クライアントNo.1 エッシェンシャル (匿名男性)
たった今私は、ある怪物と対峙している。
狭い部屋の中、この怪物と二人きりでいるのはつらい。覚えたての言葉を使いたがる幼児のように、何度も問いを投げつけてくる。
「ミンシュシュギトハ、ナンナノカ」
「ソレハ、ナゼヨイコトナノカ」
その問いに答えたところで、怪物は耳をもっていない。私の解答など端から興味が無いように、また同じ問いを繰り返すだろう。その顔には、心の漏洩が無く欺瞞としか思えないほどの中性的な表情を張り付けている。答えを出すことの無意味さを訴えているのか、質問に答えようとする私を嘲笑しているのか。きっと、どちらでもないのだろう。
私が返答せずにいると、怪物は満足したのか首を外にむけた。しかし問いは止まらなかった。
外からの刺激を受ける器官が停止し、一方的に疑問を発し続けるこの怪物は、思考停止の回路にはまってしまったらしい。問いを続けることこそが正しきことだと言わんばかりの高明な態度で、臆病な自己疎外の草叢を巡回している。
もし怪物と会話ができたなら聞きたいことがある。
「なぜよいのかを問いかける」ことは、なぜよいのか。
いつの間に降りだしたのだろうか、微雨が窓の外を暗く沈ませていた。病室の不自然な明るさが、四角い黒を鏡色にくすませている。
怪物は未だ問いを続けている。私と別れた後も、ひとり空に問い続けるのだろうか。間違うことを恐れ、無知の知に怯え、いっそ他者となることで自己総括を免れようとする孤独な怪物。その姿に、気味の悪い懐かしさを感じた。
数日前のワタシも、同じ姿をしていた。その時書いた川の字も、左腕に残っている。袖をまくるとそのたった一文字が、莫大な情報量の単位で過去のワタシの思想を伝達してくる。ワタシが語りかける。
*
ワタシは何がほしいのでしょうか
羊頭狗肉の処世術はもう腐りかけています
獣血の苦臭に耐えてまで
収得したいものなどあるのでしょうか
好きなものはと聞かれれば
答えることはできます
聞かれることを前提にしたこたえは
羊の皮の下に携帯しています
好きなものがないなら
これから探せばいいじゃないか
そんなことは言わないで下さい
何をするにしても
怠惰な多数派と干渉し会うことに
変わりはないのだから
私はまだこの世にいるのですか
執着するべきこともないのに
欲しいものもないのに
*
ワタシは、今日の終わりと明日の始まりの隙間、限りなくゼロに近い時間に生きていた。その窮屈さに苛立ち、怒りをこめて、ゼロにならぬ私を否定した。そのときから、ワタシは私になれたのだと思う。限りなくゼロに近づこうとすることで、ようやくこの世に存在しているのだろう。 私は愚行を続け、ワタシはそれを疑う。
おぼろげな私の、存在証明となるはずだ。
それは――
「――ナゼヨイコトナノカ」
怪物の声で我に返った私は、慌てて左袖をのばした。
私の世界全体が揺らいでいた。矛盾した二つの視点が脳に情報を伝達してくる。
袖の上から手首を握り締め、眼窩の奥に意識を集中させた。急に現れた懐疑的な視界からシュミラクラを探すように、固有視覚と平衡器の共振する一点を見つめる。自分は、私に語りかけるワタシなのか、ワタシの語りを聞く私なのか。現実なのか、幻なのか。見えるものは見えているか。見えないものは見えずにいるか。
徐々に網膜の内外が混じり合い、自然な視野が広がる。
ようやく一息ついたところで手を離した。強く握っていたわりに、うっ血などはおこしていない。相変わらずの青白い皮膚と、三本の古傷が残っているだけだった。 自由の身であるものの、実際はまだ寛解したとはいえないようだ。
それでもかまわない。
私でも、ワタシでも、どちらでもいいことだ。
冷静になった目で怪物を見ると、窓に映るジブンと禅問答をしていた。
思いのほか時間がたってしまったようだ。最後にこの山椒魚のような怪物に言った。
「いつか、あなたも外にでられるよ」
声が聞こえたのか、怪物はこちらを向くと、表情も変えずにたずねた。
「ソレハ、ナゼヨイコトナノカ」
私は、怪物の問いには答えず、病室を後にした。
ワタシならば、きっとぶん殴っていただろう。その辺の椅子かなにかで、顔もわからなくなるほど徹底的に。
外は陰雨が続いていた。
私は構わず歩を進めた。
濡れるのは、承知している。