咲かずの桜
「山田くん」
閉じていた目蓋を開ければ、栗色の髪の毛をハーフアップにしたセミロングの女の子。
悲しげな目で僕を見つめては強がって口の端を上げている。思わず名前を叫ぶ。肺から空気は送られ、のど笛に当って振動を起こしているはずなのに一切声が出てこない。不安に駆られて何度も何度も声の無い叫びを上げる。
「お願いだよ?」
涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。
僕はそれを見てるだけ。ああ、僕が裏切ったから…。
「いち…か…」
ようやく声を出せたのは布団の上。目が合うのは、真っ白な天井にくっ付いた電気だけ。
ため息をついて頭の上に手を伸ばし、眼鏡を掛けながら起き上がった。
彼女の夢を見るのは今日で何度目だろう。すっかり忘れていた、いや忘れようとしていたのに最近になってこうやって夢の中に出てきては同じ台詞を言って消えていく。そして毎回、声を出せずに夢から覚める。
ゆっくり息を吸って、現実の世界で名前を呟く。
「一嘩…」
その名前の持ち主の女の子は、僕が初めて本気で恋した人。大好きだった。ううん、彼女は僕の心を捕らえたまま離さない。…忘れたいのに忘れられない。忘れちゃいけないのに、忘れたい。犯してしまった罪…。
ピピっと携帯のアラーム音が鳴り始めた。
「っと、今日から学校だっけ?」
頭を切り替えるように、すぐさま立ち上がって布団を畳んだ。
「おはよー」
3-Bと書かれた教室に入ると、クラスメイトがいつものように挨拶をしてくれた。いつものように歩き出そうとして、脚を止める。
「ねぇ席ってどうなってるの?」
「あー。今まで通り座ってるんだけど」
特に決まりがないようなので、2年生の頃座っていた時と同じ位置にある席に腰を下ろした。前には2年の頃と同様に末長が座っていて後ろを向いてくる。
「おはよ」
「っす。なぁ、あとで皆で“咲かずの桜”見に行ってみないか?」
「咲かずの、桜?」
首を傾げると「そっか、去年の今頃はまだ転校してきてなかったんだっけ」と神無月さんが笑って説明をしてくれた。立ち上がってベランダに来るよう言われたので、末長と並んで少しだけ冷たい風に吹かれながら柵に身を預けた。
「校庭の一番向こう側に一列に並んで桜が咲いてるのが見える?」
「うん、まだ三部咲きくらいだけど…わかるよ」
「校門から3番目、電柱かな街灯のこっち側にある桜の木、あれが“咲かずの桜”。何年かに一度、1輪か2輪しか花を付けない桜らしくってね、だからなのかな。ジンクスがあるんだよ」
「ジンクス?」
「そう、あの桜が咲いている時に願い事をすると何でも叶うんだって」
目を少し細めて、言われたその木を見る。正直、そんなたいした木には見えない。でも、確かに言うように咲かずの桜なのだろうことは理解出来た。他の木が白っぽい花をつけているのに、ソイツだけ何も付けずにただ佇んでいる。
「あ、詩織っちだ」
視線を校門の所にやれば詩織が登校してきていた。そのまま下駄箱の方にいくかと見ていたら、僕の視界を外れるように走り出した。そして“咲かずの桜”の前でしゃがんで何やらしている。不思議に思って見ていたら立ち上がってこっちを見た。僕らを確認するなり手を振りながら下駄箱の方へ走っていった。
「何やってたの?」
「内緒よ」
教室に入ってきた詩織に聞いたけど、微笑して誤摩化されてしまった。
昼休み、ご飯を食べ終わった僕らはどんな願い出も叶えてくれるという“咲かずの桜”を見に行った。
「何あれ」
見れば根元の当りに何やら半透明な小さなものが刺さりまくっている。
顔をしかめて近づいていると詩織が笑った。
「栄養が足りないから咲いてくれないのかと思って」
どうやら朝、木の前で何かしているかと思っていたら栄養剤を木の根元に刺していたようだ。詩織はメルヘンなことが好きだから、“咲かずの桜”のジンクスを信じて願い事をしようと乙女なことを考えているのだろう。でも栄養がどうこうとか言う問題じゃなくって、もう咲かないと僕は思った。見た所、この桜はもう寿命だ。折れた幹の中身が真っ黒に変色している、腐る一歩手前といったとこだろうか。でもまさか皆が楽しみにしているのにそんなコト言えない。口をつぐんで違う質問をした。
「皆は、この桜が咲くのを見たことがあるの?」
「僕はないなー」
「私もない。多分、今の3年生全員ないと思うよ。5年前に咲いたっきりだって用務員のおじさんがいってたもん」
-----5年前から…じゃあもう、2度と咲かないのかも。
少し残念に思いながら木を見上げる。ん?
