大学院時代〜ごめんね。でも愛してないわけじゃない #3〜
ポンと肩を叩かれた。
疲れた顔で後ろを見上げると、中村くんが立っていた。
「元気出せって」
「無理」
「即答するなよ…。まぁ気持ちは分からないでもないけど」
あまりに卑屈になっていて危うく「わかるわけないだろ?」と言いそうになってしまった。でも別に彼は悪くないのだからと必死に飲み込んで、飲み込んだ以上にため息を吐き出した。そしてさらに気分が落ちていく。グロッキーなんて言葉、可愛いもんだ。そうだろ? 自分の奥さんが妊娠しているかも知れない、僕じゃない人の子を…。彼女の浮気を疑っている訳じゃない、僕は妄信的に彼女の事を信じてたし、今でも信じてる。だけど、それは僕の理想で…僕と詩織の間の夫婦関係は塗り立てのノリとその接着面のように簡単に剥がれてしまいそうなものな程不安定で、もしかしたらすでに剥がれてしまっているのではないかとも思い始めている。信じたいし、信じてる。だけど心はそんな簡単なものじゃなくて、なぜか自分自身のことなのに触れてほしくない所をジクジクといつまでもナイフで抉ってくる。考えれば考える程、イヤな方向にばかり思考回路は繋がっていく…。
僕が忙しくて家を留守にしている時間が多かったから他の人に靡いたの? せっかくの休日も急患が入ったからって飛び出したから暇つぶしをしてたの? 学会で2週間家を空けている間に誰か招き入れちゃったの? 高校のときから毎日のように顔を突き合わせてたから、たまには違う味見がしたくなったの? 僕がまだ子どもはいいって言ってたのが気に喰わなかったの?
鏡を見なくても分かる程青ざめ血の気が引いていく。僕の頭はもう一つの側面からの考え方しか出来ない。結論は詩織の浮気。そして考えはさらに浮上出来ないトコロまで堕ちる。
…浮気をしていたから気分が悪いのを言えなかったの? 浮気相手との子どもかも知れないから、僕に職員会議に出てるなんて嘘をついたの? 他の人の子どもだと確信しているから僕にバレないうちに一人で処理してしまうつもりだったから嘘をついたの? 僕に話してすぐさま全てがバレるのが怖いから姉さんを代わりに電話に出したの?
-----もう、早く家に帰りたい。
なのに今日に限っていろいろと立て込んでいて帰れない。家庭の事も大事だけど、仕事も大事で患者さんも大事で。
と、僕のあまりの暗さに耐えかねたのか中村くんが重い口を開いた。
「でもさ、やることはやってたんだろ?」
「まぁ」
「じゃあ避妊失敗だったんだよ」
「失敗…?」
「使ってるのはゴムだろ? ほら、あれも100%じゃないじゃないか、避妊率。あ〜98%くらいだっけ。な、失敗の可能性はある」
「それって途中で外れちゃったり、2枚重ねしたりして破けちゃったり、実はどちらかが意図的に穴を開けた場合なんだよ。間違った使用法してなければほぼ100%だから」
信じたいくせに自分で否定してさらに落ちる。
時計を見れば執刀の時間。ゆっくりボタンを外して白衣をロッカーにユルリと突っ込んだ。
「…他にも可能性はあるだろ?」
「何…?」
「例えば、そうだな。詩織ちゃんの方が意図的に開けちゃった可能性。お前が覚えてないだけで生でした可能性…寝ぼけてたりとかないとは言い切れないからな。他にも…」
「そうであることを祈ってるよ。もういいから、君も早く着替えて」
話も半分に手術服を取ろうとした時だった。突然鳴り始めたPHS。見れば自宅の電話からで…思わず眉間に皺を寄せた。本当は無視をしてやりたい、だけど…中村くんが言ってくれた他の可能性も否定出来ずにボタンを押した。そう、僕は詩織から全てが嘘なのだと聞かされたい。いつものように「驚いたかしら?」なんてイタズラな笑みで僕の心を優しく包んでほしい。
不安な気持ち半分、期待する気持ち半分に口を開いた。
『もしもし?』
『あ…ユーヤ。私、だけど…あの、その…』
いつもとは違いかなり挙動不審な話し方をする詩織。イライラした僕は思わず、急かすように刺を付けて言う。
『何? 今から手術だから用件あるなら早く言ってくれない?』
『あのユーヤ。私、その…その…』
『……』
『言わなきゃいけないことがあるの、でも、その…』
『何? 時間ないんだってば』
『その…ユーヤ。…あの、私…ごめんなさい!!』
最後の言葉に僕の中の何かがぶちキレ、その瞬間、通話も電源も切った。