Close Friend #3
汗をべっとりかいた両手にはタイヤのチューブが握られていて、足は校舎の外壁にくっつけた格好をしている。いうなれば体は腰を軸とした“くの字”になっている状態だ。ギリギリと嫌な音を立ててチューブが僕たち2人の体重を支えている。
飛び降りる前に肩にかけたTシャツを見やり、大きく深呼吸する。
-----耐えてよ、僕の腕…。
「くぅ」
片手でだけで体を支え、濡れたTシャツに手をかけて力の限り目の前の校舎の壁に叩き付けた。
布が張り付いたのを確認した後、ゴムチューブを握っている手を離した。
重力に逆らう事なく僕と詩織の体は下降を始める。離した手で、片方の手にあるTシャツを掴んだ。これでまた両手で体を支える事になる。
Tシャツに支えられ、体が空中で制止した。
どういうことか説明すると、表面張力の力だ。水の厚さはv/S。これが曲率半径の2倍になっているはずだから、r=v/(2S) よって、圧力差は 2ST/v。引き離すのに必要な力は 2S^2T/v T=0.072N/mで計算が可能だ。つまり、簡単に説明すると、水に濡れた布は強度が増す。さらにそれを凹凸のほとんどない壁などにくっ付けると表面張力の力によって布はちょっとやそっとの力では壁から取る事は出来ないのだ。だいたいTシャツくらいの大きさなら150kgくらいの重量なら軽々壁に張り付いたまま支える事が出来る。(※絶対にマネしないでくださいね)
「「キャー!!」」
金管楽器の乱れる音と悲鳴が聞こえてきた。
そりゃそうだろう。
両手で何かにぶら下がった僕とそれに捕まった詩織が急にベランダの前に降って湧いたら、そりゃ誰でも驚く。下を見ると、足のすぐ下はベランダの細い小さな柵があった。つま先を伸ばしてみれば、簡単に柵の上に足が乗った。片手を離して完全に両足を乗せ、詩織の腰に腕を回してベランダの中に飛び込んだ。
上を見上げれば、眼を見開いた取り巻きの女の人達とイケメンがこちらを上から覗き込んでいた。
周りには未だ何が起こったか分からないといったような吹奏楽部の人達。
吹き出してくる冷や汗を拭ってもう一度上を見上げると
「追いかけるで!」
という声が聞こえてきた。
「だ、大丈夫!?」
何人かが声をかけてきたが手で制して、起き上がる様子のない詩織の肩を痺れる両手で触った。
今の一件で力を使い果たしてしまったのだろうか。声をかけても眉をひそめるだけで一向に動こうとはしなかった。
もう一度詩織をお姫様抱っこして、音楽室のドアを開けてもらって階段を駆け下りた。
上からは何人かの足がバタバタと音をさせこちらに向かってきている。僕の腕もそろそろ限界。
-----ここは笑うとこなのかも!?
先程からの極度の緊張で精神も限界を迎えているようで、訳が分からなくなってきた。引きつった笑顔で、半分扉が開いていた家庭科室に走り込んだ。そこにはさっき教室で詩織の居場所を聞いた日直の2人の女の子と数人の女の子達が泡立て器で何かを作っているところだった。
驚いた様子で僕らを見て固まる女の子達。
「ごめん、どこか隠れる所ないかな?」
無言で自分たちの前にある調理台を指差した。
「ありがと!」
膝をついて扉を開けるとカビとホコリの臭いがした。普段ならこんなとこ決して好んで入ったりしたくないのだが、如何せんそんなこと言ってる場合じゃない。暗闇に詩織を押し込んで、すぐさま自分も入り、扉を閉めた。
膝を抱いてこれでもか、と体を小さくコンパクトに纏めているつもりなのに、肩や後頭部が調理台の上の板にぴったりくっ付いて動けない。この時だけは自分の背の高さを呪った。
しばらくするとバタバタという足音が聞こえてきた。
「虹村詩織と伝説の男の弟こなかった!?」
女の人の声だ。
-----お願い、言わないで!
隠れる場所を提供してくれたのだから、きっとそんな心配は入らないのだろうが、今僕の心は限界よろしく。物事をうまく考える事自体が出来なくなっているのだ。大きく眼だけキョロキョロさせて、気配を消すように努力した。
「見たらいいなよ!」
もう一度足音が聞こえて、それは小さくなっていった。
「……」
それからどのくらいそうしていただろうか?
僕の鼻がホコリでアレルギー反応を起こしそうになる寸前だっただろうか、目の前の扉がガラリと開いて、クラスの女の子の顔が見えた。
「今、向こうの校舎探してるみたいだよ。もう大丈夫」
手招きして空気のきれいな場所に誘ってくれる。
ゴツンと何カ所も体をぶつけながら出ると、心配そうな顔をした女の子達の顔があった。
詩織の体を調理台の下から出しながらお礼を言った。
「あの、虹村さん…大丈夫なの?」
「うん…意識はさっきまであったみたいなんだけど…」
調理台を背もたれにして座らせ、頬を叩いた。
顔をしかめた詩織は眼を見開いて、立ち上がった。そしてすぐさま警棒を取り出そうとする。
「わー! 詩織、大丈夫! 大丈夫だから!」
どうやら意識が混乱しているようだ。
僕が声をかけると周りを何度も見渡した。
-----ま、最後に見た光景は多分、赤いプリーツの集団だったなら勘違いしても仕方ないか。
「ユーヤ?」
ポカンとして僕を見上げている。
「大丈夫だから、ね?」
笑顔を作ってやると彼女は安心したようにため息をついた。
そして苦い顔をして口元に手を当て、自分の血を確認していた。先程まで倒れていたせいか、覚束ない足取りで詩織は歩き、水道の蛇口を開けて顔や口の中を洗い始めた。
僕はホッと一息つくと、詩織とは逆にその場に座り込んでしまった。緊張の糸が切れたのだ。
周りの女の子達から「大丈夫?」と声をかけられ、笑って返していると詩織の顔が近づいてきた。
「思い出した…」
そういい僕の頬を力一杯ビンタした。
-----えええ!?
