研修医時代〜図書館前に呼び出して〜
2周年だw
分厚い洋書を数冊、お腹に抱えてシンとした館内を歩く。
インクの匂いと古びた本の匂い、それとホコリの混じったような独特な香り。僕は昔からこの匂いは嫌いじゃない。むしろ慣れ親しんでいて、落ち着きさえ覚える。けれど、まだ大学に入ったばかりの10代の子達には落ち着かない空間らしい。勉強をしにきたのだろうに、チラチラと違う方向ばかり見て全くペンが動いていない。
あ、あの子達…僕がこないだ解剖学のヘルプした時に授業受けてた子達だ。ほらほら、そんなところでポーと油売ってると単位取り損ねちゃうよ?
ふっと笑ってカウンターの上に持ってきた本を置く。
「こんにちは、図書館のお姉さん」
振り返るのはまだ幼い顔した生徒達の視線を捕らえて止まない美貌を持つ、高校の頃からの親友、詩織。一瞬怒った顔をした彼女だったけど、声をかけたのが僕だと分かると微笑してカードを受け取り、本のバーコードを読み取り始めた。
「私語、厳禁よ」
「キレるから?」
変わらない妖艶な笑みを零してカードを返してくる。
僕もにっこり笑う。
「ねぇ時間あるかしら」
「いいよ。さっき帰るって言ってきたから、何時間でも」
他の司書の人に休憩することを伝えてから、相変わらず視線を一身に集めながらカウンターから出てきて指を掴んできた。ざわめく空間。さすがに8年間もこういうことの繰り返しだと慣れてきたようで「ああ、またか」なんて躱せるようになってきた。ついでに大きく目を開ける1年生の子達に余裕でヒラヒラと手を振ることも。
図書館前に設置されている自動販売機の前でプリンジュースとコーヒーを買って、突っ立ったまま並んで蓋に手をかけた。
小気味の良い音がした。
「研究の方はどうかしら、先生」
「…ようやく半分ってトコロかなぁ。でも、出来上がってもまず審査を受けて安全確認がされないといけないから、10年はかかっちゃうかも」
気のない返事。昔だったらもっと真剣に「早く完成させてね」なんて言ってたのに。
横目でチラリと顔を盗み見ると不機嫌そうだった。
ため息一つ。コレでも僕は頑張ってる方だと思うんだけどな。大学病院で臨床もしてるし、研究室で投薬治療の研究も泊まり込みですることだって多い(研修医中ですが暇を見てやってます)。っていうかここ2週間、家に帰っていない。他にも勉強もしなきゃいけなかったから、病院と大学の往復だけで手一杯でそんな余裕もなかったくらいなんだけど…。
砂糖が大量に入ってる缶コーヒーがなぜか苦く感じた。
「まぁ気長に待っててよ」
作り笑いをしても、笑顔は返って来ない。
----これは相当怒ってるなぁ。
購買に誘ってアイスでも買ってやろうかと昔からの機嫌の取り方を考えていると向こうが先に話し始めた。
「聞いたんだけど、この前、合コン行ったって…」
「ああ。医局のね、お偉いさんから誘われちゃって、どうしても断りきれなかったんだよ」
「どうだったの?」
一度缶に口を付けてから思い出しながら言葉にする。
「なんか、怖かったかなぁ。女の汚い部分ていうかさ、もう「医者の嫁になる!」しか頭にないみたいでさ。白衣の天使って昔は憧れてたけど、もう2度と行きたくないね。姉さんより悪魔だったよ」
「あらそう。この前は薬剤師さん達がユーヤの噂してたみたいだけど?」
顔をしかめる。
なんか僕はしただろうか?
「なんて?」
「最近、妙にイイらしいわよ。優しさがイヤらしくないんだって、あと色気が…」
「僕に色気? ないね」
ハッと捨てるように笑って「君の方が昔からあると思うけど?」なんて言うと少しだけ顔が緩んだ。もう一押し。
ざわめく木々のおしゃべりを聞きながら次の言葉を考えていると先を越された。
「ヘッドフォンするのにもそろそろ歳だと思うの、それに…」
----高校の時から全然変わってないけど?
本当に可愛いまま歳を喰わない詩織の次の言葉を待った。
「ユーヤは一人自由に動けるけど、私はユーヤがいないと出歩けないのよ? ユーヤってば一人で学会行っちゃうし、自宅に戻っても寝てて私がインターフォン鳴らしたことさえ気づかないじゃない? 休みの日だって最近は付き合いだからって…」
唇を尖らせて飲み干した缶をゴミ箱に投げている。
1回転して、空の缶はすっぽりとプラスチィックのそれにゴールインした。
「…学会には教授もいるから…。そういえば家の鍵、渡してなかったっけ? 合鍵渡しておこうか?」
昔、聡に合鍵を渡したといった時は「私にも!」なんて言われたことがあった気がする。あの時は断固与えなかったけど、まぁいいんじゃないかと思う。もう、この子だって大人だ。家捜しなんてしないのは分かってる。
じゃあ今日は途中でどこか鍵屋さんにでも寄るかと算段していると詩織が頬を膨らませた。
「そういうことじゃないのよ」
キュウと小指が締め付けられた。
----そう言うことじゃないって…じゃあどういうこと?
言えば怒られるから口をつぐんでいると、
「ずっと傍にいてって言ったじゃない」
「…そんなこと言ったって」
----ずっと傍にいることなんて、正直限界があるよ。
今はいい。けど、1年後は分からない、1ヶ月後は分からない、明日さえ分からない…。僕らは、そうやってずっと不安定な場所に立って生きてきた。いつか歩いた縁石の上みたいな…。
覗き込めば、初めて出逢った時と変わらぬ漆黒の瞳で僕を捕まえていた。
薄く口を開く。
「言ってもいいかな?」
「ええ」
木々が一斉におしゃべりを初めて、白衣が音を立ててはためいた。
ゴクリとコーヒーを飲み干した。
「じゃあ僕と……」
サクランボ色の唇が弧を描いた。