そう、もし僕が迷子で→
一気に吹き出した水蒸気を合図にコーヒーフィルターと豆をセットした。
香ってくるほろ苦い匂いに伸びをして、部屋に戻る。パチリとオールブラックの時計を腕にはめた。クローゼットの中からシャツとネクタイを引っ張りだして身に纏う。ネクタイを片手で整えながら、未だ真っ白なシーツの上で眠る子に声をかけた。
「ねぇ今日職員会議の日だから早く起きないと遅れちゃうよ?」
「んっ」
真っ白な肩を出したまま返事をするものの起き上がる様子は全く見せない。
小さくため息をついて、昨夜僕がベッドの下へと投げ捨てた黒い下着の上下を拾って体の上に落としてやる。
すると頭ごと潜り込んでシーツの中でモゴモゴ動き始めた。
「コーヒー、いる? パンは?」
聞けば全ていると合図をしてくる。が、僕がコーヒーを飲み干しても全く起きてくる様子はない。それどころか近づいて見てみれば、シーツに丸まったまま、また眠りの世界に入っているではないか。
敢えて一度手を洗い、シーツの中に腕を滑り込ませた。
「冷たい!」
「今日早いんだってば。知らないよ、また事務のテルミー(あだ名)に叱られたって」
「だって…」
こそっと大きな目を覗かせて目を合わせてきた。何かを訴える顔を持って、頬をブニっと掴む。
「だって、何?」
「ぶぅ、うう」
全く何を言っているか理解出来ないというか、するつもりはない。
左手の時計を見れば、時間には少し余裕があった。
----からかって起こすかな?
「ああ、起きられないのは僕のせいだって言いたいの?」
コクコクと頷いている。
「でも昨日のは君から誘ってきたんだよ? だいたい、2回戦目の途中でへばっちゃうなんて…体力落ちたんじゃない?」
そっぽを向くように目だけ反らしている。反抗的な態度だ。
全く、朝から迷惑かけないでよね、僕だって行ってしなくちゃいけないことがある。あー、そういえば父さんが遺伝子の酵素やるから朝来なさいって言ってたな。ということは、20分早めに出ないと…。
「なんだったら体力作りに協力しようか、朝からの第1回戦で…」
話の途中で逃げるようにベッドから裸足で飛び出したカノジョ。鼻で笑って、ペタペタという音を立て歩く後ろ姿を眺める。
ゆっくりベッドから立ち上がり、本日2度目の伸びをした。
「じゃあ、僕先に行くから」
声をかけ、玄関のドアを閉めていると手だけで出てきて、ネクタイの端を掴まれた。
----朝の挨拶しろって?
起こされたくせに生意気な…なんて思いつつも逆らう気にもならず、優しく手を剥がしながら口を開いた。
「行ってきます…じゃないよ!!」
突っ込みを入れながら掴んでいた手を投げ捨てた。
その手の持ち主は隣の布団で寝息を立てて眠っている柴犬こと大塚聡だ。現在、頬の殴られた痕が消えるまでということで家に泊めているんだけど…自分の手の甲をオデコに持っていって枕にグリグリと頭を押し付けた。
途中からオカしいとは思っていたんだよ。僕の話す言葉だって明らかに歳喰ってるなぁなんて思ってたし(職員会議って何?)、見たことない部屋だったし、ネクタイなんて滅多にしないし、あまつさえあの会話は何だ。というか、折角そう言う夢を見るのだったらコトの最中がいい。何もかもが終わった朝だなんて…。
眼鏡を掛けながら起き上がる。
「君のせいだからね」
絶対に聡の手が僕の手を握っていたせいであんな夢見たのだと決めつけ、ビシっとデコピンを喰らわせてやった。
夢の中と同じようにコーヒーを煎れてテーブルの上に起き、聡を起こしにかかる。
この子との共同生活も今日でおしまいだ。殴られた痕はもうほとんど分からないくらいまで回復したため、昨夜のうちに二人でそう決めた。
冬休みに実家に帰って以来、誰かと暮らすだなんてなかったから短い間だったけど結構楽しめたと思っている。彼も楽しんでくれたようで、前以上に懐かれてしまった。加えるなら詩織も楽しんでくれたように感じる。なんだかんだ言いながら一緒に帰って来てはご飯を食べたり勉強したりして、僕に送られるという生活を送っていた。ま、聡がいたこの数日間はいつもは静かな僕の家が騒がしくなった時とでも言おうか。
