大学院時代〜ごめんね。でも愛してないわけじゃない #4〜
手術が終わると同時に、せっかく術式で、患者さんのおかげで治まっていた熱いものが込み上げて来た。それは怒りか悲しみか、嫉妬か憎悪か、悲哀か慈悲か、もう僕には分からない。
でも一つだけ確かに思う事がある。
-----家に戻りたくない。
数時間前までは帰りたいと思っていのに、彼女の「ごめんなさい」という言葉を聞いて気持ちが萎んだ。萎んだと言うか、ぽっかりと穴が開いてしまって虚しささえ覚えてしまっている。もう逆に僕はあの子の顔を見れない、怖くて見れない。これ以上決定的な言葉を言われたくない。言われて僕の心が傷つくということよりも、あの子のことを許せそうにない自分が怖い。そう、僕は彼女に対する想いが強い分、怒りがあり、悲しみがあり、嫉妬も憎悪も悲哀も慈悲もある。
だから…見たくなんてないのに電源を入れてPHSを確認なんてしてしまった。
そこには何度も自宅からかかった着信履歴があるだけ。全てに不在着信の文字が入っていて、虚無感に襲われた。
-----やっぱり帰りたくない…。
強く思った。だから本当は、今日の院内での飲みは行かない手筈になっていたんだけど…急遽変更。幹事である中村くんにそのことを伝えた。しかし彼の答えは「そんなことしてないで、さっさと帰れ」だった。
「…ヤダ」
「ヤダってお前、帰れよ」
「ヤダよ。だって今帰ったら僕確実に…」
言葉を濁すと大きくため息を吐いてからPHSをポケットから取り出して、
「飲み会終わったらちゃんと帰れよ」
お店に僕の分の料理を追加するよう連絡してくれた。
少し後悔をしている、飲み会に来てしまったことを。
詩織を家に一人にさせているという現状もそうなんだけど、もう一つ…僕の失態によって自分自身の首を絞めている状態だからだ。そう、数時間前に僕の発言したセリフがもうすでに院内に回り回ってしまっていたのだ。しかも知らない人までこの飲み会で知ることとなってしまい…僕は同情されるわ、冷やかされるわ、変な目で見られるわで針のむしろだった。さらにザルなためお酒に逃げることさえ許されない。一体僕は何をしに来たのか。
楽しい顔一つ出来ずに盛り上がっている同僚を視界に入れてポーッと一人、枝豆を摘んだ。
と、気がつくと今年入って来たばかりのキャピキャピした看護婦さん達に囲まれた。ふいに注がれるビールに眉を潜める。
「僕、飲まないよ?」
「え〜山田先生飲まれないんですか? 飲んで下さいよ〜。ってか、飲みに来たんですから、飲まないと損!!」
「損損!! 奥さんのこと忘れに来たんでしょ!! 独身の時見たいに羽伸ばせば良いでしょ!!」
-----独身の時…ね?
思い起こせば、僕は彼女に真剣で正直他の女の子に見向きもしなかった。浮気なんて皆無だしっていうか、浮気と呼べる身分になったのは結婚してからだ。だからそんな風に言われたって全然ピンと来ない。
どんな表情を作って良いのか分からなくて、とりあえず「うーん」と苦笑いをした。
すると彼女達は酔っているのか「まぁまぁ」「山田先生も一緒に飲みましょうよ」と腕を組んで萎びて来た。
「……」
きっとこれが中学生や高校生の頃ならば顔を真っ赤にして「やめてよ」なんて言って照れてたと思う。
けれど…僕もそういう意味で大人になったのか、それとも数年前に見てしまった看護婦さん達の裏の顔を合コンで見てしまったからショックを受けてしまったのか、詩織とのやりとりである程度免疫が付いたのか、なぜか結婚した後の方が女の人に誘われるようになって、本気モードの何人かの女性に不倫関係を持ちかけられたり告白されたりしたからこのくらいでは動じなくなってしまったのか…正直こんな風に体に触れられ温もりを与えられても全然嬉しくも楽しくもない。むしろ、アルコールに熱せられた体温と反比例して冷めた気持ちになっていく。
もしこれが僕が完全に大人になってしまったサインだったらイヤだね。感動がなくなっているっていうことなのだから。そう、小さな頃は何をしても感動する。初めて自転車に乗れた時、お母さんに褒めてもらえた時、友達と砂場で小山を完成させた時…それがどんな些細なことでさえ感動出来るのだ。逆を返せば経験がないから感動すると言っても良い。でも…それって寂しいことなんだよ。完全に大人になってしまうことはとっても寂しいことだ。何に対しても感動が出来なるということだから。でも僕らは経験を繰り返すことで学習をし、人として磨かれていく。
まぁどちらにしろ、今の僕には何もかもが些細でちっぽけでどうでも良いことなのかも知れない。だから、何をしてもされても鈍感に感じることしか出来ないのかも知れない。まるで心に1枚の厚い厚い鉄板を張ってしまったかのような感覚。きっとここには踏み入ることは誰だろうが不可能な気がする。うん、僕の兄弟晋也でも無理だ。万が一入れたとしてもその瞬間串刺しにしてしまうよ。
まったく場にそぐわない心持ちと思考を巡らせ、遠くの方で女の子達の話を聞いて「うんうん」と頷く。
何分、そんなこと繰り返していただろうか?
