TOP OF THE WORLD
トクン。
胸が躍動する。
目の前には集中して勉学に勤しむ家主を差し置いて、机の上で寝顔を曝している僕の親友もとい、僕の想い人。温かいと寝ちゃうからって開けた窓から吹き込んでくる少し冷たい風に前髪がサラサラと揺れている。秋の枯れ葉の匂いに混じって、彼女愛用のシャンプーの香りが鼻をくすぐってきた。
長いまつ毛で出来た影を見てから、ペンを置いた。
好きだと自覚して、約1ヶ月。最近の僕は…こういう何気ない所でも「好きだなぁ」なんて感じてしまうようになっている。それは一嘩の時でさえ味わったことの無い程、僕の心に深く広く入り組んで根を生やしていて…。
悪くないこの感覚を噛み締めるが如く頬杖付いて、整ったその小さな顔を眺めた。
時間を確認すれば16時。
飲み物を出すにはまだ早いと、もうしばらくこのままでいたいと、敢えて何もすることをせず視線を戻す。
10月の後半に入ったというのに、本日の気温は25度とこの時期にしては少し高め。だから詩織の頬をさす太陽の光も、入ってくる風も、今あるこの空間全て何もかもが心地いい。
逆さまで読みにくいプリントの問題と解答を見れば、ミスを発見した。腕を伸ばして向きを気にすること無く文字を書く。
<メタンは正四面体構造だから極性が打ち消されて、分子全体は無極性だよ>
気づかずこのまま提出しちゃったらそれはそれで面白いかもと一人笑いながら、またシャープペンシルを机の上に置いた。
ジッと見つめても目蓋は閉じたまま。
特別なことなんて何も起こらない。繰り返される寝息と秒針の音、小さく上下する小さな肩。
キレた時からは想像もつかないくらいの穏やかなその寝顔にキュウと胸が締め付けられて、苦笑する。
「窓、閉めてもいい?」
決して返って来ない返事を聞くように声をかけた。そう、要は独り言。
立ち上がってベランダに続く窓を音を立てないようにそうっと閉めていく…。
彼女は何も気づくこと無く、こんこんと眠りについている。
-----僕のこと、信用し過ぎだよ。
本当…。
親友だと思っているし、僕の心は君への友情だって溢れ出さんばかりだ。でも、僕の心にはもう一つ、君への恋心。
「ごめんね?」
答えるように、閉まりゆく窓から秋の風が音を立てて入って来た。
「おはようございます」
「んっ…。あ、私…寝ちゃってたのね」
体がピクリと反応したのが分かったので台所から声をかけると、ムクリと上半身を起こしながら目を擦っている。
ニッコリ笑って紅茶を差し出せば、ミルクと砂糖を2つずつ入れてスプーンでかき混ぜ始めた。
「夜はどうする? 食べて行くなら用意するけど?」
向かい側に座り、カップを手に取った。
口に広がるはストレートのアールグレイティの香しい香り。コクリと飲み込めば、眠気を吹き飛ばした詩織が口を開いている所だった。
「思ってたことがあるの。私、食費代払うわ」
急な申し出にビックリした。
多分ここの所、学校から帰って来て一緒に勉強してご飯食べたりして…といったことが続いていたから、そういう結論に至ったのだろう。まぁ金銭感覚がしっかりしていて律儀な所がある彼女にしてみれば当然と言えば当然なことなのかも知れない。けれど、僕だって食費なんて結構適当にやっているから「じゃあ××円」なんてはっきり言えない。それにそんなつもりでご飯なんて出してない。
「いいよ」
「そうはいかないわよ。ジュースだって奢ったり奢られたりでしょ? 金の切れ目が縁の切れ目って良く言うじゃない」
「…でもお金なんて貰えないよ」
困った顔をすると、詩織も眉をハの字にした。
どうしようかな、なんて考えていたら詩織がポンと手を叩いた。
「じゃあこんなのはどう? 1つだけユーヤの願い事を私が叶えてあげるっていうのは」
「は?」
「だから、ユーヤのお願いごとを私が叶えてあげるのよ。内容は私が出来ることなら何でもいいわ。これならユーヤだって受け取ってくれるでしょ?」
決まりねとニッコリ笑い、すでに受け入れ態勢は万全といった感じで僕の目をジッと見てくる。
度肝を抜かれたと言うかメルヘン好きな詩織らしいと言うか、まぁ要はアラジンのランプの精になるってことだろう。制約はかなり多そうだけど…。って、これはもの凄い僕にとって都合のいいことでは無いだろうか。そうだろ? 彼女に出来ることなら何だって叶えてくれると当の本人が言っているのだ。
目の前の、親友であり想い人である女の子が自分の為になんだってしてくれると言っている。しかもシチュエーションは自分の部屋で二人きり。さぁ、君ならどうする?
