『そりゃあ、驚いたのなんのってさぁ』
満月の丑の刻(午前二時)、夢買いの密は墓場にいた。
この小男は界隈でも有名な変態で、縁起の良い夢や怪談噺を売り買いして生計を立てている。しかし万事、商売繁盛というわけにはいかず、腹が減ったが銭は無いというときなどは、墓場の供物を頂戴しているのであった。
『いやぁ、罰当たりだってのはわかってますよ、あっしだって。でもねぇ、空腹なんてマヌケな理由でくたばったら、天国の父上と母上に顔向けできないってさぁ。
戯言はいいから、早く先を話せって? アンタせっかちだねぇ。
まぁ、いいさ。
あれは、あっしが今まで経験したなかでも、とびっきり恐ろしい出来事だった。思い出すと、今でも足に震えがきやがる。』
さて、墓場の供物を漁りにきた密は、運良くまんじゅうにありつくことが出来た。
数日前に供えられたものらしく、皮がパリパリに乾いている。それを噛み砕きながら、鳥の糞がついている箇所に『罰当たりめ』と、烏を悪罵したときであった。
『嗚呼ぁ、嗚呼ぁ…ってね』
聞こえたのだ、女の呻き声が。
息を殺して耳をすましていると、続けて何度も聞こえてきた。
『呻きというよりは、喘ぎかな。なぁ、アンタの嫁さん、美人か?
そうかい。そりゃあ羨ましい限りだね。じゃあ、アノ時の声はどうだい? あっしなんかは、どれほどの美人でも睦みおうときの声が悪かったりすると、がっかりだね。
その女の声といったら、そりゃあ悦い響き具合だったよ。発情期の猫が鳴いているような、かといって下品じゃない、体の心が溶けてしまうそうなほど淫蕩な喘ぎ声さ。絶世の美女に違いない、と思う程のね。
夜中の墓場で、そんな声が聞こえてきて怖くなかったのかって? なぁに。幽霊だって、あれほど艶っぽいなら、むしろ口説き落として嫁にしたいくらいさね。』
こうして四半刻ほど、得体の知れぬ何とも色っぽい艶声を聞きながら、密が饅頭を食っていると、墓石の影から、ぬっと足が現れた。
『あの日は満月だったから。
お月さんの灯りに照らされた青白い足が、ぬっと出てきたのがはっきりと見えた。
それが何とも気味悪い様だった。たまらず、あっしが悲鳴を上げると、途切れなく漏れていた喘ぎ声がぴたりと止まった。』
不気味な静けさの後、今度は、笑い声が聞こえてきた。
『ところで、アンタ、けらけら女を知っているかい?
さびしい路を歩く人間の後ろにぬっと現れて、「けらけら」とデカい声で笑って、振り返ると、屋根を超える程の大女になってさらにデけえ声で笑い続けるていう気味の悪い女妖怪さ。男を弄んだ淫婦の霊が妖怪に化身した姿なんていわれてるけどね。
まさにそれだった。けらけらと狂ったように笑い続ける。まったく、先の艶声で熱くなった芯が冷えきっちまったんだよ。』
女の笑い声はさらに大きく高くなり、耳障りなこと、この上ない。
空腹も満たしたことであるし、密は墓場から早々に立ち去ることにした。だが、このまま女の正体を確認せずに退散できるか――?
密の、夢買いとしての好奇心が行動を起こさせた。
『あっしは後ろ足で退散しながら、柳の木の陰に隠れた。で、そおっと木の陰から様子を伺ったのさ。するとそこには、この世のものとは思えぬ景色が広がっていた。
最初は白い狐が狂って暴れているように見えた。
だがな、その白いものは女の裸だったんだ。裸の女が墓石に抱きついてやがる。
抱きついて、身体を墓石に擦り付けているのさ。乳房やら股座やらをね。
どうしてなかなか悦い喘ぎを漏らすと思ったら、『墓石』とまぐわっていたってわけだ。
髪をざんばらに振り乱して、憎らしい男に呪詛をかけているようにも見えたよ……そういえば丑三つ刻だったしね。
そんなこんなで、あっしはとうとう心の臓が縮み上がったのさ。ところが、さあ退散しようというときに、その妖が血走った目であっしの方を見た。人とは思えない憎しみの篭った目付きでね、殺されるかと思ったよ。無事に逃れることができたからよかったようなものの。
ありゃあ、本物の妖に違いねエ。
悪いことはいわないから、アンタ。件の墓場には近づかないことだ。特に丑三つ刻にはね…』
夢売りの密のこの怪談噺は、久方ぶりに盛況な売り上げをした。
その上、盗み聞きしていた町民の間でも飛び火のごとく広まったのである。
菓子屋の倅であった森村武臣が、『食医』の九摺李笈助の元を訪れたのは、それから間もなくのことであった。
◆◆◆
(本当にここか……?)
