ボンボンショコラで酔わせて #3
もともと僕はバレンタインなんか好きじゃない。
そりゃそうだ。モテない男はどれだけこの日がなければいいと思っていることか。こんな日がなければ惨めな思いをすることなく、平坦な平穏な心持ちで過ごすことが出来るというのに、どこかのお菓子会社が“好きな男の子へ女の子がチョコと思いを届ける日”なんて設定したから、たった1日でさえこんなに苦しい。なぜこれがモテない男達への名誉毀損にならないのかが不思議なくらいだ。怒り心頭だ。
けれど今年こそ、そう思った日はない。バレンタイン当日がこんなに怖いなんて思ったことはない。現在の時刻、深夜2時24分。はい、明日の詩織の午前中の行動が気になり過ぎて全然眠れそうにありません。もし10時に渡すとしてあと7時間36分…鬱です。ああ、7時間35分になったぁ!!
考えても仕方ないことを詩織が帰ってから何度も考え続けている。
「…あー!!」
眠れない気持ちを叫びに込めて起き上がる。頭をガシガシと掻いて電気を付けテーブルの前に座った。
そして深夜だというのにチョコを摘む。それは数時間前に詩織が「あ、これお酒入ってるヤツね」と食べなかったボンボン・ア・ラ・リキュール。YES、お酒の力を借りて無理矢理寝る作戦だよ。まぁ僕はザルだからきっと100個食べたって酔うことなんてないけれど、気分だ気分。酔った気になって脳を騙して寝るんだ。
-----ウィスキーボンボンで酔う!!
初めてチョコを箱食いしてしまった。
甘い物を食べて逆立っていた神経が和らいだのか、それとも人生初酔っぱらったのかはわからないけれど、僕が起きだしたのは午前9時だった。
上半身だけ起こして、またそのまま横に倒れる。
「……」
-----起きなきゃ。
実は昨日の夜、雪姫ちゃんから電話があって会うって約束したんだよね。時間は彼女の家の前で10時…。正直気分が乗らない。別にスノープリンセスが子どもだからとか言うんじゃない。
自分で頬をペチンと殴ってから、約束に間に合うように支度を始めた。
クリスマスと同じように少し早めに行けば、ちょうどエレベーターから降りてきた雪姫ちゃんと鉢合わせになった。僕の顔を見るなり、パァと顔を輝かせて名前を呼びながら走り込んでくる。無邪気な姿が僕の胸を締め付ける。でもそんな顔見せられなくってニッコリしながら、膝を折り曲げ視線を合わせた。
すると彼女はその小さな手を広げて僕にさらに小さな赤いハートを1粒差し出してきた。
「バエタイン!!」
「ありがとう」
両手で器を作ればその上にコロリと落としてくれる。
だから、キュッと握りしめて頭をなでなでした。
「…ユーヤ?」
子どもってさ、感受性強いって聞くけど本当だね。こっちは必死で隠しているつもりなのに、僕の心理を呼んだかの如く不安そうな顔をする。僕が眉をハの時にすれば「だいじょーぶよ」なんて言って逆に頭に手を置いてきた。全く、情けない。4歳児に慰められるなんて、18歳の男のすることじゃない。でも、これから僕が君にすることはさらに酷いことなのかもしれない…。
もう一度貰った赤いハートを強く握りしめた。息を吸う。
「雪姫ちゃん、僕ね、もうすぐ少し遠い所に行かなきゃいけないんだ」
灰色の目が大きく揺らめき、小さな口が薄く開いた。
それでも続ける。
「だから今日みたいにすぐに会えなくなっちゃうんだ。ごめんね?」
謝るとこまでくると涙をいっぱいに溜めて鼻をすすり始めた。そのまま、僕に突進してきてオデコを擦り付けてくる。何度も首を左右に振ってはイヤだと服を濡らしてくる。
今更後悔した。
まだ言うには幼過ぎたのだと、受け入れるには早過ぎたのだと。だけど、僕がいないのに大正学園に行ったって目的の僕はいないのだから、後から悟るよりは直接聞いた方がいいと判断した。もっといい方法があったのかも知れない。でも、これしか思い浮かばなくて、せめてこの子の涙を責任を持って受け止めたかった。それは独りよがりか、押しつけか…。
服にシワが寄った。
