私を月に連れてって!
携帯を片手にフルフェイスのメットをシートの下から取り出す。
1コール、2コール、3コール…
『ユーヤ?』
『今下にいるよ』
『すぐ下りるわ』
下りてくる詩織を待ちつつ、ホテルを見上げた。
今日は3月14日、ホワイトデーだ。そう、バレンタインのお返しの日。で、今から何処に行くかって言うと前に詩織と約束した海に行こうと思ってる。そのままの流れでお兄さんのバイクを貸し車庫に返そうという計画だ。
詩織のリクエストは「綺麗な海」ということなので、少し遠いが大きな砂浜がある所まで行ってみようと思う。下道を使ってだいたい1時間もないくらいだから、丁度いいんじゃないだろうか?
っと、来た来た。
「いい天気ね」
「そうだね、風もそんなにないし」
メットを手渡すとニコッと笑いながら髪を整え被っている。鞄を受け取りシートの中にしまう。
バイクが沈んでお腹に腕が回されたのを確認しながら、ゆっくりグリップを回した。
新芽が出始めた枝の下を突っ切る。
「ねぇユーヤ」
「何?」
「ふふ、アレって嘘ね。ほら、よく昔のCMとかでやってたじゃない。恋人同士が「好きだよ」「え?」って言うヤツ。声ちゃんと聞こえるもの」
「速度によるんじゃない? まぁあのCMの速度じゃ、ならないかもね」
「そうね。ユーヤみたいに飛ばさないと」
「…ネに持ってる?」
途中のコンビニで色々買って、尚進めば、微かな潮風の香り。
そのうち段々、エンジン音に紛れて波の音が聞こえてきた。前を見れば、キラキラ光る大きな海。
「海ー!!」
バイクの鍵を抜くなり、すぐさまメットを取って走り出す詩織を見つめながら荷物を持って歩いて追いかけた。まだ今日誰も歩いていない砂浜に足跡をつけながら、スキップするようにはしゃいでる。波間に行ったかと思えば、押し寄せてきた白い泡を避け、また近づいて行く。きっと詩織なら、ずっとここで遊んでいられるだろう、そんな気さえした。
そよ風に靡く綺麗な髪を押さえて、満面の笑みで駆けてくる親友を見て思わず笑みが零れた。
「後ろ向いて?」
「何?」
言われた通り僕の前で後ろ頭を向けてくる。
髪を掬って耳の後ろで一つに束ね、ポケットから出した金色の星や月、太陽が象られた小さなアクセがいくつも付いたゴムで縛ってやる。
「ホワイトデーだからね。ゴムはプレゼント」
「見えないわ」
「メット被る時に、帰りに見なよ」
頷いて、また波間に誘われてしゃがみ込んだ。木の棒を拾って何やら落書きをして、波に消されてを繰り返している。
-----ホント、子どもみたい。
目を細めて彼女の様子を見守った。
「そうだ、プレゼントを忘れてたわ」
「バレンタインの?」
「それもあるけど、そうね。今日は全部で3つ」
「3つ!?」
指で3を作っているのを見ながら驚いた。そんなに貰っていいのだろうか?
「一つ目」
出されるブルーの袋を見ながら首傾ける。手に取れば何やらフニャフニャしていた。
お礼を言い、詩織の顔を見れば「開けてみて」と満面の笑み。
リボンを解くと中には真っ黒なグローブが入っていた。ん、これって…。
「バイク用?」
「そうよ、察しのいいユーヤなら次のプレゼントが分かるかしら?」
さらに首を傾ける。んん?
「バイクよ」
「はぁ?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
振り返りながら指を差す詩織に首と手を重いっきり横に振る。そんなもの、貰える訳ないじゃないか。あれ、70万くらいするんだよ? いくら妹だからって勝手に人にあげていいものじゃない。
「お兄ちゃんがあげるって」
「はぁ?」
「あれ乗ってないし、メンテナンス代も車検代も、貸し車庫の金額だけがかさむでしょ? ちょうど手放そうと考えてたんだって」
「でも…」
「それにもう、お兄ちゃん、あのバイクの車庫の契約切っちゃったもの。持って帰るしかないのよ」
本気でくれるつもりなのだろうか? でも、高いし。名義だって、保険のことだってある。
「名義とかの心配してるんでしょ? 今度日本に帰ってきたら一緒にしに行くって言ってたわよ」
「え?」
「それに、お返しは値段の付けられないものを貰うからいいって…」
-----値段の付けられないもの?
腕を組んで考える。うちにそんな高価なものなんて置いてあっただろうか? 1階は壊滅状態になって最近買ったものばっかりだし、上は寝室。でも値段の付けられないと言うことは、物じゃないのではないだろうか。
-----姉さん!?
