ヘミソフィア #1
ざわざわと教室が賑やかな帰りの会の時間。宿題であるプリントが前から回され、僕も後ろに2枚程渡しながら現代文のそれに目を通す。もう先にやってしまおうかと、本文を読んでいるとそこには“美人”という2文字。
今まで何気無しに見てきてたけど…。
-----もしメールで美人って言われたらどうなるんだろ?
もしくは筆談でそう言われたら…僕の親友はキレてしまうのだろうか? 思い立ったらすぐ行動…なんてすることはなく、詩織に声をかけた。
「ねぇ今日の放課後、時間取れる?」
コクリと頷く彼女にお礼を言った。
そしていつもの如く、何の疑いをすることなく彼女を家に入れた。この後、大変な事件に遭遇するなんて予想だにせず。
ポケットから携帯を取り出し、
「今からプッツンワードをメールで送ってみようかと思うんだけど」
今日部屋に呼んだ理由を言うと、ポンと手を叩いて僕の目の前に座ってきた。
「つまり、口から発する言葉以外でもキレるのかを実験したいって訳ね」
「うん」
察しのいい彼女に「今から送るから」と告げて、送信ボタンを押した。もちろん、キレても大丈夫なように手を彼女の腕の上1cmに待機させて。
着信メロディが流れ、詩織が何度かカチカチと音を鳴らす。
固唾を呑んで彼女の動きの一つ一つを観察する。顔の色、表情、呼吸、瞬き…と、机の上に置いてあった携帯がカタカタと揺れ始めた。
「取れば?」
「…まだメール見てない?」
「ええ」
タイミング悪いと思いつつ、画面を見れば詩織から。一瞬顔をしかめつつも、画面を進めて僕は笑った。
<ありがとう>だって。まだ見てないなんて言いつつ、しっかり読んでたんじゃないか。だから送り返す。
<冗談ですけど? ごめんなさい、嘘です>
その後も、筆談してみたけれど彼女は一向にキレる様子はない。どうやら人の言葉に反応しているみたいだ。
でも、そうなると僕だって気になるわけだよ。どうして口からじゃないといけないのか。そして、そもそもどうしてこの言葉でキレるのかって言うコトが。
実験も終わり夜空に満天の星が輝く頃、僕らは一緒に玄関を出た。鍵をかけながら、先程浮かんだ疑問…いや、この言葉を見つけたときから不思議に思っていたコトをぶつけた。
「ねぇなんでプッツンワードはあの言葉なの? 心当たりあったりする?」
「……」
小首をかしげて斜め上の星空を見つめて思考をし始めた。
しばらく二人で向かい合ったまま立ち尽くした状態で、綺麗な顔を見つめていたけれど、待てど暮らせど解答は返って来ない。それどころか、声をかけても返答さえない。瞬き一つ、しない。まるでパソコンがフリーズしたかのように彼女は固まったままだ。
焦ってキレた時のように手を掴んだ。それがキッカケだったのかは分からない。ちょうどタイミングがあっただけなのかもしれない、もしかしたらキレた時のように何かしらのケミストリーが起こったのかもしれない。
詩織が動き始めた。
いや、正確には動き出したのは彼女の目に堪った雫のみ。すーっと頬を伝い、それは僕の腕を濡らした。
「しお…」
顔を見て大きく目を開けた。
-----泣いているに、表情がない…。
そう、それは壊れてしまったマリオネットのような表情。
どうしたのか…そんな言葉さえかけられず、ただただ詩織を見つめる。また、僕の腕が濡れた。
「ユーヤ…」
空を仰ぎながら詩織がようやく言葉を発した。
言葉の替わりに、強く手を握った。
「視界が可笑しいの、ボヤけてるんだけど…。私、もしかして泣いてるの?」
息を飲む。
僕は、なんて応えていいか分からない。泣いてないと言えば嘘になる、でも泣いていると言えばなぜかと聞かれるだろう。自身さえ分からないであろう理由を聞いてくるに決まっている。
真実とは別の言葉を投げた。
「泣いてないんじゃないかな?」
目さえ赤くなることも鼻をすすることも、何の変化も表さず、先程までの表情が嘘のように詩織が笑った。
顔を反らし、手を放す。
もう一度鍵穴にキーを差し込んだ。
「ごめん、ヘルメット忘れた。取ってくるから」
本当は歩いて送るつもりだったくせに嘘をついた。
「いいの?」
「ほら、明日日直当番だから早く帰らないと…」
「ユーヤが全部してくれるんじゃないの?」
「まさか」
茶化してくる声も言葉も、表情も、動きも、いつもの詩織。
もしかして、僕が気づかないうちに頭でも打って幻覚でも見たのではないか、そう思える程の態度…ぎこちなさも何もない普段の彼女だ。
だから普通にバイクで送った。
けど、その日の夜、あまり良く眠れなかった。
「あ〜、花壇の水やりしてから来れば良かった」
「だったら俺たちが」
「僕の仕事だから…。一緒行こうか、そのままA組の校舎に皆行きなよ」
