あさきゆめみし #1
洗面台で顔を洗っていたら手が滑って、コンタクトレンズがこぼれ落ちた。
「ヤバい」
-----もうスペアないんだよ。
眼鏡を置いた場所から取って掛け、膝をついた。
パリン。
「げ」
自分でやってしまったようだ。
とりあえず割れたコンタクトをゴミ箱に捨てる。
-----今日は木曜日で眼科は昼から休み、明日は学校が遅くて無理。取りにいくのは土曜日かぁ。
片目だけコンタクトレンズを着ける訳にもいかず、眼鏡のまま学校に行く事にした。
「山田くん、どうしたんですか。眼鏡なんて」
「今日の朝コンタクト割っちゃって」
席に着きながら坂東の顔を見た。やっぱり結構ボケて見える。
就寝する前、コンタクトを外して洗面台から布団に潜る為だけの間につける眼鏡はちゃんとした視力に合ってない。だって勿体ないだろ? たった20秒ぽっちの移動だけに視力に毎回合わせるなんて。だからこの眼鏡は中学生の頃合わせたっきりで、ほとんど僕の視力についてこれてない。
目を思いっきり細めて黒板を見るけど、よく見えない。
「坂東、席変わってもらえるかな?」
「いいですよ」
「ちょっと待ったー!! 変わるなら僕と変わってよ」
登校してきたばかりの末長が僕と坂東の間を遮った。どうせ僕の隣の詩織が目当てなのだろうけど、
「悪いけど、坂東くらいまで前に出ないと見えないんだよ」
「んだよー」
小石を蹴るような素振りをして彼は自分の席に着いた。
笑いながら机の中の物を交換して坂東の席へ座った。
「あれ、山田くん、どうしたの?」
坂東の隣の女の子が僕に質問してきた。
「うん、今日は眼鏡だから見えにくくて」
「そっか。よろしくね」
彼女の運動系のさわやかな笑顔を見た後、僕の普段は隣である親友が入ってくるのを確認した。朝の会が始まる前、担任の草原先生に席の件を相談すると、明日までそのままで大丈夫というお墨付きを頂いた。ついでに他の先生にも言ってくれるとも。
胸を撫で下ろしながら身を翻すと、詩織がこっちを見ていた。
-----?
朝の会を終え、1時間目の授業、2時間目の授業といつも通り時間は進んでいく。見えにくいもののなんとかノートを取り終え、4時間目に入る頃、少し目が痛くなってきた。頑張り過ぎたのかも知れない。でもあと1時間で昼休みに入れるし、午後は体育と英語のリスニングの時間だ、目頭を押さえながら目を開けた。問題ないよ。休み時間に常となっているみんなの質問を教え終えて、頭を軽く振った。
「起立、礼、着席」
委員長の声を聞きながらチャイムが止むと同時に皆一斉に着いた。まだ先生は来ない。
実はこの授業の先生、だいたいこんな感じだ。授業によく遅刻する、くせにたまたま自分が早く来ている時に僕ら生徒が少しでも遅れて教室に入ってくるともの凄い剣幕で怒鳴り散らすのだ。その上、意地悪のように毎回宿題をたんまり出してくる。まぁ嫌なヤツだ。しかも女子が遅れて提出したときは特に怒りはしないのに、男子だと殴られる。だから少なくともクラスのうちの半数である男子はみんなロリン(本名:阿部徹。女子高生が大好きだと思われる為ロリコン→ロリンと陰で呼ばれている。古典の先生で38歳)に対していいように思っていない。
ああ、でも女子もあまりよくは思っていないね。古典と言えば結構な割合で男女の恋愛に加え、光源氏や好色物語などを筆頭にした、よく考えればちょっと…的な話が多い。彼はそれをここぞとばかりに、あえて女子に読ませるのだ。さらに言うと、女子の間でロリンにスカートを見られてる気がする…なんていう噂が飛び交う程なのだから、やっぱり女の子にも好かれてはいないと思う。
そして極めつけを言うならば、僕だってロリンのことは好きじゃない。だって彼は…
授業開始から遅れること5分。教室のドアが開き、やせ細った体をした古典教師が入ってきた。シーンとなる教室もおかまいなしに、
「やー遅れてしまったな、悪かった。ん、今日は修学旅行が終わって始めての授業だなお前ら! 気合い入れて勉強しろよ」
と、彼が言うとテンションの下がるような事を笑って言っている。頬杖をつきながら彼の決して整っていない顔をジッと見つめた。
「ん、おい! 山田、なんでお前はそこに座ってるんだ!」
チョークで僕を刺しながら怒鳴り始めた。
そう、彼は僕の事を親の敵と言わんばかりに目の敵にしているのだ。理由は分からないけど、嫌われている事だけは理解出来ているつもりだ。
「すみません、今日はコンタクトじゃなくてよく目が見えないので」
「眼鏡掛けているんじゃないのか、なんだその眼鏡は、ダテか!?」
「いえ」
「だいたいな、授業が始まる前にそういうことは先生にキッチリ報告するのが普通だ、社会一般の常識だ」
-----他の先生はちゃんと草原先生から聞いてるよって言ってたのに。自分が聞いてなかっただけじゃないの? もしくは嫌がらせで言ってるか。