「5年前って言ったらお兄さんは見たのかな?」
「そういえばそうね。どうかしら、見たことあるか聞いておくわ」
詩織が笑いながら言った。
もし、彼が見て願い事をしていたのだとしたら何をお願いしたのだろう? 自分のことだろうか、それよりなんだか詩織のことを願ったような気がする。なんたって溺愛してるからね。そう思うと、だんだん僕も見たくなってきた。ダメだとは分かっていても、憧れの人が見たかもしれない桜を僕も拝んでみたい。
それから毎日、朝登校するときと帰る時、詩織と一緒に見に行った。でもやっぱり咲くような様子は見せてくれない。また地面に栄養剤を差し込んでいる後ろ姿を見ながら、こないだの質問を聞いてみた。
「ねぇお兄さん、桜見たって言ってた?」
「いいえ。『そんなジンクスさえ知らねー』って言ってたわ。きっとモテなかったから一緒に桜を見てくれるような人いなかったのよ」
まさかこんな所で妹に毒をはかれているとは思わないだろう。僕はおかしくて声を上げて笑ってしまった。
けど、ちょっと残念だった。もし彼が願い事をしていたとしたら、何を願ったか聞いてみたかったからだ。まぁ聞いても教えてくれそうにはないし、どっちかっていうと詩織と真逆でリアリストっぽいから「願いは自分で叶えるもんだ」なんて言いそうだ。
もうすでに他の桜は満開に咲き誇り、風が吹けばいい匂いがしてくる。
「やっぱり今年も咲いてくれないのかしら?」
「何か願い事でもあったの?」
立ち上がり、幹を見上げる彼女の横に並んだ。
「1年生と2年生の時は同じ願いだったの。友達が出来ますようにって」
「桜に言わなくても叶ったね」
「ええ。だから今年は違うお願いを考えてたとこなの」
「何?」
綺麗な横顔を覗くと舌を出された。
「叶ったら言うわ。そうね、でも…桜よりユーヤに頼んだ方が早かったりして」
「…大学合格? 受験の桜は自分で咲かせるものだよ?」
「分かってるわよ。でも教えてくれるでしょ?」
「まぁ…」
吹いてくる春の風が心地いい。ざわざわ…と桜の木が話をし始めた。
満面の笑顔で小指を握られ、何も言い返せず僕は歩き出した。
また、一嘩の夢を見た。
理由は何となく分かっている、彼女は桜が大好きだったからだ。
そりゃ連日のように桜を見れば夢にも出るよなぁとポーッとまだ暗いであろう窓の外を想像しながらカーテンを見つめた。なんだか2度寝が出来なくて眼鏡を掛けてみれば時刻は朝の5時半過ぎ。
はぁとため息をつくと、着メロが鳴り始めた。液晶を見れば詩織の名前。
『もしもし?』
『寝てたかしら?』
『いや、ちょうど目が覚めちゃったとこ。どうしたの?』
『私も目が覚めちゃって。ねぇ学校行ってみない? 予感がするの。だから、そうね30分後に校門前集合』
『いいけど』
電気をつけてご近所迷惑にならないように静かに家を出た。
春とはいえ夜や朝はまだまだ冷気が強い。全く眠気のこない体を誰も歩いていないシーンとした道で動かせば、パタパタと自分が歩く音がだけが聞こえてきて、まだ皆寝てるんだなんて感傷に浸ってしまった。散って地面に張り付いている桜の花びらをなんとなく数えながら歩けば、鈴の音のような声。
「ユーヤ!」
顔を上げると、校門の前に詩織が立っていた。思わず駆け寄る。
「ごめん、遅かったかな?」
「そんなことないわ。ごめんね、こんな朝早くから呼び出しちゃって」
首を振ると彼女ははにかんで方向転換をした。予想はしていたけど、そのまま“咲かずの桜”へ体を運んでいる。
-----予感って、このことかな?
