大学院時代〜ごめんね。でも愛してないわけじゃない #1〜
「…ん、朝か」
ふいに目が覚めてシーツの中から手を伸ばして携帯開くと、時刻は6時過ぎ。まだ鳴る気配のないアラーム機能をOFFにしてゆっくり上半身だけを起こした。部屋を見渡せば昨夜つけたままのパソコンがファンの音を立てていて、マウスの横にはすでにすっかり冷めきったコーヒーが置かれてあった。視線をこちらに戻して皺になったシーツを眺める。ついでに頭をガシガシと掻いてから出窓のカーテンを一気に開けた。
「眩し…」
ゆっくり体をベッドから離して、シャワーを浴びた。ヤカンを火にかけパンをトースターに突っ込む。白いそれが小麦色になって良い匂いを発するようになる頃、丁度水蒸気がヤカンから噴き出す。いつもの如くそれを合図にコーヒーフィルターと豆をセットした。香ってくる香ばしい匂いを吸い込みながら伸びをして寝室に戻る。そして僕のパートナーである漆黒の腕時計をカチリとはめた。クローゼットの中からシャツとネクタイを引っ張りだして素早く準備をする。
ふと、目をベッドに持っていくと若いシーツの皺が目に入って来た。ついでに真っ白な肩を出したまま眠る子も。
「ねぇ今日職員会議の日だから早く起きないと遅れちゃうよ?」
「んっ」
擦れた声で返事を返すものの、一向に起きる気配はない。仕方ないとため息を吐いて、床に落ちてある黒い下着を拾った。ついで、まるで写真を撮るかのように位置を計算しながらその柔らかい体に1枚ずつ落としてやる。すると頭までシーツの中に潜ってゴソゴソとそれを身につけ始めた。
「コーヒーいる? パンは?」
僕がいるときは必ず聞く、お決まりの言葉をかけると全部欲しいとジェスチャーをしてくる。だからコーヒーは敢えてそのままに、パンは僕の分と入れ替わりにトースターに入れた。
新聞を読みながらパンを食べ、ゆっくりコーヒーを飲みながら朝のまどろみの時間を過ごす。と、寝室の方から布擦れの音もベッドの軋む音も聞こえて来ない事に気がついた。
-----起きてないな。
そうは思ったものの、とりあえずコーヒーを飲み干した。だけど、彼女は全く起きてこない。
仕方なくベッドに近づいてみれば、彼女は芋虫のようにシーツの中に丸まってまた寝息を立てていた。
-----全く…。
飽きれながらもピンときてにんまり笑いながらキッチンに向かった。蛇口をひねり、その濡れた手を拭く事もせずまた元の位置に戻る。まるで今から手術でもするかのように手を内側に向けて数秒…口の端を思いっきり上げながら腕を滑り込ませ、細い体を捕まえた。
「冷たい!!」
「今日早いんだってば。知らないよ、また事務のテルミーに叱られたって」
「だって」
目をウルっとさせて、シーツから覗いてくる。
だからまるで昨夜の続きをするかのように彼女の顎を指先で導いて頬を掴んだ。
「だって、何?」
「ぶぅ、うう」
全く何を言っているか理解が出来ない。ま、初めから言い訳なんて聞くつもりもこの赤ちゃん言葉を聞くつもりなんてものもなかった訳だけど。
視線を少し落として、時計を確認。すると少しだけ余裕があるではないか。
-----仕方ない、からかって起こそうかな。
自分の楽しみと相手を起こす事、二つをできると顔をニヤつかせた。
「ああ、起きられないのは僕のせいだって言いたいの?」
コクコクと頷く子にピクリと眉毛を上げてみせる。
「でも昨日のは君から誘って来たんだよ? だいたい、2回戦目の途中でへばっちゃうなんて…体力落ちたんじゃない?」
ついでに文句も付け加えて、今度はもっと楽しもうと誘ってみる。けれど、腕の中の子は顔を動かせない代わりにどこか違う場所を見て…反抗的な態度をとってきた。全く朝から世話を焼かせないでほしいね。僕だって今日は朝からしなくちゃいけない事がある。あ、そういえば父さんが遺伝子の酵素をやるから朝着なさいって言ってたな。ってことは、10分は早めに出ないと…。
思い出した瞬間、もう少し遊ぶつもりだった予定を変更。すぐさま彼女に言う事を聞かせるセリフを吐いてみせた。
「なんだったら体力作りに今からでも協力しようか? 朝からの第1回戦で…。ほら、君も準備は万端下着姿だし、僕は脱がな…」
そこまで言うと、スプリングの力を借りてベッドから裸足のまま彼女が飛び出した。嘲笑して後ろ姿を眺めて、立ち上がりながら本日2度目の伸びをした。
「じゃあ僕、先に行くから」
声をかけ玄関のドアを閉めていると手だけが出て来て、白くてか細い指がネクタイの端を掴んで来た。
-----朝の挨拶しろって?
