嘘つきのパラドックス #4
飛び込むような形で、詩織が男をなぎ倒す。
警棒が振られたかと思えばそれはフェイクで、しかしその間確実に捉えるために動き出している軸足と蹴り脚。防がれたと思えば、それさえ利用して、腕を掴み体のバランスを崩させる…。その動きは激しく、僕が何年も修練を重ねてもきっと追いつく事の出来ない境地。
しかし棒立ちしているわけにもいかず、激しく動き続ける群衆をなんとかくぐり抜けて先程と同じように行く手を伺う。
-----いない。
すでに詩織は顔の違う9人を地面にひれ伏させた。可能性としてはあと5人程新たな人員がいると考えても良い。しかし、今新たな3人を加えた最初に気絶させた筈の男達2人の計5人がこちらへわざわざ来て、他がいないということは未だ気絶しているか、僕らが脚を踏み入れていない大正学園方面にまだいるかだ。15人と仮定した時にまだ見ていない顔はあと2人…。どちらにしろ、ホテル側…僕の家がある方には人が配置されているのは少ないと考えていいだろう。
もう1度左右確認をしても現れない事にさらに確信をした。
思考し終わると同時に後ろを向いてブルーのモッズを探し当てる。と、僕の目がさらに奥のモノを捕らえた。ピントを合わせれば顎を殴られただけで落としていなかった男が目に映っていた。
「詩織!!」
叫ぶも彼女は目の前の敵で手一杯で呼びかけに答えられそうにない。しかし、彼とは詩織を挟んで反対側と一番遠い場所にいる。走っていって動きを止めるのは100%不可能だ。
けれど出来る事が一つある。
それは僕が今まで避けてきたコト。
出来ればそれはご遠慮願いたいコト。
出来れば一生、1度たりともそんなことなんてしたくなんてなかった。
今この瞬間、詩織じゃなくてあれが他の誰かなら走ってなんかない。突き上げてくるこの衝動を抑えて体を縮めてた。
だけど体はすでに速度を上げていて、手を突き出している。一瞬視界の端に詩織の驚いた顔が見えたけれどそんな物は無視して睨みつける、それは…僕の反対側の人物。彼女の腕を掴んだと同時に自分の方へ引き寄せた。さらに速度を上げるため、自分の脚を目標人物より1歩出してつま先の方向を変える。そうすれば慣性の法則の力が加えられ、腕の本体が僕の体に正面を向いた状態で素早くぶつかってきた。
その時には、黒真珠に一瞬前に僕が見た光景が映っていた。
気を緩める時間もなく右手で小さな頭を抱え込み、今度は体を縮こまらせる。目蓋を固く閉じれば…小脳の下、脊髄の少し上、うなじの少し上辺りに鈍い衝撃が走った。
途端。
強く抱きしめていた筈の腕は力を失い、電気信号がいかなくなった脚は膝から崩れ始めた。せめて迷惑にならないように斜め前にバランスを置く。すると地球が僕を引っ張って9.80665m/ssを加えてきた。
-----もう1回、痛いよ!!
真正面なら鼻か顎を、横ならば頬を…とにかく顔面のどこかをコンクリートに打ち付けなければいけないのだと言い聞かせる。それは確実に頭に喰らった打撃よりも小さい物なんだろうけれど、僕には次の痛みが怖かった。そうだろ? あまりに痛い体験をすると人間の脳は自分を守る為にアドレナリンを大量に放出し、痛み止めの麻薬を体中に駆け巡らせる。今僕の体はまさにその状態。だから僕は次の痛みが怖い。
だけど、そんな心配いらなかった。
体が重力に落ちていくのと同時に、目を瞑っているハズなのにさらに闇へ突き落とされる。宙に浮いた僕はゆっくり旋回をしながら、真っ暗な宇宙の、さらにその暗さをも上回るブラックホールに飲み込まれるが如く…
ブラックアウトした。
「…ヤは…も私に…理由…じゃない」
-----あ、声がする。
始めに覚醒を始めたのは、聴覚だった。この声の主は詩織なのだと、そういえば僕は殴られて気を失ったのだったと思い出して目を開けようと思った。けれど、叶わなかった。それどころか金縛りにあったかのように体が動かない。指先一つ動かせない。出来るのは大好きな詩織の声を聞く事だけだった。ああ、それと頭の下が少し暖かいということを感じる事だけだ。
-----僕は、君はどうなったの?
僕が倒れるまで、不良達に囲まれていたけれど、君がそんな優しい声で声をかけてくるってことはもう終わってしまったのだろうか?
-----ねぇなんて言ってるの?
動かせない器官の脳を削り取るように、神経を聴覚に注ぎ込めばようやく彼女が言っている事が流れ込んできた。
「…私嘘付いてるもの」
え? 何? 嘘? 君が僕に嘘?
急にそんな言葉が頭の中にポーンと入ってきて意味が分からなかった。
そりゃそうだ。人間の言語は前後関係があって初めて文章として成り立つ、意味を持つ。いや、それ以上に彼女の言葉にショックを覚えたのかも知れない。覚醒したばかりの脳じゃそこまでは分からない。
そんな僕の心情なんて関係なく、彼女は続ける。
「でも、ずっと言いたかったの。…いつか言おうと思ってるんだけど。ねぇ練習させて、ユーヤ」
-----聞いちゃいけない!!