森村武臣は山寺へと続く石階段を上がっていた。
石段の周囲には若々しい木々が茂っており、美しい紅葉が彩っていたが、無骨な造りの階段は傾きが急で、足の弱い年寄りならば紅葉に見惚れているうちに転げ落ちてしまうだろう。
「くそぉ、医者がこんな辺鄙な場所に住んでるとはどういうことだ」
石段を登りきると、中国風の門の前で落ち葉を掃いている子供の姿が見える。
小坊主だろうか。
それにしては法衣も着ておらず袴履きで、頭も丸めてはいない。
「そなたは、この寺の者か?」
声をかけると、掃いて集めた落ち葉から顔を上げる。
武臣は思わず息を呑んだ。
十二、三歳くらいの童子であったが、見目が至極美しく、妙に大人びている。
「自分は森村武臣と申す者。ここに九摺李笈助という医者がいると聞き、訪ねてきたのだが」
動揺を隠しながら訪ねると、童子はコクリと頷いた。
「主人に何か御用ですか?」
「話したいことがあると伝えてくれ。九摺李とは幼少の頃からの仲だ」
「承知しました」
童子が寺に入っていくと、間もなく総門が開く。
境内を通り過ぎ、童子に招かれるまま座敷に通されると、胡坐をかいて座っている男が武臣にひょいと手を上げた。
九摺李笈助だ。
その顔に微かだが昔の面影があり、武臣はようやく安堵した。
何やら得体の知れぬ幽霊屋敷に迷い込んだような気がしていたのだ。
「やぁ、久しぶりだな。生きていたか」
「お前こそ」
十数年ぶりに会った友人は日に焼けた顔で、にぃと笑って見せた。
「十五に塾で別れた以来か。医者になっていたのだな」
武臣と笈助は、町商人の倅が読み書きを習う塾で知り合った学友同士である。
「しかし、何故このような山寺で開業しているのだ。おぬしの父上は町医者であっただろう」
「なぁに。坊さんが本山へ修行にいっている間、寺守りを頼まれたのさ。その傍ら、ここで医者稼業をしているというわけだ。この寺は広いし、掃除も行き届いていて清潔だから、養生にはうってつけだよ。」
「しかし、あの石段はどうだ。病人にはきついぞ」
「あれも治療の一種だ。おれの患者は、ここへ通う間、何度もあの石段を上り下りするから自然と体力がつくのだ」
「都合の良いことを」
幼少の頃と変わらない、無邪気な屁理屈に武臣は吹き出す。
ふたりはしばし旧友たちのことを話したり、とりとめのない世間話をした。気がつくと先刻、武臣を案内してくれた童子が盆に杯を持ち控えている。
「酒ではないか」
「良いのだ。今日はそなたが訪ねてきてくれたから、店は暖簾下ろしだ」
まだ日も沈んでいないというのに。
それに坊さんが不在とはいえ、ここは寺ではないのか。
武臣は昔、この男が『われ神仏を恃まず!』とほざき、塾師の僧侶に蹴られて塾を追い出されたことを思い出した。その破天荒ぶりは相変わらずのようだ。
「そなたは寺小姓か。」
杯を受け取ると、童子が酒を注いでくれる。武臣が問うと、童子が小首を傾げた。
唇が朱をさしたように紅く、近くで見るとますます美しい。
「違う、武臣。これは空良といって、おれの息子だ」
「息子だって? 嘘だろう。おぬしと全く似ていない」
「嘘ではない。死んだ妻の血を濃く受け継いでいるが、半分はおれの血を継いでいる。」
「なんと…」
童子が息子であることも驚いたが、笈助が妻と死に分かれていたとは知らなかった。
まじまじと息子を眺めていると、無遠慮な視線に怯えたのか、笈助の背後に隠れてしまう。
「空良、もう良いから。下がりなさい」
笈助がいうと、童子は一礼して座敷を去った。
「それにしても、よく来てくれたな」
ふたりきりになると、笈助が空になった武臣の杯に酒を注いで云う。
「実はな、おぬしに頼みたいことがあってきたのよ。おぬしは、普通の医者では治せぬ、奇病を治すことができると聞いた」
「どこでそんな噂を?」
「町でもっぱらの噂だぞ」
「その噂は嘘だな。おれはただの『食医』だ。」
「食医…?」
「正月に雑煮を食うだろう」
