1章-7 死神の技
目を閉じて耳をすませても、人の気配は一つ。ゆっくりと階段を昇ってくるミラだけだ。やがて、ためらいがちに扉が開かれ、ミラが入ってきてもシーグは身動きをとらずにいた。相手が殺意を持ったなら、建物の外からでも気づく自信がある。一挙動でベルトのナイフを抜くこともできる。
ミラはトボトボと歩いてくると、ベッドの反対側の端に腰を下ろした。そのまま時が止まったかのように身動きしない。食事や水を持ってきたわけでもないし、部屋の掃除に来たわけでもない。薄目を開けて確認したが、そっぽを向いているので表情は見えない。
何かの香水をつけてきたせいか、頭がぼんやりとするような匂いがする。本当に眠ってしまいそうな気がして、シーグは体を起こした。ミラは体をビクリと強張らせ、怯える視線でシーグを見た。
「これから何を始めるつもりだ。俺を朝まで泊めるだけのために呼んだわけじゃないだろ?」
色々考えるのが面倒になってシーグは直接聞いてみた。ミラは顔を赤く染めて、気まずそうに唇をかみ締める。身軽さは盗賊として一人前だが、嘘をついたり演技をするのは苦手らしい。
「わ、分かったわ」
ミラはベッドに上がると、四つんばいになって距離をつめてくる。前かがみの姿勢のために、胸元があらわになりかけている。シーグは目線をそらせて後ずさった。
「何で逃げるのよ!」
「言っておくが、あんた一人じゃ分が悪いぞ」
「私じゃあ、不足だって言うの」
「そうだ。これでもきっちりと訓練を受けているんだからな」
実戦の方が気楽にも思える修行の数々を思い出しかけて、シーグは小さく舌打ちをした。
ロディウスのことを思い出しても、いい事など一つもない。
「く、訓練ですって。じ、じゃあ何人だったら、十分だって言うのよ」
「四、五人は用意することだな。わざわざこんな場所に呼んだのはそのためだろ?」
「な、ななな……」
ミラは舌を絡ませて、顔を真っ赤に染めている。騎士ではあるまいに、一対一の堂々とした戦いを好むのだろうか。いや、それならこんな場所に連れ込むのはおかしい。
「言っておくが、俺はあんたと一戦交えるなんて望んでいない」
「それじゃあ私が困るのよ!」
ミラは足を踏ん張ってシーグに飛び掛ってきた。しかし、猫のような敏捷さもベッドの上では生かしきれない。シーグはミラの手首をつかんで取り押さえる。
何を切羽詰っているのか知らないが、接近戦で武器も抜かずに体当たりとは呆れたものだ。
「痛いじゃない。何をするのよ!」
「何って……」
途方にくれたシーグを見て、ミラは険しい表情を改める。
「ひょっとして、先に服を脱がなくちゃいけなかったの?」
「はあ?」
シーグは間の抜けた声を出して手を離す。すると、ミラはやけくそ気味に体を投げ出して目をつぶってしまった。
決定的な何かが噛み合っていない、シーグは冷静に頭の中を整理する。
巨大なベッド、甘い香り、独特の調度品、だらしなく顔をゆがめる衛兵。そもそも衛兵はこの都に住んでいるはずで、酒場もない宿屋を利用するはずがない。それなのに、宿で何をサービスするのか?
「まさか……」
ようやくたどり着いた答えに、シーグは声を上げそうになった。
ここは娼婦宿なのだ。つまり、ミラが訓練とか人数とかを聞いて顔を赤くしたのは……。
「ちょっと待て、誤解だぞ」
シーグは慌ててミラから離れた。ミラは不満そうに体を起こす。
「あんたは盗賊なんだろ?」
「な、何で知って……じゃなくて、違うわよ。絶対に違う!」
毛を逆なでた猫のように反論するミラ。それでは、全面的に肯定しているのと変わらない。
「盗賊が何だってこんな真似をするんだ」
「こんな風に客を取るのも盗賊の仕事なの。子ども扱いするのもたいがいにしてよね!」
いきり立ったミラは、自分で盗賊だと認めてしまっている。そもそも、盗賊の誰もがこういうことをするわけじゃない。それに、ミラは大人顔負けの豊満さだから気にする事は……。
「いや、そうじゃなくて。この町の盗賊たちが俺を追っているんじゃないのか?」
ミラはキョトンとして黙り込んでしまった。とんでもない思い違いをしていたようだ。シーグは頭をかきながら、剣を身に着けマントに手を伸ばす。
「なんなのよ、ここまで来て抱かないで帰るつもりなの、意気地なし!」
「あのさ……」
「絶対に逃がさないわ」
「ちょっと落ち着いてくれ」
「そうだわ。魔術師を気にして盗賊から逃げるって事は、何か変なことをしたんでしょ。白状しなさい!」
「変なのは、あんたのほうだ!」
再び腕をつかみに来たミラを半歩下がって避けた。ミラは勢いを落とさずに壁に向かって頭から突っ込みそうになる。
シーグは、とっさにミラの肩に手を伸ばした。
しかし、それは意味のない心配だった。ミラは素足で壁を蹴り、窓枠に足をかけバク転気味に飛び上がったのだ。
さすがのシーグも完全に不意をつかれた。ツバメよりもしなやかに空中でひるがえるミラを目で追うことしかできなかったのだ。
ミラは体を丸めながら低い天井すれすれに舞い、シーグの首に足をかけてベッドの上に引き倒してしまう。しかもその後に襟首を腕に絡め、肘を喉に押し当てたのだ。
もしも、ミラが足をひねり上げていれば、シーグの首はへし折れていただろう。
もしも、激突した場所がベッドでなければシーグの頭は砕けていただろう。
もしも、手に刃物を持っていたとしたらシーグの喉は切り裂かれていただろう。
ミラに殺意があったなら、一瞬のうちに三度殺す機会があったのだ。まさに死神の技である。
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