2人で家を出て教室のドアを開けると、いつもより静か。そうテスト期間中なのだ(本日は最終日)。一生懸命みんな、最後の追い込みとばかりに教科書を読んだり問題を出し合っている。話しかけても誰も応対してくれそうにないので黙って窓の外を眺めた。
昨日から梅雨が始まったらしく、今日も生憎の天気だ。湿っぽい匂いが教室のそこらから匂ってくる。雨の雫が、ベランダの手すりから落ちる様を観察し続けた。
後ろから持っていかれるテスト用紙を眺めながら末長に話しかけると彼も「終わった終わった」と安堵のため息をついてきた。
「で、今日何時からだっけ?」
「何時だろうな?」
まるで使用人を呼びつけるが如く末長がどMを呼んだ。彼は「男からそんな扱いにされても嬉しくない」とブチブチ文句を言いながら「19時、“まるちゃん”で」と教えてくれた。
さて一体何を始めるかと言うと、本格的に受験シーズンに入る前にクラスで一度飲み会でもしておこうと言うことらしい。ただ騒ぎたいだけなんじゃないの? なんて思ったけど、口には出さない。出しちゃいけない。なんだかんだ言いながらも皆ノリノリだし、僕もすでに会費を前払いしてある。うん、ノリに乗りたかっただけ。いいじゃない、生徒だけで集まって飲み会みたいなことするの去年の学園祭以来だし、詩織に絶対酒を飲まさないっていう確約も取り付けたから面倒ごとはなさそうだし。
「あ、まるちゃんてショッピングモールのとこのでよかったんだよね」
「そう。あそこの国道の向かいのな…」
携帯が揺れた。話半分でポケットから取り出し、着信ボタンを押した。電話の主は聡で、彼のお母さんがどうしても泊めてもらったお礼を言いたいと言っているらしい。放課後に着替えてから行くという旨を伝え、電話を切った。
家に戻って昨日から用意しておいた服を広げる。
「やめようかな?」
上着を見て呟く。だってこれ、ネクタイが付いているんだもの。タイと言えば、今日の朝の夢を思い出してしまう。別に悪夢じゃなかったけどさ、なんか気にならない? …まさかこの服を昨夜出しておいたからあんな夢を見たのだろうか、なんてさ。ないか。ま、あの夢でのネクタイは薄ピンク、これは濃い紺色だし、関係ないよね。それに今から決め直すってのもなんだか面倒になってきたもの。
制服を脱ぎ捨て、音を立てながら長いそれを結んだ。窓から空を見上げれば、雨はやんでいる。聡のお母さんと話し込んでしまうとマズいと少し早めに家を出た。
「いえ、こちらこそありがとうございました」
玄関の前で頭を下げると、相手も深々と頭を下げてくれた。相手はそう、聡のお母さん。聡と結構似てて、クリッとした目が可愛い感じの人だ。まぁ似てるのは背の小ささも、かな。聡にも手を振って門をくぐった。
-----今の時間は…。
携帯を広げてみれば時刻は6時10分。ここからならショッピングモールまで歩いて15分くらい…早過ぎだ。途中のコンビニにでも寄って立ち読みをしてからいこうと算段しつつ、脚を出した。
コンビニにもうすぐ着こうかというトコだった。
人がすれ違う為にはちゃんと端に避けないと通れないくらい細い道の真ん中。細い裏路地とでもいうのだろうか、人専用のそこで小さな物が丸まっていた。表現が可笑しいかな、小さく丸まっているものがあった。しかも、その小さな肩をプルプル震わせて、声もグスンと出ている。できることならヒョイと跨いで無視をして行きたい所だけど、真ん中にいるし、泣いてるし、放っておけるわけないしってことで声をかけた。
「ねぇ、どうしたの?」
屈みながらハンカチを出すと、こっちを向いた。
-----うわ、珍しい。
思わず目を大きく開けた。
その子は目の色が灰色だった。
アメリカにいた時もブロンドの髪の毛を見るのは全然珍しいことじゃなかったけど、目の色がグレーなのは初めて見た。もしかしたらハーフの子かも知れない。肌も抜けるように白いし、髪の毛だって染めた金髪じゃなくって生まれつきのものっぽいし、顔つきも骨格もどことなく日本人のソレという感じではない。