何? 何かした? 今度は僕がポカンとして詩織の顔を見上げた。
それは詩織に初めて殴られた瞬間でもあった。
「大丈夫じゃない! なんであんな事したのよ!?」
はて?
首を傾げた。
「屋上から、飛び降りたじゃない! 危ないじゃない!」
ああ。ポンと手を打った。
もうすっかり先程の事は頭から消え去ってしまっていた。
確かに計算のうちだったとは言え、初めての屋上からのダイブははっきり言って無茶やったと思う。二度としたくないとも思う。なぜそれをしたか、と聞かれてもと「キレてたから」としか言いようがないんだけど…。まー、詩織が怒るのも理解出来る。僕だったら所構わず怒り狂ってるよ。何も聞かされず急に屋上の柵の上に立たされて、飛び降りたんだから。しかも助かるなんて聞かされてもなく。
「ゴメンね?」
謝ると彼女の顔色が変わった。
手が伸びてきて殴られるかと思ったけど、衝撃はなく変わりに冷たい指が僕の腕を掴んだ。僕を上へ持ち上げ、ズンズンと歩いていく。
「え、え、あ、あの。調理の邪魔してゴメンね、ありがとう!」
詩織が家庭科室の取っ手に手をかけたので振り返ってお詫びをもう一度した。
「しおっ、あんまり動かない方がいいんじゃないの!? そ、それにさっきの人達、僕たちの事をまだ探してるみたいだし」
せっかく苦労して降りてきたっていうのに、詩織はさっきの努力を無駄にするかのようにまた屋上へ向かって手を引いていた。まだ少しフラついているくせに無言で僕を睨め付けると、彼女は屋上へ続く扉を開け、僕を放り投げた。
「痛っ」
「ねぇ、どうしてあんな危険な事したの?」
尻餅をついて彼女の顔を見上げると、青あざが出来始めている彼女の頬が嫌に目についた。
「ごめん、危ない事したって、詩織も危険な目に遭わせたって思ってるよ? でも、僕にはああするしか出来なかったんだよ。助かる計算だって出来てた、賭けじゃないって言ったじゃないか」
「…私を助けたかったなんて言うつもり!?」
「そうだよ」
「全然嬉しくない!!」
澄み切った空に、鈴の音のような凛とした声が響き渡った。
風が僕と詩織の間に流れて、頬をくすぐった。
「殴られて、ボロボロになったってよかったのよ」
「アイツらに格好悪く詫びを入れて、土下座したって構わなかったのよ」
彼女は鼻をすすった。
「なんで、なんでユーヤが危ない目までして、私を守らなきゃいけないのよ!!」
澄み切った瞳が僕だけを見つめている。
助けたいなんて勝手な奢りだったのか? 親切の押し売りだったのか? 僕は、理想に踊らされてるだけ…?
いや…
「詩織が僕の一番大切な友達だからだよ」
「だからって…」
「もし僕だったら君はどうしてた!? 僕と同じように行動してたよね、違う!? 違わないね、分かってるよ…」
「詩織が…僕を一番大切な友達だと思ってくれてる事ぐらい」
「見つけた!!」
「大我ぁ、やっぱりコイツら元の場所に戻ってきてる!」
横を見るとドアの前に赤いプリーツの集団が並び、真ん中に長髪のイケメンが現れた。
「ホンマびっくりしたわ、無茶すんなー。さすが伝説の男の弟さんや…。でも、次は逃がさへん。音楽室にも俺の仲間呼んどいたからな」
ペロリと舌舐めずりをすると、にっこり僕に向かって微笑んだ。そして詩織を見るなり「タフなお嬢ちゃんやな」と漏らした。
思わずゴクリと空気を飲み込んだ。
次は降りる術もない、しかも詩織のコンディションは最悪、さらに関係も最低な状態だ。
観念して僕はゆっくり目をつぶった。
「よく、よく分かってるじゃない、ユーヤ」
詩織の声が聞こえてきた。
目を開けると、詩織がいつもの如く警棒を取り出すのが見えた。
-----ついさっきまで気絶してたんだ、無理だ!
「止めるんだ!! 僕だって殴られても構わないんだから!!」
僕の制止にも関わらず詩織は真っ黒な警棒を地面に向けて振り、長さを出した。
すると女の人達も持っていた獲物を取り出した。
「そうよ、私はユーヤが一番大切」
「詩織!!」
「大切な貴方は、戦闘要員じゃないんだから黙ってて!!」
体が跳ねた。
黙ってなんて、僕は、僕は君が…
「もう、2度と負けたりなんてしないわ。親友」
赤いスカートが誇らしげにはためいた。