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小さな呼び水 #1

 キュンとしました、姉さんのせいで。ええ、アレがです。

 蹴られたせいでアレが上に…これ以上の描写は男性諸君が「うっ」ってなるから止めておこうか。とにかく、身体的な苦痛で涙が出るのは本当に久しぶりです。

 なんとか移動出来るまでに回復し、呻きながら部屋に戻ると僕の痛みなんて一生分かることのない姉さんが涼しい顔して紅茶を飲んでいた。やっぱり憎らしいです、あの人…。


「わかった? 私はそれくらい心を痛めてるのよ」


 こっちの方こそ分からせてやりたい。肉体が精神を凌駕するこの痛みを。

 はぁでも、これで気は済んだかな。早いとこ帰ってくれると助かるんだけど、部屋の掃除もしちゃいたいし。床に散乱したハードブックカバーの本、机の上に山のように積み上げられた筆記用具達、あけっぱなしのクローゼットの中身…まぁ1時間で何とかなるだろう。


「そういえばあなた、父さん達の出身校受けるって聞いたけど」

「うん。他だと援助が大幅カットでしょ? 調べたら僕のしたいこともしてあるし。お金なくなったら父さんと一緒に家から通っても良いかなって思ってるんだ」


 一人暮らしを続ける意思も言葉に乗せて言うと姉さんは理解したようで、相づちを打ちながら氷を鳴らしていた。


「で?」

「え?」

「あなた、そのこと詩織ちゃんに話してあるの?」

「前に話したような気がするけど。それが何?」

「…ユーヤってホント、そっち方面の歯車の回転が悪いわね。詩織ちゃんはどこに行くか知ってるの?」

「さぁ? そういえば聞いたことないかな」


 呆れたようにため息をつき、グラスを机の上に置いた。

 僕と同じような薄茶色の虹彩に視線を合わせた。瞬き2回、姉弟らしく同じタイミングでする。


「鈍い鈍い裕くんの為にお話をしてあげるわ。大学ってね全国どこにでもあるのよ?」

「知ってるよ。詩織が何処に行くか分からないから今のうちに捕まえときなさいとでも言いたいんでしょ?」

「馬鹿ね!! それだけじゃないわよ! 遠距離って大変なんだから! 分かってるでしょ、詩織ちゃんのあの可愛さを。放っておく男なんて貴方みたいな朴念仁くらいなものよ!!」


 -----僕は愛想いい方だと思うけど?

 使い方間違ってるんじゃないかなと思いつつも言わない。黙ってグラスを傾ける。


「…ユーヤは平気なの? 詩織ちゃんが遠い所に行ってしまっても」


 大きく目を開けた。

 そんなの、考えなかったわけないじゃないか。僕ら受験生はいつだって、頭の隅においてある。それぞれ夢があってしたいことは各々あるわけだから、数ヶ月後にはクラスメイト皆がバラバラの場所に旅立って今のまま一生楽しく暮らせないことくらい理解してる。それは詩織だって同じこと。

 きっと彼女だって分かってる。

 一生、傍にいられることなんて出来ないことくらい。初めて交わした約束は、僕らが卒業するまでというタイムリミットがついているってことくらい。

 僕らは死んでも親友だけど、心の距離は変わらないけれど、体の距離は…。


「応えなさい」


 押し黙っていると勘違いした姉さんが声を低くして聞いてきた。

 だから、1年前に僕が決意したことを言葉にした。


「僕は、別の道を選んでも詩織の行く先を心配知ることしか出来ないよ。遠い所に行きたいなら行けば良いと思う。詩織にだってしたいことがある…」


 話を途中で区切って、左手を付いた。

 そして2枚に重なった柔らかいそれを箱から音を立てて取り出し、姉さんの膝の上に乗せる。彼女がティッシュを掴んで目に押し当てるのを見届けてから続けた。


「詩織はね、司書になりたいんだって。どこの大学に行くかなんてまだ聞いてないんだけど。もしかしたらまだ選択中なのかもしれないけど、まだ話を聞かされてない。助言はしてあげられるけど、指定はできない。たぶんさ、それって僕が詩織の彼氏になったって一緒だと思うんだ。僕はこんなだから行くって言うものを引き止められないよ。それに、詩織の性格…姉さんは知らないと思うけど結構頑固なんだよ。自分の意思は曲げないっていうか、一度決めたら大抵やり通そうとするからさ、何言ったってダメ。なんとなく分かってるからわざわざ来たんでしょ? でも大丈夫だから、あの子は姉さんの妹だよ? 詩織だって姉さんのこと、姉だと思ってくれてるからさ」