金色の髪を高い位置にツインテールにした女の子が鼻をすすりながら立ち上がった。
背はそうだね、僕の腰くらい。服は…白ブラウスに黒の細いリボンがチョウチョ結びされていて、紺色の大きなプリーツのスカートを履いている。帽子は被ってなくって首に引っ掛けてあるだけで、ピンク色のウサギのポーチが可愛いね。腕の所に“M”のマーク…これ、聖マリアンヌ保育園の制服じゃないかな(美嘉子が通ってました)。あそこ、ここから3駅も先なんだけど…。
「もしかして迷子?」
視線の位置を合わせながらハンカチを差し出すと、パッと布が奪い去られた。
グシグシと目の部分を擦って、頬を膨らませてきた。
「違うもん!」
そうは言ってても未だしゃくり上げる体と少し赤い目がそうだと訴えている。
ため息をつきながら何か情報はないかとウサギの鞄を見ていたら「エッチ」と怒られた。見てエッチなら世の中皆エッチです。しかたない…
「名前は?」
「ちとに物をたうねる時は先にじゆんが名乗るがレーギよ!」
どうやら「人に物を訪ねる時は自分が先に名乗るのが礼儀だ」と言いたいらしい。まぁそうなんだけどね。なんていうか、この子マセてる。僕、こういう子ども知ってるよ、いや正確には見てきたよ姉さんを…。
しゃがんで本格的に話し始める。
「僕の名前は山田裕也、君の名前は?」
「スノープリンセス!」
「は?」
思わず顔をしかめると、もう一度「スノープリンセス」とのたまった。えっと、まさか本当にコレが名前なんじゃないだろうね。あだ名かどうか訪ねるとパパから呼ばれるあだ名だと言われた。
「スノープリンセス、僕は本名を名乗ったんだから君も本当の名前教えてくれないと」
言うとウサギの鞄のチャックを開け、名刺カードみたいなのを出してきた。そして見せつけながら「幼稚園で私が書いた」と自慢してきた。そこには明らかに自分で書いたであろう字で“雪姫”と水色のクレヨンで文字が入っていた。ああ、だからスノープリンセスね。っと、読み方は…
「ゆきひめちゃん?」
「ちあうのよ、ゆーきーひ!」
「ゆ、き、ひちゃんね。雪姫ちゃん」
可愛い顔をさらに可愛くして満面の笑みを作ってきた。そして自分を指を指しながら「雪姫」、僕を指差しながら「ユーヤ」と反復を始めた。3回程繰り返すと、どうやら覚えたようでにんまり笑って「ユーヤ!」と語気強く呼んできた。うんうんと頷いて次の段階へ移る。
「家はどこら辺にあるのかな?」
「おっきいね、デパートのね、Tのついた建物のね、向こうの青いとこ」
「…住所言えるかな?」
「大正町きらきらの511号しちゅ」
-----きらきら…聞いたことない。
ポンと手を打って「如月?」と聞き直すと「そう言ったでしょー」と怒られた。うん、ごめん。
やっぱり姉さんと同じタイプの子どもだと確信しつつ、立ち上がった。如月地区なら大正ショッピングモールも近くだ。しかも、ショッピングモールのトコから確か青いマンションが見えていたことも思い出した。ついでにそこの近くには交番もある、警官に預ければ万事OKだろう。親もなかなか帰って来ないことを心配して、もしかしたら保育園とかに連絡入れてるかもしれないし。
「ショッピングモールの方に家があるんだね?」
「そうよ! お家からも見えるの!」
確認を取るとやっぱりそのようだ。僕も行く方向そっちだし…よし。
膝を打って立ち上がる。
「雪姫ちゃん、行こうか?」
「やっ!」
手を出すと2、3歩後ろへ下がりながら叫ばれた。極めつけに、
「知らないちとにちゅいて行ったらメッなの!」
コレだ。
まぁ確かに知り合った(?)ばかりだし、僕が変な人だったら困るよね。お母さんの言うコトを良ーく聞いてそれを実行してるなんてとっても偉い。まるで幼い頃の僕を見ているようだ(今でも真面目だけど)。でもね、僕はロリコンでもなければ、変質者でもない。変な人でもないし、取って食べるつもりもない。ついでに言えば、女の子には優しくしてるつもりなんだけど…ってわかんないよね。
さてどうしてものか。
考えあぐねていると雪姫が大きな声を出した「ボス〜」と。