「…ああ、食うな」
唐突に切り出され、武臣は杯を持ったまま固まってしまった。
「師走(十二月)に大掃除とか新年の用意をばたばたとするから、『正月だ、めでたや』とはしゃぎたくとも、体は非常に疲れている。餅というのは栄養価が高いから、疲れている際に食すにはうってつけの食物なのだ。正月に餅を食うことは、非常に利に叶っている。
他にも野菜や山草等、身近な食材を正しく摂れば、大抵の病気は治ってしまうものなのだよ。こういうことを専門に勉強しているのが『食医』だ。わかるか、武臣?」
「…うむ」
自慢げに語る笈助に、武臣は来るべきところを間違ったか、と思い始めていた。
「いや、お前は『奇病』を治すと聞いたものだからな」
「先刻から奇病、奇病といっているが、一体どういう相談をしにきたのだ。さっぱりわけがわからんぞ」
はっきりしない武臣の態度に、笈助が不機嫌そうに眉間に皺を寄せる。
いかん。
藁にも縋りたい気持ちでここにきたのだった。
武臣は笈助の杯に酒を注ぎ足し、本題を切り出した。
「昨今、町で『けらけら女』の怪談噺が広まっているの知っているか?」
「それなら聞いたことがあるな。妖怪女が墓石とまぐわっているというやつだろう」
「その妖怪女こそが、おれの妻なのだ」
「なんだと?」
武臣は、笈助が手からすべり落とした杯を元のように握らせ、話を続ける。
「名を小梅という。小梅は団子屋の娘で、客商売に慣れていたし、働き者だったから、父上と母上にも大層気に入られていた。おれより年が八つも下だが、しっかり者で妻としての役割を存分にこなしてくれていたから、おれも感謝していたよ。」
「おぬしの店は菓子屋だから、そういう娘であれば重宝しただろう」
「そのとおりだ。しかし、その小梅が、もう一月も前になるか、突然魂が抜けてしまったようになったのだ。おれが何を話しかけても、何も答えようとしない。食物もろくに口にしないから、みるみる間に痩せ細り、店に出ることも出来ず、臥せっているばかりになった。しかも、それだけでは済まなかったのだ」
「と、いうと?」
「臥せっているはずの小梅の足裏が、しばしば薄汚れている。真夜中に徘徊しているらしいと知ったおれは、ある晩、小梅の後を尾けた。辿り着いたのは墓場で、そこで小梅は着物を脱いで裸になったかと思うと、何とも淫靡な笑い声を上げ、墓石に身体を擦りつけ始めたのだよ」
「…なるほど、そういうわけか」
笈助が相槌を打つと、武臣が「うむ」と頷く。
「おれは勿論小梅を止めようとしたよ。だが、女房は墓石に縋るのを止めなかったのだ。墓石に擦りつけた後の肌は、赤く擦れて晴れ上がり、なんと惨めな様になっていたことか……あの奇行、妖怪にとり憑かれたとしか思えぬ」
あはれと掌で顔を覆う武臣を横目に、笈助は考え込む素振りをしている。
「…果たしてそうかな」
「なに?」
「いや、妖怪の仕業であれば、おれの専門外だ。しかし、なかなか良い人材がおるぞ」
「なんだって!? ぜひ紹介してくれ!」
「お前はもう会っている。うちの息子だ」
「空良が?」
拍子抜けしたような様子の武臣に、笈助が鷹揚に云う。
「あれは人には見えぬモノの正体が見えるのよ。おれなどは、患者を初診する前に必ず空良に診させている。体の不調が妖の仕業とわかったときは、患者を追い返してしまうのだ。そういうのはおれの専門外だからな」
「…酷いな」
「酷くはない。追い返すかわりに徳の高い坊主や陰陽師を紹介しているのだから。
空良ならば妖と話ができるから、うまくいけば奥方から妖鬼を追い出すことができるかもしれない。奥方は、いつ墓石殿に参じる?」
「この頃はほぼ毎夜、徘徊しているようだが」
「では、さっそく今夜試してみようではないか。話は早い方が良い」
と、意気込む笈助の頬は微かに上気をおびている。
武臣はにわかに不安になった。
この男はまさか興味本位に足を突っ込みたいだけではあるまいな――?