ふっと図星だろう言葉が浮かんできた。
「聞いてるのか山田!!」
「はい。以後気をつけます」
「よしまぁいいだろう。お前ら皆も社会人になる前の勉強だと思ってしっかり聞いておけ。じゃあ、今日は教科書の…」
小さなため息をつきながら教科書を開いた。隣の女の子が口パクで『アイツ、腹立つよね』と言ってきたので、こっくりと頷いた。
古典自体は嫌いじゃないけど、先生が嫌いだと言うだけでいつもこの時間は何度も時計を確認してしまう。何回見ても時計の速度は一緒で、まだ授業が始まってから20分しか経っていなかった。
と、後ろからチョンチョンとされた。先生が黒板に何やら書いている時を見計らって後ろを向くと末長が折り畳まれた小さな紙を持って『お前にだ』と合図してきた。すぐさま受け取って前を向き、教科書で見えないようにしつつ紙を開くと、
(目はよく見えますか? なんちゃって。こういうこと授業中してみたかったんだv)
と詩織の文字で書かれていた。ご丁寧に可愛いイラスト付きだ。
なんで今なんだ!? という疑問はきっと彼女にしたって返ってこない。紙を筆箱に突っ込んで、黒板に追いつく為にシャープペンシルを握った。しばらくすると、また肩をチョンチョンとされた。今度もうまく受け取って開いてみると、
(返事頂戴よ、一人でこんなことしててもつまらないじゃない)
と返事を催促するモノに変わっていた。
-----せめてロリンじゃない時にしてよ。
そういう意味を込めて、詩織の文の下に(ごめん、今無理)と書いた紙を末長に託しておいた。全く、何を考えているんだよ。それでなくたって僕はロリンに目をつけられていて大変なのだから、不安分子は一つでも消しておきたいのに。
ようやくノートが黒板に追いついた頃、ロリンがニヤニヤ笑いながら教科書を置いた。
「そういえばお前ら、修学旅行でカップルはどのくらい出来たんだ? ん?」
始まった…僕は呆れながらも思った。
実はコレ、楽しい恋愛の話と思ったら大間違い。実はロリンはこうやって女子生徒に聞く事で何やら満足感を得る事と手をつけられていないかを確認しているのだ(末長、その他クラスの男子談)。確かに聞かされるまでオカしいとは思っていたんだ、誰かが「彼氏はいません」なんていうと手を叩いて喜ぶような仕草をしているし、誰々が付き合っているというのを聞きつけると鬼のように「不純異性交遊だ!」なんて否定し始める。やっぱり、ロリンは本当に女子高生フェチなのかも知れない。
端から順に女の子に聞いて回るその姿はもう、セクハラにしか見えなかった。
「と、聞き忘れる所だった。他の先生達が楽しそうに噂してたのを耳にしたんだが…山田、立て」
-----最悪だ。
僕は気づかれないよう嫌な顔をしながら言われた通りに席を立った。言われる事なんて理解しきっている。ポーカーフェイスだ、ポーカーフェイス。何聞かれたって知らぬ存ぜぬを貫き通すんだ。
「お前、このクラスに彼女がいたんだってな。誰なんだ? 言ってみろ」
「いませんよ」
「嘘つくなよ? 誰かまでは先生達も教えてくれなかったが、クラスメイトだっていうのは聞いているんだからな」
教室が静まり返った中、彼の顔が近づいてきた。
-----この目は、本当に聞かされてないのか?
だいたい今日まであの噂をロリンが知らなかった事自体が不思議だが、そういえば彼は噂が一気に蔓延した時は出張に行っていた記憶がある。と、なると、職員室でも生徒のそう言った話ばかりしている訳ではないので、彼の耳に届いたというのが恋愛事情の多い修学旅行後だというのは理にかなったことだろう。目を合わせないよう下を向いた。
末長が僕のズボンを引っ張った。
-----わかってるよ。
言わなくても分かっているとは思うが、絶世の美少女である詩織は先生の一番のお気に入りだ。何かと彼女を職員室まで呼びつけてはプリントを持たせ一緒に教室へ来たり、教科書を読ませようとする。彼女の席の近くから20分動かなかったことも何度とある。
付き合っているということが事実でないのだから、わざわざ僕に不利になような事は僕が言うはずない。固く口を結んで黙っておくのが一番だ。
「山田ー、誰なんだ? 先生だけ仲間はずれなんて酷いじゃないか?」
馴れ馴れしい彼の口調に嫌気がさしながらも我慢する。
時計の音だけが妙に大きく聞こえて、誰1人喋らず息を潜めている。前の方で分からないが、皆の視線が僕の方へ向いている事は感じた。
「よし、わかった。山田が言わないんだったら他の人に聞くからなー」
「え?」
「当たり前だろ? 気になって授業が進められないからな」
-----パワハラロリンめ。
誰もが思ったであろう悪態を心の中で叫んだ。
ロリンはカツンカツンと足音を立てながら歩いている。多分誰に聞くかを探しているのだろう。あああ、この先生なんとかならないかな!?
