溢れる水は止められない #3
こういう事態がいつか来るだろうと思っていた。
あれだけの美貌だもの、僕がいることさえ振り切って「好きだ」とハッキリ言えるような男の子が現れるってことは。
前々から覚悟はしていた。あの子の隣は僕の指定席じゃなくなるってことは。
運命や宿命の瞬間が死を分つまでだったのか、卒業するまでだったのかはわからないけれど、今来たっていうのは事実な話だ。
彼は僕の見た所、イイ男に当たると思う。きっと彼なら詩織のことを幸せにしてあげられると思う。ううん、まだ試していないけれど、実はキレるのを抑えられるんじゃいかとも思ってる。なんだかそんな予感がする。
授業中、隣を見れば僕のマイナートランキライザー。
-----卒業しなきゃ。
姉さんの言う“卒業”とは違う意味で、その言葉を胸に響かせた。それは乱反射のようにどこかに打つかっては僕の心の中心を何度も何度も貫いていく。関係性が変わる訳じゃないから、きっとそこまでは痛くないものなんだろうけど…僕にはこの痛みが、なぜだか味わったことのないような想像を絶するような苦しみに感じられた。
「詩織先輩、一緒に帰りませんか?」
帰りの会が終わると同時に開けられた廊下側の窓にあの男の子の姿があった。もう、彼は僕の方を一切見ようとしない。
代わりに詩織が大きく目を開けたまま、僕の目を見た。だから言う。
「あの言葉は嫌いだから言わないでって言っておけば大丈夫なんじゃないかな?」
「それって」
「だって僕邪魔でしょ?」
首を傾げると、同じように首を傾げる。
「でも、キレたら…」
「僕以降で試したことないじゃない。もしかしたら、彼もイケる口かもよ?」
まるでお見合いの仲人のおばちゃんのようにバシっと肩を叩いて詩織の顔を覗き込む。
一緒のタイミングで苦笑して、同じタイミングで声を出す。
「「じゃあ、3人で」」
帰っている時、詩織が彼と話の花を咲かせている時にゆっくりゆっくり腕を自分側に引いた。すると、あっけなく指は抜け落ちて、右手が自由になった。歩幅を小さくすれば、斜め前に僕の親友とその彼氏候補が妙な盛り上がりを見せている。
余韻の残るその手を強く握った。
「山田くん、資料室までいいかな?」
「はい」
帰りの会が終わって草原先生と目が合ったから頼まれた。冊子のような資料を持って一人、1階まで降りて元あった場所へと返す。
3人で一緒に帰るようになって約1週間が経った。
神無月さんは僕たちが3人で帰っていることを知って、僕のことを本気で睨んできた。末長は「阿呆」と言って、肩を叩いてくれた。…田畑くんは「だから言ったのに」とため息をついていた。
そんな間にも、だんだん二人の会話についていけなくなっているのを感じている。そろそろ僕自身潮時なのも感づいている。
けれど、慣れ親しんでしまった体は詩織の隣を求めてしまっているのか、なかなか決心がつかない。
-----はぁ、僕の馬鹿。
早く解放してあげなきゃいけないと思っているのに、見切りをつけられない。この分じゃ卒業の時に本当のお別れを言う時、男のくせに泣いてしまいそうだ。
ここ2、3日そんなことばかり考えていて、全く受験勉強なるものをしていない。
正直焦っている。こんなこと、初めてで対処の仕方が分からない。
-----本物のマイナートランキライザー、父さんに貰おうかな。
本当にそう思う。
ほら、また考え事して…さっき資料室に入ってきたときは長針が10の場所を指していたのに、すでに1を指し示している。
ため息をついて資料室のドアに手をかけると詩織からメール。
<空が図書館で一緒に調べものしたいって言ってるの。待ち合わせは直接向こうで良いかしら?>
<うん。もう少しかかるから、先に2人で行ってて>
ドアから手を離し、時計の秒針がコクコクと刻まれるのだけを眺めた。
何度時が刻まれただろう、数えるのも面倒になった時、ようやく体は動き出した。一度3年生の階まで上がって荷物をできるだけゆっくり詰めてから図書館を目指す。
今日のような事態は今回が初めてじゃない。多分、青柳くんは二人で帰りたくて敢えて図書館に詩織を誘ったりして僕が先に帰るのを期待してる。けれど詩織がそれを読んでいなくって僕に毎回メールを<待ってる>なんて送ってくるものだから、僕もタイミングを失う。全く、あの子、僕以上に鈍いんじゃないの?