ふっと顔が浮かんだ。そういえば、年末のファイトに誘っていたし、なんか姉さんの話の中にチョロっと名前が出てきたりして、二人はあれからも交流しているのかと思っていたのだけど…そういうことなんだろうか。いや、でもかなり反発し合ってたから…。
「それって何か聞いてる?」
「さぁ。でも…かなり欲しいみたいよ?」
僕の憶測が間違っていなくて、そのままうまくいけば僕はKENさんの弟。ってことは、本当に伝説の男の弟になってしまう可能性があるってことだ。嘘からでた真になる日も近かったりして…。なんて、違うかもしれないからこれ以上は止めておこう。なんか怖い。
「じゃあ今度聞いといて。条件が飲めるようなら貰うから」
「そうね。じゃあそれまで預かっておいてくれる? もう好きに使っていいみたいだから」
だからプレゼントがグローブだった訳か。使えってことね。
合点がいって一人で納得する。
「3つ目のプレゼントは?」
「ふふ。これは帰り際がいいって言われたからバイクに乗る前ね」
-----言われた?
ということは誰かからの預かりものをくれるってことだろうか? 姉さんから…いや、ホワイトデーだから僕がお返ししなきゃいけないし。お兄さんからは保留のバイクだし。ああ、二宮先輩からか何かかな。
ペットボトルのお茶を口に含んだ。
「ところで、海に来て何をするつもりだったの? 見たかっただけ?」
「見たかっただけよ」
「ふーん」
僕が風に身を任せてほうけていると、また詩織が立ち上がった。何をするのか見ていると今度はちょっと長い棒を手に取って海に浮かんでいる海藻を取り始めた。あ、ヤバい。
「えい」
棒の先に引っ掛けたままこっちに振ってきた。
真っ黒なワカメを立ち上がって避ける。ベシャっと音を立てて砂浜に広がる海藻、お世辞にもキレイとは言えない。
「ユーヤって運動神経は悪くないわよね」
「…君ほどじゃないよ」
「ねぇ今頃、神無月ちゃん達どうしてるかしら?」
「あーなんか言ってた…平城駅前の映画館に行くって。ほら、最近よくCMしてるドラマの刑事もののアレ」
「いいわね映画館」
「今度一緒に行く? ホラー見に」
「い、嫌よ!」
「面白そうだったんだけど。確か女の子がプールで…」
「イヤー言わないで!!」
耳を塞ぎながら叫んでいる。そして海からまた海藻を引っ掛けて飛ばしてきた。
「お仕置きよ!」
「ちょ、待って。うわ」
笑いながら海藻や海水を飛ばしてくる。思わず逃げた…と、追いかけてきた。
砂に脚を取られて、ものすごく走りにくい。波を避けながら、湿った部分を走る。
あ、可愛い子と浜辺で追いかけっこ。
-----普通は男が追いかけると思うんだけど、まぁいっか。
その後も、カニを捕まえたり、イソギンチャクみたいなのを突いて「気持ち悪い」と笑い合ってみたり、石を投げたり、ご飯を食べたりして過ごした。
ガムを噛みながら、近所の人が散歩させに来た犬と走っている詩織を見る。
「はぁ楽しかった」
「犬の方が疲れたんじゃない?」
「ヒドーイ」
「そろそろ帰ろうか。暗くなる前になるべく帰り着きたいし」
冷たくなり始めた海の風を感じながら二人で歩いた。バイクまで戻ってくると詩織がプレゼントしたゴムを見て「ありがとう」とはにかんだ。
「どういたしまして。はい」
真っ黒なメットを渡す。
被ろうとしたら手を掴まれた。
「プレゼント、忘れてない?」
そういえば3つあるって言ってたなと思いつつ、メットを置いて先程詩織のくれたバイク用のグローブに手をはめる。ギュっという皮の音がして、グーパーグーパーして手に馴染ませた。
「バレンタインとこないだのストーカーさんの件でのお返しなんだけど」
「グローブは?」
「それはお兄ちゃんと半分ずつだもの。こっちが本物」
何? と呟いて首を傾けながら整った顔を見た。
満面の笑顔が眩しい。
「Fly me to the moon!!」
「え?」
「だから、Fly me to the moon!!」
聞こえなかったから聞き直したんじゃない。ビックリしたから聞き直したんだ。
-----帰り際にってこういうことね。
「…それ、リザに聞いた?」
「あら、なんで分かったの? そうよ。ユーヤに何かとっておきをプレゼントしたいって言ったら、絶対コレしかない一番喜ぶって言うから」
-----あのイタズラっ子。…そりゃ嬉しいけどさ。
詩織の後ろに見える海を見れば、オレンジ色に光り始めていた。
「意味分かって言ってる?」
「え?」
「…わかってないなら言わない方がいい。僕にも、他の人にも」
「どういうこと? じゃあプレゼントは失敗ってことかしら?」
「そういうことになるね。とにかく僕は受け取れない。帰ってリザにでも文句言ってよ」
ポカンと口を開けている。
