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春化粧
「――ゆかりさん、聞いてます?」

「え? ……ええ、もうすぐですね」

 本当は、何も聞いていなかったけれど。カタン、カタン、と電車の走る音だけが、ぼんやりと耳に響いていた。

「まったく、3回目ですよ? 一体何を考えていたんです?」

 隣に座っている男が呆れた表情を浮かべる。

「さぁ? 何かしらね」

 私――羽篠 紫(うしの ゆかり)はいたずらっぽく笑って見せた。

「……いい加減、ハッキリさせてくださいよ。どうして何時間も電車に揺られて、こんな山奥までやってこなくちゃならないのかを」

 男は20代。顔つきはまだ子どもっぽいのに、無理に大人ぶっているところがいじらしい。私はちょっと考えて、決心した。

「いいわ。教えてあげる。そもそもの発端は、私が小学生のころにあるの」



 羽篠家と言えば、いわゆる”上流階級”として周囲から認識されていました。私はそこの長女として生まれ、育ちました。

 子どものときの私は、引っ込み思案で人見知りするタイプだったので、なかなか友達というものが出来なくて……。それを気遣った父が私に家庭教師をつけてくださったの。


「ちょっと待ってください。それとこれと一体どんな関係が……」

「それを話すの。しばらく黙っていて」

「はぁ……」


 私が小学校4年生の時、春の日でした。その家庭教師の方にお会いしたのは。私は唯一のお友達であるくまのぬいぐるみを抱いて、お父様と会話する先生の姿を覗いていました。

「始めまして。咲原 弥生(さきはら やよい)です」

 年齢は20歳ごろ。白地にほんのりと桃色を帯びた着物姿で、背が高くスラッとしていて、(かぐわ)しい匂いと肌の白いのが印象的でした。……ああ、そうそう。私、最初は先生のことを女性だと思っていたのですけれど、男性のようにも見えましたわ。


「見えました?」

「さぁ……結局どっちだったのか。聞かずじまいだったわ」

 
 先生はとても優しくて、おおらかな人でした。当時苦手だった理科や算数を覚えられたのは先生のおかげ。でも、あの方から学んだことは学校の勉強だけではなかったのですよ。

「今日は天気がいいですね。ゆかりさん、この問題が出来たら、ちょっとお外に出てみましょうか。……そのぬいぐるみも一緒に」

「え……?」

「勉強は、家の中だけでするものではないのですよ」

 先にも言った通り、私はあまり外に出たがらない性格なので家族以外の人と外出するなんてめったにありませんでした。でも、なぜだか先生になら心を許せました。

 3月の下旬。大きな桜の木が立っている公園に、先生は連れて行ってくださいました。

「桜が満開ですね」

「はい」

 住宅地の真ん中にありながら、公園には他に人の姿がありませんでした。先生は桜の前に立ち、太い、がっしりとした幹に触れながら話してくれました。

「ゆかりさんは、桜を見るときにどの部分を見ますか?」

「え?」

 最初、その質問の意味がわかりませんでした。少し間をおいて、私はおずおずと答えました。

「えっと……花、ですけど……」

「そうですね。桜を見る、といえばみんな桜の花を見ます。けれど……」

 先生はまず桜の花を指差し、次に枝を指して言いました。

「花は、枝についていますね?」

 先生の白くて細い指先は、再び幹に触れました。

「枝は幹から生えています。そして、その幹を支えているのは……」

 腰を屈めて、地面に手のひらを置きます。私もつられてしゃがみ込み、地面を見つめました。

「根、です。根がなければ、幹も枝もなく、花も咲きません」

「……」

 ここでもう一度、私は花を見上げました。

「根は地面に埋まっているため普段は見ることができません。大事なもの、大切なものというものはいつも見えにくいものなのです」

「……はい」

 と、返事はしたものの、当時の私にはすぐにその意味が理解できませんでした。けれど、何かとても大事なことを話しているんだな、ということだけはぼんやりと感じていました。

 それから、先生は何度か私を外に連れて行ってくださいました。そしてその度に学校では学べない様々なことを教えてくださいました。

 ……でも、先生と一緒にいられたのはほんのひと月程でした。4月になってしばらくが経ち、桜が散り始めたころに先生は来なくなりました。父に聞いてみると、初めからひと月だけの契約だったそうです。なぜひと月だけなのか、その理由は父も知らないそうでした。


「それで、終わりですか?」

「いいえ。もう少し。……翌年、私が5年生のときです。先生に再会したのは」



 その年も、春、桜が咲き始める時期に先生はやってきました。そして様々なこと――花の名前、鳥の名前、虫の捕まえ方なんか、教えてくださいました。特に、初めに連れて行ってくださった公園には何度も通いました。もちろん、私はぬいぐるみを抱いて。大きな桜の木を見ながらベンチに座ってお話するのが、私の一番の楽しみでした。