朝早く起きてしまったのだから、運命!? なんて詩織のことだから思ったのかも知れない。もう、他の桜は散り始めて、季節は終わろうとしているって言うのに。期待をするのは勝手だけど、期待し過ぎると落胆は激しい。僕はそれを知っている…。でも、諦めようよなんて言えなくて黙って後ろ頭を追った。
「…予感だけだったみたい」
気落ちした様子で詩織が“咲かずの桜”の幹を見つめて言った。
-----やっぱり。
分かっていた答えを僕も確認して、少し離れた場所で足を止めた。街灯に照らされて、黒く光る幹を見つめる。分かっていた結果なのに、僕の心も少ししょげた。
-----もし、桜が咲いていたら僕は何をお願いしただろう。
なんとなくそう思って、思考を巡らせた。大学合格? 将来の夢? 幸せ? いや…。
僕は、桜の好きなあの子を思い浮かべた。もし、願いを叶えられるのなら、僕はあの子への罪をなかったことにしたいと思った。忘れたくても忘れられない、忘れちゃいけない、その咎を帳消しにしたいと。願ってあの子が救われるのならば僕の願いなんていらない。僕は、一嘩を裏切った。あの日、あの瞬間、出来ないとわかっていたくせに頷いて、そして当然の如く背信行為をはたらいた。本気で恋したあの子を裏切った。彼女はそれさえも知らない。
まだ願っているだろうに…。
「あ!!」
詩織が大きな声を出した。
幹の後ろ側に立って指を指している。まさかとは思いつつ、数歩体をずらせば、そこには枝ではなく直接幹から生えた白い小さな桜が2輪。他の桜と同様に花を開き、風に揺れている。
僕は何度も目を擦った。
だって、昨日の帰りまでは蕾どころか、花弁についている茎さえ生えていなかったからだ。
「なん…で?」
「そんなの咲かずの桜だからよ」
僕の顔を一瞬だけ見て、詩織が指と指を組み合わせ目を瞑って祈り始めた。
ざわざわと花たちがおしゃべりを奏でる。
その横顔を見た瞬間、思わず目を大きく見開いた。
風が僕と詩織の間を吹き抜け、桜吹雪が舞い上がる。桜に包まれ靡く黒髪に、赤い制服、白い肌、細い指、サクランボ色の唇、全部が詩織なのに一嘩と重なって見えた…。本気で好きになったくせに裏切ったあの子と。
これは、僕がいつか大切な親友である詩織さえも裏切るという予見なのだろうか?
目が離せない。
「違う」
小さく小さく呟いた。
僕は詩織を裏切ったりしない。今度は、逃げたりしない。
戦うと決めたのだから…一嘩のことだって、まだやり直せる、そう思った。それに、詩織じゃないけど予感がするんだ。きっと、僕の戦いはもうすぐ終わりを迎えるために始まるのだろう、と。
-----だから許して、一嘩。
もう忘れようなんて思わない、もう逃げたりなんてしない、君の言葉通り行動しよう、裏切りを取り戻そう。
だから。
裏切ったのは僕だけど…本当は願っちゃいけないって思ってる、君を差し置いてこんなこと。でも、敢えて願わせて欲しい。君への罪は僕の手で葬るから、願わせて欲しい…こみ上げてくるこの想いを。
吹き上げる風の中で桜の匂いを嗅ぎながら呼吸を繰り返した。
隣でまだ何か祈りを捧げている黒髪の少女を一瞬だけ見やり、ゆっくり目を閉じる。
-----僕が傍にいても詩織がいつまでも幸せでありますように。
一嘩は僕に壊されたも同然だ。だから、せめて詩織だけは壊したくない。
一嘩みたいにならないで欲しい。だから、詩織は僕なんかにとらわれないで欲しい。
誓おう。
この“咲かずの桜”の花に。
一嘩への罪を必ず償い、詩織を幸せにするって。
だから、お願いだ。
代わりに僕の願いを聞いて欲しい。
-----僕が傍にいるから、幸せだって詩織が思ってくれますように。
じんわりと目が潤んできた。
ゆっくりと目蓋を開ければ、まだ祈っている詩織。彼女が目を開けるのを待っていたかのように長いまつ毛が上に動いた瞬間、
「あ」
強い風が吹いて“咲かずの桜”に咲いていた花が2輪、散った。
詩織が追いかけたけど、もう一度つむじ風が通って他の桜の木についていた花びらが雨のように降り始めた。
「あー、どれか分からなくなっちゃったわ」
肩を落とす後ろ姿を見て微笑した。
「願い事は言い終わったんでしょ?」
「ええ」
「なら、いいんじゃない?」
「そうね、願いを叶える為に散ったのかも。私の願いとユーヤの願い一つずつ、一輪ずつだったのね」
-----そうかも。
現実主義者のくせに僕は珍しくそう思った。
また風が吹いて、詩織の前がチラチラする。花びら越しに声を出した。
「綺麗だよ」
笑顔で言って前まで歩く。
「キレイね、桜吹雪」
「違う、詩織がだよ」
大きく目を開ける彼女の髪の毛を一束掬って、梳かすように空中へ泳がせた。
「なんてね。花びら付いてたよ」
手を広げれば、風も噴いていないのにハート形のそれは僕の手から滑り落ちて地面に落ちた。もう、紛れてしまってどれだか分からない。
少し紅潮した顔を見て、手を取った。
「ねぇ朝ご飯は?」
「まだ…よ」
「ホテルだもんね。僕も食べてないから、コンビニ行こう? 一緒に朝ご飯食べよう」
引っ張ると「ふふ」と笑って僕の横に並んできた。
そして一緒に歩き出す。
桜の花びら達が囁く真ん中で、綺麗な笑みを零す親友の隣で、僕は決意を固めた。
一嘩の笑顔も必ず取り戻そう、と。