保存とバックアップは大切です
「えぇ!?」
PC画面を見つめ、百花は驚きの声を上げた。
「どうした?」
夫の声に、画面から目を離さずに答える。
「お気に入りの作家さんがね、サイト閉鎖するんだって。ものすごいショック」
余程驚いたのだろうか、その声音は震えていた。
しかし、彼女の伴侶が慰めの声をかける前に、百花はパン! と軽く自分の頬を叩いた。
「ってショックに浸っている場合じゃないわ。続きが読めないのは悲しいけど、完結作品とか未完でも読み返したいお話あるから。閉鎖される前に保存しないと」
非常に前向きである。
早速作業に取り掛かった妻に、彼は声をかけた。
「無くしたくない大切なものなら、保存する媒体は複数の方が良い」
「複数って? PC内と外付けHDDとかってこと、明さん」
くるりと振り返った百花に、明は頷いた。
「そうだ。だが、それ以外にも保存した方がいい」
「USBメモリとか?」
なんでそんなに色々、と思っているのか百花は首を傾げた。
「長期保存であれば、USBメモリより、CDやDVDの媒体の方が良い。複数、かつ違う媒体でバックアップをとっておけば、安全性は高まる。それらが一度に駄目になる可能性は低いからな。一つでも残ればそれをコピーすれば良い」
淡々と紡がれる言葉に、百花は目を丸くした。
確かにそこまで徹底すれば失うことはまずないだろう。だが、そこまで時間と労力を割いて作業する人がどれだけいるだろう。
「明さんは、やってるの?」
その問いかけに、彼はとろりと笑った。
「勿論だ。絶対に喪いたくない大切なものならば、随時バックアップは勿論、保存にも気を使うだろう?」
う〜ん、と百花は微妙に考え込んだ。
確かに読み返したいし、保存しておきたい文章ではあるが、そこまで言い切る程のものだろうか。手元に残しておきたいのは確かだが、随時バックアップとなると話は別だ。
とはいえ、閉鎖が決まったサイトである為、これ以上の更新はない。随時バックアップを行う必要は無いのだから、全て保存して後は複数の媒体にコピーすれば良いだけだ。
「随時ってどのくらいの頻度でやってるの?」
参考にしようと、百花は聞いた。
そして後悔した。
「そうだな。まず毎日問題が発生していないかスキャンして、上書き保存。半年分は一週間毎のデータを保存してある。それより以前は半年毎のデータを各保存しているな」
聞くだけで面倒そうだ。
しかし、仕事のデータなどなら、そういうものかもしれないと百花は思い直した。
「でも……」
言いよどんだ百花に、明は視線で続きを促した。
「ちょっと妬けちゃうな。そんな大事なものがあるなんて」
その言葉に、明はくつりと笑んだ。
「私の目の前でデータ保存にいそしむ妻の言葉とも思えないな」
うっ、と百花は言葉に詰まった。
そう言われると反論がし辛い。
上目遣いで見つめる妻の姿に何を思ったか、明は百花に近づいた。そして、後ろから抱きしめると耳元で囁いた。
「私が一番大切なのはお前だ」
びくん、と明の腕の中で百花の身体が震えた。
「お前は私の妻だ。手放す筈がなかろう」
甘く囁かれる言葉に、百花の顔が赤く染まった。
「あ、え、う、そ、その。ええと、私作業進めないと!」
わたわたしている妻の頬に、軽く唇をおとしてから明は離れた。
夫婦だというのに、彼の妻は未だに初々しいところがある。
そんなところも愛しい、と明の眼差しは語っていた。
バックアップは非常に大切だ。
絶対に喪いたくない大切なものであるならば、その為の手間を惜しむべきではないと彼は思っているし、実行している。
彼がバックアップを取り始めてから10年以上は経つが、毎日欠かしたことは無い。
いれものとなかみを別々に保存していることは、妻には言っていない。
今のところ教えるつもりはないが、いずれ告げることはあるだろう。
極端な話、10年前のいれものに、昨日保存したなかみを入れることも出来るし、逆もまた可能だ。
どの瞬間も愛しく大切だと思っているが、この先変質してしまう可能性はある。
その時、変質する前のなかみを使えば良い。
彼は作業に夢中な妻の後姿を見つめながら、人間には見えないウィンドウを開いた。
そして、いつものように妻のスキャンを始める。
身体と精神に異常が発生していないか、おかしな兆候はないか、細心の注意を払って確認する。
「例え死によるものであろうと、お前が私の元からいなくなる事は許さぬ」
絶対に逃がさぬよ、と彼は妻には聞こえない声でそっと囁いた。
唯一で大切な者であるからこそ、保存とバックアップは重要な作業なのだ。
リクエスト
「嫁を保存で短編」でした。
なかなか難しいお題でしたが、暇つぶしにでもなれば幸いです。