「それって何でもいいの?」
「いいわよ。あ、でもあんまり高いものはダメ」
だそうだ。
男なら、それはそれは悪い考えが浮かんでくるよね。言ってみる? 「これからすることを全てを許して欲しい」なんて。まぁ僕だって男だから言いたいのは山々なんだけど、そこは断腸の思いでグッと我慢。というか、他にいいの思いついたんだよね。
一旦、窓の外を見てから唇を動かした。
「じゃあ、今日が終わるまでの間、僕のことを幸せにしてよ」
「え?」
カップを机に起きながら続ける。
「君が思うままでいい。物をくれたっていいし、どこかに連れて行ってくれるものありだし、このまま何もしないでいるのだってアリだよ? 別に一瞬だっていいし、時間がかかることだって構わない。回数も方法も問わないよ。とりあえず12時まで僕が幸せでいられたらそれでいいから」
心底驚いたような顔をする彼女ににんまり笑う。
姉さんならこのまま時間が過ぎて行くのを待って、今日の終わりに電話をかけてきてから「私がいただけで幸せだったでしょ?」なんていうだろうけど、僕は詩織が何もしない子じゃないってことを分かって言っている。きっと彼女の考えうる“幸福”になれることを実行してくれるだろう。それは何かは想像もつかないけれど、僕の心は既に踊ってしまっている。
さぁ、僕のことを幸せにしてよ。
小首を傾げて斜め上を見て思考している詩織を黙って見つめた。
「私が思うままで、いいのよね」
「うん」
答えれば、何か思いついたのかスクッと目の前の女の子が立ち上がった。
そして振り返り時間を確認し、急にこっちを向いて驚かした僕を罰するようなことを言う。
「じゃあ夕飯は別々ね。また後で来るわ、準備があるの」
「え?」
何かを言う前に彼女は「じゃあね」なんて言いつつ部屋をそそくさと出て行ってしまった。
-----僕はそれまでの間、放置プレイですか?
されてはならぬ事態に陥ってしまって少し動揺した。こちらの思惑としては、今日1日遅くまで一緒にいてもいい? っていうコトだったのに、まさかの自体。まぁ詩織が僕の規格内に収まるということは稀と言えば稀なのだけれど…。修行が足りませんか? だけど、まぁいいじゃないだろうかと頭を切り替える。待ってれば勝手に向こうが来て何やら色々としてくれると言っているのだ。何も逃げられた訳じゃない。
とりあえずポケーとした後に、一人で寂し〜くご飯を食べた。
夜9時を過ぎたけれど彼女は現れない。
まさか寝てる?
夜10時、もう僕は諦めてお風呂に入ってしまった。けれど彼女から連絡の一つも入る気配はない。おいおい、僕は幸せどころか少し不幸を感じて来ちゃいましたよ? もしや君は姉さんと同じタイプの人間なの? でもこれは姉さん以上だと思うよ。残りの1分前に電話だけかけてきて「寂しかった? 今、電話かかってきて幸せ感じてるでしょ?」なんてことだったら、僕嫌だよ…。そんな時はいくら君でもはっきり突っ込むよ「どれだけのS?」って。
実は詩織は末長並みのどSなんじゃないだろうかと、悶々としているとインターフォン。彼女が出て行ってから丁度4時間経った10時半。
ドアを開けば期待した人が満面の笑みで部屋に入ってきた。
肩には何やら大きな紙袋が引っかかっていて…こんなことを言う。
「そんな格好してちゃ幸せが逃げちゃうわ」
笑いながら僕のクローゼットを許可無く開き、昨年一緒に買いに行った冬用のPジャケとオレンジのマフラーを取り出してくる。外にでも出るのだろうかと言われるまま羽織れば、いつもの如く、小指を引いてくる。外に出て彼女の動くように動けば、かなり見覚えのある場所。そう、大正学園についてしまった。
「…中にでも入るつもり?」
「そうよ」
当たり前だと言わんばかりに彼女は首を縦に振る。
馬鹿言っちゃいけない。それって不法侵入だし、捕まったらさすがの僕らだって処分が下されるだろう。それに、どうやって? 周りは塀とソフトボールでホームランをしても玉が飛び出ないように高く作られた金網で囲まれていて、唯一の出入り出来る正門はガッチリとした鉄の柵。それは詩織の身長程あって、しっかり鍵だって閉められている。
と、詩織が助走を付けて走り始めた。
まさかなんて思っていると、いつか一緒に見たジャッキーチュンと同じ方法で壁と柵の出っ張りを蹴って門の上まで上がってしまった。
見上げれば月をバックにシルエットが動く。
腰に手を当て、もう片方の腕が顔の前に伸びてきた。
「さぁ王子様、お手をどうぞ」
思わず吹き出した。
