カーンという小気味よい金属音の瞬間、鈴原は膝を折った。
全ての音が遠のいてゆく。両の目はただ呆然と、ボールの行く先を見上げていた。
追いかけても無駄なのだ。もう、追いかけても。
ボールはスローモーションでレフトスタンドに吸い込まれていった。
わあぁっ!!
聴覚が感覚を取り戻した瞬間、鈴原の全身に、敵陣の割れるような歓声が降り注いだ。
あぁ、俺たち、負けたんだ……。
まるで他人事のように世界が回っている。響くサイレン、集まる高校球児たち。
その景色を、鈴原は試合前にも見た。向かい合う球児たちは、共に同じ未来を見据えていた。
それが、今は――。
ウグイス嬢のアナウンスが聞こえる。
『準決勝、堺谷高校対、葦高高校は、ご覧のように、延長十回、五対六で、葦高高校が、勝ちました』
何が起きたのか。
マウンドに誰かが近づいてくる。
「ほら、銀次、立って。並ぶぞ」
一四〇キロの剛速球を投げ続けた鈴原の右腕を引っ張り上げたのは、三年、レフトの菊池だった。
「……利…文? お前、何泣いとんねん……」
鈴原の声に、力はなかった。疑いの色の混じる彼の声音に、菊池は唇を噛みしめる。
その光景を鈴原の目が捉えて、頭の隅にぼんやりと現実感のない納得をもたらす。
そっか、負けたんだもんな……。
「行くか」
鈴原はのそりと立った。
誇らしげに笑みを交わす葦高高校の野球部員たち。自分たちと同じくらい汚れたユニフォーム。
一の背番号を背負って、鈴原は彼らに対峙した。
『それでは、葦高高校の栄誉を称え、校歌を、斉唱します』
湧き立つ観衆。
葦高の部員たちは、堺谷の彼らが知らない歌を誇らしげに歌った。
菊池が泣いていた。
つられる様に、三年の部員たちがすすり泣きをはじめる。堺谷ナインのユニフォームの袖が、汗と涙と土でどろどろになった。ファーストも、ショートも、サードも。…キャッチャーの姿は、正視できなかった。
わあぁっ!
再び歓声。
互いのベンチへの挨拶が終了し、選手たちが観衆の声援に手を振って応えたのだ。
一塁側のスタンドは、静まりかえっていた。ベンチでは、泣き疲れた選手たちのため息が聞こえる。だがそれも、三塁側の大きな歓声に呑み込まれ、自分たち以外にその声を聞くものはいない。
鈴原はゆっくりと甲子園球場の砂に顔を近づけた。汗でびっしょり濡れた、血豆だらけの両手で掬う。
カメラを低く構えた取材陣が鈴原を取り巻く。
陽の光を吸い込んだ黒い土は、柔らかく、あたたかかった。
パシャパシャとシャッターを切る音。
これを、踏みしめて闘っていた……。
鈴原の脳裏に約束の言葉がよぎった。
『銀ちゃん、一緒に日本一目指そう?』
「朋子……」
マネージャーの杉崎朋子と、放課後のグランドで交わした約束だった。
掬った砂をスパイクを入れていた袋に流し込む。
再び砂を掬おうとして、手が止まった。
見つめる先の砂に、水滴が落ちる。吸い込まれて、乾いてゆく。最初からそこには何もなかったかのように。
「……きしょう…」
大阪地区予選。
決勝戦では、去年の出場校を大幅に引き離して圧勝した。その瞬間、エースである鈴原の双肩に大阪府全ての高校球児たちの夢が託されたのだ。
苦痛ではなかった。
一番のプライド、堺谷ナインの絆、一球入魂の闘志、真っ黒に日焼けした両腕。
希望の光は見えていた。
目指すものは決まっていた。
真紅の優勝旗。
あいつらの分まで頑張るって、約束したのに。
『スズの球、打ちてぇな。な、勝負できるよな? 俺ら、負けねぇからな。お前らも、勝てよな』