「よし、川端。お前言え」
川端くんはいつもビクビクした存在で、気弱な男の子だ。僕と消極的選手権でいい勝負が出来ると踏んでいる、唯一の人間だ。嫌なセレクトするよ。後ろを振り返ると彼は僕をちらりと見て先生を見た。どうするか、迷ってるんだ…。彼は気弱だけど、とっても優しくて友達思いな子だ。きっと僕の事は売らないとは思うけど…。
「ぼ、僕は、ぼ、ぼく。山田くんが…やまだ、くんが」
クラス中の目が彼に言うな!! という視線を投げた。
「僕は…山田くんが付き合っている人…なんて知らないんです」
多分、テレパシーを使えるなら「良く頑張ってくれた! ありがとう」とお礼をすぐに言うだろう。彼の行為に勇気に感謝だ。座れと言われて彼はおどおどしながら席に着いている。ふー、これで大丈夫だろう。
額にうっすら出てきた汗を拭った。
「じゃあ、幸崎、お前知ってるか? ん?」
もう終わると思っていた質問は終わらず、今度は今僕の隣に座っている女の子、幸崎さんに矛先が向けられた。立ったまま横目まで見ていると、ロリンが幸崎さんの顔にこれでもか、と顔を近づけていた。彼女の目にはうっすら涙。誰もが、やめてくれと思った瞬間だった。後ろの方でガタンと音がした。
「先生、私です。私が山田くんと付き合ってるんです」
詩織だった。
僕は一気に青ざめた。なんてことするんだ、確かに、幸崎さんは可哀想だったけど後から可哀想になるのは僕なんだぞ!? あと20分で授業は終わるから、それまで待ってれば授業が終わったアイツはバイバイさよならだったのに!! わかってる、わかってるよ。詩織が幸崎さんを助ける為に今の行動をしたんだってコトは。今クラス中はそれを理解してる、僕だって。でもそんなこと言ったら、いくらロリンに気に入られている君だって、ただで済むはずないじゃないか。
頭を掻きむしりたくなる衝動を抑えて見ると、詩織は僕を真っ直ぐ見つめて視線を外さなかった。
-----まさか、後は頼むってこと?
そんな投げっぱなしのボケいらないよ(ボケじゃないけど)。どうしろって言うんだ、戦えとでも?
しかしそう思っているのは彼女だけでなく、クラス全員が僕の次の行動に期待し始めていた。
-----気づかないからね! 僕は、そんな期待を背負えるような男じゃない。
カツンという音がして、詩織の前にロリンが立った。
「な、何冗談言ってるんだ。はは。虹村みたいな子が…山田となんて」
「……」
「しゅ、修学旅行中に生徒達が山田が付き合っている誰かとキスしたって騒いでたと、聞いているぞ? まさか本当じゃ…」
「付き合ってます」
彼女はピシャリと言った。
皆が息を飲むのが分かった。そして僕も、その言葉で勇気をもらった気がした。
固唾を呑んで詩織を見守る教室中に声を響かせた。
「先生、誰だか分かったんですから、授業の続きをしてください」
一瞬苦虫を潰したような顔をしたロリンを見て、席に着いた。後ろでも椅子を引く音が聞こえた。ロリンはよほど悔しかったのか、なかなか教卓へ戻ろうとしない。時計の秒針の音だけを聞きながら黒板を見つめた。
すると僕の横にロリンがつかつかと歩いてきた。そして立ち止まる。
「山田、不純異性交遊だぞ。学生の本分は何だ?」
いつも彼氏がいると女の子が言った時のように語りかけてきた。いや、罵声に近い。真意なんてわかってる、別れろって、手を出すなって言いたいんだろう? でも生憎、僕たちは始めから付き合ってなんかない。
-----自分の欲望しか信じられな愚かな先生…。
「僕は注意される程、学生の本分を疎かにしているつもりはありません。それにキスしたかどうかなんて本人同士しか分からないですし、…不純異性交遊に、キスは該当しないかと。定義はあくまで少年*少女の健全育成上支障があると主張される性的行為です」
黒板を見つめたまま感情なくそこまで言うと、少しうろたえたような様子で先生はボソッと言った。
「ちっ、嫌な生徒だ…」
-----あなたこそ嫌な先生だよ。
ぐっを唇を噛み締めて、今にも出そうな言葉を抑えた。
その後、僕は執拗に当てられた。それはこの学校で教わっていないような場所にまで及び、一瞬戸惑いながらも質問に答えた。本当に嫌みな人だ。
「先生」
「なんだ、どうした?」
委員長が手を挙げ、立ち上がった。
「先程から山田くんばかり当てて、私たちの授業になりません」