予告はバッドエンドの始まり #1
休日の出来事、部屋の掃除をやっていると着信メロディが流れ始めた。
この曲は姉さんかなと携帯と取ってみると、画面には“父さん”と言う文字。滅多にかけて来ないから、てっきり姉だと思っていたのでちょっと驚いた。ボタンを押して耳に当てる。
『もしもし、父さん? 珍しいね、こっちにかけてくるなんて。今、日本なの?』
『2週間くらい前に帰ってきたんだよ。美嘉子に聞いていないのか?』
そんな…父さん達が帰国したからってわざわざ毎回連絡なんてして来ないよ。けれど、そんなことを言うと悲しがるので「そういえば聞いたかも」なんて言って誤摩化しておいた。
『で? 何か用事あって連絡してきたんでしょ? 何?』
『そうそう、お前の、その、婚約者の話しなんだが』
僕の両親は姉さん以上に思い込みが激しくって、何度言い聞かせても親友のことを“婚約者”だと言う。多分ね、僕が話す以上に姉さんがそういう風に刷り込み&洗脳をしてしまっているから訂正しても訂正しても勘違いを起こしてくるんだと思うんだけど。はぁ。もう、面倒臭くてその話題についてはスルーを決めていたのだけど、父さんは続ける。
『あの子の名前、なんて言うんだったっけ?』
『詩織だってば』
『そうじゃない。名字も教えなさいって言っていってるんだよ』
『虹村だけど』
『…漢字は? 下の名前もだぞ』
『にじむらは、七色の虹に村人Aの村。しおりは、ポエムの詩に機織りの織だよ』
『……』
沈黙10秒。怪訝に思って声をかける。
『父さん? どうかしたの?』
『いや。メモとってだんだ。母さんが姓名判断をしたいと言っているから…』
眉を寄せた。
メモを取るにはその時間はあまりにも長く、加えて父さんがそのくらいのことでわざわざ筆を走らせるとは思えなかったからだ。しかもなんだか少し、狼狽えているような声色…。正直言ってそんな態度、18年間でほとんど見たことがない。しかし問いつめても「占うから」としか言葉は返って来なかった。そして話題がずらされていく。
『次の連休、ちゃんと帰ってくるんだろうな?』
『帰るってば。でも1泊しかしないよ? 服持っていくの面倒だもの』
何度も同じことを言われ、うんざりしていると遠くで母さんが父さんを呼ぶ声がした。慌てた様子で挨拶をして電話が切られた。
-----一体、何だったの?
疑問は尽きることはないが、通信が途絶えた携帯では応えが返ってくる訳もなく、諦めてまた掃除の続きを勤しんだ。
んーと背伸びをして、キーケースを握る。
食材は十分、日用雑貨も十分、外に出る理由なんてないけれど玄関から脚を踏み出す。
-----雨の匂い…。
雨の振る前の少し湿ったような独特の香りを察知して、そういえば朝の天気予報でお昼からは降水確率80%の予報が出ていたなと思い出す。普段ならこの時点で踵を返す、けれど、今日は傘をさして歩きたい気分だ。別に理由なんてない。晴れの日に天気がいいから散歩しようと考えるのと一緒のこと。雨の日だからいつもとは違う散歩が出来るだろう、そんな感じだ。
靴箱の横に1本だけかけてある水色の傘を持って出た。
しばらくブラブラ歩いて上を見上げれば、そろそろ降り出しそうな雲の流れ。時間を確認するため携帯を開いた。
パタリ。
音がしたと思ったら、画面の上には直径5mmのひしゃげた液体。指で払いのけ、天を仰げば頬に冷たい雫が落ちてきた。
ようやく本来の目的を遂行出来ると傘を開いた途端、激しく雨音が弾け始めた。
「どこに行こうかな?」
撥水加工された布の上でスルスルと重力に導かれて落ちていく水滴を空に透かしながら歩く。
雨の日ってさ、昔のことを思い出さない? 多分、人間の脳は視覚情報に加えてプラス味覚、聴覚、嗅覚、触覚等感覚が加われば加わる程、電気信号が多いせいか司る海馬のおかげかは知らないけれど、何かを鮮明に記憶出来るようになっているんだと思うんだよね。だから、雨の日のことは嗅覚と視覚、聴覚、そして空気から伝わる触覚(冷たさ)が使われているせいか、僕はよく覚えている。
脚を止め気がつけば、全国どこにでもある公園。
呼吸をする度に、湿ったアスファルトの匂いと泥の混じったがさらに古い記憶を呼び起こす。