起こされたくせに生意気な事すると思う。だけど僕はそんな彼女が大好きだ。この駆け引きも、先の駆け引きも、そしてその反応も…すべてが僕を恋焦がす。そう、何年経ったって変わらない。
ゆっくりネクタイから手を剥がしながら、
「えぁ!?」
変な声を出してしまった。
ドアが勢いよく開いて、大きく目の開いた詩織と目が合った。
「大きな声出して、どうしたのよ?」
「…や、なんでもない。いってきます」
苦笑いをしつつ、家を飛び出した。
咄嗟に嘘をついて…。そうだろ? こんな変な事言えるわけない。僕は…この朝の一連の動きを夢で1度夢で体験した事がある…デジャブを今味わったなんて言えるわけない。あの時僕らはまぎれもない親友で、まさかこんな関係になるなんて思ってもいなかったのに。こんなプライベートで具体的な夢を見ていたなんて言えない、恥ずかしい。きっと口に出しちゃったら「それってユーヤの妄想?」「“夢”が叶ってよかったわね」って小馬鹿にされちゃうね。
-----でも…
的中率抜群過ぎる。この漆黒の時計も、この家の内装の配置も、僕らのやり取りも、全てがほぼ完璧な夢通り。ああ、でも…あの時はそういえば相手の女の人の顔がよく見えなかったんだっけ。結局夢の中の美人は今の奥さんだった訳だけど…。うーん、見事に予知したと言えばしたと言える、でもただの妄想した(?)夢を無意識に実現したとも言えなくもない…どちらが正しいなんて言えないけど。
「…この後って夢は見てないんだよね」
そう、彼女に行ってきますと言った瞬間僕は夢から覚めて、聡の指先をどこかに投げつけた。ああ、その後…僕は…
クスリと笑ってエレベーターを降りた。
「失礼します」
山田教授と書かれたネームプレートのドアを開けながら挨拶をすると父さんがパソコンに何やら打込みながら挨拶を返して来た。
「酵素は朝勝手に持っていきましたが、何か不始末でもありましたか?」
「そうじゃない。少し話をしたいんだが」
「いいですけど、早くして下さいね。今、免疫組織染色中なので手短かにお願いします」
「時間はかけないよ。まぁそこに座りなさい」
イヤな予感はしつつも来客用のソファーに誘われて、大人しく腰掛けた。
すると父さんも向かい側に座って目を合わせて来た。
「最近どうなんだ?」
「…悪くはないですよ。研修医時代とは違ってバイトも出来ますから生活に困る事は全然ないですし。ああ、でもやっぱり研究しながら臨床もして院生生活するのは身体的に少しキツいところが…」
「そっちじゃない。詩織ちゃんの方の…夫婦生活の話を聞いているんだよ」
「は?」
顔をしかめて素っ頓狂な声を出した。
そりゃこんな所でそんな話、想定外も良いトコロだ。しかも何の脈絡もなく…
まぁなんとなく察しはついたけれど、敢えて恍けてみせる。
「別に問題は特に。ああ、さっきの職員会議、詩織遅れていきませんでした?」
ジロリと睨まれた。ヘラっと笑うと呆れたと言わんばかりにため息を吐かれた。でも僕のふざけた笑顔もここまで…
「詩織ちゃんは今日の職員会議は出席していない」
「は!?」
目をむいた。
そうだろ? 僕はちゃんとあの子を起こしてからこっちに来て、実験を始める前にメールでこちらにちゃんと着ているかを確認をとった。そして彼女は僕に対して<心配しなくてももう会議室にいるわよ>と返信をくれた。
-----どういうこと!?
焦る僕に父さんが追い討ちをかける。
「欠席理由は病欠らしいぞ」
-----え…?