決勝戦で会おう。
親友との、誓いだった。
明倫高校の藤原拓也。
同じく山梨県全ての高校球児たちの夢を背負ったサウスポーのエース。
鈴原がその手に掴み取るものは、もっと違うものだったはずなのだ。
午前中の試合で、明倫は決勝進出を決めた。
鈴原銀次はじっと手を見つめる。
砂が汗を吸収して、どろどろだった。
「拓也、俺……」
バッテリーのサインに首を振り、インコースを狙って低めに投げたカーブ。
カーン。
爽やかな青空に舞った、魂のボール。
脳裏に金属音が蘇る。
「ち…っきしょう…」
なんであの時。
俺がもっと。
この手に掴むは……黒い砂。
大阪堺谷の夏は終わった。
「ちきしょおぉぉぉぉっ!!」
地面に爪が食い込むほどに球場の砂を掴んで叫んだ悔しさの咆哮。
その瞬間、パシャパシャと折り重なるようにフラッシュがたかれる。
俺たちの目に映っていたものは、もっと違う未来だったはずだ。
「銀次、もうええやろ。お前エースなんやから、最後までエースの役割は果たせ」
「利文……ッ」
歯を喰いしばって懸命に嗚咽を止める。
汗か涙か分からないものを手で拭うと、鈴原の精悍な顔が泥で汚れた。
「分かってる。お前だけやない。みんな悔しいねん。誰もお前を責めたりせんよ」
「けど、俺…、あいつのサインに…」
「お前が信じて投げたんやろ? なら、ええやん」
仲間の声は、優しく、スポーツドリンクのようにすうっと体の中に入っていった。
建物の中ではすでに監督のインタビューが始まっている。
「行こ」
菊池が手を差し伸べる。
同じように黒く汚れていた。彼も砂を掬ったのだろう。
「…あぁ」
信頼という絆で結ばれた仲間の手を、鈴原は力強く握った。
菊池の顔が苦笑に歪む。
「銀ちゃん!」
ベンチの方から、少女の高い声がした。涙で震えた声だ。
記録員を務めていたマネージャーの朋子だった。
「っ、銀ちゃん、ありがとうっ。頑張ったねっ…堺谷バンザイ! 万歳っ……」
学期が始まった頃は白かった朋子の肌が、部員と同じように日に焼けている。
朋子は嗚咽を漏らしながら、首からかけたタオルで懸命に涙を拭っている。
鈴原の顔に思わず笑みが漏れる。
「何や、朋子。ぐっしょぐしょやないかい。あんまり泣くと、可愛ないでぇ」
菊池と共に歩み寄り、砂のついた手で朋子の頭をぽんと撫でる。
「ほな、いさぎよう負けのコメント残してくるわ」
鈴原は取材陣の中へ飛び込んでいった。
○
八月二十日、甲子園球場は快晴。
三塁側アルプススタンドに穏やかな風が届く。
照りつける太陽。熱き高校球児たちの闘志を祝福するかのような、見事な青空だ。
昨日自分のいた場所に、同じ背番号の親友が整列して立っている。対するは強靭な守りの葦高ナイン。
強い日差しを反射する明倫の白いユニフォームが眩しい。
拓也、俺らの夢、繋いでくれや。関西中の野球バカがお前を応援してるぞ。
不意に、藤原が左手を挙げた。
三塁アルプスを見上げ、何かをつまんで振る真似をしている。
「ん? 鈴?」
続いてグローブを嵌めた手でお腹をさする。
「ハラ? …スズ、ハラ…俺っ?」
と、そこで試合開始のサイレンが甲子園球場に鳴り響く。
明倫ナインが一斉にグランドへと散っていく。
隣に座る朋子の携帯ラジオからも、試合開始を告げるアナウンスが聞こえてきた。
『さぁ、山梨明倫高校、一番藤原、全国制覇に向けて今、振りかぶってぇ…第一球を、投げましたっ!』
八月二十日、快晴の甲子園球場に、祈りの熱風が静かに吹き荒れる。
最後の闘いの幕は上がった。
完 |