やっぱり本当の意味を知らないみたいだ。Fly me to the moon---直訳なら「私を月に連れてって」だけど、普通はそんな使い方しない。無理だからだ。僕はアポロじゃないし、月面着陸どころか地球だって抜け出せない。
「こ、困るわよ。他のなんて用意してないもの!」
「いいよ。別にお返しなんて」
「そうはいかないわよ!」
こういう時、意地っ張りは困る。そして意外に律儀な所がある性格も。
「グローブ貰ったから」
「ダメよ、それお兄ちゃんと半々だもの。ストーカーのことだって本当に感謝してるもの! ほら、月に連れてって! Fly me to the moon!!Fly me to the moon!! Fly me to the moon!! Fly me to the moon!! Fly me to the moon!!」
「ちょ!! 連呼しないでよ!!」
口を押さえても聞き入れようとしない。
自慢じゃないけど、僕はバイリンガルだ。日本語のように英語は頭の中に入ってくる。例えるなら、ランドセルって言葉は外来語。でも日本語として受け取れる、そういう感覚なんだ。
だから、そんなに言わないで欲しい。僕の理性にだって限界がある。ましてやそんな可愛い顔で…。
「Fly me to the moon!! Fly me to the moon!! Fly me to the moon!! Fly me to the moon!! Fly me to the moon!!」
「ちょ、言わないでって。意味分かってないだろ!?」
「月に行く以外なんて知らないわよ、Fly me to the moon!! Fly me to the moon!! Fly me to the moon!!」
コトンと僕の理性が動いた。
「あと1回でも言ったら、絶対受け取ってやる…。後悔したって知らないからね」
「後悔?」
「多分、いや、きっと後悔するね」
「う…。そんなに変な言葉だったの?」
「変ていうか…」
顔が赤くなってきてしまった。誤摩化す為にヘルメットを被る。
グリップを握って、バイクに股がろうとした時だった。
「いいわ。後悔なんてしたことないもの! Fly me to the moon!! 受け取りなさいよ!」
上げかけた脚を下ろす。
肩で息する詩織の正面に立って向かい合う。
「そんなに言うなら、受け取ってあげようか?」
「え、ええ」
コキュンと詩織の喉が鳴ったのが分かった。
見上げられたら、もう僕の理性はないに等しかった。
すっと首を傾げると詩織の体がビクッとなった。でも、止まらないよ。君が言ったんだから。
「こういうこと」
ヘルメット越しにキスをした。
大きく目を開けたまま、みるみる顔が赤くなっていっている。
-----あーあ、やっちゃった。
顔を離しながら思った。でも、僕に後悔はないし、悪いなんて思ってない。僕は言わないでって散々言って忠告までしたんだから。それでも言った君が悪い。それに…キスしたのは僕じゃなくてヘルメット。
「き、き、キスするってことだったの!?」
ようやく声を聞けたと思ったら裏返っていた。
手を振りながらバイクに股がった。
「正確には『キスして欲しい』ってこと。つまり君は僕にずっと『キスして』って言ってたってことだね」
固まって耳まで真っ赤にしている。ポトンとプレゼントしたゴムが落ちた。それを見た瞬間、僕は。
-----ヤバい…冷静になってきた…。
今更バクバクと心臓が鼓動し始め、変な汗が出てきた。これは、ある意味、キレてたと言うのだろうか? そんな言葉で済まさせて頂きたい。
ハンドルに突っ伏した。
と、一面アスファルトの地面しか今まで見えなかった視界の中に、詩織の靴が入ってきた。
-----ああ、殴られるな。
体に力を入れた。
「入らないわよね?」
顔を上げれば、オレンジ色に染まった彼女。
「キスしたのは…ヘルメットだもの」
「そうだね。物にキスしてカウントになるなら、枕は酷いかもね」
平静さを装っていうと、今まで照れていたような顔がいつもの表情に戻って、すぐさまイタズラっぽく笑い始めた。視界から消えた。そしてバイクが一段階下がる。
「次はバイクで月に行きましょ?」
「ど、どういう意味?」
まさか僕とバイクをぶつけるなんていう意味じゃ…。
「満月堂よ。帰りにあそこの満月大福買って帰りましょ」
「お、怒ってない?」
「何の話かしら?」
「……」
-----なかったことにくれるってこと…?
前を向けばオレンジに光る大海原。染められた空はピンク色。
バイクのグリップを回して、ウィンカーを出す。
「ねぇ」
「何?」
「次はヘルメットなしでしてね」
「!!」
「うそよ。ふふ」