キレlife 妄想彼女にご用心 #3
「は!?」
立てられていた人差し指がサクランボ色の唇に持っていかれる。
妖艶な笑みに、吸い込まれる程の大きな目が僕を捕まえて離さない。
唇が薄く開いた。
「もし、ホテルに帰るまでにユーヤが私にキス出来たら止めるわ」
開いた口が塞がらないとはこの事。頭がクラクラして、目の前に星が舞った。
------ちょ、君はそれでいいの!?
正直に言おう。僕は良い。むしろイイ。喜ばしい展開です。今、好きだと気がついた瞬間にその女の子からそんな提案、願ってもない条件ですがっ!?
------って、ちょっと待って。
することを具体的に考えた瞬間、僕の9割以上を形成するヘタレが顔を覗かせた。刹那、燃え上がるように体が熱くなって腰が引けた。なんてことだ!! 欲望と体はしたいと言ってるのに、ヘタレと脳がそれを止めてくる。
頃合いを見計らったように詩織がコロコロと声を上げて笑った。
「勿論、私の阻止もあるわよ? マスクもあるし」
「いいのよ、辞退しても」
「でもコレ以外は私は受け付けないわ」
なんて子だろう? 僕が超長兆ヘタレなのを知っていてワザとこれを提案してきたんだ。僕が出来ないのを分かってて。最初から賭けなんてするつもりも、その格好をやめるつもりもサラサラなかったってワケだ。
「どうする?」
小悪魔な微笑み…
全て計算済みの視線…
挑発的なその態度…
僕の中の、何かに火がついた。
「いいよ。でも謝らないから」
「ふふ。わかってるわよ」
余裕で返してくるその顔を、ジッと見つめて口の端をあげた。
------ま、とりあえずさ…
振り返ってすっかり暗くなってしまった公園を見渡しながら携帯を開けた。
「そろそろ時間だから行こうよ」
「そうね」
コンサート終了が君の運命最後の刻だとこれからの行動を計算した。
会場に着くなり、とりあえず失礼に当たるからサングラスだけでも取ってくれと懇願すると…開演のブザーが鳴ったらサングラスと帽子は取るらしい。でも肝心のマスクは外すつもりはないらしくマスクの“ま”の字さえ言わなかった。とりあえずそのまま指定席に座って開演を待つ。
ブザーが鳴り響き、暗くなり始める客席。
隣を盗み見れば視線が繋がって…ドキリとした。別にするつもりなんてなかったのに彼女はスッと目を閉じてきたから。
自分の心臓の音が全身を支配してブザーの音さえかき消される。グルグルする頭。
白い首筋…ねぇ詩織、いいの? ガヤガヤというBGM…僕たち親友なんだよ? 付き合ってるとかそう言う仲じゃないし、出会ったのは数ヶ月前なんだよ…耐えきれずに指先でマスクをズラせば露になる挑発的なその唇…
欲望とヘタレが本気でぶつかった。
動けず、ただただ目標に釘付けになる。指先が震え、体の芯が燃え上がる。全てをかなぐり捨てるようにギュッと右手で膝を掴んだ。
駆り立てられた僕はもう抗えない。
苦惜しい程の欲望に支配された。
そう、君が欲しくて堪らない…。
-----Why don't you go out with me tonight?
首を少し傾げ、距離を詰める。
刹那。
その大きな目がパチリと開いた。目が合う。
ビクリと、体が反応して流されていた体が停止した。目の中にある僕の所存であまりに近いその距離を実感し、これ以上はないだろうと思っていた以上に胸が鳴る。
視線を落とすと、サクランボ色の唇が薄く開いた。
「ブー。時間切れよ」
トンと肩を押されて元の位置に戻される。その瞬間舞台袖からサックスやトランペットを持った人達が出てきて、ワッと会場が沸いた。現実に引き戻されると同時に詩織がいつもの無邪気な笑いを浮かべた。
「残念ね。今のが私からのサービスタイムだったのに。もう、無抵抗なんてあり得ないんだから」
------あーーーーーーーーー!!
心の中で声が枯れる程、叫んだ。もう、もう、何が悔しいか自分でも判別不可能だ。あとほんとに数センチだったし、止めてもらって少しホッとしてる自分もいない事はないし、でもやっぱりしたっかたし、そういえば周りってお客さんいたんだから後ろの人、僕の行動見てたの!? きゃー、イヤー!!
もうお嫁に行けない…のノリで顔を両手で覆って踞った。
鼻をクスンとすすれば今度は後ろの肩がポンと叩かれた。
「始まるわよ?」
「…はい」
……。まるで頭に、耳に音色が入って来ない。気になるのは隣の人物の事だけで、こちらの方は布擦れの音さえ聞き漏らさないのに、今スピーカーで大音量で流されているであろうピアノのピの字さえ理解出来ない。しかもチラリと見る度、彼女は気がついて指先をギュゥて強く握ってくる。ええ、実はすでに3回目のトライを先程失敗に終わらせた所です。と言っても実際に行動出来たのは初めの1回目(詩織のサービスタイム)のみで、あとの2回は「よし、いくぞ!!」って気合入れるんだけど、イザ行動に移そうとしたら体固まっちゃって実行が出来なかった。
-----僕、ここまで動けない子とは自分でも知らなかったよ。
気づかれないように小さくため息を吐いた。
って、今まで半分以上欲望に押されて詩織とキスする事考えていたけどさ…パチンと僕の中が弾けた。
-----好きだったら、僕は詩織のコト本当に大切にすることを考えるべきじゃないのか?
すっかり忘れていたけれど、元々この賭けって詩織が過剰すぎる行動をするのを止めさせるためのものであって、僕の欲望を満たすものなんかじゃない。さらに元を正せば、詩織に僕なんかのちっぽけな考えを押し付けようとしたからこう言う事になったんじゃないのか?
息を吸って、隣を見ずに握られた指を返してか細い指を包み込んだ。
腕から振動が伝わってきた。多分、驚いているんだと思う。でも僕は目線を投げる事なく、演奏者達を眺めた。
ジャズらしい、各楽器の個性溢れるソロパートがとても綺麗だった。