「日本人は桜が好きですよね。けれど、春を代表する花は桜だけではありません。例えば梅の花なんかは、桜よりも早く開花するので春の訪れを真っ先に感じることができます」

「梅の花……ですか」

「ええ」

 先生はいつも、にっこりと微笑んで話していました。

「あの小さな白い花も、なかなか可愛らしいものですよ」

「はぁ。……あまり意識して見た事はないです……。でも」

「でも?」

「桜の花もとってもキレイですよ」

「……フフ。そうですね」

 そんなことを話しているうちに、ふと思いついたことがありました。

「先生は、桜の花みたいですね」

 なぜそんなことを口走ったのか、自分でもよくわかりません。子ども心にして、なにかしらインスピレーションを感じたのかもしれません。

「……そうですか。桜みたい、ですか」

 先生は相変わらず微笑んだまま、こう返しました。

「では、ゆかりさんは?」

「え?」

「ゆかりさんは、ご自分のことを花に例えると?」

 私はちょっと言葉に詰まって、こう答えました。

「わたしは……梅、かな……」

「ほう。なぜ?」

「だって……先生みたいにキレイじゃないし……その、目立たないし……」

 私は学校ではいつも一人でした。

「だから、梅……」

「……そうですか。でも、梅の花はとても可愛らしいですよ。ゆかりさんと同じで」

「えっ」

 その時、ものすごくドキッとしたのを覚えています。顔が火照って、痛いぐらいに胸が高鳴るのを感じました。……人に可愛いなんて言われたのは、初めてでしたから。

「? どうしました? ゆかりさん」

 顔を真っ赤にしてぬいぐるみを抱きしめる私に、先生はやさしく声をかけてくださいました。その時、私は自分の中のある感情に気づきました。それはいつもクラスメイトの女の子たちが話をしていること――誰それが好き、愛おしい、という感情……。

 ふふ。世間知らずなお嬢様の初恋は、自分よりずっと年上の先生でした。


「え、待ってくださいよ。さっき先生は男だか女だかわからなかったって……」

「ええ。けれど、そんなことも気にならないぐらい、私は先生に夢中になりましたわ」


 バラ色の日々、というのでしょうね。今思い返しても、あの頃ほど生き生きと輝いていた時期は他にありませんでした。学校から帰ると先生が来るのを今か今かと待ち構えるようになって、夕方、先生が帰られる時には胸が締め付けられるような思いになりました。

「……知っていますか? ゆかりさん。この公園、来年には無くなってしまうのですよ」

「え? いいえ……」

 ある日、いつもの公園で先生はそう仰いました。詳しいことはわかりませんでしたが、道路を新しく作る為に公園をつぶすのだとか――そんなことでした。

「じゃあ、この桜の木も切られちゃうの……ですか?」

「いいえ。この桜は根本から掘り出して、どこか遠くの山に植え変えるそうです」

 そう話す先生の顔には、深い影がありました。それは先生が始めて「悲しい」という感情を見せた瞬間でした。

「……もう、おわかれですね」

 そう。先生はまた、ひと月だけしか契約をしていなかったのです。私が理由を尋ねても、その答えは返ってきませんでした。

「でも、来年また会えますよね」

 私がそういうと、先生は暗い表情のままこう仰いました。

「運がよければ……ですね」

「え?」

「工事の予定しだいです」

 それっきり、先生はその話をしなくなりました。工事って、道路を作る工事のこと? 私はいつもその事を考えていましたが結論は出ませんでした。

 そして、桜の花が散ると同時に先生は来られなくなりました。


「それで、翌年その先生は来たんですか?」

「……翌年の2月、公園の桜がどこか山の中へ植え替えられました。どこか遠く、当時の私の知らない場所へ……」


 その報せを聞いたとき、私は本能的に、あるいは女のカンというもので悟りました。「先生はきっと来ないだろう」と……。

 ――お庭の、白い花を付けた梅の木の下で私はぬいぐるみを抱きながらそっと目を瞑りました。白くて可愛らしい花。春の訪れの花。私は梅。先生は桜。けれど桜はもういない。……ああ。

 いつしか、はらはらと涙がこぼれていました。盛りを過ぎて花を散らしかけた梅の木の下で、遠い桜を想いながら泣いていました。


「それが私の初恋でした。……もう、20年も前の話です」

 そこまで話して、私は腕時計を見る。目的地まであと20分。

「それじゃあ、その……」

 男は半ば信じられないというような表情を私に向ける。

「その先生は、その……桜のせい……」

「そしてこの間、偶然知りましたの。公園にあった桜がどこへ移されたのかを。……今向かっているのはそこです」

「そ、その桜を見に行くんですか? ……まさか、そこにいけば先生に会えるなんて思ってないでしょうね?」

「さあ……どうかしらね」

 そう言って私は席を立つ。その背中に、彼が声をかけてくる。

「ゆかりさん、もう一つだけ聞いていいですか?」

「なぁに?」

「ゆかりさんは、その……今も、その先生のことを好きなんですか?」

 ……ふふ。周りに人がいないのが幸い。私は振り返らずに答える。

「ええ。あの時から、私の心の中にはあの方がいますわ」

 きっぱりと、わざと強い口調で言ってみた。けれど、男はもっと強い口調で言い返してきた。

「……わかりました。でも、それでも……俺はゆかりさんのことが好きです。だからここまでくっついてきました」

 この男は、互いの両親が決めた私の婚約者。彼の想いは本物。私も、この男となら結婚を許してもいいと思ってる。けれど……いいえ、結婚したいからこそ、遠い日の恋心に決着をつけなければ。そのためにここまで来た。

 私は何も言わず、化粧室へ向かう。――さあ、あと15分しかありません。早くお化粧し直さないと。もし、万が一でも先生に会えるとしたら……そう思うとつい赤くなってしまう顔を白粉(おしろい)で隠さなければ。……ふふ。私は梅の花ですもの。

バッグの中からくまのぬいぐるみを取り出し、唯一、私の初恋をしっている存在に向かって微笑む。カタン、カタンと、電車は走る。春へ向かって……。
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