あの空良という子供だって、姿形は美しいものの、坊主や陰陽師のような芸当ができるようには思えない。
「丑の刻までには、まだまだ時間があるから寝ておくか。武臣、おぬしも寝ておけ」
「…う、うむ」
「眠りこそ万能の効薬だぞ。夜に備えて英気を養っておくのだ」
浮かれた声でそう云うと、笈助は空良に布団を敷かせて、ぐうぐうと鼾をかき始めたのであった。
◆◆◆
「空良」
合図とともに、童子が手燭の灯りを吹き消した。
夜雲が月を覆うと、辺りは真っ暗になる。丑の刻である――。
初秋の外気は、むぅっとした厭らしい空気が篭っているようだ。
「…来た」
武臣が小声で呟く。
暗闇にぼんやりと光る提灯。目を凝らすと、提灯に森村屋の商売用の印が入っているのが見えた。
間違いない、小梅だ。
小梅が近づいてくるにつれて、心の臓が底冷えするような恐怖が襲ってくる。
薄ぼんやりとした灯りに照らされた小梅は、ますますやつれたように見え、普段から臥せっているせいで髪は乱れている。その様は怪談噺にふさわしく、誰が見ても幽霊と信じるだろう。
「こちらに来る…」
柳の木の陰に隠れている三人は身動きせず小梅を見守る。
小梅は、ひとつの墓石の前で立ち止まると、帯紐を解いて着物をするりと脱いだ。ところどころ紅く爛れた白い身体が露になる。
「ふふ…ふふふふ」
ぬらり、と片足を絡ませ、鼠色の墓石に抱きついた。
「嗚呼ぁ、ああああああ…あふ」
艶かしい嬌声が漏れ始める。
肌と石とが擦れ合う音がぐちゅり、と聞こえた。
耳を塞ぎたくなるような濡れ音だ。
「始まったね、今夜も」
不意に、潜む三人の背後に男の声がした。
「ぅむ? 九摺李の旦那と坊ちゃんじゃねえか。アンタらも町で噂の妖怪女を見物に来たのかい。意外と好き者だねエ」
「…その声、密か」
噂の出所の張本人、夢売りの密である。
「知ってるかい、旦那。ありゃあ妖怪なんじゃねえよ」
密はくちゃくちゃ青草を噛みながら、女が乱れる様を眺めている。
「菓子店の森村屋の小梅さ。でもな、旦那。あっしはそうだと知っていても市中にバラすようなことはしねぇ。今しばらくは、妖怪けらけら女のままでいてもらわないと、あっしの怪談噺が売れないからさア。へっへ」
「っ、おまえ!」
あまりにも軽薄な物言いに武臣は抗議しようと立ち上がりかけたが、笈助に肩を押さえられた。
「あやつは変態だから、かまわない方が良い」
「…ぐ」
武臣は唇を噛む。傍らで笈助が立ち上がる気配がした。同じように息子の空良も腰を上げる。
「密よ、お前の商売繁盛は今宵限りで終わるぞ」
「そりゃ一体どういうことだぃ、旦那?」
密かの問いには答えず、笈助は空良の背中をそっと押した。
真暗い墓場を提灯も無しに童子が進んでいく。袴を履いていないその後姿は、まるで少女のようだ。
「ああ、あふん、はああああ…」
小梅との距離が三尺(約1メートル)になったところで、小梅の喘ぎが止まった。
闖入者に気が付いたらしい。
ぎろり、と凄まじい目付きで童子を睨みつける。空良は目を逸らすことをしない。
その間、音も無く、ただ視線だけの応酬であった。
「誰じゃ、おまえは」
しわがれた声で小梅が云う。
「山寺の食医、九摺李笈助が息子の空良と申します。貴女の邪気を祓いに参りました。」
「…なにお。童が生意気なことを」
奇声を上げるなり、小梅が空良に襲い掛かった。
女と童子がもつれあい草むらに転がる。密が「うひゃあ」と悲鳴を上げた。
「笈助、子息が!」
小梅は空良を食い殺さんとばかりに大口から犬歯を覗かせている。さすがに武臣も焦り、笈助の着物の袖を掴んだ。
「心配することはない。黙って見ているがよろしい」
「でもっ、…!」
助けに入ろうとした武臣が膝を立てたところであった。
小梅の動きがぴたりと止まったのである。
その小梅の胸に、圧し掛かられたままの空良が小さな手を当てていた。
「…う、うあ、ぁ」
空良が小梅の爛れた肌に触れていく。
触れる度に小梅は、痛みとも快楽ともつかぬ呻きを上げた。
