ボンボンショコラで酔わせて #2
パタリ。
ドアの完全にしまる音を聞いてようやく僕の脳が体へ電気信号を流し始めた。
冷めていく紅茶も、音を立てて部屋を暖めるエアコンも、ハンガーにかけてあるコートも、全てを無視してあの子の通った道を走る。靴のかかとを踏んだまま玄関を飛び出せば、急激に温度の違う場所に出たせいか頬に当たる風がやけに冷たい。
「…っ!!」
こんな時、一人暮らしは難しい。時間を短縮したいくせに癖で鍵をかけようとしてしまった。もう、冷静なのかパニックなのか全然分からない。
-----早く、早く!!
焦れば焦る程音がガチャガチャ鳴るばかりで、なかなかうまく鍵が閉まらない。焦れて心の声を実際に叫んでポケットにキーを突っ込んだ。敷地内を出れば角を曲がる靡いた黒髪が見えた。
-----全力で走ればまだ間に合う!!
「待って!!」
距離にして200m…聞こえている筈なのに見えなくなる真っ黒な絹糸を追いかける。
ステップを踏んで曲がり角を直角に曲がればさらに向こう側の角へ進もうとする彼女の後ろ姿。
さらに地面を強く蹴り速度を上げて駆ければ、すぐさま追いついた。だからか、これまでの行動に勢いが付いたのか、興奮気味だからなのか、わからないけど気がついたら詩織の腕を思いっきり掴んでいた。同時、力任せに回転をかける。
小さな叫び声が聞こえた。
目を合わせれば、心臓が飛び跳ねる。別に彼女の顔が怒っていた訳じゃない、泣いていた訳じゃない、強引にだけれど今、この瞬間僕のことだけを瞳に入れていることが、向けてくれなかった顔を見れたことが多分心底嬉しかったんだと思う。
上昇を続ける心拍数を落ち着かせるように、アスファルトを見つめた。
なのに出てきた言葉は…
「行かないで…」
なんて女々しいことを言うのだろう。自分でもビックリだ。こんな使い古された言葉、三流小説もいいとこだ。でも、それって本音だから仕方ない。
ゆっくり手を離した。
何も言わない彼女に饒舌に話し始める。
「その、これ…実は青柳くんで…。なんで言えなかったかって、ホモチョコだって笑われると思ったから、その…でも…彼にはそんなつもりなかったと思うんだ。ただ僕が過剰反応を示しちゃっただけで」
「でも末永くんには貰ってたわよね。過剰反応を起こす程の物ではないと思うわ」
「…それは、その…詩織が僕たちがやり取りするの見てたし、だから…変に思われちゃったら彼にも悪いかなって…」
そこまで言うと、アスファルトしか見えなかった視界に端正な顔がヒョイと入ってきた。
僕はてっきり「嘘言わないで!!」「ちゃんと名前言って!!」なんて怒られるかと思ってた。だから体がビクついた。だけど、彼女は笑顔で。
「ユーヤって本当、優しいわね」
「え!?」
驚きの声を出した瞬間、未だ握られたままだった黒い箱が僕の手からもぎ取られた。そのまま、青いリボンの端が引かれ、ハラリと一直線の線が出来た。
「私、知ってるのよ? 空がバイってこと。勿論、ユーヤへの気持ちも」
ポカンと口を開ければ爆笑する。
「いつからって言われればそうね、10月の始め頃かしら? ユーヤはそのこと全部知ってるって言われてたから敢えて二人の時は空の話はしなかったけど、私知ってたのよ? だけどユーヤは私が知らないと思って、ずっと空の秘密をバラさなかったわ。わかってるわよ、それが私と彼への優しさだって。今日のだってそう。あの子が他人に言えないこと、必死隠そうとしてた…違うかしら?」
「…全部知ってて?」
「全部じゃないわ。だって、これが空からだって知らなかったもの」
ふふっと笑って「さすが口が堅いって恋愛相談受けるだけあるわね」と付け加えポンと箱を投げてきた。
慌てて受け取ればさらに彼女は続ける。
「ユーヤは優しすぎるのよ…」
すぐに反論しようとしたけれど、なんとなく話が続くような気がして口をつぐんだ。けれど詩織は無言で、お互いただただ見つめ合うだけだった。
-----何この間?