日誌と、3年生だからってクラスで取っている新聞を教卓の上にポンと置いて、断り続けても未だ信仰(?)してくるA組の男の子達と一緒に教室を出た。強い日差しに曝され続け、カラカラに乾いた大地に雨を降らせる。重力に逆らうことをせず、落ちていく人工の雫を見ながら昨夜のことを思い返した。キレる原因である言葉に疑問を投げかけたら泣いてしまった、詩織のことを。
-----あれは確実に、自分が泣いてたことに気づいてなかった。
はっきり「泣いてる」なんて言わなくてよかったと、嘘をついてよかったと今更ながら思った。
ジョウロを元の位置に置いて階段を上る。
後ろでパタパタを足音をさせ、またしてもついてきている1年生達を気にすることなく、思考を自分の世界に落とし込む。
憶測通り、やっぱり彼女は何かしらの精神的ショックを受けてキレるようになったのだと思う。心当たりは何かは教えてもらえなかったけど…いや、覚えていないのかもしれない。そうだろ? だって彼女は自分が泣いていることさえ把握出来ていなかった。ということは、なぜ自分が涙を流したかさえ分かっていないハズだ。じゃなきゃあんなコト、言わない。
「そういえば、亮二が…」
前に詩織の過去のことを聞いたことを思い出した。お兄さんの話でも同じようなワードが出てきていた。それが直接的な原因に繋がるだろうことは分かっている。
-----でも、これ以上僕が調べて…
いいのだろうか? 詩織はあんな様子だ。きっと僕が「調べよう」だなんて言ったって訳も分からず拒否反応を示す可能性が高い。だから、調べるなら僕一人になるだろう、それも秘密裏に。
キレるのを抑えられるからって、ただそれだけで人の過去を詮索してしまうのは…
-----いいわけないよね。
キレることを含め、あれだけの反応を示しているってことは、きっと詩織にとって大きな問題があったのだ。それを僕なんかが勝手に、一番触れて欲しくない所を見ていいわけがない。僕でさえ、苛められていた過去を人に知られるということはとても辛いのだ。もし覗くつもりならば、それなりの覚悟をしなくてはいけないと思う。それこそ、キレた彼女に殴られてもいいくらいの勢いで。
「ま、今は現状維持で」
独り言を呟きながら教室のドアを開けた。
途端、条件反射的に腕は動き、開けたばかりの扉を後ろ手で閉めた。
目に入るのは今まで考えていた人物。いつもなら「おはよう」だなんて言いながら、太陽と見間違うかの如く明るい笑顔を振りまいてくるのに、その瞳には涙。
パタリパタリと音を立てては広げた新聞紙を濡らしている。
教卓まで駆けて奪うようにそれを取り上げた。
けど、表情は昨夜と同じように人形のように固まったまま動かない。しかし、新聞が手から離れたことには反応を示し、僕の顔を覗き込んできた。
射抜かれそうだ。
「ユーヤ?」
「山田先輩?」
カラリと音がして密室でなくなった瞬間、手を回し…そのまま、詩織のオデコを自分の体へ押し付けた。
横を向いて声を荒げる。
「見ないで!」
訳の分かっていない彼らを睨みつけ、右手の中にある頭に力を込める。
ビクついた1年生達と、ゆっくりと閉まり始めた扉を横目で眺めて完全に密室に戻るのを待った。シンとした教室の黒板の前、体を離すとポカンと口を開けて頬を染めたまま見上げられた。思わず眉を潜めて苦笑する。
-----なんて言い訳しよう?
泣いてたからなんて言えない。きっと今のだって気づいていないのだから。
仕方なく自分の意見だけを押し通す。
「日直の仕事した?」
「…ええ。あの…」
「僕の分は終わったから、新聞読んでていい?」
言いたいことを言わせないよう発言すると一瞬だけピクリと反応を示してきた。その場所は“新聞”という部分。きっと詩織は気づいていないんだろうけど、明らかに狼狽えている。多分、さっき僕がしでかしたことさえも忘れてる…心が読めなくたって分かった、はっきりと。
-----今は、イーブンにしてあげる。
絶対に何かあると踏みつつも、テレビ欄の部分を敢えて彼女の前で広げて読んだ。そして付け加える「今日、面白そうなのないね」。ヒラヒラ手を振って自分の席に座った。
安堵のため息を僕は見逃さなかった。
末長と委員長が来て、詩織が他に気を取られている隙に教室を抜け出した。目指すは、同じ新聞を取っているD組。
「ねぇ新聞見たいんだけど、見せて?」
廊下側にある窓を開けながらそばにいた女の子達に声をかけると二つ返事でB組と同じ会社の新聞紙を持ってきてくれた。
一度B組側を見た後、腕を教室の中になるべく突っ込んで、ついでに上半身も少し中に入れた。
大きく息を吸い、端から一気に読み上げる。
-----誘拐…違う、麻薬密売事件…違う。
目を走らせている途中、ある一点で止まった。その場所には【7年前の放火事件の真相は闇の中へ?…容疑者自殺か!?】と銘打った小さな小さな記事があった。さらにその記事の中には“虹村”という、僕の親友の名字が書かれてあった。