「家はね聡…旭くんのお兄ちゃんに教えておくから皆で遊びにおいで? 携帯の番号も替えないから大丈夫。遊びたくなったら電話さえしてくれればちゃんと雪姫ちゃんのために来るから大丈夫。それに、入学式1週間前まではこっちにいる筈だから、ちゃんとホワイトデーのお返しもする、会いにもくるから許して?」
グシグシ胸の中で涙を零す、僕が泣かしたスノープリンセスに許しを請う。
けれど服は濡れいく一方。
その小さな体をスッポリ包み込んでトントンと何度も背中を叩く。しゃくり上げる度、彼女の呼吸に合わせて何度も優しく叩く。
「ごめんね?」
もう1度謝るとウーと呻いて、僕の中で体を反転させた。そして手をペチっと何度も叩いてくる。言いたいことが分からなくて「どうしたの?」と聞けば振り向きもせず「おてて開けて!!」と催促してきた。だから握ってある手を開いた。
と、彼女は赤いハートを奪い取ると包装していた紙を取り去ってチョコを自分の口の中に放り投げた。
苦笑する。
「フラれちゃったのかな?」
「そーよ!! もう、こんなイーおんな、見つかやないんだかや!!」
「じゃあ、気が向いたら僕とも遊んでよ」
「仕方のないちとね!!」
フンと頬を膨らませてそっぽを向いている。もう一度謝ってからギュッと抱きしめればポカポカ殴られた。
「チョコは貰えなかったけど、ホワイトデーにはお菓子持ってくるね?」
「3倍返しよ!!」
「…姫の仰せのままに」
よしよししながら泣き止んで、笑顔を見せてくれるのを待つ。抱きかかえてポンポン背中を叩いて落ち着かせる。
-----初めて女の子泣かしちゃった…。
詩織が泣く場面はよく目にしているけれど、今まで僕の所存で泣いたことなんて…いや、1度だけあったかな? 去年のお正月で、彼女は僕の為に泣いたっけ。じゃあその時が初めてだ。いや…
胸の中にある子ども特有の暖かさが僕の記憶を呼び起こした。
-----僕はもっと以前に、このくらいの時に女の子を…泣かしちゃったことあったな…。
その日のことはいつだっかなんて言わなくたってはっきり覚えている。どうしてこちらの方を忘れていたかと言われれば、きっとその後に起きたトラウマの出来事の方が記憶に大きかったからだと思う。
あれは僕が4歳で、父さんと初めて二人っきりで遊園地に遊びに行った時だった。どうしても園内のキャラクターが配っている風船が欲しくて、乗り物で順番待ちをしている父さんの目を盗んで走り出したのが始まり。一生懸命追いかけて、ようやく目的の青い風船を貰うことが出来た時、僕はようやく事の重大さに気がついたんだ。そう、側にいるはずの人物がいないことに。当たり前だ、自分で勝手に動いたのだから迷子になって当然だ。でもそんなこと理解出来ずに、ワンワン泣いて父さんを捜した。けれど全然見つからなくて、涙が枯れる頃、園内のスタッフさんが迷子ルームに連れて行ってくれた。
そこには同じように迷子になった子が何人もいて、泣いたりすでに遊んでいる子達の姿があった。でも僕はなぜか安心するどころか、ここに捨てられたのだという気分に陥ってさらに声を上げて泣いた。すると、先にここに連れてこられていた黒い髪の毛をした女の子が…僕の風船を奪った。「それ以上泣くなら風船割るわよ」「他の小さな子が泣いちゃうから泣くならこれは私の物よ」って。僕はあまりにビックリし過ぎて声も涙も引っ込んで、呆然と漆黒の瞳を見つめた。それを女の子は泣き止んだと解釈したのか、メチャメチャ可愛く笑ったんだ。惚けたね。ああ、今思い出して気がついた。人生初めて僕はそのときドギマギという経験をしたね。で、そこからはその子に誘われるまま滑り台やオモチャで遊んでた。