普通さ、恋愛漫画&小説でいくとここは女の子が目をスッと閉じるとこでしょ? でも残念。心を表すが如く、彼女は僕を漆黒の世界に閉じ込めたまま。目を閉じる気配なんて全然ない。まさか男の僕に目を瞑れって催促? ーんなわけない!!
苦笑する。
「優し過ぎちゃダメかな?」
「いいわよ。それがユーヤのいいトコロなんだから」
決して僕は優しくなんかないのに、詩織はそんなことを言う。それさえ分かってて言っているのか、そういう人間になってほしいと願っているのか分からないけれど、君がそう言うのならば僕はそんな男になろうと思う。
なんとなく決意してキュッと唇を一文字にすれば詩織が箱をツンツンと突つく。
「中身、何が入ってるのかしら?」
「…できれば見たくないんだけど」
「あら、優しすぎるユーヤはそこまでフォローしなきゃ。ほら、開けて開けて!!」
興味津々と言った態で僕にすぐさま開けることを促し始めた。
イヤな予感がプンプンするのに、僕は逆らうことも出来ずに包装紙を引きちぎる。蓋を開けてみると、
「チケット?」
しかも新幹線の自由席、有効期限は3ヶ月後。場所は、詩織の大学のあるF県までので…
大きく目を開けると詩織がまた爆笑した。
「気がついた?」
「…さっきのも嘘だったの? これが青柳くんのだって知らなかったって」
「違うわよ。そこじゃないわ、私は空のプレゼント内容を知ってたのよ」
「え!?」
「選んだっていうか、そうね。空が何が一番喜ばれるかを相談に来たから、相談に乗って私が渡そうと思ってた物をついうっかり喋っちゃったら取られちゃったのよ」
つまり、言いたいことはこうだろうか? 元々、これは詩織が僕にプレゼントしてくれようとしてたってことでいいだろうか…?
それってさ、
「遊びに行ってもいいってことだよね?」
「当たり前でしょ」
「ってことは、第1志望受かったってことだよね?」
「ふふ、驚かせようと思って」
ブワっと鳥肌みたいなのがたって、気がつけば拳を突き出していた。それに合わせるようにか細い指で作られた拳が出され、コツンと音を奏でた。
「おめでとう!!」
「ありがとう」
満面の笑みで笑い合えば小指が握られる。
そしてイタズラな笑みにわざとらしい口調で僕をおちょくってきた。
「じゃ「行かないで」って言われちゃったから、もう1度お邪魔しようかしら」
あまりの可愛さに言葉が出掛けたよ。
-----今夜は帰しません。
なんて。
だけど、やっぱり彼女は僕の規格外の人間。安心させてくれたかと思うと、また突き落とす。
入れ直した紅茶を差し出して、またチョコを貪る彼女を眺めている時だった。
徐に詩織が僕の予定を聞き始めた。
「ねぇ明日の予定って…」
「聞かなくても知ってるでしょ? フリーです」
「チョコ、明日でいいかしら? 最初から明日渡すつもりだから持ってきてないのよ」
僕に中身を見せつけるように鞄を広げてみせた。
コクコクと頷く。
「いいよ。何時頃来る?」
僕は聞いてはいけないことを聞いてしまった。でもそれを知るのは次の言葉。それは、僕にとって残酷すぎる言葉だった。
「…そうね、午前中は予定があるから午後でいいかしら?」
胃の部分がキュウと締め付けられて不安な鼓動がドクドクと音を立てた。
-----ご、午前!? 予定!?
それって確実に誰かにチョコを渡しに行くんだよね!?
それって前に神無月さんが言ってた白い毛糸で編んだ物をプレゼントしに行くんだよね!?
その相手ってやっぱり父さんだったりする訳!?
グルグル思考した。でも僕にはそんなこと聞く勇気さえなくって、今更「午前中がいい」なんて邪魔する言葉も言えなくって、女神のように美しい笑顔に酔いしれて本音とは裏腹なことが飛び出した。
「君の大切な予定の後でいいよ」
気がついて、この言葉は君を思うあまりの言葉だということに。
気がついて、僕が嘘つきなんだということに。
気がついて、僕の本当の気持ちに。
そう、出来ることなら…
-----行かないで!!