力の抜けた小梅の身体の下から這い出した空良は、両手で小梅の肌を触れていく――首を、乳房を、下腹を、脚を。
不思議な光景であった。
小梅は呻きさえ漏らさず、身体を弛緩させ、童子のされるがままになっている。
「旦那、こりゃあ一体、」
密は小袖から取り出した筆を舐め、書物をしている。
此の出来事を夢売りにするつもりなのだろう。笈助はその書物と筆を奪い、密の袖を掴み上げた。
「何すんでぃ!」
「小梅は妖気に取り憑かれたのではない。悲しみと火邪に身体を侵されたのだ。小梅はおれの患者だ。このことを市中に触れ回ることは許さぬ」
恐ろしい剣幕で食医に凄まれた密が泣き言を漏らす。
「ひぃ、わかりやしたから離しておくれよ、旦那ア」
空良は小梅の全身に触れ終わる。
そして、何やら小梅の耳元に囁くと、小梅はすっくと起き上がり、脱いだ着物を元通りに着て、来た路を辿って帰っていったではないか。
鬼女のような姿から一変し、元来の美しい顔付きに戻っていた。
「これは……なんと」
武臣は夢から覚めたような溜息を漏らす。
「笈助、これは一体どういうことなのだ…? おれはさっぱりわからぬ」
目の前で起きた出来事が全く理解できない。
硬直している武臣に、笈助は朗らかな笑顔で「帰ろう」と肩を叩いた。
◆◆◆
「結論から云うと、奥方は妖ではなく、邪に侵されていたのだよ」
仏壇の線香を焚きながら食医が説明を始める。
背後の仏象が蝋燭の灯りに照らされ、にび色に光っていた。
「邪…?」
「病は外因と内因から起こる。外因とは六邪のことを指し、自然界のなかの風、寒、暑、湿、燥、火で病態をあらわすものだ。奥方の場合は、このうちの火、つまり火邪であった。肌が赤く腫れていただろう。あれは湿疹だ。」
立ち上る線香の匂いが妙に心地良い。
先刻の夢のような出来事から覚めきらぬ武臣は、愚鈍な動きで頷いた。
「湿疹ができると、身体中がかゆくてたまらなくなり、熱を持つようになる。熱された肌は冷えを求めるが、例えば」
食医はそこでにや、と笑った。
「夜の墓石などは夜風に吹かれた石がひんやりと冷えているから、熱を持った身体には、触れているだけで溜らなく気持ちよいのかもれしれないな」
「…まさか、それが」
「墓石とまぐわう女の正体さ」
行灯の火がゆらり揺らめいた。
武臣の心の動揺を表しているかのようだ。
「空良が奥方に触れたのは、湿疹に効く軟膏を塗るためだ。あの軟膏は即効性が強いから、身体が楽になり、奥方も目が覚めたのであろう。湿疹には、熱を加えた大蒜や油で炒った人参を食すのも良いから、軟膏と共に、後で空良に届けさせよう」
「……では、小梅は元のように戻るのか?」
「ああ。身体を清潔に保ち軟膏を毎日欠かさず塗れば、すぐに治るよ。おれのいうとおりに食事療法を続けていれば、もう湿疹が出ることもあるまい」
「嘘のようだ…」
武臣は大きな溜息とともに、嗚咽を漏らした。
「あの幸せな日常が戻ってくるとは。礼をいわなければならない、笈助。本当に夢のようだ」
「礼をいわれるのは嬉しいがな、武臣。そう万事が上手くもゆかないのだよ。先の話に戻るが、病は外因と内因から起る」
「?……ああ。その外因というのが、『火邪』であったのだろう」
「そのとおり。そして、もうひとつの内因というのは、怒りや憂いや悲しみなどが元で身体に変調をきたすことをいう。奥方は火邪と同時に、深い悲しみに侵されていたのだ」
「悲しみ、だと…?」
「おぬしを失った悲しみだよ、武臣」
再び行灯の火が揺れた。
今度はひときわ大きく揺らめき、火が消えてしまった。暗闇の中で、笈助の凛とした声だけが響く。
「武臣よ、おぬしは死んだのだ。一月も前に、高熱に浮かされてな」
「……なん、だと」
空良が小皿に油を注ぎ、器用に火を点けた。
明りを取戻した仏間で、再び顔を合わせた笈助は酷く悲しげな表情をしていた。背後の仏象が妙に大きく見える。
「は…戯れ言を申すな」
「戯れ言ならば良い、とおれも願っているところだがそうではない。お前も気がついているはずだ。お前も見たであろう」
「なんだ? 一体、何を見たというのだ」