もしかしたら30分も経っていないかもしれない、いや10分さえ経っていないかも知れない。でも僕にとっては凄く長いその時間に終わりを告げる鐘が鳴る。
「でも、それにしても山田先生の奥さん、詩織さんですか…酷いですよね」
------酷い?
「うんうん。将来有望、すでに持ち家もあるし、患者さん達には物凄く人気で優しい…こんなに良い男捕まえておいて浮気なんて、ありえないでしょ」
------それってあの子が全部悪いって言いたいの?
「もう、奥さん止めて私の所着て下さいよ〜」
------詩織をやめる?
「え〜。恵の所なんか止めておいた方が良いですよ!! 来るなら私でしょ!! これでも家庭的なこと大好きなんですから奥さんより絶対うまい自身あります」
------それって詩織のどこ見て言ってんの?
「うっしゃーい。山田先生、私の方が良いってば。私の方が先生のこと奥さんより楽しませてあげられるって」
------詩織よりも僕を楽しませるなんて本当にできるの?
「ずる!! じゃあ私、奥さんより愛してあげられる自信あるもん」
------あの子の愛が薄いとでも言いたわけ?
「「もう、絶対私の方を山田先生選んでくるんだからアンタ引っ込んでなさいよ!!」」
------もう、何言っているか分かりません!!
------って、僕は何をそんなに…?
ふと乱れた自分に気がついて、ハッとした。僕は何も感じなかったくせに、あの子の名前を聞いただけピクリと反応した。少しでも批判されようものなら自分のこと以上に腹が立った。彼女のことを考えるだけでも胸が熱くなった。あの子に愛はもうないのかな? なんて自ら堕ちておいて人から言われると「そんなわけないだろ?」と本気で反論したくなった。彼女以外の人が隣にいることなんて、想像もできなければ言葉の意味さえで理解出来ない。そうだ、僕は詩織がいて初めて、いつ何時でも感動出来るんだ、それが何度経験したことであろうと。
これって宇宙の心理、この世の理。出会った瞬間から決まってた。
そう、僕はあの子なしじゃ生きられない。
いや、僕はあの子なしじゃ生きてる実感がない。
うん、僕はあの子なしじゃ生きる意味がない。
-----肝心なのは、僕が詩織の側にいたいか、そうじゃないかだろ!?
僕は阿呆だ。どうしてこんな根本的なことが分からなかったんだろう? 許すとか許せないとか、そんなのどうでもいい。あの子が誰とそんな関係になっていようが関係ないじゃないか。あの子のお腹の中に、誰の子どもいようが関係ないじゃないか。それでもあの子は僕の側に帰って来てくれて、今も僕のテリトリーの中にいてくれている。それで十分じゃないか。だって僕はどんな形であれ、詩織の側にいたい。
思わず誰もが振り返る程、一人で爆笑した。
詩織が浮気? いいだろう、その相手より魅力的になって取り戻そう。人は魅力でしか縛れないから。
血が繋がらない? いいだろう、僕の子どもとして愛一杯に育てよう。愛しい人の子に変わりはないから。
そして僕は詩織の側にいる、いいじゃないか。最高に刺激的で甘美な人生プランだ。
もう一度高笑いをすれば固まっていた同僚達が大きく目を開け、口を開ける。
「や、山田先生…?」
「山田くん!?」
シーンとする部屋の中で今からの為に一人動き始める。
まずは彼女に連れて行かれた二宮先輩の家で教わった解手法でゆっくり女の子達から腕を放し、腰を上げた。
「え!?」
「か、帰っちゃうんですか?」
「何か私たち気に喰わないことでも…」
言葉を半分聞きながら、笑う。
「そんなことないよ。すごく面白かった。でも、ごめん今は持ち合わせが特になくて…悪いけどこれで僕の分と一緒に払っておいてくれるかな? 残りは取っておいてくれると嬉しいかな、僕の勉強代」
トンと財布に入っていた分だけ諭吉をテーブルの上に出して、もう一度謝った。
ついで、中村くんに帰る旨を伝える。
と、女の子達が立ち上がって見上げて来た。
「あの、さっきの話なんですけど…」
「私たち本気で…」
ゆっくりと唇に人差し指を持っていった。
そう、最後まで言わせてあげない。だって、これは…
「そうだね。聞かなかったことにしておくよ」
ありえないのだから。
「じゃ、中村くんお金は置いておいたから後はよろしくね」
ヒラヒラ手を振って店を飛び出した。
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こんにちは、上のユーヤ絵で突然すみません。
作者のいおです。
実は作家の中園直樹先生からお誘いを受けまして、私もピンクシャツデーに参加し、指示することを表明いたします!!
ピンクシャツデーとは2007年にカナダで起こった運動です。
ある子が、ピンクのポロシャツを着てきたことからイジメが始まりました。そこで周りの子が何枚ものピンク色のシャツを買い、みんなにメールをしました。すると翌日、何人もの子がピンク色のシャツをきてきてくれました。
そこから始まった運動です。
私は、この素晴らしい運動をみんなに広めたいです。
私の中のユーヤ自身も、この思いに賛同です。
「キレかの」読者様が一人でも多く、ピンクシャツデーを心に留めてくださるよう心よりお祈りしております。