あんまりにも堂々としているから僕はこの期待と不安の入り交じったドキドキを抑えられなくなってしまったじゃいか。それに、詩織の思うまま動いていいとは言ったけれど王子扱いなんてして欲しいなんて言ってない。きっと彼女は自分がお姫様扱いされると嬉しいから、こんな状況なんだろう。
ゆっくりと手を取れば、力が込められた。
なんとか門を超えて、何をしてくれるのかと見ていれば“まだ”だと言う。
「こっちよ」
ナイトが僕の手をさらに引いて連れてきたのは西側校舎に入る為の1階の扉。どうやら中に入りたいらしい。けど、それは無理ってな話だ。鍵も無ければSECONさんが緑色のランプを光らせていて、それこそ鉄壁の守りをしているもの。しかし、不可能だと思っていたのは僕だけで彼女は魔法の機械を使う、その名も携帯。これは遠くにいる相手とも通信することのできる人間が発明したテレパシーの魔法がかかった物。
昼とは打って変わって静まり返った外校舎にコール音が響く。5回程鳴っただろうか、詩織が携帯を耳から離すと本当に魔法がかかったのか、まさに奇跡が起こった。
カチリという音がしてSECONさんのグリーンランプが点滅を始めたのだ。
「さ、今のうちよ」
驚きを隠せない僕をあざ笑うかの如く、詩織が僕に扉を開けるように促す。重たいドアを二人で開けば見慣れた廊下が姿を見せた。
「ねぇどこ行くの?」
「ふふ、一番高い所よ」
屋上のことを指しているのだろうなと脚を踏み出せば、やっぱりで、どんどん宇宙へ続く階段を上らされた。でも、ここにきてまた一つの難所。そう、屋上に続くドアはSECONさんでの管理ではなく、普通の鍵だ。踊り場まで来たけれど当然開いている訳はなく、扉は難く口を閉ざしたまま。顔を向ければ「任せて」とウィンクされた。そしてスッと自分の耳の後ろへ手を持っていく。出てきたのは1本のヘアピン。出来るものなのかと後ろ姿を眺めていれば、鍵穴が鳴り…ドアが金属の擦れる独特の音を奏で始めた。
「…君、ナイト止めて魔法使いか盗賊にでもなったら?」
「じゃあナイト兼魔法使いでお願いするわ」
脚を踏み入れれば、ヒンヤリと冷えた外気が風となって頬を通り過ぎて行く。それと同じような冷たさで指も包まれた。
隣を見れば、今日はナイト兼魔法使いが妖艶な笑みを零す。
「ドキドキした?」
「まぁね」
これも一つの幸せなのだろうかと麻痺してきた感覚で思う。
しかしそれはまだ序章にしか過ぎず…彼女は僕の顔を見つめたまま紙袋に手を突っ込み、1枚の厚手のブランケットを屋上の床に引いた。そのままストンとその上に座った。だから、隣に腰を下ろす。
見上げるように言われ、天を仰げば満天の星空。
ビックリした。
夜の空気はあまりにも澄んでいて、今にも落ちてきそうな程近い星が目の前に広がっていたから。たかが学校の屋上というだけの場所なのに、こんなにも美しく見えるなんて、思いもしなかった。
「学校の周りってあんまり高い建物も無いし、周りは校庭とか体育館とかで明るいものが無いでしょう? だから、絶対綺麗に見えると思ったのよね」
詩織の言葉を聞きながら、何度も見ているはずの夜空をまるで子どものように一心不乱に眺め続ける。
白い息がでて、冷気で手がかじかんできた。しかし、その小指にはキレる心配なんて微塵も無いのに想い人の手が絡まっていて…これを幸せと言わず、何を幸福と呼ぶのだろうか。そんな大それた気分にさえなってきた。
数えることの出来ない星をどのくらい見ただろうか。
ふいに小指が外気に曝された。
顔を向ければ僕とは反対方向に体を捻り、1本の水筒を出してきた。
「ホットミルクティー、いる?」
頷けば内側についた小さなプラスティックのカップに湯気の上がるそれを注ぎ入れて手渡してくれた。両手で包み込むように手に取れば、じんわりと暖かさが伝わってくる。流れる白い煙を一度見送って視線を戻すと、彼女の手にはさらに驚くべき物。
「時間なくて、これくらいしか作れなったのよ。許してマドレーヌ」
まるで何かの呪文のようにお菓子の名前を呼んで、スイーツを差し出してくる。急いで受け取りお礼を言うと自分の分も取り出して目で合図を出してきた。
時刻を見ればタイムリミット1分前。
決して座り心地のいいとは言えないブランケットを敷いて、満天の星空の下、左手にはミルクティー、右手には手作りマドレーヌ、場所は僕らのお城のてっぺん。前には愛しい愛しい君…。
瞳と瞳を離すこと無く同じ唇の動きで、今ある幸せを祝う言葉を口にした。
「「乾杯」」