ベンチに座ることは決してせず、視線を地球に落とした。小さな川が出来て、流れ流れ僕の足下にダムが出来て、今にも決壊してしまいそうだった。
そうだな、一番思い出深いと言うか印象に残っている情景は…雨の日に父さんと母さんと何かの用事で出掛けた車の中から横断歩道で信号待ちをしている長い黒髪の雨に濡れた凄く可愛い女の子を見た記憶だろうか。今思えば、詩織だったりしてなんて思えるけれど、すぐに車は発進してしまったし、まぁ泣き黒子が右目の下にあったかまでは見ても覚えていないし、だからなんだと言う話だ。幼かった僕には見た場所さえ定かじゃない。
クッと一人、口を歪める。
眺めていた足下に延々と海まで続いていくであろう川から目を離し、目線を上に上げた。
すると、そこには記憶と重なるかの如く、雨に濡れそぼった美女の姿。
真っ黒で晴れた日には輝く天使の輪を何重にもくっ付けている髪が項垂れ、白いTシャツが水を吸い、その細く魅惑的なボディラインを強調にしている。ジーンズは2トーン程色を落とし、元々の色が黒なのか藍なのかさえ分からない程だ。
「しお…」
声をかけようとした瞬間、姿勢低く駆け出していた。視線の先には笑う3人の男達。
目を見開く間もなく、ズボンに引っ掛けてあった警棒を取り出し、バシャバシャと音を立てて走り込んで行く。理想的な曲線を描き、蹴りが繰り出された。
思わず、僕はその姿に狼狽した。
いつもならば、すでに1人目の男の人が地面に突っ伏して良いはずだ。なのに、彼女の蹴りは当たったのに男は倒れることなく、しかも3人という人数では決して見せたことのない背中を曝してしまった。彼女の腕から雫が飛ばされ、空気と共に雨が黒い警棒に切られた。が、それは持ち主の手から離れ、まるでプロペラか何かのように回転しながら弧を描いて飛んでいく。
-----警棒が!!
一瞬で判断して傘を放り、駆ける。
憶測でしかないが、詩織の動きを左右する外的要因が今この場には2つある。1つは珍しく履いているジーンズ。そう、水を吸収して重いのだ。あの子の場合、体重移動とスピードで体重の軽さをカバーし、自分より一回りも二周りも大きな相手をたった1〜3発程のわずかな攻撃で落としているのだ。なのに一番力を得やすい足下があの状態では攻撃力は半減以下になっている可能性が高い。そして二つ目は、この雨だ。警棒が手から滑り落ちる程の激しい雨、足下は川状態。コンディションは悪いに決まっている…しかも彼女の靴は走り込むのに適していないパンプスだもの。ヒール部分とつま先部分しか地面についていないあの靴で、雨の中を走ればどうなるかなんて履いたことのない僕だって想像くらいつく。
カラン…と晴れの日ならば乾いた音がするであろうが、生憎の雨。警棒は小さな飛沫を上げて地面に横たわった。
横滑りする体をなんとか操り、黒いそれを拾い上げる。
顔を上げれば、ボクサーがするようにボディブローを詩織が連打で繰り出していた。そして、ようやく一人目が倒れる。
僕が脚を素早く出した次の瞬間には、一人が携帯を、一人が彼女の髪を掴んでいた。
雨音で良く聞こえないが、小さな悲鳴を上げたのだけは分かった。
-----仲間を呼ばれるのはマズい!!
警棒をコンパクトに纏め、ナイフスローイングのように投げつける。楕円を描きながら黒いそれは僕なんかより早く男に到達し、音を立ててぶつかった。しかしクリティカルヒットはせず、携帯を落とすことに失敗した。
舌打ちしながら、地面を蹴り上げる。
「うわ!!」
跳ね上がった泥水に相手が怯んだその一瞬をつき、至近距離では普通出来ないであろう芸当である蹴りをアゴに入れている詩織の腕を掴んだ。そのまま引けば、正気に戻ったであろう親友が呻いた。
振り向くと、倒れた男の手には彼女の自慢の黒髪が絡み付いている。
詩織が口を開く一瞬前に体が即座に反応し、男の腕を引き上げた。
「ユーヤいいのよ!! 引きちぎって!!」
「出来るわけないだろ!?」
雨に塗れ、泥の付いたそれを手から必死に引き剥がす。
と、視界の端で詩織がファイティングポーズをとった。髪の毛が自由になる頃には、僕らは男達に囲まれていた。