 もう1枚ティッシュを膝の上に起きながら「それじゃダメかな?」と付け加える。

 姉さんは、今年(4月)に入ってから妙に詩織に執着し始めた。前々からそりゃ彼女のことをかなり気に入っていて実の妹のように扱っていてメールのやり取りとかをやっていたみたいなんだけど、最近はそれだけじゃ収まらず僕にも詩織のことを聞いてくるメールをたまにするようになっていた。多分、今言った、数ヶ月後には“逢いたい時に会えなくなる”という状況を懸念してだと思う。だから、今日は僕を一発奮起させようとここにやってきたのだろうけど…。

 意外に涙もろい所がある実姉。完全に強いなんて思ってはいないけど、なんだかこう言うトコ見たくない。やっぱり姉さんは最凶でないと。


「姉さん、泣き方減点」

「五月蝿いわね!!」


 殴られた。

 でも決して痛くはなくって、だから痛い振りをする。


「ユーヤはね、昔から理系でイマジネーションの力が少ないのよ! わかる? 感性が足りないのよ!」

「うん」

「私は想像しただけでこの有様なのよ? なのに貴方ときたら、涙も流さないで」

「うん」

「本読んでる割にはそういう力が足りないんじゃないの?」

「読んでる本さ、文学作品じゃなくって大抵が物理やマクロの世界だから…」

「ふん、そんなんで精神科に行こうなんて甘いのよ」

「うん」


 何かを言われるたびに、うんうんと頷いて姉さんのボルテージを上げ下げする。本当、姉さんと僕は正反対の性格だ。同じことが起こっても、姉さんはすぐカッとなるけど、僕はジワジワくるタイプ。そして姉さんは人(僕)に何かを言うコトで発散するけど、僕は自分の中で発散させる(でもたまに爆発)。

 何年も繰り返してきたことだから、容易に姉さんを操れる。泣いているときばかりは僕が主導権を握る。

 そろそろかなと、声をかけた。


「もう大丈夫?」

「ふん。貴方のヘタレっぷりに涙も引っ込んじゃったわよ! あと、その想像力のなさにも!」


 ティッシュを丸めてシュートする姉を見ながら立ち上がる。


「駐車場まで送るよ」

「卒業までになんとかなさい!」


 無茶なことを言う。

 ヘタレだと分かっているのだから、そのまま放っておいてよ。

 にっこり笑って「考えとくよ」とだけ言っておいた。

 




 

 昔から不思議に思っていたことがある、入道雲だ。

 あれっていつ見ても空の端っこにあるイメージがある。絵の中でも写真の中でも、大概アイツは空の端っこの方にいて、その大きな体をモコモコと広げているだけ。流れてくる気配はない。もしかしたら、僕の頭上を通り過ぎていることもあったのかも知れないけれど、あまりに近過ぎると入道雲を入道雲だと認識出来ず、ただの雲だと思うから遠くにあるイメージしかないのかもしれない。


 暦の上では既に秋、でも空と空気はまだまだ夏真っ盛り。

 轟々と音を立て、僕らの体温を奪う為に働き続けるクーラーの下、窓の外を眺めながらぼんやりと思った。

 夏休みもここで過ごし、すでに始業式から10日程を過ぎた。1年生も2年生も、ようやく夏休みボケから解放されたのか、そういえば今日はお出迎えが妙に増えていたなと…そういえばそろそろ末長の結果がきちゃうんじゃないかなと…そういえば僕は今なんの教科を…ああ、英語だった。

 僕にとってはアメリカの小学生か中学生の国語の勉強と変わらないような内容をツラツラ読んでいるのに、ちょっと飽きてきてぼんやりし始めたのだと自身の意識を戻した。


 授業が終わり、今度は医学部用編成クラスの授業を受け、親友の待つ教室に戻る。

 帰りの会が終わって数時間経っているから、彼女以外いる様子はなくシーンとしていた。なんとなく脅かしてやろうとイタズラ心が働いて、開いている廊下側のドアを覗いた。

 日本の夏の、湿気の多い独特な風があの子の長くて綺麗な黒髪を持ち上げ、甘い香りを僕の元へと運んでくる。何かを読むのに真剣になり過ぎて、いつもならすぐに「ユーヤ!」と声をかけてくる彼女は僕の存在に気がついていない。驚かす言葉を一瞬で模索し、口の端を上げる。


 が、初めて彼女を出し抜けるチャンスを僕は見失った。

 詩織の手には、ここからはあまりにも遠いF県私立女子大のパンフレットが握られていたから。


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