本能的に思った。
だけど僕の体は意思に反して、彼女を止める手だてに行動が移せない。出来るのは先程も言った通り何かを聞く事と暖かさを感じる事だけだ。だから、耳を塞ぐも出来ない。
無情にも…詩織の息を吸う音が聞こえてきた…。
「ユーヤは私に、ずっと“キレるのを抑えられる理由”を聞きたがってたわね。でも、ずっと秘密にしてきたわ。それって私の意気地のなさとユーヤのせいなのよ。ずっと言おうと思ってたのよ、本当は。沖縄旅行に行った時、聞かれる度、友達記念を祝った時、空と図書館で話してるのをユーヤに見られた時、お父さんとお母さんのお墓にいく前、チョコを渡す時…他にもチャンスはいっぱいあったわ。でも言おうと思う度に言葉に詰まったり、沈黙してしまって、どうしても声に出来なくて、言えなかったの。だから私お願いしたのよ、咲かずの桜に。いつかユーヤに伝えられますようにって、届きますようにって。でも未だに言えずじまいでユーヤを悩ませてるわ。ユーヤは覚えていない迷子になった時の事じゃないかって言ってたけど…違うのよ。もっと後よ。いつかって言われれば、あの日、私とユーヤが初めて出逢った時…あの時が原因だったのよ。でもユーヤは私の言っている事を理解していなくって…ううん。ユーヤは私の事をそういう風にしか見ていなかったから、今もそうだから仕方ないのよ。だから言ってしまったらユーヤが離れて行ってしまうと思ったから…だからずっと嘘付いてたの。それに…ちゃんと気がついたのは数回目に触れた時で、最初はなんでかわからなくって…だから「あ」って思った時にはもう取り返しがつかなかった…。でもそれでいいと思ったわ。せめて“キレる私を抑えられる王子様”として、親友でいる道を選んだのよ。だから言えないのよ。そう、言っちゃいけないコトなのよ。でも聞いてほしいの。初めて交わした約束の言葉…「私の側にいてほしい」って言葉は…ユーヤが受け取ったの意味とは違うのよ。全てはそこにあるの」
動きたいのに動けない体で必死に抵抗を試みるけれど、口を塞ぐ事が出来ない。
柔らかな風が吹いて、詩織の髪が僕をくすぐった。
「キレるのを抑えるワケは…私がユーヤに一目惚れしたからなの」
起きている事を気づかれるんじゃないかと思う程、心臓が飛び跳ねた。
でも頭では言っている意味が理解出来なくて何も考えられなくなった。僕は、体も自由に動かないクセに脳みそまでフリーズした。
------詩織…何を、言ってるの?
「だから…好きなよ。親友としてじゃなくて、男の子としてユーヤのコトが好きなのよ」
まるで僕の心の声が聞こえているかのように詩織が告白をした。
もしかしたら、天使の梯子が僕らを照らしているのかも知れない。
ほのかに太陽の暖かさを頬に感じた。
「出逢った瞬間、ユーヤが振り向いた瞬間、キレる私も中にいる私も一瞬で恋に落ちたわ。そう、よくいう雷が落ちたっていうか、ビビっときたってヤツね。次の瞬間には二人の私が「この人に止めてもらいたい」って思ったの。ううん、本気で願ったの。命をかけて祈ったの。そしたら神様が願い事を聞いてくれて…ユーヤが触った途端、高ぶった感情が別の方向に流れ始めたのよ、恋心に。だから、いつも止まれたの、いつも抑えられたの。最初はそれが、初めての経験だったから恋だなんて分からなくってただ漠然とユーヤは不思議な力の持ち主なんだと思ってたわ。でも気づいたのよ、出会った瞬間の衝撃は恋だったんだって。だから私は女の子に戻れるんだって。ふふ。ユーヤはリアリストだからそんな非現実的なことあるわけないなんて言うと思うんだけど、これは本当よ? 大好きな学術的に話をしようと思ってインターネットでね、調べたの。こういうことってあるのかしらって。そしたらね、見つけたのよ。<一目惚れは遺伝子の合図>って。一目惚れって私の中の遺伝子がユーヤの中の遺伝子に反応を起こして起こるんだって書いてあったわ。だから「これだ!」って思ったわ。でも…調べるうちにそれに関しては、否定の論文があるってことが分かったの。正直愕然としたわ。これじゃユーヤに説明出来ないって。だけど、代わりに見つけた物があるの。それが<自己暗示と催眠>なんだけど…ここまで話したらユーヤは私なんかより博識だから言わなくても良いわよね? でも、一つだけ言わせて…。説明しようと思えばいくらでも、きっと、この現象の説明はつくわ。それでも“キレるのを押さえられる”のって私がユーヤの事を好きじゃないと、始まらない事なのよ。だから、だからね。ユーヤが言うように私はメルヘン好きだから、この理由は自己暗示でも遺伝子のせいでもなくって…」
僕は、もしかしたらもうすでに詩織の口を塞いでしまえるのかも知れない。
僕は、もしかしたらもうすでに自分の耳を押さえられるのかも知れない。
僕は、もしかしたらもうすでに立ち上がれるのかも知れない。
でもそんなこと出来なくって、最後の言葉まで聞いてしまった。
漆黒の時計が金属音を奏でた。
「ユーヤへの…愛の、恋の力だってコトにさせて?」