「奥方が抱いていた墓石に、己の名が彫られていたのを」
「……ばかな」
嘲ろうと絞りだした声は弱々しくも震えていた。
「風の噂で死んだと聞かされていたお前が此処を訪れてきたときには驚いたよ。空良はそういったモノをみることが出来るが、おれはさっぱりだからな。おぬしとはよほど縁があるのだろうな」
「ばかなっ、信じられん……とても信じられぬ」
取り乱したように呟く武臣を哀れみの籠った目で眺め、笈助は説明を続ける。
「小梅はお前の死をひどく悼み、一時的に廃人のようになってしまったのだよ。おぬしの墓に毎晩のように参じ、墓石に縋りついていたのも、病気の身体を慰めることもあっただろうが、お前を愛しく想う故から始まったことだろう。心と身体の均衡を一気に崩し、小梅は悲しい妖になってしまった」
墓場での小梅の哀れな姿を思い出し、武臣は涙が零れそうになる。
同時に、狂う小梅を止めることが出来なかった――あの、あまりにも無力であった己をようやく理解する。
「では、おれが話しかけても何も応えなかったのは…」
「皮肉なものだな、武臣」
笈助は盆に載せられたままの杯を弄びながらいう。
「今のおぬしの姿や声は、ここにいるおれと空良としか見ることも、聞くことができぬようだ。この世で一番に愛おしい相手ではなく」
「……なんということだ」
武臣は脱力し、天井を見上げる。
驚くことにそこに天井はなかった。
「なんという…」
ただ夜の星が瞬くのが見え、さらにその上が見えた。
星空のさらにその『上』をはっきりと見渡すことができた。
「貴方が亡くなって四十九日目です。武臣さま」
いつの間にか、空良が傍らに控えていた。
「もう時間がありませぬ。逝くべきところに逝きなさい」
武臣の手を取り、空良が慈愛に満ちた表情で微笑む。
嗚呼、本当になんと美しい童子だろう。禍々しい程に美しい。
「刻を逃せば、私のようになってしまいます」
「空良、」
笈助が空良を抑えるかのように呼びかけた。しかし空良は構わず、菩薩のような笑みを浮かべたまま続ける。
「わたくしの真の名は芳子と申します。遺していく夫への未練に耐え切れず、逝くべきところに逝きかねた愚かな女の魂は、息子の身体に宿ったまま閉じ込められ出られなくなってしまった。それが此の私の正体なのです」
「…では、そなたが笈助の妻……」
「旧友よ」
武臣が呆然としていると、笈助が障子を開ける。
東の山の空が微かに白くなっていた。
「もうじき朝になる。朝の日は冥界への路を閉ざしてしまうと聞く。奥方に別れを告げて、『逝くべきところ』へ逝け」
おだやかな口調で旧友に諭され、森村武臣は立ち上がる。
不思議と悪い気はしなかった。
「…世話になった」
山寺に住む『夫婦』に一礼すると、行きは昇ってきた階段を風のごとく舞い上がって通り過ぎ、市中の方へ降りていった。
◆◆◆
「おれは仏道など信じぬ」
生霊が去った朝ぼらけの仏間で、九摺李笈助は呟く。
「しかし香は良いと思う。天然高木の香りは悪臭を防ぐから、仏教で香は不浄を祓うというのも何となく納得できる」
「ほんとうに」
空良は笈助の身体に凭れている。
「心が洗われるようです」
山の麓で誰かが狼煙を上げているようだ。
その様を、空良が目を細めて眩しそうに見つめている。
「いつか…私の穢れた魂も浄化され、あの煙のように天へ上がっていけるでしょうか」
「…ならぬ」
笈助は強張った声で呟く。
傍らの細い肩を強引に抱き寄せた。
「お前はまだ逝ってはならぬ。おれがいつか必ず浄化してやるから、それまで勝手に逝ってはならぬ」
泣いてしまいそうな声音で懇願する笈助の、その背中に腕を廻し、空良はくすりと笑う。
「どうしたの、今日のあなたは。小さな赤子のようですね」
「ゆくな、芳子」
「……きっと、ご友人を亡くされて寂しいのね」
「逝くな」
霧がかった紫色の煙が空へとたなびいてゆく。
それはまるで森村武臣の魂が天へと昇っていく様のようだった。
山寺に住む食医とその息子は身を寄せ合いながら、何も言葉を発さず、しばらくそれをただ眺めていた。
(了) |