そうこうしているうちに、その子のお父さんと僕の父さんがやって来て、何やら手続きみたいなのをしていたのを覚えている。僕はその様子を眺めて、すぐさま隣を見た。だけどあの子は僕なんか眼中にないと言った感じでお父さんのことをジッと見つめてた。それを見た瞬間、なんだかモヤモヤしたね。離れたくないのに離れなきゃいけないっていうのと、こっちを見てくれないもどかしさを感じた。今思えば子どもなりに嫉妬を覚えていたんだと思う。それで彼女のお父さんが彼女を呼んで、女の子が「バイバイ」と手を振った瞬間…僕はその子の長くて真っ黒な髪を掴んで思いっきり引き寄せた。いや、正確には引っ張った。同時、「あ」っていう小さな叫び声が聞こえて、その子は反動で転けてしまった。しまったと思った時には烈火の如く泣き始めてて、バツが悪くて父さん達の方を見ると父さんが彼女のお父さんに「すみません」と、相手方は「子ども同士ですから」と、何やら大人同士の話を始めて笑って傍観し始めた。
途方に暮れたよ。僕は保育園でも喧嘩なんかしたことないし、姉さんからは泣かされるばかりで、一度たりとも人を泣かしたことなんかなかったんだから、どうやったらこの子が泣き止んでくれるのかがわからなかった。悩んだ挙げ句僕のとった行動は「風船あげるから」…最低だ、物で釣ろうとした。でもその子は「そんなのいらない」って最もな意見でギャンギャン泣いた。だからさらに途方に暮れた。助けを求めるよう父さんの方を見ると彼はにこやかにしているだけで何も助言をしてくれない。その代わり、腕で輪っかを作って右手だけ動かすジェスチャーをしてみせた。その時ようやくピンと来た。泣いた時、父さんや母さんは僕のことをギュッと抱きしめて背中を何度も叩いて、その度に泣き止む魔法の言葉を言ってくれることに。思うが早いか、今では信じられないことだけど僕はその子を力一杯抱きしめた。そして…あれ? 抱きしめた所までは覚えているんだけど、どうしてだろう? その後が思い出せない。今の、この位の体温を感じて…それから僕はその子に何をしたのだろう? 逆? あの子が僕に何かしたんだっけ? 全然思い出せない。それどころか別れ際さえ覚えていない。僕は黒髪のあの子をどうした…?
雪姫ちゃんを抱えて背中をポンポンしながら、同じ場所をグルグル回る。
考えても考えても浮かんで来ないあの日の映像。代わりにその後父さんと乗った観覧車が停止して降りられなくなって…僕の心に大きな傷を作ってくれたことだけがその後に記憶になっていて、一向に思い出したい場所が降りて来ない。もしかしたら、幼い僕にはいっぱいいっぱいだったのかもしれない。人生初めて人を泣かして、それは父さんと母さんから絶対に泣かしてはいけないと教わっていた女の子で、しかもその後トラウマになるような事件が起こって…幼い僕の許容範囲を突破してしまったのだろう。正直に言って、本当に思い出せない。記憶が抜け落ちてしまっていると思ってもいいくらいだ。
しゃくりあげる回数が減って、首に小さな腕が絡まって来た。その瞬間…僕の記憶がさらに鮮明になった。きっと、同じようなことがその時あったのだろう。途切れていたニューロン同士が繋がった。
-----あの子…目の下に黒子なかったっけ…!?
大きく目を開けた。
それは確信に近い疑い。しかし、僕の記憶にはどちらの目の下だったかまでは覚えていない。でも、もしあの子が詩織だったならば僕がその時何かをした、もしくは彼女が僕に何かをしたと仮定したら…キレるのを抑えられる理由になるんじゃないだろうか? そしてさらに推測する。詩織は僕が聞いても理由を知っているのに言わなかったということは彼女が僕に何かしたのかもしれない。一体何を!?
そこまで考えがきて、大きくため息を零した。
-----そんな偶然あるワケないし、だいたい僕は今立場を分かってるのか?
目を落とせばまだ体にしがみついたまま鼻をすすっている金髪の女の子の姿。この体温がキカッケとは言え、抱っこしている子と違う子のことを考えるのは今は何となく違う気がした。だってこの子は僕のせいで泣いてしまったのだから。きっと泣き止まないのは僕が見当違いなことを考えているからだろうと、僕の都合なんかで本当に申し訳ないと思い直して…全霊を込めて腕の中にいる子へ情を捧げた。