その後の25
再び目を開け、視線をもとに戻すと、そこには翔里が立っていた。
「び、びっくりした。翔くんも散歩?」
散歩というよりかは走っていたというほうが正しいのかもしれない。ハーフパンツにタンクトップという出で立ちで鎖骨部分にはうっすらと
汗が浮かんでいるのが見える。
「ああ。理子もずいぶんと早いな。寝れなかったのか?」
「え、うん。ちょっと考え事しちゃって。」
言い訳をしたところで、少し赤い目をした理子の様子を見ればすぐにわかることだろうと理子はそのまま翔里が理子の隣に腰を下ろすのを目線で追う。
「あー、だめだな。道場に通い詰めてないと勘が鈍る。」
「最近、忙しそうだもんね。大学以外にも仕事してるんだし。」
大学に入学した翔里は以前に比べて空手道場に通うことはなくなっている。それは勉学のためというよりも、在学中に友人たちと立ち上げたイベント会社の、思った以上の反響で忙しくしているのだ。
「空手は好きだけど一生の仕事にできるわけじゃないからな。趣味の範囲で続けていくさ。」
「翔くんもちゃんと考えてるんだね、将来のこと。」
二歳年下なだけの翔里もすでに独り立ちできるような将来のビジョンを考えているのを、理子はどこか羨ましく思う。それに比べて自分は目の前の問題に右往左往しているばかりで、大学を卒業した後のことなど想像すらしたことがない。
横に座る翔里は暑いのか、タンクトップの胸元をつかんでぱたぱたと仰いでいる。適度についた筋肉もハーフパンツから伸びたすらりとした足も、その様子はすでに少年と言う面影はすでになく、立派に成長した青年の姿だ。
「俺さ、まだ身長伸びてるんだ。大学生なのに成長期っておかしいよな。」
理子の思っていることが分かったのか、翔里は森の奥を見ながら話している。
「小さい赤ちゃんだったのに。今はもう朱里と同じくらいかもね、身長。うらやましいなあ。」
日本人女性の平均身長である理子は小さいわけではないが、兄弟たちが全員そろって高身長ということもあり、比較すればずいぶんと小柄に見えてしまう。赤ん坊だった頃に理子がよく翔里を抱っこしていたことなど遠い昔のようだ。
「このままだと悠兄の身長も越すかもな。そうなったときの悠兄の反応が怖いけど。」
ふと冗談のように漏らす名前に理子は胸が一瞬、痛んだ。
誰もが成長する。誰もが現在を過去へと時間を流していく。そんな当たり前のことが今の理子にとってはどうしても受け入れ難い事実として目の前に突き出され、直視できないでいる。
しばらく二人は何も話さずにじっとその場に座っていた。木漏れ日の中に鳥のさえずりが聞こえる以外は何も邪魔するものはない。
「今日は理子も大学だろ。そろそろ家に戻ろうぜ。」
そう翔里は二人の間にあった静寂を破るようにそう言うとそのまま立ち上がって、理子に手を差し伸べる。理子はその手を掴むと、座っていた木の根から立ち上がる。けれど濡れていた木の根で足元がすべりふらついた。
「っと、大丈夫か?理子のバランスの悪さは要注意だな。」
翔里がすかさず握っていた手に力をこめると、空いていた手で理子の身体を支える。
いつもだったら、そんなことない!とむっとしながらも反論してくる理子が今は何も言わずにじっと翔里の胸元を見つめている。
「どうかしたのか?」
「・・・私はいつも誰かに助けられてもらってばっかり。いつまでも独り立ちできない子供なんだよね。」
様子の違う理子に翔里はその顔を覗き込むようにして尋ねると、ぼそりと理子が呟いた。
それが朱里との例の写真のことや、自分のこれからの将来、そして悠里への対応など何一つ、自分で解決できていないことを理子は
自嘲気味に思う。
「俺はそんな風に思ったことはないけどな。むしろ俺のほうが理子に助けられてると思ってるくらいだ。」
「いいよ、そんな気を使わなくても。自分のことは自分でもよくわかってるし。」
すねた、というよりも諦めたような理子の言葉に翔里は身体を支えていた手とは反対の手で理子のうなじに手を添えると、そのまま視線を自分の目と合わせるかのように上を向かせる。
「自分のことがわかってるくらいなら今、自分がどんな顔して誘ってるのかもわかってるんだよな?」
「え?誘ってるって。何を言ってるの?」
「意識的にやってるんなら意地が悪い。無意識にやってるんなら、相当に・・・・極悪だ。」
翔里はそのまま身体を引き寄せると、うなじに添えていた手に力をこめ、そのまま顔を近づけた。瞬間的に何をされるのか分かった理子は反射的に身体を離そうとするが、翔里はそんな抵抗など微塵も感じることなく顔を近づけ、そして唇を合わせる。
まるで予想していなかった翔里の行動にもかかわらず、重なった唇の感触に理子は暖かさを感じて抵抗する力が自然に抜けてしまう。
かわりに翔里のタンクトップの胸元をぎゅっと掴み、自分の気持ちを落ち着かせようとした。
衝動的なキスにもかかわらず、それはとても優しいキスで、啄ばむようなバードキスを何度も繰り返している。耳に聞こえるのは合わさる唇の音と、鳥たちの唄う声。まるで人気のない朝の森で行われる行為はまるで現実味がなくて。けれど抱き寄せられた翔里の胸元からは不快ではない程度の少しの汗の匂いがしている。それだけが理子に現実感を感じさせていた。
ふわり、とどちらからともなく離れた唇の間に再び森の澄んだ空気が流れる。
「桐生の家のことだったら間宮弁護士もいるし、俺でも問題なく引き継げると思う。だから俺は悠兄がこの家を出て行くのを反対はしない。それが悠兄の選んだ道ならな。」
その声には先ほどのキスのような甘さはなく、はっきりとした口調で翔里は理子に告げる。翔里はすでに悠里がいなくなることを想定し、次の行動を考えているのだ。理子はいまだに想像すらできていないというのに。
そんな理子は何も答えることはできずに、そのまま家へと引き返す道を無言のまま歩いていった。
家に戻ると、すでに悠里の姿はなく代わりにキッチンシンクには朝食で使った食器が洗われた状態で食器立てに置かれていた。
何も伝言メモがないことからみると、今晩も悠里は自宅で夕食をとらないのだろう。仕事が遅くまで入っているのか、それとも女性と会う約束をしているのか。理子はぼんやりと綺麗に洗われた食器を見ながらそんなことを思う。
「夜は俺も外で食事してくるから。遅くなるようなら連絡する。」
「うん、わかった。私も大学が終わったら直帰するから、家に電話してね。」
翔里はシャワーを浴びにバスルームへと向かうと、理子は簡単に朝食を済ませ、そのまま家を出た。
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