…でも青柳くんの誘いを許す度、詩織を自由に行動させる度、僕はなんとなく疲れる感覚を感じている。誘いたきゃ誘えば良いと思うし、行きたきゃ行けば良いと思っているのに。これって何…?
ボーとしてて、間違えて外に出てしまった。
メールでも送って呼び出そうと図書館の外側の窓に頭を覗かせながら携帯を取り出す。視界の中には詩織と青柳くんの横顔。カチカチと携帯を操作して、さぁ送信しようと顔を上げた瞬間、親友が振り向いて目がパチッと会った。
「あ」
思わず声が出た。
だって、いつか見たことのある、困ったような愛おしそうな顔をしていたから…。
確信した。
何となく分かっていたことを、ようやく自分の中で噛み砕けた。
-----詩織の心は彼に惹かれてる…。
-----もう、傍にいるのはお互い限界だ。
昨日見た詩織の表情を思い出してそう思い、湯浅先生がチョークを鳴らしている隙に携帯を取り出した。机の下に隠して、液晶を見ることなく右手だけで操作して心を文字にしていく。送ろうと思ったらチャイムが鳴ってしまった。
-----先に二人で帰ってって言おうと思ったのに。
行動の遅かった自分を反省しながら、上を向いて歩いていたら平衡感覚が可笑しくなってヨロヨロと外側の壁に打つかり、窓のガラスにゴンと頭を打ち付けた。
「イテ」
何をやってるんだとため息をつきつつ、視線を窓の外にやった。
-----!!
大きく目を見開いた。そこには、オロオロする詩織を真ん中に青柳くんと五十嵐番長が胸ぐらをつかみ合っている姿。開いた窓から二人の喚く声が聞こえてくる。
何を叫んでいるのかは分からないけれど、内容は容易に想像することは出来た。
ジッと眺めていると隣に同じクラスの医学部編成用授業に出ている子が並んできて、僕の顔を見た後同じように外を傍観し始めた。
「山田くん、いいの?」
「……」
-----そんなコト言わないでよ。
僕にはあの場にいく権利なんてない。今、あそこにいていいのは詩織のことを女の子として見ている…彼女のことを好きな男だけ。立場的に言えば、隣にいるこの子と僕は変わらない。親友の僕がいくのはお門違いだ。
激しく何かを言い合う二人を見下ろす。
と、青柳くんが詩織の左手を引っ張った。
刹那…
心臓がキュウッと縮まったかと思うと、音を立てて脈打ち始めた。
詩織のその手を引いて歩くのは、僕の特権なんだと思っていた。
なのに、今、彼女の手を引いているのは僕じゃなくて…。
初めて出逢ったその瞬間から、氷のように凍った水は溶け続けて、毎日1滴ずつバケツの中に堪っていた。それは宿主である僕さえ気づかない程、静かに、音を立てることさえなく、着実に、体積を増やしていて…淵に被さる程溜まりに堪っていた。
だけど親友という表面張力の力で押さえつけられていて…いつもあと1滴のトコロで持ちこたえて蒸発し、もう1滴が入水することが許されていた。
でも、もう限界だ。
蒸発する時間さえない…。
誰にも渡したくないって思ってたのは居場所なんかじゃない。
ポタリと1滴の雫が落ちきてギリギリの力で張っていた、水分子のお互いを引っ張り合う力が弾けて…容器の体積以上に堪っていたモノが溢れ始めた。
そう、僕が欲していたのは君自身…。
気がつけば脚は駆け出していて、下駄箱から飛び出した。すると来るのが分かっていたかのようにタイミングよく、黒髪の女の子が振り返った。
黒髪が靡き、赤いスカートが順を追ってひらめいた。
苦しい息も、もつれそうになる脚も、激しく鼓動を続ける心臓も、もう無理だと指令を出す電気信号も、全てを無視して、突き上げて来る衝動に抗うことなく右手を突き出す。
さらに駆ければ、対になる真っ白な手が伸びてきた。だからその細くて華奢な指先をすっぽりと包み込んで、引き寄せる。
あまりにも軽いその体が吸い寄せられて、体がぶつかった瞬間、小さな叫び声が上がった。