彼に会うのは躊躇いがあった。
「はぁ……地下室、行こ」
彼の分だけ机に置き、哀は工藤邸を出る。
地下室で水中生物のレポートの続きを少し進めてから、哀はそのまま学校に行く事にした。鞄は持ってきていたので、阿笠邸を出て、哀は歩美との待ち合わせ場所に行く。
「あいちゃーん!おはよう!」
「…えぇ、おはよぅ」
朝から、持ち前の明るさで今日のこの曇天を感じさせない歩美はすごいと思う。いつもだ。彼女は自分にないものをたくさん持っていて、正直少し羨ましい。ここでまた、「私なんか…」と自己嫌悪に陥るのは良くないと分かっていても、だんだんとそうなってしまってきているのを哀は自分で感じた。
「あいちゃん?」
心配そうに自分を覗き込んでいる歩美を視界に捉えて、哀は自分が今登校中であることを思い出す。
「大丈夫よ…昨日あまり眠れなかっただけ」
この心優しい友人に心配させまいと、哀は軽くわらった。
***************************************
♪キーンコーンカーンコーン♪
課程終了のチャイムが鳴って、生徒がわらわらと教室を出て行く。次第に運動場が騒がしくなり、どこかからトランペットが鳴り始める。
「あいちゃん、まだいたの?」
教室に残っていたら、不意にひょっこりと歩美が顔をみせた。
「えぇ…少し」
哀は読んでいた本をパタリと閉じる。
「今日は何語?」
「ギリシャよ」
最近は趣味として、哀は語学の研究も始めたのだ。歩美はいつも哀と共にいるせいで、こういったことには慣れているらしかった。
「あなたはどうしたの?」
部活は?と哀は尋ねる。中学に入って歩美はとうとう、以前から憧れていた管弦学部に入部したのだ。
「あ、そういえば。今日はね、パート練習の日だから、楽器ごとに教室を分かれるんだよ」
そう言って歩美は手に持ったヴィオラケースを掲げた。
「そう。ごめんなさい、邪魔だったわね。遅くなるし、もう帰るわ」
さっきは気づかなかったが、歩美の後ろには4、5人の生徒が固まっている。
普段でもあまり喋らない哀は相手からすれば絡みづらいのか、一般の生徒達からはどうやら一線を引かれているらしい。
おかげで平穏無事な学校生活が送れているのだが、それはなんの起伏もない生活だ。
唯一、歩美と同じクラスであることが哀にとっての学校生活の光だった。
「そっか、新一お兄さんいるもんね。ばいばい!」
手を振り返しながら、哀は嘆息した。そう、彼がいるのだ。確か今日は院が休みだとかなんとか。一昨日あたり、食卓で話していたのを覚えている。
哀はぽつりと言葉をこぼす。
「……博士の所行こうかしら」
「アメリカじゃねえか」
「そうなのよね。さすがに工藤君一人置いていくわけにもいかないし」
「たりめぇだろ?俺が寂しい」
「にしてもあの料理は生活力なさすぎ……って、え?」
髪をなびかせ後ろを向いて。そこには
「工藤君?!」
私を驚かせたことに満足したのか、にやっと笑った彼がいた。
「灰原、お前遅ぇよ!学校終わるの4時だろ!」
「…教室で本読んでたのよ。」
いきなり現れた彼にすこしムッとしながら、哀は歩き出す。
「携帯もたせるべきか…」
「べつにそのくらい自分で買うわよ」
早足で歩いているつもりなのに、彼の歩調はゆっくりで、それなのに自分と早さが変わらないなんて。
「…かわいくねぇな」
「結構よ」
いつもどうりだった。朝も顔を合わせていなかったけど、学校でもあんなに心配したけど、別に平気だった。
「なぁ、おれ腹へったんだけど」
「まだ6時前よ」
「だって昼食べてねぇし」
「そんなの貴方が悪いんじゃない」
なんだろう、なんだろうこの気持ちは。
「…お前俺の料理の腕知っててそれ言うか」
「あれはまさに天才的ね」
胸がざわめいて、苦しくなって、痛い。
「今夜なんだ?」
「何がいい?」
「…クリームシチュー!」
「おにぎりでいいかしら」
何もしていないのに。彼と普通に話しているだけなのに。
「…てんめぇ……」
「じゃぁカレーね」
昨日の光景がフラッシュバックする。彼の香り、温もり。
「嫌がらせか?」
「今夜は漬け物ね」
私はなにを望んでいるのだろう。つい昨日、捨てたばかりの想いがまたあふれてきて。
「ごめんなさいカレーでいいです」
「で?カレー『で』いい?」
「すいませんカレー『が』いいです」
心が悲鳴をあげる。彼の温もりを切望している。
「じゃあ手伝ってね」
「カレー?」
「雑用」
こんな気持ち、しらない。
「…さいですか」
「返事は?」
「…ぁい」
どうしてこんなにも、彼を求めずにはいられないのだろう。
|